花火の種

 寝入り端だった。わりと近くでドォンと――たった数日来で聞き慣れた火薬の破裂する音に、三蔵はゆっくり身を起こした。隣の寝台にいる悟空もまだ目を醒ましていたようで、半身を起こしたまま窓に映った夜の光を眺めていた。
 二人の視線の先、彼方の天空には、赤色の花火が上がっている。
 美しい菊形のそれはたった一輪きりの花なのだ。
 鮮烈に散った火の粉は、またたく間に風に浚われ、音の余韻も消えないうちに宙へと溶けていく。
「赤い花火だったね……」
 悟空がぽつんと呟いた。
 三蔵は答えかけ、しかし己が言葉を持たないことに気付いて口をつぐんだ。
 人と妖怪、そして神をも巻き込んだ牛魔王の反乱が終わり、桃源郷には平和が戻った。反乱の結果として、たとえ人の半数が死に絶えようとも、妖怪種族の対部分が狂気のうちに滅びようとも、生き残った者たちは強かに生活を始めている。町には活気が戻り、使命を果たした三蔵らにしても、かつての居場所を取り戻しつつあった。
 ところが最近になって、桃源郷は新たな異変に見舞われた。
 それは花火だった。ただし、人の命と引き換えに打ちあがる花火である。
 一体どういう理由のものなのか誰も知らない。犯罪性があるのかないのかすらわからない。ただ突然、夜と言わず朝にも昼にも、前触れもなしに花火が上がり誰かがいなくなった。三蔵が寺院の伝手で耳にした噂によると、いなくなるのは専ら妖怪種族の者であるらしい――が、噂が真実である保証はない。
 とにかく消えていく。一瞬の燃焼と華やぎを空に焼き付けて。
 人口が半分になった町から更に命が減っていくのだ。人々は次第に戦々恐々と噂する。あれは伝染病ではないか、牛魔王の残した呪いではないか、神の怒りではないか。噂は地を駆け巡り、今や誰もが突然空を染める火の花に怯え、顔を背けた。
「……明日も早い。寝るぞ」
 三蔵は低く言い捨て毛布を被った。
 しばらく沈黙が落ちたが、隣でふと気を取り直したように悟空が笑うのがわかった。
「ねぇ三蔵、頼みがあるんだけど」
「なんだ」
「明日どっか遊びに連れてって」
「明日は仕事だ」
「寺院の?」
「寺院の」
 こんな時世だ、人々は救いを求めて毎日寺院に通ってくる。三蔵に限らず坊主の名のつく者は皆こういった対応に追われている。読経したからといって何が変わるわけでもないのに。
「――じゃあ明後日は?」
 考えに沈みかけた三蔵に、悟空は明るく続けた。
「明々後日は? その次は? その次の次は? いつだったら遊びに連れてってくれる?」
「…………」
「三蔵の仕事がない日っていつ?」
 寺院に休日はない。三蔵は嘆息した。
「わかった、明日だな」
「うん!」
 桃源郷に住むどの生き物にも恐怖の影が貼り付く昨今、悟空だけは以前と変わらず明るかった。ただ。
「……好きだよ三蔵」
 時折こぼれる言葉の響きだけが、彼を裏切って切実なのだ。
 思わず寝返りを打ってそちらを見た。三蔵は今晩こそ彼を問い詰めるべきだと思った。しかしその瞳を見るや否や声が喉に絡まる。
 大きな金色の瞳はゆるく潤み、三蔵の目を意識すると悲しげに嬉しげに微笑んだ。
「おやすみ」
 ――まるでこの一瞬を逃すともう出会えない恋人のように。
 悟空の言葉には込められる限りの愛しさが込められていた。
 彼が隠し事をしているのは三蔵にもわかっていたのだ。問えば答えを言う覚悟があるのも見て取れた。悟空は、もしかしたら三蔵が問うのを待っていたのかもしれない。
