チルハナ

 住み慣れた寺院も間近な森の、木立に囲まれたある道で、三蔵は不意に苛立ったふうに舌打ちした。
「どうかした?」
 悟空が振り返って見れば、その表情にも不機嫌さがにじみ出ている。不思議に思って、数歩先を歩いていた足を止め、彼が隣に並ぶのを待ち、歩調を合わせた。と。
「雨が降る」
「え?」
「雨だ」
「……でも」
 悟空の記憶にある限り、真っ青に晴れ渡っていたはずの空を振り仰ぐ。
 しかし、そこに見えたのは、いつの間にか青空を侵食していた雲の一群だった。悟空は驚いて嗅覚を鋭くした。確かに何か雨の匂いらしきものが森に満ちている。とはいえ、所詮緑の茂る場所だ。湿気は元からあるもので、よほど注意していなければ判断できぬ類のものだった。
 だとすれば、彼は空の色を見分けたのか。
 こういう時の三蔵の感覚というのは、人より五感の優れている悟空からしても目を見張るものがある。
「……よくわかるよな」
「わかるんだから仕方ねぇだろ」
 感嘆を秘めた声にも、彼は素っ気無い。
 要するに、雨だからこそのことなのかもしれない。三蔵がそれを嫌っているのを知っていた悟空は、更なる言葉を飲み込む。
 自然と、二人、道を歩く足が速まった。
 しばらく無言のままそうしていたのだが、ある場所に差し掛かった時、悟空はつい立ち止まっていた。
 道端に赤い花が咲いていた。
 花瓶にも挿せないような、背の低い草花だ。名前は知らないが珍しい品種でもない。多分、本当にどこにでも咲いているものに違いなかったが、目にした瞬間、奇妙に胸が疼いた。
「……おい、何してる?」
 今度は三蔵の方が数歩先で悟空を振り返る格好になっている。はっと顔を上げ、すぐさま己も彼に追いつくつもりが、果たせない。
 見慣れていた三蔵の姿が、一瞬違う姿に見えた。
 慌ててまばたきする。
「早くしろ、本当に降るぞ」
「あ……、うん。わかってる」
 それでも後ろ髪を引かれる思いがあって、もう一度件の花を振り返った。その時である。
 ぽつ、と、天から落ちた最初の一滴が地を打った。
「あ」
 思わずぼうっと空を見上げた悟空の腕を、容赦なしに引っ張る、大きな手。
「言わんこっちゃねぇ」
 三蔵は吐き捨て、そのまま走り出した。もちろん腕を取られているので、悟空も走らないわけにはいかない。
 雨は見る間に強くなった。二人が濡れる前に駆け込んだのは、誰が管理しているのかもわからない、扉に大きな錠前のついた建物の軒先だ。おそらく狩猟用の物置か何かだろうが、トタン屋根が大きく前に突き出していて、雨宿りにはもってこいの場所だった。
 今や曇天は暗雲に変わっている。
 悟空と三蔵は、大粒の涙を落とす空を見上げ、揃って深い溜め息をついた。
「……のろのろしてんじゃねぇよ」
「俺のせいじゃないだろ」
「お前がぼうっとしてるからだろうが」
「急いでもどうせ間に合わなかったよ!」
「どうだかな。大体何見てた?」
 問われて赤い花を思い出した。辺りを見回して見ると、やはりこの季節にはそう珍しくもない花なのだ、近場の木立の根元にも同じように咲いている。
「あれ――」
 悟空は、雨で打たれ、揺れる紅を指差し言った。
「あの花、どっかで見たなぁと思って」
 自分で言いながら、この表現は違うなとも思う。何度も言うが、見たことある方が当然なくらいのありふれた草花だ。だから悟空が言いたかったのは、いつかどこかでその花と自分が何らかの接触を持った、ということだったのだが。
 ただし、そちらを眺めた三蔵は、足りなかった悟空の言葉をあっさり汲み取ってくれた。
「ああ……いつだったかお前が摘んできた花だろう」
「そう、だった?」
「覚えてないか」
 言われても良く思い出せない。
 三蔵の執務室は本当に仕事をするためだけの部屋で、愛想もなく、花くらいあればいいのにと見るたび思った。それで時々、野道で見つけた花を持って行くこともないわけではなかったが、さすがに花瓶にも挿せないような、丈の短い花を持っていった記憶はない。
「……思い出せない」
「そのくらいのことなんだろ、気にすることか?」
「うん……そうだよな」
 でも、あの赤は知っていると深いところで声がする。
 悟空は無理やり笑って話題を変えた。
「ところでさぁ、三蔵、もしかして昔髪長かった?」
「なんで」
「何となく。さっき急に見えた気がして」
「ふぅん?」
「なぁ、違うの?」
「ねぇな。長い髪はうざい」
「そっか。じゃあやっぱマボロシかな、あれ」
