ふたりぼっち

 コートの上で、拳と拳を触れ合わせる。その感覚を、言葉で表現するのは難しい。
 多分それは ── 少なくとも、青峰と黒子の間では、お互いを鼓舞する力であったし、弱気を押し退ける勇気であったし、歓喜を分かち合う許しでもあった。
 つまりは、循環していた。勝利を目指す気持ちはもちろんのこと、それこそちょっといいプレイができて嬉しいとか、ミスをしてしまって悔しいとか、そういった感情の波すべてが、拳を通して二人の間を当たり前のように行き来していた。
 ところが、昨日の試合中、青峰は突然黒子の拳に応えなくなったのだ。
 二人の間を巡っていたものがぶつんと途絶えて、黒子は愕然とたたずんだ。青峰が拳を返してくれなければ、黒子がどんなに嬉しくても、どんなに悲しくても、伝えようがない。もちろん、青峰が感じていることもわからない。だって試合中だ。膝を突き合わせてお互いを説明し合うことなんかできないではないか。だからこその拳での触れ合いだったのに。
 黒子は突然孤独になった。自分でもびっくりするほど動揺して、何をどうしたかほとんど記憶にないまま試合は終わっていた。
 夜は一睡もできなかった。普段は意識しない心音が、いつまでも耳元でどくどくと音をたてていた。息を止めてみたり、胸を押さえてみたりしているうちに朝になったが、依然として奇妙な違和感が残っている。
 今朝は秋の訪れを思わせる涼しさだった。
 夏の大会を終え、夏休みは残り少ない。今日は部活も午後のみで、内容は、昨日の試合を振り返っての反省会である。
 夏休み最後の部活。
 けれど ── いっそ休んでしまおうか ── 黒子はさっきからそんなことばかり考えている。
 部活に出たところで、きっと青峰はいない。昨日の続きの残酷な今日を思い知らされるだろう。どんなに願っても時間は戻らないのだ ──
 喉元までこみ上げてくる痛みがある。
 黒子はなすすべなく胸を押さえた。
「……ぉ、みね、く……」
 やっぱり今日は駄目だ、動きたくない。彼の名を誰かが口にするだけで、泣けてしまうかもしれない。
 黒子はいよいよ布団の奥へともぐり込む。
 不意に家のインターフォンが鳴った。早朝七時過ぎ。新聞配達にしては遅い時間で、それ以外の何かにしては珍しい時間である。
 階下で母親が玄関に下りたらしい物音が聞こえる。
 黒子は特に注意を払っていなかった。しかし、じきに下から響いた声で跳ね起きた。
「テツヤ! 青峰くん、迎えに来てるわよ!」
 驚いた、なんて、生易しい表現じゃ全然足りない。
 黒子は今の今までの憂鬱全部を忘れ、ベッドのマットレスを蹴り、着の身着のまま部屋のドアを開けていた。
 階段下、真っ直ぐに見下ろせる位置に、常のように制服を着崩した青峰が立っている。
 彼はこちらを見上げると、束の間気まずげにして ── 困ったように、笑った。
「……テツ。頭、すげぇことになってんぞ」
 あんまり自然に彼が笑ってくれたから。
 寝癖などなおす余裕はない。黒子は一瞬本当に自分が泣いてしまうのではないかと思った。
「おはよう、ございます……」
「……おう」
「あの、どうして……?」
「あー……、部活。一緒に行かねぇ?」
 部活は午後からだ。彼が参加するなら喜ばしいが、朝から迎えにくる必要はないし、手ぶらでいるのも不自然である。
 明らかにその場しのぎの出任せだった。
 ただ、彼が誤魔化したかった相手は、黒子の母だったかもしれない。そのくらい、母の前の青峰は居心地悪そうにしていた。中に入れと言っても聞かず、目を伏せてシャツの裾をいじる姿は、体ばかりが大きな迷子のようでもあった。
 まったく彼らしくない。
 理由はそっち退けで支度を急いだ黒子に、青峰は心底ほっとしたふうだった。
「青峰くん……?」
 靴を履いて問いかけたなら、弱い力で腕を引かれる。
 黒子は母が何かを言わないうちに、青峰がドアをくぐるタイミングで「いってきます」とだけ声をかけた。
 外は曇り空だった。気温は低いし、日光は淡い。
 それでも一睡もしていない黒子の目には眩しく映る。
