引き換えにするなら君の願い

 またひとつ、悟空の放った小枝が赤い炎に消えた。
 その夜、闇を照らす松明代わりに組んだ、焚き火の傍にいなかったのは、三蔵だけだった。
 とは言え夜の単独行動がどれだけ危険なものかは、追われる旅を続けていれば、嫌でも知れる。焚き火のすぐ脇にいなかっただけで、三蔵はしっかりその明かりの届く範囲内にはいたし、梟や虫の鳴き声しか聞こえない森の中では、焚き火を取り囲んでいる他三人の声も、耳を澄まさずとも聞こえてきてはいた。
 普段なら当然三蔵も会話に参加している時間だ。ただ、その夜に限っては、人と話すこと自体が憂鬱だった。
 それで、彼らと少し距離をとった場所で、大木の根元を背もたれに、残りの弾薬の数を数えているふりをしていた。正しく、ふりだけだ。実際、弾薬の数などどうでも良かった。
 八戒や悟浄は三蔵のそうした様子を知っていたのか、今夜の話題はもっぱら三蔵関連のことである。
 おかげで悟空はいつもより口数が少ない。己で口を挟むより聞きたがっている様子だった。聞かれたがっていると見るや、八戒と悟浄も悪乗りする。彼らにしてみれば、聞こえていても口を出さない三蔵の姿が珍しかったのだろう。
「――だからさー、一度でもあのボーズと話した奴なら、絶対信じらんねーと思うわけ。あいつのどこ食えば不老不死になれる気がするよ。つーか、どっこもご利益なさそーじゃねーか」
「もしかしていちいち戦うより、一時間くらいあの人の付き人してもらって、それを仲間の妖怪たちに広めてもらった方が効果的かもしれませんね」
「あ、それ賛成。絶対人格割れんぞ、奴の。敵さんも幻想に気付くんじゃねぇ?」
「神々しくはないですもんねぇ……ある意味衝撃ですけど」
「煙草吸うわ、拳銃打つわ、ハリセンで殴るわ、賭け事やるわ、数珠持ってねーわ、念仏唱えねーわ……」
「お坊さんのイメージはないですよねぇ」
 彼らの言葉の合間に悟空の笑う声が聞こえる。言い放題な会話はまだ続く。
「大体、だーれが言い出したんだか。元々、なんだ、三蔵法師を食うと死ななくなるっつーのがホントなの?」
「さぁ? 僕もつい数年前まで人間でしたし、妖怪間の噂にはそんなに詳しくないですよ。でも、生き血を飲むと妖力が増えるっていうのは聞いたことがあるような、ないような……」
「血ぃ? うわ、すっげぇマズそう」
「煙草吸う人ですからねぇ」
「ますますご利益なさそうだな。あとよー、なんか特別な願いがかなうっつーのもわりとポピュラーな噂だった気がすんぜ? あれも血だったかな?」
「三蔵の血で願いがかなうんなら、そのへんのやぶ蚊はみーんなシアワセになれますね」
「やぶ蚊シアワセにしてどーするよ。人間になんのか? 巨大化すんのか?」
「さぁ?」
「それに、ご利益っつー点だったら――」
 笑いながら、悟浄がたった今思いついたように声をひそめたのは、その時だった。
「このチビザルの方がまだ信憑性ある気がスル」
 ふと、八戒も笑うのをやめて、悟浄が指差した方を見た。注目を受けた悟空は、目を丸くしてそうする二人を見比べる。
 三蔵までもが知らずそちらを向いていた。彼ら三人は、まだ三蔵の視線に気付いてはいない。
「……え? え? なに?」
 悟空が困り顔でまばたきする。
 悟浄はまじまじとその顔を眺め、コホン、と、わざとらしい咳払いをした。
「あー、悟空くん」
「えっ……」
「イヤイヤ、そのままフツーに答えてくれていいよ。別に怖い質問じゃないからね?」
「えっ、ちょっ……気持ち悪い言い方してんなよ……悟浄っ?」
