わりと警戒心は強い男だと思っていた。異常に野生の勘らしきものが働くみたいだから、運任せでも大負けはなかったが、大胆に見えて実は繊細な部分も多い人だと。
だからあんまり心配していなかった、と言えば、そうだったかもしれない。実際、誰にもらったものかもわからないようなものを、彼が無造作に口に入れるのを見るまで、黒子は本当にまったく考えもしなかったのだ。
「……それ、毒入りだったらどうするんですか」
青峰は、つかの間、異国の言葉でも耳にしたみたいに、黒子の顔を見上げていた。
放課後。すっかり日も暮れ、電飾が目立ち始めた街の一画。
目の前には、寂れた公園と、錆だらけのバスケットゴール。それから、激しく動く数名の人影。キャア、と、甲高い声が時折響くのは、メンバーに女子が混じっているからだ。
今夜初めて顔を合わせた、男女混合のストバスチームは、どうやら大学生のサークル集団らしかった。黒子が青峰と待ち合わせた場所に着いた頃には、既にゲームが行われていた。青峰は特に参加するでもなくガードレールに座っていたが、恐らく、彼らのうちの誰かが青峰を「青峰大輝」だと気がついたのだろう。
大学生にだって、高校バスケットボール界の有名人はスターだったらしい。お近づきの印にと、彼らの夜食のお裾分けが、青峰の手には乗せられていた。
その夜食が、女子の手製だったのは偶然である。
黒子にだってわかっている。青峰にしたところで、本当に何の意図もないものだったからこそ、厚意を厚意のまま当たり前に受け取った。これが、もしも彼に恋した誰かの贈り物だったとしたら、彼は受け取りもしなかっただろうし、虫の居所が悪ければ、ゴミ箱に捨てるくらいの冷淡さを見せたかもしれない。
とりあえず、そうではなかったから、彼は食べた。
今、静かに動揺している黒子の目の前で、口に入れたものを咀嚼する様にも、疚しそうな態度はまったくない。
もくもく、ごくん。音すら聞こえてきそうなほど、はっきりと喉を上下させ、口の中を空にした青峰が、やっと冒頭の台詞に答える。
「毒入りっつってもなぁ……多分違うんじゃね?」
そんなわかりきったことは訊いていない。
むっと口をへの字にした黒子に気づいているのかいないのか、彼はまたラップに包まれたおにぎりを一口頬張った。
「うん、まぁ、毒の味はしねーかな」
だから、そんな感想も求めていない。
黒子は不機嫌に黙った。
せっかくテスト前で、珍しくお互いに部活のない放課後だったのに。このあと少しバスケして、マジバにでも寄って、まだ時間が許すなら、どちらかの家に場所を移して、一緒に試合の録画を見たり本を眺めたりして過ごすはずだった。
何だか、妙に台無し気分である。別に何がどうなったわけでもないが、台無しと言ったら台無しなのである。
青峰が座った隣、黒子にしてはちょっと不自然な距離を空け、ガードレールに寄りかかる。
「……テツ?」
せめてこの微妙な距離で心の機微を推し量れ、というのは、相手に対して望み過ぎだったりするだろうか。
望み過ぎなのかもしれない。証拠に、青峰はまったく普段通りの調子で気軽に黒子を呼ぶ。
「おい、こら。シカトすんなって。テツ。テツー、テツくーん」
何ですか。仕方なく答えようとしたら、同時に口元に何かを押しつけられ、うっかりかじってしまった。
海苔玉味。甘いおにぎりの、ひとかけら。
「毒入りだったら一緒に死のうぜ」
「バカじゃないですか」
青峰は笑っている。