「まぶしーです……」
「まだ眠ぃの?」
「違います。……今日あんまり暑くないですね」
「だな。寒ぃ」
「寒い、ですか?」
「あー……や、俺だけかも。寝てねぇからどっか変なんだ」
「寝てない、って」
 家を出ても、青峰の大きな手は、黒子の白い腕を一掴みにしている。その手を冷たいと思ったことは一度もなかった。でも、今日は不思議とひんやりしているように感じた。
 低い体温。昨日までの彼は、果たしてそうだっただろうか。
「……青峰くん」
「ああ」
「僕たち、これからどこ行くんですか?」
 青峰の足取りが遅くなる。
 黒子は彼の隣に並んだ。
 もう引かれる必要のない腕は、まだ彼に掴まれている。
「部活、午後からです」
「……知ってる」
 青峰は、のろのろとこちらを向いたが、斜め下を見て黒子の顔を見ない。
「どこ行くんですか?」
「……どっか二人になれるとこ」
 覇気も毒も棘もない。本当に青峰らしくない。
 黒子は彼が黙り込まないように、丁寧に問いを続けた。
「僕の部屋じゃダメでしたか?」
「誰も来ないとこがいい」
「誰も、ですか……?」
「誰も。テツ以外のやつ全部」
 青峰らしくないのはわかっている。でも、あからさまな特別扱いに心を揺すぶられて、彼のわがままを何でも聞いてしまいたくなる。
「……学校、行きましょうか」
「校舎は空いてねぇ」
「外の用具室とか」
「あー……中から鍵かかるな、あそこ」
 青峰の手が腕をつたって指に絡む。当たり前みたいにそのまま引っ張られて歩き出す。
 黒子は何も言わず、彼とつながった自分の手を見ていた。
 普通なら、同性からそうされて、もっと嫌がらなければならないのかもしれなかった。けれど、黒子がその時感じていたのは、誰かに見せびらかしてしまいたいという、ひそかな優越感である。
 だって彼は ── 光、なのだ。
 黒子だけの欲目ではない。青峰は、日本人離れしたその身長や整った容姿、肌の色などで、じっとしていても人の目を惹く。動き出せば、なおさら目立つ。彼の行く手で、人の波が自然と彼を遠巻きにするのを、黒子はこれまで何度も見てきた。青峰には威風があった。年若いことも関係ない。むしろ、若いからこそしなやかに、可能性に満ち溢れ、雑踏の中にあってさえ、目には見えない光をまとい、力強く存在していた。
 その彼が――今、黒子を選んで甘ったれたことを言う。
 こんなの、どうしたって嬉しいに決まっている。
 青峰は相変わらず街なかで激しく目立ったが、結局すべての視線を無視し尽くし、黒子とともに校内へと足を踏み入れた。
 
 二人が目的地にしたのは体育用具室である。
 用具室、と、ご大層に名前はついてはいるものの、グラウンドの片隅にある、プレハブ工法のありふれた倉庫だった。外からも内からも鍵がかかるのが特徴で、時に上級生のたまり場になったり、幼い恋人たちの語らいの場になったりした。
 黒子自身は、用具室を、用具を収納する以外の目的で使うのは初めてだった。
 運動部特有の下世話な噂なら何度か聞いた。誰それがそこで上級生にシメられたとか、いじめがあったとか。はたまた、鍵の閉まった中から女のあえぎ声が聞こえたとか。
 聞いた時は興味がなかった。
 でも、実際に来て――青峰に手を引かれたまま、ごちゃごちゃ道具が詰まれた、暗く狭い場所に来て――青峰の手で唯一の出入り口を閉じられ、鍵をかけられたら、何だか落ち着かない気持ちになった。
 ここでの二人は、誰の目にも触れない。二人の会話は、何の音にも邪魔されない。
 二人ぼっち、である。
 砂埃で曇ったガラス窓からは、薄い光の帯ができている。青峰は、その薄明かりをカーテンのようにくぐり抜け、古いマットが高く詰まれた場所へ黒子を誘った。
 二人で腰を下ろすと、キラキラとした砂埃が舞う。
 不思議に美しい光景に目を奪われていた黒子は、しかし、次の瞬間、のん気によそを向いている余裕を失った。
  ── 青峰の腕が。
 そうしなければ死んでしまうほどの必死さで、こちらの肩と言わず頭や体すべてを、正面から強く抱き潰す。掻き抱く。
