早朝デート

 冬の夜明けは遅い。
 早朝と呼ぶべき時間でも天には星が輝いている。特に今朝は冷え込んで、空は暗く群青の色濃く、星は氷の欠片のようだった。きんと尖った空気は、呼吸のたびに鼻や喉を痛ませる。
 しっかり着込んできたのに寒い。
 黒子は白い息を吐き出し、携帯電話で時刻を確かめる。
 午前五時十五分。
 約束した時間よりだいぶん早かった。けれど、何となく予感はしていた。昨夜の電話で、黒子が指定した時刻を復唱した彼は、何を言うわけでもなくただ「わかった」と言った。
 本当は、家を出る寸前まで眠っていたい質だろうに ── 時々黒子の言葉にしない願いをあっさり叶えてしまうのが、青峰という男なのだ。
 駅の改札口横、自動販売機の前。
 他より明るいそこに、分厚いマフラーをぐるぐる巻きにした、長身の立ち姿が見えた。
「……青峰くん」
 まだ駅は無人で通りを行き来する人もなく、声は良く響いた。
 青峰はすぐに黒子に気づき、空気を白く染めながら「はよ」と目許を和ませる。
 ダウンジャケットに制服の上着、内にはカーディガン。両手はポケットの中。完全防備の青峰。それでも、マフラーからのぞく耳が寒そうで、黒子は少し胸が苦しくなる。
 朝に強い人じゃない。なのに寒空の下、約束の時間よりも早くから待っていてくれた。
 黒子は青峰に駆け寄る。
 止まるか迷ったのは一瞬だった。結局ぶつかるみたいに頑丈な体に体当たりして、さすがにちょっと恥ずかしい気持ちが勝って顔は伏せたが、最初からゼロセンチの距離で「おはようございます」と呟いた。
「今日寒いな」
「寒いですね」
「午後から雪らしいぜ」
「ほんとですか。寒いはずです」
 お互いにポケットから手も出さずに会話した。体が密着しているぶん、声はいつもより小さくてすんだ。
「……ありがとうございます」
「なに」
「こんな、朝早くから」
「あー……つかまだ夜だよな、これ」
「そうですね。星もキレイです」
「ん、キレイ。だから、ありがとーとかいらねーわ」
「そうですか?」
「ん。それに、俺、今日会えなかったら、夜中にお前んち行ってたかもしんねーし」
「寝てますよ、僕」
「な。だから俺も良かったって話だろ」
 お互いが厚着しているせいでひっついていてもあまり温度は感じない。むしろ、青峰のダウンジャケットの表面は冷たい。けれど、ふわふわする感触は気持ち良くて、黒子が頬で押しても青峰は何も言わないし、近い距離で話すせいで、二人分の白い呼気が混じり合うのもおもしろかった。
 それでも、もうすぐ始発も出る。駅に人が集まる時間である。
 黒子が彼から離れるタイミングを考え始めた頃、青峰がポケットから左手を出して、黒子の背にゆるく回した。
 ああ、これでもう「仕方ない」 ──
 黒子は早速悩むのをやめる。青峰の肩に大人しく頭をつけて、はぁっと安堵の溜め息をつく。
 昨夜の電話で、またも二人の予定が合わないことがわかった。お付き合い、というものを始めて一ヶ月、なかなか会えずじまいだったから、余計に会うために躍起になってしまった。あと一週間待てば、というところまでは我慢したが、結局そこが限界になった。
「朝なら時間ありますか」
 一週間待つのが嫌で、言い出したのは黒子の方だ。
 次に、どこで待ち合わせするかという話になって、コンビニや駅前のマジバなど、比較的暖かな場所を除外したのは青峰である。
「どう頑張ったって二人きりになれねーし」
 青峰がそんなことを言うのは、実は中学の頃からあまり変わっていない。そして、時を経て、二人がこっそりキスを交わしたり、手をつなぎ合ったりするようになった現在では、ますます顕著になりつつある。
 二人きりになるまでは饒舌なくせに、二人きりになった途端、何となく黙りがちになるのも、いつものこと。黒子は言い慣れた台詞を今日も繰り返す。
「……何かしゃべってください」
「んー……」
「青峰くん」
「ん」