最近の彼は、黒子の憎まれ口をまったく気にしない。そもそも、ちょっと前まで眉間に皺を寄せたような表情しかしなかったくせに、近頃はずいぶん肩の力が抜けた様子だった。
黒子が口の中のものを飲み込むのを待って、青峰はゆったりと立ち上がった。
「とりあえず、今日はここ先客いるし、マジバか家に直行すっか?」
「……そう、ですね」
「バスケしてぇ? 何なら、あいつら蹴散らして来てもいーけど?」
青峰が顎で大学生の集団を指す。
黒子は首を横に振る。ボールに触りたい気持ちはあるが、わざわざ他所のゲームを壊してまですることでもない。
「帰りましょうか」
「どっち。俺んち? お前んち?」
「どっちでも。うちは今晩、おでんだと聞いてます」
「へー、おでんなー。俺、コンビニじゃないの久々。テツんち行こーぜ」
「わかりました。玉子と牛すじ多めにしといてくださいって連絡入れます」
「さんきゅー」
携帯電話を取ろうとポケットを探っていたら、さりげなく荷物を奪われた。
ちょっとびっくりした。彼は、幼なじみ相手にだってそんなことはしない。
黒子は電話で誤魔化しつつ、彼の表情をこっそりうかがう。横から見る限りは平然としている。二人分の荷物を肩にかけ、彼一人で歩く時よりも若干遅い速度で歩く。お互いの距離は二歩分。ふと目が合えば、やんわり微笑んで見せたり。とか。
── 君、ちょっと反則です。
黒子は気合いで無反応を装う。
青峰のことを、恋愛感情で好きなのだと気づいて、もうずいぶん経つ。
青峰はいつだって黒子を特別扱いで、黒子にだけやさしくしたり、黒子にだけ甘えたり。中学の時、相棒でなくなってから逆にやたら近くなった時期もあった。あの頃は、誇張でも何でもなく、青峰が心を開いていたのは黒子にだけだったと思う。基本がそれだから、テツは特別と明言されることもしばしばだった。高校に入って疎遠になったと言えばそうだったのかもしれないが、会えば彼の目は必ず黒子を追ったし、元々敵相手に試合外で声をかける人でもないから、敵としてさえ特別扱いは継続していたのだと、今になって思う。
わだかまりが薄れたウインターカップ後は、時間を合わせて一緒にいることが増えた。
ただ、二人はもう、昔のように理由なく手をつなぎ合うことはできなかったし、そうしたいからという理由だけで体を寄せ合うこともできなかった。
手をつないだり抱きしめ合ったり ── キスしたり。したいと思うことは、どれもこれも明確な理由が必要なことが多すぎる、と黒子は憂う。
母との通話を終え、隣を仰ぎ見ると、青峰は脇のファーストフード店に目を奪われている真っ最中だった。
「……寄りますか?」
「おでんで腹いっぱいにすっからいい」
「そうですか?」
「おー。つか、普通に腹減ってんだよ」
「ああ、だから……」
知らない相手にもらったものを食べたのか、と、口走りそうになり黙る。どうがんばっても嫉妬混じりにしか言えない、醜い言葉を彼に聞かせたくなかった。
黒子は話題を変えてしまいたくて、青峰に任せっきりになっていた荷物に手を伸ばす。が、一瞬早く、青峰本人がこちらを避けた。
黒子の荷物を理由なく奪ったまま、青峰は悠々と先を行く。
「なー、俺さー」
小走りになってやっと隣に並んだなら、彼は極々普通の表情で爆弾発言をした。
「テツが食わせてくれんなら、他のやつのメシ一生食わなくてもいーぜ」
そんな言葉にどう答えろと言うのか。
意味を問い詰めろとでも?
単に、過去の彼がしてきたのと同じ、黒子に対する特別扱いの延長かもしれないのに?