 黒子のつむじに鼻っ面を押し付けた彼は、やっとだと言わんばかりに深呼吸した。
 黒子の頬に血がのぼる。
 さすがに近すぎる。と言うか、これは友人の距離じゃない。
「……苦しいです、青峰くん」
「……ん」
「聞いてますか」
「ん」
「青峰くん」
「……聞いてる。でもヤだ」
 むしろ、更に近くを乞うように、青峰は黒子の腰を囲み寄せ、互いの腹を密着させた。
「昨日から変なんだ、俺」
 テツ、と、彼しか呼ばない呼称を呼吸に混ぜて繰り返し、青峰はまるで泣いているみたいに言うのだ。
「どうせ一人で決めなきゃなんねぇんなら、最初っから一人の方が楽だって思った……思った瞬間からチームがわからなくなった……パス受けてゴールに向かっても一人で……どこまで行っても誰もいない……テツ、どうなったんだ俺……テツ……テツ」
 寂しくてならないのだと訴える彼は、彼より小さく薄い黒子の体を抱くために、大きな体を竦め縮ませ、寒さに凍える人のようだった。
 弱音を長く聞いておられず、黒子は、窮屈な姿勢から、相手の背へと懸命に両腕を巻きつける。
 昨日の試合の最中、青峰から突然切り離されたと思っていた。けれども、そうではなかったのかもしれない。
 他の全部を外へ閉め出してまで、黒子だけを腕の中に閉じ込めた。彼の中の特別な位置を、黒子は確かに許されている。
「青峰くん……」
 視線を交わそうとすると、青峰は嫌がって瞼を閉じた。
 きつく寄せられた眉の下、切れ長の目のふちで揺れる睫毛が濡れているように見えて、思わずそこへ唇を寄せる。
 小さく吸うとしょっぱい。
 黒子は、またたく間に彼の孤独に感染した。
 冷たくて重い凍った何か。たくさんの棘がびっしりとついた嫌なもの。こんなに痛いものが、彼の心を食い荒らしている。
 昨夜の彼は、この痛みを一人でどう我慢したのだろう。
 考えると、胸がつまり、目と鼻の奥が熱を持ち、視界が歪んだ。まばたきすれば、あっさり涙が転がり落ちた。
「あおみねくん」
 声が震える。
 意固地に目を閉じていた青峰が、気配に気付いて目を開けた。
「……テツ。泣いてんの」
 少し驚いたように、そして、かすかに嬉しそうに。
「テツ」
 やっと楽に息ができたみたいに、黒子の名を呼ぶ。
 青峰は多分、これまで、バスケを通して人や場所と関係してきたのだろう。なのに、そのバスケで仲間を見失い、一人になり、目的を忘れた。
 バスケを通さない人との付き合い方を、彼は知らない。
 だからこそ、バスケで関係が絶たれたなら、黒子とも今までの距離ではいられないと慌てたのかもしれない。なりふりかまわず掻き抱いて、彼らしくない弱音を吐くほど ── 黒子に、相棒だった昨日までと同じく、感情を分かち合ってほしかった?
 青峰は馬鹿だ。彼が望むのなら、いくらでも無償で与える黒子に思い至らない。
 それくらい、黒子にとって、彼は圧倒的な光なのに。
「あおみねくん……あおみねくん、」
「うん」
 どうか、笑って。
「ぼくは、きみといたいです」
「……ん」
「ぼくは、バスケしてる、あおみねくんが、すきです」
「おー」
「きみがくるしいときは、全力でよりかかっていいから」
「…………」
「だから。どうか、やめないで……っ」
 くしゃりと笑った青峰が、黒子の肩口に顔を伏せて、ごし、と、目元をぬぐうのがわかった。
 やめねーよ、聞こえた呟きは、きっと幻聴じゃない。
「あー、なんか急に眠ぃ……」
 彼の口調は、いくらか軽さを取り戻している。
「眠っていいですよ」
「……ここにいるか?」
「はい。昨夜は僕も眠れませんでしたし」
  ── きみといます。
「そっか……」
 昨日はごめんの代わりに、青峰の舌が黒子の頬の涙を掬った。
「じゃあ一緒に寝ようぜ」
「はい」
「……誰か来たら、」
「無視します」
 お互いをぎゅうぎゅう抱きしめ合って、ちょっとだけ笑い合って、それから目を閉じた。片手はつないだ。
 砂まみれで固いマットは、あまり寝心地の良い場所ではなかったが、二人が知る小さな世界でたったひとつだけ、二人ぼっちが許される、やさしいベッドだった。