 額をぐりぐりと押しつけて訴えると、軽く腕に力を込めて応えてくる。彼との会話は、わりにボディランゲージが多い気がする。
「せっかく会えたのに、黙ってたらもったいないじゃないですか」
「おー。けど、なんかさ……」
「はい」
「こーしてるだけでいろんなもん伝わってるよーな……」
 結局もう片方の手もポケットから出して黒子を抱きしめる。青峰の言葉に、黒子はちょっとときめいた。
 ほんと、常から知っていたことだけれども。
「君って時々急にかわいいです……」
 思いが余ってぎゅうっと抱きついてしまう。青峰が「いてて」と笑うのがまた好きで、どうにもならない。
「おい、いてーって、テツ」
「ううー……っ」
「うなってんじゃねーっつの。仕返しすんぞ」
 言いざま、ぎゅうぎゅう抱き潰されて息が詰まる。でもそれ以上に嬉しくて、確かに彼の言うとおりに伝わってくるものもあって、体は苦しいのにかけらも怒れない。
「痛いです、青峰くん」
「もっとか」
「違います、苦しいです」
「そーか、もっとかー」
 二人で密かに笑い合って ──
頭の隅では、彼に抱きついているのも、この辺が限度かなぁと考えている。さすがに最初の一人が脇を通り抜けて改札に入るのを目の端に見れば、夢から醒めた気分にもなるのだ。
「……青峰くん、」
「んー?」
「いっこだけワガママ言っていいですか」
「おー」
 下向いてください。
 ささやくように言った言葉は、実は聞こえていなかったかもしれない。黒子は、訊き返そうとして下を向いた彼の唇に、自分の唇を当てるだけのキスをする。
 お互い、目を閉じる暇もなかった。
 青峰がじいっと見下ろしている。
「……今のがワガママか?」
「そうです」
「いっこだけ?」
「いっこだけです」
 黒子が言い切ると、青峰はむっと眉を寄せた。
「お前のワガママっていっつもそー」
「……嫌でしたか?」
「違う。いっつも足りねぇ」
 強く言い捨て、青峰は不機嫌顔のまま、続けざまに一度、二度と唇を押しつける。三度目はさすがに黒子が避けた。
「……テツ」
 とがめられてもこればっかりは駄目だった。見せびらかしたい気持ちは正直あるが、実際にするほど見境なくなれない。
 駅前。しかも自動販売機があって、他より人目につきやすい場所である。
「青峰くん、覚えてますか。ここは公道です」
「だから?」
「だから。人が見るんです」
「それで?」
「それで。こういうのは終わりです」
 青峰はますます目つきを悪くした。
「駅前じゃなきゃいーのか」
「いいですけど。行きませんよ、学校に行けなくなります」
「さぼればいー」
「ダメです」
 黒子は断固反対と主張する。
 青峰が大きく溜め息をついた。すると、当たり前に白い息が宙に広がって、今更ながらに、恐ろしく冷えた場所に彼を立たせていることに注意が向いた。
 寒さは筋肉を固くする。その辺に無自覚な青峰ではないと思うが、黒子はさすがに心配になってきた。
 青峰は特別な人だ、黒子とは違う。神様に天分の才を与えられた彼に、万にひとつでも自分のせいで何かが起こっては、後悔してもし足りない。
 ぎりぎりまで一緒にいるとして、残りあと二時間足らず。せめて息が白くならない場所に移動すべきである。
「テツー、さぼろー」
「ダメです。それより、そろそろマジバでも行きませんか」
「えー……」
「えーじゃないです、ここ寒すぎです」
「ひっついてりゃいーじゃん」
「バカじゃないですか。というか、バカですか。ひっついてても基本が寒すぎて全然暖がとれてません」
「いーよ寒くても」
「良くないです、万一君に何かあったら ── 」
「俺、お前のそーゆーとこキライ」
 青峰が鋭くさえぎるのに、つい黙る。
 ただし、彼の言葉は、口から放たれた瞬間にもう裏切られていた。その腕が黒子を大切に抱え込む。手のひらが、思ってもみないやさしさで黒子の後ろ髪を梳く。
 真っ直ぐ「嫌いは嘘だ」と伝えてくる。