「お前、ゆで玉子以外、料理しねーの?」
「し、ませんよ、そんなの……君だってしないでしょう?」
「しねーな、ラーメンくらいだったら作るけど。なぁ、本当に作れねぇ?」
それは二度も確認するくらい本気の話か。
黒子はだんだん顔が上げられなくなる。
軽く受け流せない。
「……ごはん、炊くくらいなら。します」
「おかずも作って」
「……インスタントで良ければ」
「おし、今度絶対食わせろよ」
耳が熱い。顔が熱い。首も熱い。
というか、心臓が痛い。
「テツが食わせてくれんなら、俺もお返しに作っかなー」
君それ本気ですか。
冗談ひとつ返せなかった自分は、けっこう必死で青峰のことを好き過ぎると思う。
青峰の問題発言から数日後。
何の因果か、黒子は母に料理を教わる機会を得た。
テスト期間中で部活がなく、たまたま早く帰宅する日が続いたことが、原因のひとつだった。そうでなかったなら、母も黒子に料理をさせようとは思わなかったはずだ ──
たとえ彼女が包丁で指を切り手元があやしくなっていたとしても。それこそ、二、三日、出来合いのものが増えるくらいで、黒子がキッチンに立つ機会はないはずだった。
しかし、諸々の事情は重なり。
黒子は連日、昼前には学校から帰宅し、昼食、夕食と、母の指示のもと食事の支度を手伝った。青峰とのやり取りのせいで、持ち前の注意力や観察力や記憶力が、無駄に発揮されたのは言うまでもない。
母が常からインスタント食品の利用者だったことも、プラスに働いた。
一日目、麻婆豆腐ができた。調味料は麻婆豆腐の素ひとつ。あとは刻んだネギと、適当に切った茄子を一緒に炒めただけだった。豆腐は丸々フライパンに入れて、オタマで潰す。えらく簡単に立派な麻婆豆腐が完成した。
二日目、鶏の唐揚げができた。一口大に切った鶏肉に、市販の唐揚げ粉をまぶしただけで下拵えが終わって拍子抜けした。油を扱うには多少慣れが必要だったが、温度と時間さえきっちり測れば問題ないことを知った。
三日目、フカヒレスープの素でスープを作った。難しい作業はひとつもなかった。ついでにサラダも教わる。ドレッシングさえこだわらなければ、ちぎって冷水にさらして皿に盛るだけだった。
黒子は日を追うごとに落ち着きを失った。
これでは約束を果たせてしまう。
いやいや、まさかたった一回習っただけで易々料理ができるわけがない ──
と思っていたのに、母が悪乗りして、黒子が家にいる時はキッチンに呼ぶようになったから、たびたび習った手順を繰り返すようになったのだ。
つまりは反復学習だった。
どうしよう ── 今の自分は、一食くらいなら軽く作れてしまうではないか。
黒子は事あるごとに考える。青峰を呼ぶべきか否か。約束を果たすべきか否か。むしろ、忘れたふりが必要なのかどうかまで。
そして、ある日の午後。
黒子の両親は、親戚に不幸があったと言って、急遽二人揃って朝から家を空けた。もちろん、わざわざ事情を人に言いふらす黒子ではないから、青峰がそんなメールを寄越したのは、真実に偶然だったのだとは思う。思うけれど。
── そろそろメシ食わせろ。
どうしてキッチンが自由になる今日なのかと、彼を捕まえて問い詰めたい心境になったのは、言うまでもない。
今夜うちに来ますか ──
迷いに迷った末、送ったメールには、五秒もかからず返事が返ってきた。
── 行く。
黒子はその日、授業の間中、机に突っ伏していた。頬に血が集まって赤くなった顔をどうにもできなかったせいだった。
さて、料理をするとなると材料が必要である。
今日ばかりは部活後の自主練も諦め、自宅近くのスーパーへ直行した。部活が終わる時間は誠凛も桐皇も大差ないから、青峰が合流するのもすぐだろう。
思った矢先に携帯電話が鳴る。
まさしくレジを通ろうとしていた時だった。パートタイマーらしき相手に代金を渡して、釣り銭を受け取る前に通話キーを押し、肩と耳の間に機器を挟んだ。
「テツー、腹減ったー」
第一声が甘ったれた声で笑ってしまう。
「わかってますよ。今どこですか?」