「イヤイヤ、ね? 質問はふたつだ。いっこは、キミ、斎天大聖って言われてるんだってね? それってナニかな、神様の仲間ってこと?」
「し、知るかよっ! 大体、俺、昔のこと覚えてねーし……っ」
「ということは、昔は妖怪とはっきり区分されてたわけではなかったかもしれないってことですよね」
 八戒までもが真面目な顔で続けた。悟空はますます慌てだす。
「コラー! なんで八戒まで一緒になってそんなこと!」
「イヤイヤ、ここが肝心。悟空くん、もういっこ質問」
「ヤダよ! 俺なんにも知らないからな!」
「まぁまぁ、そういわずに、ネ? キミ、金錮はずしたらどれくらい力あんの? 超能力とか持ってる?」
 知らないったら知らない!、悟空が悟浄を蹴り飛ばす様子が見えた。それでも悟浄は何かと悟空に質問を繰り出している。八戒も興味深そうに眼前のやり取りを眺めている。
 離れた場所の三蔵には、何か、じり、と、得体の知れない感情が込み上がってきていた。己の話など、いくら下世話に話されようが何ともなかったというのに、悟空が中心になるとそうではなくなる。しかも、単なる嫉妬や独占欲が原因の、感情の揺らぎではなかった。
 漠然と胸に広がるそれは――多分、不安と名のつくもの。
「な、もしかして今までに誰かに狙われたことねぇ? どっかのクソボーズみたいにさ、お前の生き血よこせーとか」
「ないよ! もーいーかげんにしろよ!」
「忘れてるだけかもしれませんよ?」
「もー八戒まで……やめろってば」
「でもなぁ?」
「ですよねぇ。僕も、三蔵より悟空の方が信憑性ある気がします」
 これ以上黙って聞いていられなかった。八戒の言葉を最後に三蔵は立ち上がり、彼らの元へ歩く。まだ三人とも話に夢中でこちらの様子まで気付いていない。
「なぁ。ちょっと、血くれねぇ?」
 悟浄が本気か冗談かわからぬ声で言った。
 悟空が更に慌てて目を逸らし、ちょうど映った先の小枝を、場つなぎ的に焚き火の中に投げ込もうとして、
「イタっ……!」
 枝の端で指の皮膚を切った。悟浄がおもしろがって手を伸ばす。思わぬ展開にあっさりと捕まった、血の滲んだ指先を、そうされた本人が取り戻そうと、もがくよりも早く――
 悟浄のこめかみに銃口を突きつけ、三蔵はわざと派手に音を立てて、拳銃の安全装置を外すのだ。
「……サルから手を放せ」
 我ながら本気で殺意のにじんだ声だと思った。
 もちろん悟浄の手は即座に退いた。八戒が引きつった笑顔で振り返る。
 悟空が安心した様子でこちらを見た。しかし三蔵は、彼と視線が合う前に目を逸らしてしまっていた。
 見なくとも、たちどころに訝しげな色が、悟空の表情に混ざるのを感じる。けれども、どうしても今は、己の目の奥を彼に覗かせる気にはなれなかった。悟空と一緒に過ごした年月は伊達ではない。彼は三蔵の心の機微を充分に知っていたし、おそらく目を合わせてしまったら、こちらの胸にある感情が、怒りではなく不安なのだと悟られてしまったことだろう。
 知られたくはなかった。
 仲間の冗談を冗談として受け入れられないほど、それが真実に一番の不安だったことを。
 悟浄が退いたと同時に三蔵も銃を退く。それでも、そのまま悟空を彼らの傍に置いておくことが嫌で、川辺に行くからついて来いと、適当な口実をつけて立ち上がらせた。
「……ちぇ。過保護」
 連れ出す背中に、聞こえよがしにぼやかれる。
 多分そう言う悟浄や八戒は三蔵のことを誤解している。三蔵が今守ったのは、悟空自身ではなかった。
 