 けれども、だから問うことができなかった。
「……お前も。早く寝ろ」
「うん」
 背を向ける。今も考えを捏ね繰り回す頭を無理やり空にし、三蔵は努めて眠りに入った。
 
 
 
 翌日、寺院内を右往左往する坊主たちの目を盗み、三蔵を職務放棄へと誘った張本人にもかかわらず、路地裏まで出た悟空は、のんびりと言ったものだ。
「で……どこ行こうか、三蔵?」
「……はぁ?」
「いや、ホラ、どっか三蔵行きたいとこない?」
「遊びたいと言ったのはお前だろうが」
「そうだけど。んー……キレイな場所で、あんまり人がいなくって、遠くって、今まで見たことがない場所がいいんだけど……そーゆーとこ知らない?」
 三蔵は唖然と彼を見返した。
「どこだ、それは?」
「だから、キレイで人いなくって遠くって――」
「目的地がないんなら帰るぞ」
 寺院に戻りかければ悟空は頬を膨らませる。
「ちょっとぐらい付き合ってくれたっていいだろ! 三蔵が俺を連れてってくれたことない場所で、どっかキレイなとこってないのかよ?」
 言われて、ふと思い出す場所があった。だがあまりに遠い。ひらめいたのも束の間、三蔵は結局口を閉じる。
 しかし悟空はこちらの逡巡に気付いたらしい。ぱっと瞳を輝かせ、三蔵の顔を下から覗き込んだ。
「――どこ? キレイ? 人いない? 遠い? 俺、見たことない?」
「……綺麗かどうかは主観にもよる。だが人はいないし、ここから遠い。お前を連れて行ったこともない」
「どこ?」
 行こうとするなら一日がかりだ。三蔵は言う寸前まで迷ったが、とうとう期待に満ちた瞳に負けた。
「海」
「海……!」
 悟空は場所を聞いた途端ふわりと目を和ませた。
「そっか……そういう場所があったんだ……とっておきっぽくって最後にはいいかも」
 引っかかる物言いだ。それも見ぬふりで三蔵はそっぽを向いた。
「行く気か?」
「行きたいなぁ、ダメ?」
「遠い」
「……どのくらい?」
「歩いて行ったら三日はかかる」
「えっ……」
「八戒に頼めば一日で済むかもしれん」
 悟空はしばらく黙ったが、とうとう三蔵を真っ直ぐに見上げた。
「俺、八戒に頼んでみる」
 悟空は大いなる決意のようにそれを言ったけれども、三蔵に言わせると元から相手は頼めば嫌と言う男ではない。
 つまるところ遊びの計画は潰れることはないということだ。
 行けば、後悔するような出来事が待っている気がした。予感は最初からあった。三蔵はわかっていて悟空の計画に従った。

 久しぶりに訪問した先では、八戒と悟浄が当たり前に歓迎して出迎えた。悟空が海までジープで送ってくれと言うと、八戒は容易くうなずき、悟浄は「あんなに遠くまで行く気か」と呆れていた。
「行くのは良いですけど、お弁当でも持って行かないとお腹すいて困りますよ?」
「え、そうなの? どっか店で買えない?」
「さぁ……僕が見たことある場所には確かそういうとこはなかったような……」
「ちなみに俺も見たことねーぞ」
 悟浄が横から口を挟む。
「人がいない場所だと言っただろうが」
 三蔵も付け足した。
 誰もの言葉に悟空が困惑するよりも早く、八戒がぽんと手を叩く。
「じゃあ僕が今から作ります、一時間ほど待ってもらってもいいですか?」
「あ……っ、でも」
「ちゃんと二人分だけ作ります、大丈夫ですよ」
 八戒はさらりと口にした。悟空が困ったように笑う。