「まだ部室。着替えてっとこ」
「じゃあ、うちまで四〇分くらいですね」
「そんくらい。メシできてる?」
「今から帰ってごはんを炊くので、もう少しかかります」
「ええっ! 急げよ、腹減って死ぬ!」
「死にませんよ。とりあえず、うちに来たら手伝ってくださいね」
「俺が? テツが作ってくれんじゃねーの?」
「君も僕に作ってくれるって言ったじゃないですか」
会話しながらレジ袋に買ったものを詰めていたら、隣の主婦と目が合った。にこりと笑いかけられて焦る。そこでやっと気づくのだ。こんな会話を横で耳にしていたら、誰だって。
「……青峰くん、切りますよ」
「あ? 何で?」
「何でって……そこ部室ですよね?」
「そーだけど?」
「君の他に人いるんじゃないんですか」
「いるぜ、部員全員」
そのわりに雑音がまったく聞こえないのはどうしてか。
「切ります」
「テツ?」
「いーからさっさと来てください!」
言うだけ言って切った。
青峰が遠慮なしに名を呼んでいたことを思い、黒子はうなだれた。もともと彼しかしない呼称のせいか、何かにつけ呼びたがるのは以前からだ。
一部始終を聞いた彼のチームメイトは、さぞ苦い思いをしたはずだった。青峰は一見何もかまわないようでいて、傍にいる人間を選ぶ男である。贔屓が激しいのも知っている。チームメイトより敵チームの人間と親しいエースは、桐皇の頭痛の種だろう。
見知らぬ主婦に微笑ましげに見送られながら、黒子はふらりスーパーを出る。
火照った頬に夜風が気持ち良い。
「……あーあ、もう……」
恥ずかしくても嬉しいなんて。
恋とは本当に救いようがない。
帰宅して、着替えるより先に炊飯ジャーをセットした。
母は、米は土鍋で炊いた方が美味しいと言って譲らなかったが、料理をかじって数週間の黒子には敷居が高すぎる方法である。何より、万一失敗したら、青峰をがっかりさせてしまう。
今晩はできる限り確実に成功するメニューを選んだ。麻婆豆腐に鶏の唐揚げ、フカヒレスープとサラダ。インスタントでも手作りっぽい味がするし、どれもひどく手順が簡単で失敗が少ない。揚げ物だけは注意が必要だが、これは青峰が来てから二人で手分けし、時間を計り、温度に気をつければ大丈夫。揚げ物と言えば、一番美味しいのは揚げたてであるから、揚げたてを青峰に味見させてやろうと黒子は考えている。
楽な服に着替え、母からのお下がりのデニムエプロンをつけた黒子は、ヨシ、と静かに気合いを入れ、腕まくりした。
レタスをちぎり、カイワレの根を取り、キャベツはざくざく大きめに切って、全部まとめて氷水に浸して冷蔵庫へ。数分もすれば、しゃきしゃきした食感が美味しいグリーンサラダが完成する。
次に手にしたのはフカヒレスープの素だ。こちらは水にとかすのみ。食べる直前に温め直して、玉子を流し入れれば良い。
インターフォンが鳴ったのは、黒子がオタマで豆腐を潰しながら麻婆豆腐を作っている最中だった。
すぐには火の傍を離れられず焦っていたら、玄関のドアが開いて「ちわー」と青峰の声がする。
「中に入ってきてくださいー」
フライパンの上の豆腐を崩しながら。
「テツー?」
応えた青峰の声は、まだ玄関口から聞こえている。そう言えば、彼には今家に誰もいないことを教えていなかった。
「気にしないでいーですよー、誰もいないですからー」
言うと、やっと靴を脱いで家に上がる気配がする。
何度となくお互いがお互いの家を行き来している仲だ、今更案内も必要ない。青峰は迷うことなく黒子のいるキッチンに足を踏み入れ、こちらを見るや否や「おお」と、驚きだか感動だかの声を上げた。
「すげ……お前、何してんの?」
「見てわかりませんか」
「わかるけど……すげーな、テツ一人で作ってたのかよ?」
「母がいると思いましたか?」
「思ってた。てか、お前、それすげぇうまそうに見えんだけど」
青峰はこちらの肩越しに手元をのぞき込み、程良く色づき照りのついた麻婆豆腐に目を瞠っている。インスタントです、とは、聞かれるまで言わずにいよう。黒子はくすぐったい気分で笑いをこらえた。
