ネジ巻き仕掛けのココロ

 おやつ後の後片付けで、八戒のいるキッチンまで食器を運んでいる途中、足元にあった紙箱につまづいた。蹴った先では思った以上にガチャンと派手な音がして、悟空は汚れた皿を両手で支えたまま、慌ててその場に座り込む。
 紙箱に蓋はついてはいなかった。元々紙箱自体は菓子でも入っていたらしい華奢なものだ。ただし中身は菓子ではなく――おもちゃのような、宝石箱のような、とにかく木製の箱状のものと、何だかわからないネジやら部品やら工具やらが一緒くたになっていた。何も知らない悟空が見ても、そのネジやら部品やらは、何かの内部に収まっているべきものだとわかるのだ。つまりは、同じ紙箱に入っている木製のものの部品に違いなく。
 壊した、かもしれない。悟空は一瞬で青ざめた。
「八戒、ごめんっ!」
 とにかくキッチンに駆け込んだ。水仕事最中の八戒が、そうした悟空をのんびり振り返る。
「どうかしましたか?」
「なんか、あっちにある紙の箱の中の……っ」
「置時計ですか?」
「と、時計? あれ、時計なのか?」
 確かに四角くてそれっぽいような形はしていたかもしれないが、あれだけ中身が飛び出てしまっていては、時計の役目を果たすことなどないだろう。更に慌てて言葉もない悟空に、一体どこから事情を察したのか、彼はゆっくりと微笑んだ。
「ああ……いいんですよ、あれ、元から壊れてるんです」
「そ……そっか、良かった……あ、良くないのか。でも俺が壊したのかと思ったから」
 悟空の持ってきた皿を受け取り、早速泡立ったスポンジで1枚ずつ洗いながら、八戒は何でもないことのように告げる。
「壊したのは僕です、もうずいぶん昔のことですけど。本当はね、あれ、僕の姉のものなんですよ」
 さすがに何と相槌を打てばいいのかわからなかった。実は悟空はあまり八戒の事情を知らない。それでも、彼の姉が既に他界していることは聞いていたし、彼女のために百眼魔王の千の妖怪兵と戦ったことも聞いていた。壊れた置時計は、要するに、八戒にとって大切な形見というわけである。
「この前から悟浄が直そうと頑張ってくれてたんですけど、何しろ古い時計ですから。専門の職人さんにでも見せるしかないらしくって」
「……そ、そっか」
「ハイ。それでですね、本当は直ってから言おうと思ってたんですけど」
 悟空が彼を見上げると、彼は横顔で不自然なくらいに穏やかに笑って、
「良ければもらってくれませんか?」
「へ?」
「どうもね、あれが視界にあると僕、機嫌が悪くなるそうなので」
 それを指摘したのは、例によって例の如く、同居人の悟浄だったらしい。
 壊れている時計であるから、もうほとんど置物と化して、近頃ではただ食器棚の片隅に並べられていたものだったのだ。それでも、ある日、悟浄は八戒の微妙な雰囲気を読み取り、最初はこっそり別の場所に移動させたり、食器の配置を変えたりして小細工したらしい。けれど視界になければないで、八戒もまた余計に意識を奪われることになる。いっそのこと修理して普通に使ったらどうかと、悟浄がおせっかいを焼きだしたのが一週間ほど前のこと。意外と手先の器用な彼ではあったが、いかんせん、置時計は手巻き式の古い型のものだった。破損した細かな部品が素人にどうにかできるはずもなく、昨夜になってようやく修理を諦めたそうだった。
「三蔵のいる寺院に、出身が時計職人のお坊さんがいると聞いたことがあります。今日悟空が来たら、これをその人に見せてもらえるよう頼もうと思ってたんですよ」
「そうなのか……? 時計職人の坊主? どいつだろ?」
「僕も三蔵から聞いた口ですから、あんまり詳しくは知りません。でも、今は宝物庫の管理をされてるとか」
 それを聞いて、坊主にしてはいかつい顔をした男を思い出す。揃って青瓢箪だらけの坊主連中の中、その男だけは目立って大柄で、筋肉質な体型をしていた。
 男が元時計職人だったとは知らなかった。僧侶になるべく幼少の時分から寺院に入る者も多いが、反対に、ある程度人生経験を積んだ者が、突然出家して仏道を志すことも多い。件の坊主は後者だったらしい。