「俺の髪が長い幻?」
「うん、そう。キレイだったよ、伸ばす?」
「誰がするか」
「ちぇっ。金色で長かったらキレイだろー?」
「キレイだからって引っ張られてもな」
「俺? しないよ、そんなこと!」
「いーや、する。お前はやる、絶対だ」
「言い切るなよ」
 ではあれも錯覚だったか。笑い話に替えてしまいながら、悟空は胸の内だけで考える。
 稀にこういうことが起こるのだ。もしかしたら以前の記憶の断片なのかもしれない。赤い花も何だか特別なものだった気がした。
「……予感かもな」
 ところが、突然口調を変えた彼が言う。
「今伸ばす気はねぇが、未来はどうなるかわからない」
「……予感って見えるの?」
「さぁな、見るやつもいるんじゃねぇ?」
 そう言われるとそういう気もしてくるではないか。三蔵はなおも言った。
「どこかで見たと思うものが、過去の中にあるとは限らない。過去と未来はねじれて繋がってる。過去に経験したことを、二度繰り返したくないと思ったりするだろ、未来は過去と繋がっていなければ生まれてこない」
「……むずかしいよ?」
 上手く理解できずにそちらを見ると、彼は小さく口端を歪めた。
「わかる必要はねぇよ。とにかく俺は髪を伸ばしたことがない。それでもお前が見えたと言うなら、未来にそうなるかもしれないと言ってるだけだ」
「うざいのに?」
「気が変わるんだろ」
 平然と言うから笑ってしまう。
 二人がそんな話をしている間に、森を包む雨はどんどん濃密になっていった。寺院は傍だというのに、どちらからも濡れて行こうとは言い出さない。
 道には、またたく間に水溜りができた。トタン屋根がばたばたと激しい音をさせ雫を弾く。
 木立の葉までもが、水滴の勢いに地に落ちた。その下で咲いている赤い花も、雨にもみくちゃにされている。
「……散っちゃうかな」
 そうでなくとも、今にも茎ごと折れてしまいそうなしなり方をしていた。見ている間にどうにも堪らなくなって、悟空は知らず足を踏み出すのだ。
 だが、それを止めたのは三蔵だった。
「やめとけ」
「でも……」
「散りたくて咲いてる花もある」
「……そんな花ないよ」
「自分から死ぬ人間だっている」
「…………」
「花がそうじゃないと言えるか?」
 三蔵の言葉は詭弁に聞こえた。しかし、彼の言葉を翻すだけの言い分を、悟空は持ってはいなかった。
「……三蔵、なんか意地悪だ、今日」
 結局うつむくことしかできない。
 屋根の下、己の足元まで水溜りが侵食してくるのを、ぼんやり見ている。再び、いつだったかこんな日があったのではないかという既視感がよぎった。
「俺も……なんか変かもしれない……」
 どうした、と、三蔵が問う。
 その声もどこかで聞いたことがある気がする。ぐらぐらと思考の定まらない額を押さえ、悟空はあえぐように息をした。
「……あたま痛い……」
 本当にその場にへたり込みそうになった時だった。
 あたたかい腕が悟空の背を引き寄せた。驚いて顔を上げると、彼がじっとこちらを見下ろしている。
「過去のことじゃないと言っただろう。考えるな」
「……三蔵……」
「考えるな。思い出したところで、どうせお前は変わらない」
 それも根拠のないこじつけに聞こえた。そう言えば、三蔵は、なぜだか出会った時から、悟空の記憶を探るようなことをしなかった。五百年あの五行山で封印され続け、それ以前の記憶がないのだと告白した時も、軽く聞き流されて終わりだったように思う。
 悟空は彼の法衣に額を擦りつけた。その感覚すら、どこかで見知ったものの気がした。
「……三蔵、もしかして――」
 言いかけるとそっと頭を撫でられる。それだけで頭痛が薄れていくのがわかった。
「……五百年。あんな場所に一人でいた」
 悟空の言葉をさらう形で、彼が低く話し出す。
「人なら狂う。だがお前は狂わなかった。五百年前より以前にお前が何年生きていたのか、俺にもわからない。ただ、人と同じように背が伸びて、成長していくお前を見ていると、五百年より長いとも思えない」
「……だから?」
「五百年の孤独にも狂わなかったお前が、それより短い過去を思い出したところで、どう変わる?」
「でも……大切なことがあったかもしれない……」
「俺よりもか」
「えっ?」
 思わず聞き返していた。彼の肩に預けていた頭を上げ、その瞳を振り仰ぐ。
 三蔵は平然と言った。
「お前に俺より優先できることがあったのか?」
「――じ……っ」
 自信過剰!