「……なあ、俺わかりにくいか?」
「 ── …………」
「お前もっとワガママでいーよ」
「…………」
「俺といる時はめんどくさいこと考えんな。そういうの全部、俺に投げていいから」
 何と返せば良いのかわからない。
 黒子は中学の時から青峰が好きで、青峰も中学の時から黒子を特別扱いしていたが、高校に入って生活環境が変わり、ウィンターカップ後に再び会うようになって以来、青峰は如実に変わったと思う。
 黒子を特別扱いするのは相変わらず。派手に甘えてくるのも相変わらず。けれど黒子に自分と同じだけ甘えろと言うようになった。むしろ、一人で堪えていたところを、片っ端から奪って肩代わりしていくような青峰の態度は、黒子にとっては贅沢すぎた。
「……君、面倒くさいの嫌いじゃないですか……」
 なけなしの文句も軽く笑われて終わりだった。
 わざわざ言葉にされなくてもわかる。青峰の体全部、心全部が黒子を好きだと言っている。
 青峰はわかりやすくてずるい。せっかく我慢していたのに、ちゃんと彼に触れたくて、キスしたくてどうしようもない。
「……青峰くん、もういっこワガママ言っていいですか」
「おー、言え言え」
「どっか、二人きりになれるとこ行きたいです」
「了解」
 途端に、ぐいと引っ張る手のひらが、一体どこへ黒子を連れていくのかは知れない。なのに、不安がひとつも見えてこないのはどうしたことか。
 彼と一緒にいれば無条件で大丈夫だと思ってしまう。
 こんな気持ちを「好き」と言うなら、黒子の中にはきっと「好き」しか詰まっていないのだろう。
「あー、さみ」
 白い息を吐きながら、大股で歩く彼のあとを、少し小走りのようにして付いて行く。
 あてどもなく進んでいるようだった青峰の行く先に、大きな河川敷が見えたのはすぐだった。河の上には新しい橋があって、まだ早朝であるにもかかわらず車の列が渡っていく。
 青峰の目的地は、その橋の下に延びた遊歩道らしい。
 昼間は人々の憩いの場になるのだろう。ところどころベンチが設置された歩道には、今は時間の早さも手伝って誰もいない。
 ただですら無人の川べりを、念入りに橋足のかげまでやって来て、コンクリートの壁で外界ごと隔てた青峰は、そうして初めて黒子を振り返り、有無を言わせず抱きついた。
「青峰、く」
 名を呼ぶ間も待ってはくれない。
 さっきまでの戯れのキスは何だったのか。一息のうちに、まるで舌の根まで食べるように口腔を好きに開かされて、黒子は呼吸もかなわず鼻にかかった悲鳴をこぼす。
 二人のキスの経験値は、多分そう高くない。何しろ付き合って一ヶ月程度である。中学の頃、無意識にお互いに触れた感触はやわらかで、生々しさは皆無だった。でも今は違う。青峰のキスには充分にセクシュアルな雰囲気があり、むしろ体に直接触れられないからこそ夢中で奥底を暴く切実さがあった。
 キスでこれなら、実際に体を重ねる時はどうなるのか。黒子は応えるだけで精一杯の自分を、彼の首根に両腕を巻き付け支える。
「は、ん……っ、ぁ」
「……テツ」
 吐息混じりの呼び声にせつなくさせられて、ちゃんと目が開けられない。吸われてぽってり腫れた唇を唇で慰撫される。そういうのどこで覚えてくるんですか、なんて、憎まれ口でも叩けたらちょっとは胸がすくのだろうか。
「……テツ、空」
 ふと青峰が耳にささやく。熱い息がかかって簡単に喘がされ、黒子はむずがって下を向く。
「逆だ。空。空見ろよ、明けるぞ」
 じゃあ耳に息をかけるなと言いたい。そこに唇をあてるなと言いたい。ただでさえ空気と同じくらいに冷えた部位には、青峰の体温は火のようだ。
 黒子は逃げ場所を探して更に青峰の腕の中に沈む。
 彼のダウンジャケットは、相変わらずふわふわと黒子を受け止める。冷たいのに、今はもう気持ち良い。
「テツ」
 時刻は六時半を過ぎた。
 登校時間ぎりぎりまで、あと何回キスができるだろう。