「そーそー、俺と八戒は用があんの。海に着いたらさっさと解放してもらうぜぇ?」
 悟浄は冗談めかして告げた。両名ともに、こちらを二人きりにする意図があからさまだ。だが決して悪乗りした様子ではないことが三蔵を黙らせる。
「海かぁ……今から行けば夕方だろうな、キレイだぜ多分」
「そうですよね。もうちょっと暖かければ泳げもしたかもしれませんけどね」
「うーん……でも海って塩水なんだよね? 泳ぐと痛かったりしない?」
「したっけ?」
「ぴりぴりくらいは……したようなしなかったような。あんまり覚えてませんけど」
「そんなもんだったか? まぁでも見てキレイなもんならいーんじゃねーの、このサルの場合」
「三蔵も一緒ですしね」
 穏やかに笑って悟空の頭を撫でる八戒。悟浄までもが似合わぬくらい静かに笑って傍にいた。
 ――失踪スル大半ノ者ガ妖怪デアッタトイウ情報ガアリマス。
 突然空を焦がす花火について、ある坊主が困惑げに報告してきたことが頭を過ぎった。
 三蔵はあれこれ話す三人から離れ、悟浄宅の門前まで出て、晴れ渡った空を見上げる。
 風がさらさらと流れていた。降り注ぐ光はやわらかで、葉を擦り合わせる木々も生命力に満ち、世界のどこかで何かが失われて行くのが嘘のような陽気であった。
 それでも、三蔵が一本目の煙草に火をつけようとした頃、鈍い音が遠くの空を震わせる。
 途端に、家の中から響いていた三人の声が静まった。
 彼らが再び常の調子で話し始めるまで、三蔵は門前に突っ立ったまま、一人長い時間を、煙草をふかし過ごす。

 八戒手製の弁当を携え、四人を乗せたジープは東へ向かった。
 運転席に八戒、助手席に三蔵、後部シートには悟空と悟浄。示し合わせたわけでもないのに気付けば四人ともが定位置にいた。
 違うのは空の様相だ。身体ごと後ろを振り返って座席に膝立ちした悟空が、頭上を通り過ぎて西へと傾いていく太陽を眺め、溜め息をついた。
「……なんか変な感じ」
 多分全員が同じ違和感を感じている。
「いつもさぁ、午後になれば眩しくって目なんか開けてらんなかったのに……」
 悟空の声は寂しげだった。
以前と同じようで何もかもが少しずつ違っていた。もう二度とあの西への旅の時間は戻っては来ない。
「……海まで出ればまた陽が見える」
 三蔵は感傷を嫌って極力素っ気無く口を挟んだ。素直に驚いたらしい悟空はすぐこちらを向き直る。
「そーなの? でも東に向かってんだろ?」
「狭い水溜りと海を一緒にするな」
「……なんか想像つかねーけど……見えるの、ほんとに?」
「見える」
 やり取りにとうとう八戒が苦笑する。
「ほんとに見えるんですよ、悟空。入り江から出て見晴らしの良い場所まで行くと、四方が海になりますから」
 四方が海と聞いて悟空はますます混乱したようだ。隣で彼の表情を見ていた悟浄も笑い出した。
「なーんか、いいよなぁ。ロコツに初体験ってカンジ」
 やさしくしてやってね三蔵サマ。聞こえた軽口にすかさず拳銃を取り出した。
 笑いながら、悪態をつきながら。
遠いはずの東への道程は、心地良い懐かしさと寂寥に満ちて、もはや誰の胸にも距離ほどには長く感じることができなかった。

いよいよ視界の端を海辺が占領する頃、騒がしかった車上は軽い沈黙状態に陥っている。
「……すごいね」
 悟空が眩しげに呟いた。走るジープは潮の匂いのする風を千切り、こちらの髪を、ごうごうと激しい音をたてながら横なぶりにしていく。