 妙に気恥ずかしくて、その腕の中で暴れた。すると、唐突に抱きしめてくれた腕は、やはり唐突に離れていってしまった。
 自分で暴れて振りほどいたにもかかわらず、離れてしまうと奇妙に寂しい感触ばかりが残る。束の間迷った悟空は、結局法衣の端を手の中に握りこんだ。
 三蔵がちらと笑う。彼は懐から取り出した煙草に火をつけ、ゆっくりと煙を吐き出した。
 悟空は再び己の足元に目を落とし、小さく口を開く。
「……ヤなら……答えてくれなくてもいいけど……三蔵さ、もしかして俺の昔、知ってんの?」
 口にするにはいささか勇気の必要だった問いなのだ。けれども、彼は本当に答えてくれない。悟空がそちらを仰げば、まるで今の言葉自体が耳に入っていないかのような横顔をしていた。
 溜め息が出る。
 またこうしてすり抜けていく。
 悟空の中に眠る、記憶らしき断片は、目の前に立つ男のあまりの鮮やかさに、いつもいつも、取るに足らないものとして日々の中にこぼれていくのだ。
 きっと最後には、彼に出会う以前の全てを思い出せなくなるに違いない。三蔵の言葉ではないけれど、悟空の中に彼より大きな存在はなかった。そんな彼から――直接言葉にされたわけではないが、おそらく「過去など忘れろ」と言われている。
 記憶を取り戻したくないわけではない。ただ、彼の言葉に逆らってまでほしいとは思えなかった。
 悟空は、雨で灰色に煙る森へと視線をさまよわせる。例の木の根元にあった花は、もはやすっかり地面の上にくず折れてしまっていた。
「……かわいそうだ」
 泥水に汚れるそれに、なぜだか悟空までもが傷ついた。
 知らぬ間に法衣を握る手に力が入っていたらしく、彼の手で包み込まれて初めて、布の上からでも、己の爪が、手のひらの皮膚に跡をつけていたことに気がついた。
「お前が気にすることじゃない」
 意地悪なことを言うのと同じ口で、彼は他の誰にもできないほどやさしい声を出す。
「あの花に生きる意志があるのなら、どんなに汚れても頭を上げるだろう」
 それはまるで彼のようだと思う。
 思って、ふと胸が痛んだ。あの花が気になったわけがわかった気がした。ないはずの記憶に引っかかっただけが原因じゃない。三蔵が「散りたくて咲いている」と言った時から、漠然と感じていたことだ。
 つないでもらった手に自分の指を絡めてみる。それから真っ直ぐ背筋を伸ばして、大きく深呼吸をし、悟空は当分泣き止みそうにない天空を見上げた。
「……どうしようか、三蔵」
「何だ」
「泣きたい気分だ、俺」
 言えば三蔵は笑った。目を伏せた様子が少しだけ悲しげに見えたのだが、彼はすぐにそっぽを向いて、悟空から顔を逸らしてしまったので、本当はどうだったのかわからない。
「誰も見てねぇよ」
 やさしい声が言う。
「……三蔵が意地悪言うから……」
 弱い言い訳に甘えるように、悟空は泣いた。
 彼の手はいつまでもあたたかく、惑う悟空を導く、唯一の道しるべのようだった。
 
 
 
* * *  
 
 
 お前に出会った幸福を、誰に感謝すればいいのかもわからない。もしもこの命を懸けて、たったの一度だけでも魂の奥底から祈ることができるとしたら、お前の幸福を俺は祈ろう。お前に出会ったことで俺は気付いた。神がどれほど矮小でつまらぬ存在か、そして、それに与する己がどれほど無力であったか――そう、あれはきっと絶望と名の付くものだっただろう。俺はお前に出会い、感謝し、そして自分に絶望した。お前は、だからあの日の俺を忘れてしまえ。小さな約束すら叶えてやれぬ、清潔な手しか持たなかった俺を忘れてくれ。言えば、お前はまた否定するのだろう。いつだったか何もかも許し笑ったように、俺が無力であったことも許すのだろう。だが俺は許せない。お前はたったひとつの俺との約束のために記憶を投げ出し、気の遠くなるほどの孤独を受け入れた。俺はお前に何を願ったのか、多分あの瞬間ですらわかってはいなかったのだ。幸福も絶望も知らなかった俺が、孤独を知っていたとお前は思うか? 俺は何も知らなかった。知らないままお前に約束させ、簡単に一人にした。狂うことすら許してやれなかった。そうしてお前を雁字搦めにしておきながら、俺はさっさと死んだんだ。死ぬことで天界から解放され、そしてお前から逃げたのだ。俺は自分から死を選ぶこともできず、ましてやお前を殺すことすらできず、何もかもをお前一人に背負わせた。俺は無力だった俺を二度と許さない。幸いにも俺は、幾度か人間に転生し、肉体を与えられると同時に、女の腹を破って血にまみれ生れ落ちた。喜べよ、お前の知る「太陽」は、人として世に生を受けるたびに汚れた。この記憶を持った生も持たなかった生もあったが、人間であるというだけで、とにかく汚れ続けることはできた。俺は欲を知り、俗世に塗れ、神を嘲った。人も妖怪も殺した。見ろ、今じゃどこもかしこも真っ赤で――この手は最初にお前が掴んだ手じゃない。あのやわらかな花を、ぎこちなく受け取った手じゃない。だが、この手は、自分の頭を拳銃で打ちぬくことのできる手だ。お前が死にたいと言うのなら、殺してやることすらできる手だ。だからどうか「太陽」だった俺を殺させてくれ。その花は散るべきものだった。汚れなければお前に何もしてやれない花だった。いつか記憶を取り戻し、お前があの花を追い求めても構わない。俺はただ、最後にお前が呟く願いを叶えるだけだ。死ぬも生きるも、今度こそお前が望むように。悟空。