 星明りを頼りに森の中を歩いた。
 夜というのは、案外闇が薄い。目すら慣らしてしまえば意外に歩けるもので、三蔵も悟空も、昼間一度だけ向かった川原への道を、迷うことなく辿ることができた。
 しかも水辺まで来ると、飛び交う蛍のせいで一面がぼんやり明るい。
 川原へ着くなり、三蔵が特にすることもなく煙草に火をつけるのを見るや、悟空は靴を脱ぎ、浅瀬の中を歩き出した。
「気持ちいー……昼より水が冷たいよ、三蔵もはいれば?」
 返事はしなかった。彼の周りで、蛍が絡むように浮遊するのをぼんやり見ていた。
 悟空はこちらを振り向かぬまま、ゆっくりと言葉を続ける。
「……さっき、悟浄たちが話してたこと、聞いてたよね」
 ばしゃばしゃと彼の足元で水音が跳ねる。
「俺の血なんて全然ゴリヤクなさそーなのに……二人して変だ」
「そうでもねぇさ」
 彼は答えが返ってきたことに驚いたような顔をした。三蔵はまた目が合う前に視線を逸らす。
「少なくとも俺の血よりはましだろう」
「……三蔵までそんなこと言う」
「違うのか」
「違うよ。そんなのにゴリヤクあるんだったら、さっさと三蔵にあげてたもん」
 不意打ちだった。
 思わず目を上げたこちらに、今度こそ逸らさせないと、しっかり視線を重ねた悟空は、そうしたまま小さく笑ってみせた。
「ほんとにいくらでもあげたよ、三蔵になら。なにか力、あれば良かったね……?」
 いらねぇよ、返した己の声は奇妙に掠れた。きっと悟空はそれで気が付いた。再びこちらに合わせた瞳は、少しだけ悲しがるように揺れていた気がする。
「……ためしてみる?」
「――――」
「俺は、ないと思うけど……三蔵があると思うんなら、もしかしたら」
 願いのひとつくらい、かなうかもしれない。
 笑う彼の顔から咄嗟に目を逸らした。短くなった煙草を捨て、変に緊張した己を叱咤する。
「願いなんかねぇよ。話は終わりだ、そろそろ帰るぞ」
「……うん……」
 のろのろと岸に上がる彼。靴を両手に持って、裸足のまま、途方に暮れた顔で立ち尽くす。
 決してそんな顔をさせるつもりじゃなかった。確かにさっきの三蔵の言葉は嘘だ、願いはある。もうずっと、何とかそうなる手段はないかと探している願いだ。ただし、それは悟空が隣にいなければ成り立たないものであったし、そのために悟空の望まぬことを強要するつもりはないのだ。
 いつまでも動かない彼に手を差し延べる。
「……帰るんだろ?」
 途端にすがり付くように絡む指がせつなかった。思えば、己はいつでも彼に結局そういう素振りをさせてしまう気がした。
 願いは至極簡単なものであったのに。
 