 西から東へ追い越したはずの太陽も、今ではしっかりと眼前に存在していた。
 夕陽の色は蛍光色に近い。
 白かった雲も茜色に蕩け、その茜を鏡さながらに映した大海が、波間に金砂でも混ぜたようにきらきらと輝いている。
 彼方に横たわる水平線すら光の色だった。
「……空と水があるだけなんですけど、感動しますよね、やっぱり」
 ぼんやり八戒が言うのを、三蔵も同じ感想を持ちながら聞いていた。
 間もなく目的地に着き、全員がジープから降りると白竜も姿を見せる。いつもであれば八戒の元へ行くものが、変化した途端に強く翼をはためかせ、悟空の元までやって来た。
 小さな頭を必死で頬にこすり付ける仕草。
 別れを惜しんでいるのだとしか見えなかった。笑って受け止めるつもりだった悟空が、不意に小さく唇をゆがめるのが、三蔵の目にも見えていた。その表情が本当に崩れる一歩手前、八戒が白い体躯を引き離す。
「……ジープ」
 悟空はどうにか微笑んだままだった。
 三蔵はやはり動かぬままその光景を見ている。一度白竜をなだめた八戒の手が、次に迷いつつも悟空に伸び、白竜がしたのと同じように別れを惜しんでその肩を抱き寄せた時も、努めて何も言わずにいた。
「僕らは……青色の種をもらいました」
 悟空の髪に額を埋めるような格好で、八戒は苦く言った。
「そっか……」
 悟空の声がかすかに震える。八戒がぎこちなく腕を解くと、今度は悟空自身から手を伸ばし、傍らに突っ立って動かない悟浄と一方的な抱擁を交わした。
 そうして最後にこちらを振り返った彼は、もう全てを振り払った表情で笑っている。
「行こっか?」
 三蔵がすべきことは、彼にうなずいてやることだけだった。
 その時、八戒や悟浄がどんなふうにこちらを見ていたのか知らない。もしかしたら痛ましげな顔をしていたのかもしれない。だが、そういった顔ならば尚更見たくはなかったのだ。結局一瞥もせず、三蔵はかつての仲間に背を向ける。
 そのまま別れてしまうつもりでいた。ところが。
「――クソボーズ!」
 咄嗟の呼びかけは悟浄のものだった。それから突然背後の距離を詰められる気配。
 三蔵は即座に振り返ろうとした。しかし間に合わなかった。接触嫌いの三蔵を気遣ってかそうではなかったのか、これまで踏み込まれなかった距離から、八戒と悟浄、二人分の腕が絡みつく。
 瞬間、ほとんど条件反射で鳥肌になり――
「ふっふっふ〜、一度くらい復讐しとかねーとな?」
「そーですよ、最後まで散々こき使われましたからねぇ?」
 聞こえた軽口に気が抜ける。
「……放せ、今すぐ。殺すぞ貴様ら」
 何とか不機嫌な声を作ったが、実際はどこまで成功したのやら。ただ、彼らの抱擁は、必ずしも別れの挨拶ではなかったのだ。
「――探せ、絶対だ」
「引き出しの中だそうです」
 離れざま、声をひそめて告げられた。
 言葉が何を意味するのか今の三蔵にはわからない。それでも、悟空に聞かせたくなかった意図ならば察することができた。
 再び顔を合わせた彼らは、もう以前と同じ笑い顔でそこにいる。三蔵は不自然にならぬよう一度うなずき、悟空を促してそこから離れた。
 
 
 草木の茂る岬を迂回し、岩場を渡り、砂浜へ下る。
 海を臨む景色はどこを見渡しても美しい。
 しかし、二人きりになって既にずいぶん歩いにもかかわらず、悟空は八戒からもらった重箱の弁当を胸に抱えたまま、全く口を開こうとしなかった。
