青峰はこのところ、学校行事の大半を面倒くさそうにしている、と黒子は感じている。
去年までは、秋口の体育祭や陸上大会など、体を動かす行事は好んで参加していたのに。今年の彼は、まったくやる気を失って、人の輪から外れていることがほとんどだった。
今日もそうだ。
毎年恒例の、一日まるまる使っての、クラスマッチの日。
所属部と同じ競技に参加はできないから、とりあえずバスケはしていないはずだと思っていたが、どの競技を覗いてみても、ジャージ姿の集団の中に青峰は見つからない。
青峰が参加したら、何だろうと目立ちまくっているはずなので、見落としたなんてことはないと思うのだ。というか、そもそも黒子が青峰を見落とすわけがない。
またどこかに一人でいるのかと思って探していたら、ポケットの携帯電話がメールを受信した。
── 図書室にいる。
シンプルなメールは青峰からだった。
何だってそんな似合わない場所に、と、黒子は首をかしげた。
同時に思い出す。図書室には司書が常勤しているが、今日みたいに一日学校行事に明け暮れる日には、書庫が閉ざされ、イスと大机のある一部だけが開放される。開放と言っても飲食できるわけではないから、何もかもが自由とまではいかないが、ちょっとした休憩所のような扱いになっていた。
果たして、出向いてみれば青峰はいた。
大机にべたっと上体を倒したやる気ゼロの姿勢で、珍しくバスケ部以外の男子に囲まれている、と思ったら。
「っせーな。触んな、うぜぇ」
気だるげな、けれど本気の拒絶と嫌悪が含まれた声。
黒子は彼にそんな声で何かを言われたことはない。ただ、もし言われたら心底落ち込むだろう。しばらくはトラウマになって、容易に青峰に話しかけられないかもしれない。
青峰はその後、何を言われようと無視に徹し、男子グループも不快をあらわにその場を離れていく。
黒子は咄嗟に彼らから逃げた。もともとの存在感の薄さも手伝って、恐らくは気づかれることなくやり過ごせただろうが ──
「なんで青峰だけあれで許されるんだよ、おかしーだろ」
「どーせ俺ら凡人とは違うってんだろ?」
「マジやる気なくすわ」
青峰のクラスメイトだろうか。バスケ部以外の彼の交友関係をほとんど知らない黒子には、彼らが青峰にとってどの程度の友人なのかが判断できない。
しかし、少なくとも青峰に好意的ではないことはわかる。
以前の青峰は、ワガママは多かったが、性格に裏表がなく、感情表現も豊かで、人好きのする男だった。今は違う。黒子の前以外で笑っているところを見かけなくなった。バスケ部の集まりでもそうだし、彼のクラスメイトたちにも同じ対応かもしれない。
加えて、物事に無関心になった気がする。本来の青峰の情の深さを知っているだけに、黒子はもどかしくてたまらない。
「こんなところでさぼってたんですか」
正面の席に腰掛けると、青峰はうつ伏せたまま顔だけ上げて黒子を見た。
テツ、と、小さく呼ぶ声は、さっきのやり取りが嘘みたいに穏やかだったし、口元をゆるめ目を和ませる様も、全力で依怙贔屓された気分になるほどのやわらかさである。
黒子は勝手に嬉しがってしまう内心を隠し、平静を装う。
「君が出る試合、見ようと思ってるんですけど」
「ねーよ」
「全員参加でしょう? 君も参加種目ぐらいは決まってるんじゃないですか?」
「知らね。めんどくせーし」
「青峰くん」
「出ても見世物になるだけだろ。どーせ何やってもつまんねぇ」
君、目立つの好きだったじゃないですか。
続けようとした言葉を飲み込む。青峰が、近頃人の視線を嫌っているのを知っていた。黒子と二人でいる時はそうでもないが、あまり視線が合わなくなったと、赤司や黄瀬も言うほどだった。
彼の中の優先順位は目まぐるしく変わり続けている。バスケが一番でなくなったこと ── いや、一番にしたくないと彼自身が思っていることが黒子には悲しい。
「……俺のことより、お前はどーよ。何に出んの?」
「見に来てくれるんですか?」
「行く。負けたら笑ってやる」
「性格悪いです」
黒子が顔をしかめると、青峰は逆に楽しげに笑った。
その表情がずいぶん無邪気で、陰りのなかったかつての彼にも似て、黒子はつい目の前にあった頭に手を伸ばしていた。
彼の短い頭髪は意外と猫っ毛だ。知らないわけではなかったけれど、身長の差があるせいで、黒子が彼の頭に触るのは極希なことだった。たまにしかない機会だからこそ、念入りに指を入れくしゃくしゃにしてしまう。
気づけば、きょとんと目を瞠った彼がこちらを見ていた。
「……俺、なんで頭撫でられてんだ?」
「かわいいからです」
「はぁ?」
途端に青峰の目つきは剣呑になったが、それ以上何かをしてくることはない。
彼の頭は依然として黒子の手の下にある。姿勢を正して距離をとることもせず、凶悪な表情で威嚇しつつも、大人しく机に突っ伏し、頭を差し出し、黒子が飽きるのを待っている。
「……テツ。まだか」
「まだです」
「……くそっ」