 悟空が意外な話に感心している横で、八戒は問題発言を繰り返す。
「もしも動き出したとしても……また叩き壊してしまいそうで」
「へ?」
「きっと中の部品を交換しないままではいられないと思うんですよ。でも、せっかく直ったのに壊してしまうのは勿体ないですからね。悟空にもらってもらえると、悟浄も時計も助かります」
 部品を交換するとどうして壊したくなるのか疑問だったが、悟空は何とも言い出せないままだった。しかも彼曰くの「助かる」中に、八戒自身が含まれていないことが、また胡散臭い。
「そういうことで、修理お願いしますね」
 最後まで笑って言った彼の視線は、とうとうこちらからは全く逸れたままだった。
 多分、悟浄の言う機嫌が悪いとは、こんなふうなことなのだろう。納得した悟空は、八戒が押し付けるままに、半分解体済みの置時計の入った紙箱を受け取ることになったのだった。
 
 
 寺院に帰って、早速三蔵のいる執務室前まで辿り着いた悟空だったが、中から漏れてきた声に思わず足を止める。
「――で、ですが……」
 ひどくうろたえた誰かが縋る声。そして。
「いいかげんにしろ」
 三蔵の、抑えてはいるが、あからさまに怒りの滲んだ、一切合財を切り捨てるような声。
 さすがに部屋に踏み込むのを躊躇した。執務室のドアは半開きのままで、中の様子も苦労せず窺える。年若い坊主が二人、三蔵の机の前で立ちすくんでいた。三蔵は彼ら二人をちらと見ることもなく、何かの書類に視線を落としたまま、ひどく冷たい声で重ねて言うのだ。
「もう一度言う、二度とこの件で俺を煩わせるな」
 まずい場面にでくわしたようだった。
 言葉をなくした坊主たちはすぐに部屋から出てきた。彼らは、ドアの前にいた悟空を見ても、いつものように不躾な視線を投げる余裕すら持ってはおらず、意気消沈した様子で廊下を歩いていく。
 彼らの後姿をしばらく見送って、けれども結局、悟空は間を置かずに執務室へ足を踏み入れた。三蔵は既に気配だけで悟空がいることに気付いていたようで、ノックをしろと一言釘を刺すこともない。ただ――小言もない代わりに、悟空相手にですら視線を上げぬままだった。
 相当機嫌が悪そうだ。
 何だか今日は機嫌の悪い相手と対峙することが多い。直接原因に関わっているわけではないので、どうにも蚊帳の外に置かれている感じである。八戒の時はそれでも気にせずにいれたが、相手が三蔵となると事情も変わってきた。たとえ自分に全く関係のない事柄でも話してほしいと思うのは、決して彼に対する甘えではない……と、思いたい。
「三蔵」
 ひとまず名前を呼んでみる。答えが返ってこないのも予想済みだ。悟空は彼の相槌を待つことなく言葉を続けた。
「これ、八戒から頼まれたんだけど」
 言えば本当にお情け程度に流れてくる視線。やっぱり悟空を掠めることなく、差し出した紙箱のみさらうと、あっと言う間に逸れていく。
「……悟浄から聞いている。少し待ってろ」
 ようやく返った答えも低いものだった。三蔵は手元にあった書類のいくつかを整理し、不意に投げ出すと立ち上がって、悟空がついて行くよりも先に部屋を出ていってしまう。
 多分一緒に行けばいいのだと判断した。一瞬迷った悟空は、慌てて彼の後を追った。
 長い回廊を渡り廊下に向かって歩く。宝物庫は、寺院の建物からは全く独立した造りになっていて、本堂と母屋をつなぐ渡り廊下から、同じく延びた小道を通って、一旦建物の外に出なければならなかった。外観はほとんど土蔵に近い。高床式になっており、入り口の扉までは数段の階段が設けてある。
 三蔵の後ろからその土蔵に向かいながら、悟空は相変らずこちらを振り返らない彼の背中を見ている。
 彼の心がここにないのは明らかだった。一体何の問題が起こったのか知らないが、口では煩わせるなと言いながら、三蔵はまだそのことで頭を一杯にしているらしい。