 初めは何か違う理由があってそうしているのかと思った。もしくは景色に見とれているのか。だが、三蔵が盗み見た悟空の表情はどう見積もってもふくれっ面なのである。怒っていると言うよりは拗ねている顔で、ひどく悔しげでもあった。
 座るに適当な場所に着くのを見計らって、三蔵はようやく問いを投げかける。
「……何を考えている?」
 すると悟空はますます難しげに眉を寄せた。
「別に……いーんだけどさ」
「何がいいんだ?」
「何でも」
「ふぅん……」
「…………」
「…………」
「…………」
「…………」
「……もう訊かないの?」
 三蔵が黙るや否や、更に拗ねた声に溜め息が出る。
 これは絶対に取るに足らない理由に違いない。悟った三蔵は、早々に問いを重ねるのをやめた。
 と、今度は悟空の方が居心地悪げにこちらを盗み見る始末。それには知らぬふりをしたまま、ちょうど行き当たった乾いた砂地に腰を下ろすのだ。
 始めは逆らって佇んでいた悟空も、結局渋々座り込む。
「……いーなーと思って」
 唐突に話を続けた声は、やっぱり拗ねきっていた。
「俺もさっき三蔵に抱きついとけば良かった」
 ぶすったれた声で何を言うかと思ったら、そんなことなのである。今度は三蔵も苦笑せずにはいられなかった。馬鹿にされたと思ったのか、悟空は語気を強めて言い募った。
「だってさ、あんまりそういうチャンスねーんだもん! 三蔵は触るのヤだろーし――」
 最後までは言わせてやらない。
 小柄な身体を己の腕に引き込んだ。
 ほとんど三蔵の膝に横抱きされる格好になった悟空は、茫然とこちらを振り仰ぎ、目を合わせた途端真っ赤になる。
「満足か?」
尋ねても、ううっ、とか、ええ?、とか、一向にわけのわからぬ答えを返すだけ。三蔵は彼が落ち着くまでそうしていることにした。何より、温かな身体は思った以上に触り心地の良いもので、手放すのが惜しかった。
本当に。どうして今までこういうふうに触れなかったのかと後悔するくらい。
「……他は?」
 間近で慌しくまたたく金の瞳を見下ろすと、ひどく甘い気分にもなる。
「他には? 何か不満があったのか?」
「えっと……いや、あの」
「なんだ」
 あの、と、何度か言いよどんだ彼は、相変わらず真っ赤に染まった頬のまま、
「……俺も……抱きついてもいい?」
「ああ」
「ほんとに?」
 うなずいてやる。おずおずと背中に回る手が愛しくてどうにかなりそうなのだ。三蔵は満ち足りた己の顔を晒さぬためにも、その頭を懐深くまで引き込んだ。
誰かをこれほど近くに置くのは、きっと後にも先にも彼一人になるのだろう。
こうして触れていると、彼以外はいらないのだと己の底から訴える声が喉元を締めつけるようだった。
 それでも――きっとつないだ手は放される。
 三蔵はその時を予感していた。おそらくもう残された時間は少なく、一刻も早く喪失を覚悟せねばならないはずだった。
わかっている、わかってはいるのだ。
しかし。
「……腹減ったな」
 気付くと結末を引き伸ばしていた。会話の流れに屈託なく吹き出す悟空は、こちらの内情を知らないから笑えたのか、それとも知っているからこそ笑ったのか。
「珍しいね、三蔵がそう言うの」
「お前は四六時中言ってたな」
「だって減るんだから仕方ねーじゃん」
「……弁当食うか」
「うん」
「…………」
「……ふふっ」
「なんだ」
「ううん。ただもったいなくって」
 このまま食べる方法ってないのかなぁ?
