三蔵、そう八戒が叫ぶのにすら振り返る気はしなかった。
もう何日も閉じきったままの窓の向こうには、いつもと変わることのない夕焼けが見える。薄紫の棚引く雲と、朱色に輝くような美しい空と。目に映る世界は、宝石のようだった。どこか彼方の地では、今も多くの人間たちが、凶暴化した妖怪たちに食い殺されているだろうに。
牛魔王が復活したのが、およそ一ヶ月ほど前のこと。三蔵が魔天経文を火にくべたのは二週間前。あれほど探し求めていたはずの聖天経文は、今も牛魔王の手の内にある。悔しく思わぬわけではない。けれどもう、何だか疲れてしまった。
追うことにも追われることにも。死ぬことにも。生きることにも。
疲れてしまったのだ、仲間と旅を続けることにすら。
義務で毎日袖を通していた法衣も、今はその辺の床に脱ぎ捨てたままだ。あばら家のようになった寺院の一室には、見るも無残な姿の仏像が転がっていた。半分物置として使っていた部屋だ、寝具も家具も何もない。それでも、つい先日までは、この部屋の中でさえひどい死臭が立ち込めていた。
この寺の中に、生きた坊主は一人もいない。
三蔵自身も、自分が本当に生きているのか判断がつかなかった。耳は聞こえるし、目も見える。身体も動く。けれど肝心の何かがすっぽりと抜け落ちてしまったことがわかる。そのせいで、己の鼓動がどうしようもなく空虚だ。
もう涙も出ない。三蔵は埃の積もった床にごろりと寝転んだ。
窓の向こうでどんどん暮れていく空。いつだったか悟空が宝石みたいだと笑った。その時の三蔵の目には、空など少しも美しくは見えなかった。悟空がいくら嬉しそうにしていても、ふぅんと相槌を打つくらいで、頭では全然別のことを考えていた気がする。
今ならこれほど綺麗に見えるのに。
「……悟空」
名前を呼ぶと、息が詰まった。
己の愚かさに笑えてしまいそうな瞬間だった。たった名前ひとつに他の何もかもが敵わない。他がどうなろうと、目の前で誰が死のうと心はぴくりとも動かなかったのに、たった一度、その名を呼ぶだけで、どこに隠れていたのかもわからぬ激情が込み上がる。
そんなに大切なものだったのか。
否。そんなに必要なものだったのか。
喉から引きつるような笑いが漏れた。空虚で空虚でたまらなかった。なぜこうまでして自分が生きているのかすらわからなくなりそうだ。美しく暮れていく空が憎くてならない。日が沈んで夜が来て、日が昇って朝が来て──そんなふうに以前と何一つ変わらぬ世界など、壊れてしまえばいいのに。
さっさと壊れろ、三蔵は低く笑い続けた。
と、そんな時だった。
かすかに扉を叩く音がした。
笑いは即座に止まった。信じられなくて跳ね起きた。閉じきったままの扉を見つめる。蝋燭の準備もしていなかったので、部屋は薄暗く、引き戸の取っ手すらはっきりとは見えない。けれど。
息をひそめて待っていると、再びコツ、コツ、と。何だか本当に不器用そうな音が確かに聞こえるのだ。こんなふうに叩けばいいのかな、そう逡巡しながらしているのが丸わかりな叩き方。
「……勝手にはいれ……」
声が掠れた。三蔵は、ゆっくりと開かれる扉をまばたきもできずに見ていた。
「……あの……八戒が。ゴハン食べろって」
うつむきながら言う、その声を、どんなに聞きたいと思っていただろう。
悟空、知らぬ間に唇が彼の名を呟く。
「なぁ……。こんなとこに閉じこもってんの、三蔵らしくねーよ……向こう、行こう?」
「……お前も行くのか?」
「俺は……」
言いよどむ。一度も顔を上げない悟空。
三蔵は、とうとうこらえきれずに立ち上がった。驚いて肩を跳ね上げる彼に、ひたと視線を合わせたまま、その腕を掴んで部屋の中に強く引き入れる。そして扉を閉ざし、鍵をかけると、以前とちっとも変わらぬ小柄な身体を折れよとばかりに抱きしめた。
「さ……ん、ぞ」
震えているような声が聞こえる。
「お前が行かないのなら、行かない」
三蔵は彼が何かを言う前に言い切った。悟空が息を飲むのがわかる。きっとそんなことを三蔵が言うなどとは夢にも思っていなかったに違いない。でも悟空が悪い。
無理に顔を上げさせ、己の唇で彼の唇を塞いだ。馬鹿みたいに抑えはきかなかった。彼が嫌って首を振るのを更に押さえつけ、気のすむまで口腔を蹂躙する。お互いの口の周りが唾液でべたべたになっても止められない。悟空がどんどん座り込むように逃げていくので、最後には二人とも、埃を被った床にひざまずくような体勢になっていた。