 悟空はつい溜め息をつく。きっと今話しかけてもろくな返事は返ってこないに違いない。
 しかし、何気に振り返った先で、件の元時計職人の坊主を見つけたからには、そうも言っていられない展開になってしまった。もう宝物庫の階段を二段ほどのぼり終えた後だった。渡り廊下を本堂の方へ、見間違えようもない大柄の男が歩いていく。つまりは、このまま宝物庫へ入っても、こちらの用件は果たせぬことになる。
「三蔵」
 無駄になるような気もしたが、一応呼びかけてみた。やっぱり三蔵はこちらを向かない。と言うか、耳にすら入ってはいないように見えた。彼はもう半分扉に手をかけているような状態で、機械的に先へと進もうとしているふうにしか見えなかった。
「三蔵」
 それで仕方なく――こんな時の三蔵は本当に触られるのを嫌がるとも知ってはいたのだが――悟空は、時計の入った紙箱を片腕で支え、もう片方の手で彼の肩を叩いたのだった。
 途端、予想通りに容赦なく跳ね除けられ、はずみでバランスを崩してしまう。
 それでも、もしも両手が空いていたのなら、階段上に踏みとどまることは可能だっただろう。ところが、今は荷物を抱えている。しかも落とせば壊れるとわかっている荷物だ。結果、悟空に重力に抵抗する術はなく、墜落することを覚悟した。
 と、瞬間、こちらを振り返った三蔵の目が、驚いたように瞠られた。
 今にも頭から階段下に転げそうになっていた悟空は、寸でのところで強い腕に抱きとめられる。
 宙に浮いたような不安定な体勢で見上げた彼の瞳が、まるで、今初めて相手が悟空だったことに気付いたように動揺していた。
「――早く掴まれ、落ちる」
 そう言われても、紙箱を両手で支えている状態なのでどうにもならない。その紙箱ですら斜めになっていて、中から小さなネジらしきものが二つ、階段の上を転がり落ちていった。
 三蔵が小さく舌打ちした。ゆっくりと両腕を悟空の背中まで回し、いくらかの時間をかけて、身体ごと丁重に抱き上げてくれる。
「びっくりした……」
 悟空がほっとして言うと、彼は小さく悪かったと呟いた。彼が人に頭を下げるのは稀だ。実際、悟空以外の誰かにそうしたところを見たことがない。
 特別待遇は単純に嬉しかった。助け起こされながらも自然と笑みがこぼれて、気付いた三蔵は、更にばつの悪そうな顔をする。
「ケガはないな」
「うん」
 どうにか立ち上がって、改めて彼を見上げた。
 三蔵は、ようやく悟空を真っ直ぐに見てくれるようになっている。
「……もう平気?」
 さっきまで彼が煩わされていたことについての問いだ。訊かれた彼は少しだけ顔をしかめ、溜め息と一緒に言葉を吐き出す。
「坊主と性が合わないのは、今に始まったことじゃねぇ」
「そだね」
「腹は立つが、仕方ねぇことがあるのもわかってる」
「ん」
 悟空の相槌を聞き、ふうっと、再び肩の力を抜くような溜め息をついた三蔵は、ずいぶんと穏やかになった表情でこちらを見やった。
「それで? 何で呼び止めたんだ?」
「あ。時計直してくれるやつ、あっちに歩いて行ったって言おうと思ったんだ」
 本堂の方を指させば、三蔵はそうかとだけ答え、すぐに足元に視線を落とした。
「確か――ネジが出ていかなかったか?」
「出てった。二個どっか行った」
「精密機械の部品は交換がきかない。探すぞ」
 そうして二人、しばらくは無言のまま、階段の隅から隅を小さなネジを探して歩き回った。時間をかけてそうしたにも関わらず、発見できたのはひとつだけだ。もうひとつは地面のどこかに落ちてしまったらしく、砂に紛れたか、あるいは何かの物陰に隠れてしまったのか、簡単に目をやった程度では見つかりそうにない。
 とうとう階段に腰を下ろした三蔵が、また疲れたような息をつく。
 悟空は苦笑いした。
「ネジ一個くらいどうにかなるかな」
「……ならねぇよ」
「そうなの? でもこれ、実は八戒にもらったんだ」
「もらった?」
「うん。部品交換なしだともう動かないだろうって。でも動いても叩き壊しそうだから、もらってくれって言われた」