半分嫌がらせのノリで撫でていたら、青峰は眉間に皺を寄せたまま、我慢比べでもしているかのように目を閉じてしまった。
無防備すぎる。黒子は笑い出したい気分になる。
当然のことだが、図書室は無人ではない。休憩所として開放されており、いろんな学年のいろんな人間があちこちにたむろしていた。そんな中で、ただでさえ目立つ青峰が、黙って人に頭を触らせている姿は、もはや悪目立ちの域に達していたかもしれない。
黒子にとっては、ちょっとした快感である。
ほんとはこの人、けっこうかわいい人なんですよ。
いっそこの場で見ている一人一人に説明してやりたい。
「覚えてろ、てめぇ。あとで倍にして返してやる……」
青峰はそんなふうに凄むが、内容を考えた上で話していたのだろうか。
「僕は困りません」
黒子は笑って返した。ずいぶん我慢させてしまったようなので、最後に髪の形を整えてやった。
青峰が目を開ける。不機嫌そのものの視線を、黒子は穏やかに受け止める。
青峰の表情があきらめに変わるのもすぐだった。
「俺にビビんねぇの、テツぐらいだ」
「僕に怖がってほしいんですか?」
「そーじゃねーよ」
「だったらいいじゃないですか」
「いーけどよー」
お前が変なんだよ、わかれよ。と、二人が向かい合っている机の下で、青峰の爪先が黒子の足を蹴るのがわかった。
黒子はくすぐったさに笑う。
と、しばらくこちらを眺めていた青峰が、はぁっと大きな溜め息をついて顔を伏せた。
黒子は油断していた。
だって図書室には二人の他に多くの生徒がいたし、これ以上もなく平和で、触るのに用心しなければならないものは、どこにも見当たらなかった。
「……なー、テツ」
「はい?」
「本当にお前くらいだ」
「……はい?」
青峰のつぶやきは、世界と二人をざくりと切り離すハサミのよう。
「お前と俺しかいない世界だったら、バスケもずっと楽しかったのかな……」
一瞬、呼吸ができなかった。
黒子の目を避けた青峰の独白は小さく、ほんの刹那で終わり、次の瞬間には、彼は今のは忘れろと言わんばかりに、大きく音を立てて椅子を引き、立ち上がっていた。
「そろそろ行くか」
青峰は言う。黒子はうながされてやっと息をし、手足を動かし、機械的に彼のあとをついて歩いた。
重い塊が喉の奥を塞いでいた。
青峰が話しかけても、黒子はしばらく返事を返せずにいた。実際、青峰も口は動かしたが、特にこちらを見なかった。多分お互いに取り返しのつかない何かに気づいてしまっていた。
何度目かの言葉が途切れ、ついに立ち止まった青峰が、黒子を振り返る。
黒子は彼を見ることができなかった。目の前が涙の幕で揺らめいていて、彼を判別できなくなっていたからだった。
「……ばか」
馬鹿は君です、と、返してやりたい。
手首を引っ張られて、一番近い物陰に入る。
ジャージの粗い布地でごしごし目元をこすられ、痛いと文句を言う暇もなく抱き寄せられた。
青峰にそうされると、黒子はすっぽり彼の中におさまってしまう。自分の小さな体はいつも恨めしく、どうしてもっと彼と対等に向かい合える体に生まれつかなかったのかと悔しくなるのだ。
「テツ。テーツ。泣くなって」
泣くなとは言いながら、青峰は際限なく黒子を甘やかす。
彼のそういったやわらかい部分を知るのは、彼自身が他者を拒絶する限り、周りが彼を畏怖する限り、これから先の未来も含め、もしかしたら黒子だけかもしれない。
「あーあ……お前、その顔どーすんの。試合出れるのか」
青峰が一定のリズムでやさしく背中を叩く。
黒子は彼に全力で甘やかされながら、小さなわがままを思いつく。
彼が少しでも楽しいことを見つけられるように。彼が少しでも孤独を忘れられるように。
「試合、君が代わりに出てください」
「えー……」
「僕は出なくても誰も気づきません。でも、君が出てないとみんな気づきます」
「俺は気づくけど?」
「いいんです。どうせ、僕が負けても君が笑うだけでしょう?」
「あー、まー、そらそー言ったけどよー」
「僕は、君が勝ったら喜びますよ」
「…………」
「負けたら泣きます」
言葉をとがめるように、抱きしめる腕が強くなる。
「……俺が、負けるわけねぇだろ」
黒子は微笑む。
「知ってます」
「あー、もー」
青峰は、黒子がしたのよりずいぶん乱暴な仕草で、こちらの髪をぐしゃぐしゃにした。
「わかったよ! 今日だけな!」
黒子しか知らない、青峰の甘ったるさ。
彼を独占するには、あんまりにも自分がちっぽけに思えて、時々本当に地の底まで落ち込んでしまうこともあるけれど。
「……君が体動かしてるの、好きです」
黒子が言えば、青峰は嬉しそうにする。
それだけで、自分の存在意義を信じたくなる。
「あー……俺、何の種目に登録されてんだかなー」
「君が出るって言うんなら、どれにだって出してくれますよ」
「テキトー言うなっつの」
そんなふうに笑う君を全部 ──
ありとあらゆる孤独から、守ってあげられたらいいのに。