 笑いながら告げられた言葉は、少しだけ掠れ気味だった。
 ――馬鹿なことをしている。
 自分で自分に呆れつつ、三蔵は早速悟空の希望をかなえるべく動いていた。彼の身体を背後から抱きしめ、何かを食べるという目的にはそぐわぬ体勢で重箱を開く。
 互いに少しずつ食事を進めながら、時折海を眺め空を眺め、どうでも良いようなことばかりを話した。
 表面では普段どおりを装いつつ、三蔵は次に己の腕の中から彼が出ていく瞬間を考える。
 夕暮れで冷えた空気は、どんなふうに肌を凍えさせるのだろう。抜け出た途端に同じぬくもりを求めて引き戻さずにはいられなくなるかもしれない――いや、それより、彼を離してやるにはどれだけの忍耐が必要なのか。
「――どうかした?」
「いや。ソレ、うまい。全部食うなよ」
「えー、早い者勝ちだろ?」
 そうして軽口を叩いては、他の誰にすることもないような強さで彼を引き寄せた。これほど切実な一瞬に笑っていられる自分が不思議で、三蔵は悟空に隠れて何度も自嘲する。

 陽のあるうちは、オレンジ色やら金色やらで鮮やかだった海も、いつの間にか夜に飲み込まれてしまった。
 天空に月はなく、代わりに星明りという言葉を実感するほど見事な星空が広がった。
 重箱の料理を粗方片付けた悟空が、ふと短い溜め息をつく。
「……ねぇ、三蔵。この頃は、朝にも昼にも花火が上がるの珍しくないけど、やっぱり夜に上がるのが一番キレイだよね?」
「まぁな」
 何でもない素振りで相槌を打ったが、実際はとうとうその話題になったかと思った。
 本当はあまり聞きたくはなかったのだ。
「で、ね? 三蔵、どの色の花火が好き?」
「どの色?」
「うん。赤と、青と、金色とあるんだけど」
「ふぅん……」
「どれ?」
「……お前は?」
「俺は……本当は青がいいなぁと思ったんだ」
「ふぅん」
「でも金色なんだ。俺もともと金色が一番好きだから、もしかしたらそのせいで金色になっちゃったのかもしれないんだけど……金色ね、すごく珍しいんだって」
「…………」
「俺だけなんだって」
 息を詰め、緊張した様子で笑った悟空を、三蔵は強く抱きしめた。
「――話せ」
 結局そう言ってやらずにはいられない。
 悟空の話はこうだった。
 それは一粒の種らしい。
 桃源郷に住む妖怪と神――つまり人間以外の意思を持つ生き物に配られた、花火の種。
「種には3種類あって、魂の形で分けるんだって。赤いのは妖怪に近いやつ、青いのは神様に近いやつ。この前、牛魔王のことでごたごたがあっただろ? もう二度とあんなことがないように、妖怪は妖怪だけの世界、神様は神様だけの世界、人間は人間だけの世界に分けるんだって言ってた」
「……誰が言った?」
「菩薩」
 聞けば、西から帰ったその夜に、彼女が夢枕に立ったのだとか。翌日目覚めた時には花火の種を握っており、それ以来、関係のない場所でもあちこちで花火が打ち上がり始めた。
 桃源郷は強制的に生まれ変わる。
 神はこれを最後に人へも妖怪へも干渉を絶つそうだ。妖怪世界は次元を変え、決して他と交わらぬ場所へ隔離される。そして残された人間たちの世界は、神も妖怪も、たとえ存在していたとしても姿を認識できぬよう、人の目そのものに目暗ましの幕がつけられる。
「人間と妖怪と神様と、全部が一緒くたになってたから争いが複雑になったんだって。菩薩はね、妖怪は妖怪の、人間は人間の、神様は神様の、えらいやつがそれぞれ一人上にいて、全部をまとめればいいんだって言ってた。そうすれば、少なくとも違う種族のことまで世話焼く必要はなくなるからって……」
 理屈は三蔵にもわかった。牛魔王の反乱の発端は、神が彼らを制圧したことから始まった。
 そして人の手にあった経文が利用され、科学が利用され――人と妖怪と神と、もしもどれかひとつでも勢力が欠けていたなら、反乱は世界を揺るがすまで強大にはならなかったかもしれない。
「……それで花火の種っていうのは?」
「うん……」