 三蔵は膝に頬杖をついてふうんと鼻を鳴らす。彼の様子は、八戒の言い様を不思議に思った雰囲気ではなかった。悟空にはそのことこそが不思議で、何となく言葉を切ってしまったら、今度は反対に彼から不審げな視線が流れてくる。
「……何だ?」
「だって。せっかく動くのに壊すって、変だと思わねーの?」
「別に」
 納得がいかずに首をかしげれば、しょうがないと言わんばかりの声音が説明を付け足す。
「部品交換して動き出したとして、その時計は元の時計じゃねぇ。やつは、同じ時計でないのなら必要がないと言ってるんだ」
「でも、外は変わんないのに」
 言うと、再び大きな溜め息が返ってくる。
「たとえば俺がお前のことを忘れる」
「えっ」
「外は一緒でも中が変わる。お前はそれでもいいか」
「……それは……だって……すごくヤかも」
「そういうことだ」
 三蔵は取るに足らないことのように言うが、想像した悟空はひどく胸の痛むような思いをした。ようやく八戒の言った意味がわかった。あの時計は、八戒にとって彼の姉でもあったのだろう。彼女が他界している以上動かないことが当然で、動いてしまったら、その瞬間に彼女と時計は別物になってしまう。部品が変わればイミテーションですらない。
「……そっか」
「やつがくれると言うならもらっとけ。今時手巻きの時計なんざ貴重品だ」
「そうなんだ?」
「まぁ……もしかしたら、電動にするしか動かす方法はないかもしれんが」
 悟空は悲しくなって紙箱の中の時計を見た。分解されて部品がいくつも飛び出てしまっている様が、ひどくかわいそうに思えた。
「……俺だったら、三蔵がいればずっと動けるのに」
 ふとこちらの口を突いた言葉に、当の本人が驚いた様子で目を上げる。
 彼だって先ほど自分を時計と同列に並べたくせに、悟空の言い方に慌てているのがおかしかった。悟空は笑って続けた。
「どっか部品曲がっても、ネジがなくなっても絶対ヘーキ。三蔵の電池切れたら分けてあげてもいいくらい、全然ヘーキ」
 三蔵はそれきり長く何も言わなかった。階段に腰掛けたまま、ネジを探して地面にひざまずく悟空を、時々見ては迷うように目を逸らした。それでも、何度目かの視線が悟空を捕らえた時だ。
「悟空」
 呼ばれてそちらを向くと、彼の隣を指さされる。悟空が素直に座れば、すかさず向き直った背中からどかりと寄り掛かられた。綺麗な金色の髪が悟空の胸元で揺れる。
「……充電させろ」
 この体勢ですら居丈高に言う声に笑う。どんなふうにと悟空が尋ねると、励ませ、と、また簡潔で尊大な答えが返ってきた。
「仕事大変だね」
「全くだ」
「早く終わるといいね」
「ああ」
「終わったらきっといいことあるよ」
「そうか?」
「そうだよ。えっと、それから――」
「それから?」
「それから……」
 少しの間言葉を探した末、悟空はそろりと彼の肩に両腕を回した。
「――三蔵、えらい」
「……あ?」
「すごい、かっこいい、キレイ、頭いい、真面目、仕事できる、面倒見いい、強い、正しい、ちょっとやさしい」
 胸元で苦笑う気配がある。
「でも短気、面倒くさがり、時々投げやり、あとハリセン痛いよ」
「褒めてねぇよ」
「褒めてないよ? 励ましてんだもん」
 くくっと笑う彼。嬉しくなった悟空は、こっそり彼の髪にキスをする。それから。
「……すごくスキ。早く元気になろう?」
 
 充電完了。
 
「……ネジ探すか」
 身を起こした三蔵が言う。悟空も立ち上がった。
 簡単には見つかりそうもないが、替えがきかないのであれば仕方ない。部品交換は少ないに越したことはないし、時計の有様に同情してしまった悟空としても、できれば以前と同じ状態で動いてほしいと思った。
 こうしてたったひとつのネジを探し始めて数十分、最後にはそこを通りかかった坊主数人を付き合わせての大捜索になった。
 ネジは宝物庫脇の植え込みの陰で発見された。
 その後、修繕された時計は、手巻き式のまま、今は悟空の寝台の枕元に置いてある。