「ダメだよ……さん……さんぞ……」
何とか合間を縫って話そうとする、その唇に噛み付いてやる。この口は、開くと絶対に三蔵の聞きたくないようなことを言うに決まっていた。何より、今の己は、悟空が望んだ姿はしていない。
でも悪いのは悟空なのだ。三蔵がここまで疲れてしまったのも、誰でもない悟空のせいではないか。
「……抱かせろ、今すぐ」
否と首を振る彼にかまわず、手当たり次第に服を剥ぎ取る。そうして現れた肌に、余すところなく唇を押し当てた。成長しきれない薄い身体は、そのひとつひとつに、まるで焼印でも押されているかのような反応を返す。三蔵が少しでも敏感な場所に触れると、縒り場をなくした指が悲しく床を掻いた。
「三蔵っ」
聞きたくない。
切実な声を無視して、最も快楽に直結したそこを握りこむ。また口付けで言葉を奪いながら視線を合わせれば、金色の瞳からどうしようもない涙が溢れる瞬間だった。
「……そんなに嫌か」
聞いてはならないと知っていながら、己の口は問い掛けている。悟空はずるい。既にどこを触れようと確実に快楽へと繋がっていくはずなのに、その目だけがいつまでも正気だ。
いっそ狂ってしまいたかった。今も、あの時も。
「三蔵だって……俺が何なのかわかってるくせに……」
「……そんなに嫌か」
「なぁ……向こう行こう? ゴハン食べろよ、全然食ってねーだろ?」
「そんなに嫌か」
「三蔵……なぁ、行こう。みんな心配してる」
「嫌か」
「三蔵」
「嫌か、と訊いてる」
悟空が声もなく笑った。涙が目尻を伝ってこめかみに染み込んでいく。
「……やだよ。俺、三蔵殺したくねーもん」
ほら。やっぱり碌な言葉は言わない。
三蔵はゆっくりと身を起こした。悟空は放られた衣服をひとつひとつ身につけていく。窓の向こうの空はすっかり夕闇になっていた。その濃紺は、やはり美しく三蔵の目に映った。悟空が死んだ日から、世界の何もかもは煌くようで、どんな時も三蔵にやさしかった。
「……行きなよ、三蔵。みんな待ってる」
悟空が言う。
三蔵は言われるままに立ち上がる。操り人形のようにそうする。
「絶対大丈夫だよ? 俺、三蔵が勝つの、知ってる。大丈夫、聖天経文ももうすぐ戻ってくるから」
そんなものはもうどうでもいいのだ。何もいらない、ずっと負け続けたままでもいい。思うのに、言葉が出ない。いつの間にか、きっちりと鍵をかけたはずの扉が開いていた。外には穏やかな夜が広がっている。その向こうには、八戒たちがいるであろう部屋の明かりもあった。
温かい世界。悟空が、三蔵のために温かくした世界。
「……好きだよ」
悟空が言う。
いつまでも変わらない言葉に、胸が詰まった。それでも三蔵は彼の導く通りに歩き出し、しかし結局最後まで持たずに戸口で振り返る。
薄暗がりの部屋の中央、座り込んだ悟空がしゃくりあげながら、強く笑ってみせた。
「……バイバイ」
手を振る彼。三蔵が何かを言う前に、見えない力でこちらの肩を押し、部屋から突き出すと勢いよく扉を閉じる。
「悟空!」
たまらず叫ぶと、中からさっきまでの強さが嘘のような、弱く小さな声が聞こえてきた。
「……好きだよ、三蔵」
だから生きて。
祈るように言う声に、眩暈がした。
これが最後なのかもしれない。もう会えない。話すこともできない。直感は告げるのに、だから何をすればいいのかちっとも思いつけずにいる。彼が生きろと言うのなら生きてもいいとも思う。けれど、毎日変わらずに昇り続ける光を見て、毎日変わらずに暮れ行く空を見て、三蔵は何を思うだろう。
悟空が見れば綺麗だと笑いそうな何かを見つけるたび、何を考えればいいのだろう。
ただ生きて──時に戦って、たとえばいつか勝つことができたとして、何がこの手に残るのか。
「悟空」
声が。
「悟空……」
どうにもならない、声が。もう涸れたと思っていた涙と一緒にこぼれ落ちる。
泣かないで。
ふと、そんな言葉が聞こえた気がした。引き戸の向こうには、もう彼の気配はなくなっていた。小さくうつむくと、ひんやりとした風が三蔵の頬を掠めていく。
「好きだ……」
初めて口にした言葉は、彼の耳に届いただろうか。
どこかで笑ってくれたらいい。いつかのように、嬉しそうに笑ってくれたら──
いつまでこの美しい世界での孤独に耐えられるだろう。