 悟空はそれを手のひらに載せて掲げて見せた。彼が持っていたのは金色をしていて、ちょうど米粒のような形の種だった。
「これを飲み込むんだって。花火になって爆発することで、残ってる寿命を一気に使い果たすことができるらしいよ」
 寿命を使い切ってしまうのなら、それは自殺と一緒ではないのか。三蔵が不機嫌に黙った理由に気付いたのか、悟空はすぐに言葉を付け足した。
「身体とか魂とかを作り変えるために一度ショーカするのが必要なんだって言ってたよ?」
「ショーカってなんだ?」
「ショーカは……昇化? 昇華、かなぁ? 消化?」
「わかってねぇんじゃねーか」
「いいんだよ、そーゆーのは。そんなのはわかってなくったって……三蔵とこんなふうにしていられなくなるってことが……わかれば……俺にはそれだけで充分だった」
 悟空の声が不意に震えた。
「……その種を使わないと、いつかここにいても誰も気付いてくれなくなるんだって、さ」
 無防備に晒されていたうなじに三蔵は小さく口付ける。
 途切れかけた声を振り絞り、悟空は何とか続きを吐き出した。
「俺からは見えるかもしれないけど、三蔵からは俺が見えなくなるって。それで声も聞こえなくって、触れなくって、すぐ傍にいても絶対気付いてもらえないって――」
 はぁ、と、涙の滲んだような溜め息をひとつ、彼は三蔵の腕に頬を擦り寄せる。
「俺、そんなの絶対ヤだよ……!」
 だから種を使う気になったのだと彼は言った。今晩を最後に決めたから、いつもは言わないわがままも通したかったのだと。三蔵の仕事まで邪魔しちゃってゴメン、悟空は謝る必要のないことまで謝った。
 金色の粒が彼の手の中できらきらと光っていた。悟空の口からは、まだこの金色の種が彼をどこへ導くものなのか話されないままだった。
故意にそうしているのかそうではないのか、悟空はまた声を明るくし、別の話を始める。
「三蔵もね、本当は菩薩が種をくれるはずだったんだ。でもその役目、俺が譲ってもらった」
 彼が別のポケットから取り出したのは2種類の種だ。
 青いものと金色のものがひとつずつ。
「三蔵、本当は神様なんだって。知ってた? でも三蔵が嫌ならこのまま人間でいてもいいって。選ぶご褒美がもらえるくらいには、いっぱい良いことしたんだってさ」
「ふぅん……」
「どうする? どれがいい?」
 三蔵は迷わず金色の粒を指差した。悟空が笑ったようだった。
「アリガト。じゃあ、今から一緒に飲んでくれる?」
 緊張を押し殺した声だった。
 三蔵は苦痛をこらえて息をつき、彼を抱き寄せその肩に額を乗せる。
「――いいや」
「どうして? やっぱり俺と二人っきりはイヤ?」
「違う」
「じゃあいいじゃん、飲んでよ」
「いやだ」
「どうして?」
 これで本当に三蔵を騙せると思っていたのなら、悟空は絶対に三蔵を誤解している。
「……その種は、本当は何色の花火の種なんだ?」
 悟空の喉がひゅっとかすかな音をたてた。
「俺に選ぶ褒美が与えられたのなら、お前は何を褒美にもらった? 八戒と悟浄は? あの旅が褒美の原因なら、俺たちには四人とも何かをもらう権利があるはずなんだろう」
「だから……こうやって三蔵に種を渡す役目を……」
「嘘をつくな」
「――……っ……」
「本物の金色の種はどこだ?」
 三蔵が問うと、悟空は突然堪えきれなくなったように身をよじり、暴れて腕の囲いから抜け出した。
「どうしてそんなこと言うの……? 俺、今日ここに来る間だって、それまでだってずっと頑張ったんだよ? もうこれ以上頑張れないくらい……三蔵には絶対泣きつかないようにって……ずっと……種もらってからずっと!」
「余計な努力だ」
「そんなことない! 三蔵は知らないから……っ、魂の形が違うんだ……種飲んだからって本当に一緒にいれるかどうか、菩薩だってわからないって言ったんだよ? 多分そのまま死ぬだろうって……そしたら魂ごと消えて、もう二度と別の何かに生まれ変わることもないって……! 本当に一緒にいれるんなら、俺だって三蔵騙してでも種飲んでもらったもん!」