 ただ――ただ。
 
 
 
 
 翌朝は、目が覚めるや否や、新手の襲撃を受けた。
 四人、朝日の眩い森の中で、散り散りになって、それぞれに凶暴化した妖怪たち相手に立ち回る。
 敵が口々に叫ぶことを聞いていると、どうやら目的は魔天経文ではなく、三蔵法師の血肉の方であるらしい。どちらにせよ、戦うことに躊躇いはなかった。悟浄の鎖鎌が木立を倒す音が、ずいぶん西の方で聞こえていた。八戒の気孔術の気配は東だ。悟空は――もっと南の方角。
 三蔵は迫ってくる敵をいち早く射撃し、それ以上動けぬようにしながら南へ向かった。
 しばらく進むと、悟空と戦ったらしい妖怪が地に転がっている辺りに来た。それを辿って、更に深くなる森を行く。どこかから水音が聞こえてくる。昨夜の川原の位置から言うと、この付近は上流になるはずだった。
「――だから!」
 突然耳に飛び込んだ声に、三蔵は足を止める。
「三蔵につきまとうなって言ってるだろ!」
 彼が今争っている妖怪は、いつになく饒舌なタイプらしい。
「なぜ? お前だって力を得たいと思うだろう? 方法があればためそうと思うのは当たり前じゃないか」
 敵らしき、子供に言い聞かすように悟す声。あまり悟空の得意な相手ではなさそうだった。三蔵は再び足を速めた。
「三蔵には触らせない!」
「なぜ? お前もあの坊主を狙っているのか?」
「違う! 三蔵のこと、そんなふうに言うな!」
「わからない子供だ……狙っているわけではないのなら、俺の願いがかなう邪魔をしないでもらおう」
「するに決まってるだろ!」
 木立の葉を激しく揺するような音が聞こえてくる。もう近くだった。
「不老不死……妖力の増強……祈願成就……いろんな薬効があるらしい。ずっと傍にいたのなら、お前もためしてみれば良かっただろうに」
 笑う敵の姿が、ようやく視界に入った。
 どこにでもいるような目立たぬ妖怪だ。小さなナイフを片手にしており、それ以外に武器は見えない。なのに、なぜだか悟空は接近戦を許していた。力の差は歴然としている、本来なら悟空が戸惑うような敵ではなかったはずだった。
 不思議に思いながらも、三蔵はこちらに気付きもせぬ妖怪に銃口を向ける。
 が――
「さっきお前も願いならあると言ったじゃないか」
 その言葉に、引き金を引く手が一瞬止まった。
「どうだ、俺と手を組まないか?」
 それでも次の瞬間には撃っていた。軽い発砲音に続いて、鉛の弾が妖怪のこめかみに命中する。
 敵の身体はそのまま脆く崩れ去った。一人だけその場に残った悟空が、こちらを振り返る。
「……三蔵」
 少し震えたような声だった。
 ああ、あまり聞かれたくない会話だったのだと、三蔵は頭の隅で考えながら彼に近づく。
 今、悟空の足元には、一振りのナイフが落ちていた。元々敵が手にしていたものだ、即効性の毒などが塗られていてもおかしくはなかったが、三蔵がそれに目を留めたのは全く別の理由からのことだった。
 もうどこからも敵の足音は聞こえてこない――悟浄と八戒は合流を果たしただろうか。
 ナイフを拾い上げる。
「……何かかなえたい願いがあるのか?」
 三蔵はその刃先に視線を落としたまま訊いた。悟空が息を飲んだのがわかった。
 隠し事に向かない相手だ。答えなくとも、彼の様子は問いを肯定していた。
 己の身体に流れる血は、浴びる者を汚しこそすれ、おそらく特別な力など微塵もないに違いない。知っていて三蔵は口を開く。
「――ためしてみろ」
 例えば特別な力はなくとも。悟空が望むのなら、いくらでも与えてやれると思った。
 拾い上げたナイフで、そのまま己の右腕に斬りつける。即座に向かいから上げる悲鳴を無視して、血の噴き出した腕に唇をつけ、ぬるい血液を吸い上げた。
 そうして三蔵に取りすがろうと近寄った悟空の顎を掴み、噛み付く勢いで唇を合わせる。
「さ、ん……っ、や……っ!」
 拒もうとするものを無理やりこじ開けた。
 彼の甘いような口腔の粘膜に、苦い体液を擦りつける。
「ぅ、ん……やぁ……っ」
 鉄の味がしなくなるまで舌を絡ませ、再び血を含み口付けた。そんなことを何度繰り返していただろう。最初必死に抵抗していた悟空は、最後には、血で濡れたこちらの法衣をただ握り締めるだけになっていた。
 合わせた唇の端に、ふと塩の味が混じって、三蔵はようやく目を上げる。
 悟空は泣いていた。にもかかわらず、涙をいっぱいに溜めた大きな瞳は、きつく三蔵をねめつけ、そして。
「バカっ!」
 ――確かに。
 瞬間、それこそ馬鹿のようにあっさり力が抜ける。
 もちろん即座に三蔵の腕から抜け出した彼は、まず濡れた眦と口許を拭い、次に己のマントを背中から引き外し、今も血が滴るばかりのこちらの腕を、布できつく縛り上げる。
「ここで待ってて。俺、八戒探してくるから!」
 今にも走っていってしまいそうな彼を、寸前で掴み止めた。
 このまま行かせてしまってはいけない気がしたからそうした。別にいじめて泣かせたいわけでもなかったのだから。
 しかし、三蔵が強引に正面から目を突き合わせると、怒っていたはずの悟空の表情は、弱く歪んでしまう。
「……こんなんで……っ!」
 
「こんなんで人間になれても、ちっとも嬉しくない……っ!」
 
 叫ぶなり、彼は三蔵の手を振り切って駆け出してしまった。今度は三蔵も止められなかった。
 泣きながらここにいろと言われたからには動くこともできず、しばらくその場に突っ立っていたが、さすがに血を流しすぎたせいで立眩みを覚え、腰を落とす。
 何だかひどく甘いような苦いような、何とも言えない気分だった。
 「ためしてみるか」と訊いたのは、悟空の方が先だったではないか。三蔵は、昨夜止めなければ同じことをしていただろう彼を真似たに過ぎない。
 どこの誰とも知れぬ妖怪のために死んでやるほどやさしくはない。けれども、元々何の役にも立ってはいない命なら、彼の願いひとつと引き換えにしても良かったのに。
「……人間になってどうするつもりだ?」
 ここにはいない彼に問う。
 何の力もなく、死んでも醜く屍の残る存在に、きっとただ三蔵と同じという理由だけで、なりたいと言った馬鹿な子供。
 いつか三蔵が己の願いを告白したら、一体どんな顔をするのだろう。
「妖怪になりてぇ……」
 ただ、同じでいたい。願いはひとつだけ。