 悟空が出て行ったあとの腕の中はひどく空虚だった。肌はたちどころに冷え、心までもが縮んでしまった気がする。三蔵は激昂して涙を浮かべた悟空の顔を静かに眺めていた。
「でもそうじゃない。金色の種飲んだらきっと三蔵いなくなっちゃうじゃん……そんなのヤだよ……?」
 小さく呟いた彼の眦からは、とうとう最初の涙がこぼれた。
「きっとね……きっと、俺が金色の種持ってるって知ったら、三蔵、金色選んでくれるんじゃないかって思ってた……。一人はかわいそうだって思ってくれるだろうって……わかってたよ? ほんとに選んでくれてアリガト。俺が持ってるもので本物は青い種だけだったけど……これは三蔵のだから」
 渡されたそれを素直に受け取る。悟空が無理やり笑った。
「それ飲んだらきっとまた八戒や悟浄と会えるよ? みんな神様だって。すごいよね」
「……お前はそうしてほしいのか?」
 問いかけに答えはなかった。
 悟空は確かな足取りで一歩二歩と離れていく。砂浜からどんどん波打ち際へ。
 彼の爪先が水に浸かった。
 その背中があからさまに震えても、三蔵は同じ場所に座ったままでいた。動けなかったわけではない。ただ確かめたかったのだ。もうそれは今しかできないことだった。
「悟空」
 三蔵はひそやかに呼びかける。振り返った彼は笑っていただろうか。
「バイバイ、三蔵」
 最後に聞こえたのは晴れやかな声だった。
そっと手の中の種をあおった彼は、次の瞬間、鮮やかな光になって天空へと舞い上がった。
 ――そして間もなく金色の花が。
 きらきらと降り注ぐ火の粉の下、三蔵はまばたきもせず、己の中から様々なものが抜け出していくのを感じていた。
「……見せてやりてぇな」
 刹那の花が風に消えた場所で、うつろに微笑む。
 彼を失った自分は人の形をしただけの抜け殻だった。
 これでようやく安心して金色の花火の種を探すことができる。在り処は八戒と悟浄が教えてくれた。たとえ飲めば死ぬものだったとしても、それ以外に自分の意思でやりたいことがなくなってしまった。
 三蔵にとって悟空がどれほどの存在だったのか。確かめてみてやっと自分を納得させることができた。
 
 
 
 三蔵が数日仕事を放ったらかしにしていた寺院は、いよいよ世界の終末かと怯える人間で大混雑に陥っていた。
 彼らの声を拾ってみたところによると、ここ数日のうちに原因不明の花火が大暴発しているらしい。こうしている間も、一分と間をおかずにあちこちで鈍い音がしている。もしかしたら種を飲む期限というものがあるのかもしれない。三蔵はようやくそのことに思い当たった。
 そうと気付けばのんびりもしていられないのだ。右往左往する坊主どもを押し退け、人の縋る声を無視し、三蔵は真っ直ぐに己の執務室に直行した。
 とにかく片っ端から引き出しをひっくり返す。
 いろんなものが床にばら撒かれた。書類や帳簿の類はもちろん、筆記具や墨、数珠、経文、悟空の落書き用に溜め込んでいた紙やら、クレヨンやら、銃弾の詰まった箱までもを、次から次へと取り出し調べ、打ちやっていく。そこにあるもの全てが、もはや三蔵には意味のないものばかりだった。
 そしてとうとう見つけた。
 普段は全く使わない引き出しの奥に、それはこっそりと隠されていた。
 三蔵に飲ませるつもりのないものであれば、悟空はこれを捨ててしまえば良かったのだ。わざわざ八戒や悟浄に隠し場所を教える必要も、三蔵に本物の金色の種を見せて形を覚えさせる必要もなかっただろう。
「これも計画のうちだったのか……?」
 お前いつから頭使うようになったんだ。少しだけ笑って、それから深い溜め息をついた。
 もう何もかも――これ以上もなく満足だった。
 おしまいの日。赤と青ばかりの光の中で、ひとつだけ金色の花が空に咲いた。
 
 
 
 アナタハ私ノスベテデシタ。
 血デアリ、肉デアリ、唯一ノ幸福ノ源デシタ。