麻婆豆腐は、きっちりサイコロ状にするよりも、不揃いに潰れた形の方が味が入るし美味しそうに見えるとは、母の証言だった。黒子も実際に見てそう思うし、青峰の反応もそれを物語っている。
「青峰くん、荷物どっかに避けといてくださいね」
「了解。そんで? 何か手伝う?」
「お願いします。予備のエプロンありますけど……君にはちょっと小さそうですね」
「まーな」
言いながら青峰は制服の上着を脱ぐと、ネクタイを適当にシャツの胸ポケットに入れ、袖を折って黒子の隣に立った。特に気負うでもなく、早速手を洗い始める様子からすると、意外にキッチンに立ち慣れているようにも見える。
確かにラーメンくらいは作ると言っていたが。
「……何だか新鮮です」
「ん?」
「君、僕の知らない顔をしてます」
水を止めた青峰が、黒子を見ないまま溜め息をついた。
「……そりゃテツの方だ」
「僕はいつもと変わりません」
「変わってるっつの。そんなかっこして、そんなうまそうなもん作って、俺の帰り待ってるとか ── 何の罠かと思うだろ」
青峰が困ったようにしているのが不思議だった。そう言えば、彼が家に入ってきてから視線が合わない。それほど奇天烈なことをしているつもりはなかったのだが ──
変だった、だろうか。
黒子はただ彼の小さなわがままに従っただけである。それこそ、中学の頃と同じに、このタイミングでパスが欲しいとねだられて全力で応えた時の、一生懸命彼に手を伸ばす感じ。
黒子にとっては、もう長く当たり前のことになってしまった、それ。
「……別に、いつもと一緒です」
「だったら俺も一緒だろ」
「君は違うと思いますが」
「どこがだよ。俺がテツと一緒にいたがって、近くにいたがんのなんか、いつものことだろ」
黒子は、はたと彼を見上げた。
彼は相変わらずよそを向いていた。
黒子は一度うつむき、ぐつぐつ中身が煮え立つフライパンに蓋をして、何となく火も止めて、それから再び彼を見上げる。
待っていれば、諦めたようにのろのろとこちらを向く、青峰。
お互い、しばらく相手の目の奥を見ていた。
隠していることは何もない。嘘もついていない。ただ、目の奥を探しても、探すことを許されていても、心の奥底までは見えない。だからもどかしくて ── だから、ほっとした。
君が好きです、どんなわがままだって聞くから、たくさん特別扱いしてください。
多分、まだ青峰は、黒子がそんなふうに考えているとは気づいていない。
「……青峰くん」
「……んだよ」
「唐揚げ、作りましょうか」
言った途端に青峰の表情がゆるんだ。
黒子は唐突に納得した。
「もしかして緊張してましたか」
「……は?」
「いえ、何だか君が違う顔してたから違和感があって」
「 ── …………」
「大丈夫ですよ、今日僕らだけですし。手伝えって言っても、僕にできるくらいの料理ですから、君にだって難しくないです」
安心させるつもりで言った言葉だったが、青峰はすぐには応えなかった。むしろ固まっていたかもしれない。
次に腹から吐き出された盛大な溜め息に何の意味があったのか、黒子は、あとから考えてもまったく理解できずにいる。
「……テツさー……ほんっとお前ってさー……」
「何ですか?」
「何ですかじゃねーよ、お前強すぎんだよ!」
「それ、何だか失礼な意味ですよね?」
「いや、もう俺じゃ太刀打ちできねーわ……つか、いっそ誰か助けろって勢いじゃね?」
「君が人を頼るんですか、珍しい」
「言わせてんのは誰だっつの」
青峰は笑っている。
彼が笑っているのならそれでいいかと無理やり納得して、黒子は下拵えを終えた鶏肉を冷蔵庫から取り出した。
さすがに油の扱いは注意が必要だから、温度計の場所と現在の温度を、何度も指差し確認した。青峰には、一番簡単そうなサラダの水切りを任せたのに、気づけば彼まで一緒になって、揚げ油の入った鍋を見ていた。
「……一〇〇度超えると早ぇ」
「ですよね、最初だけは僕もまだ怖いです」
「おい、指気をつけろよ?」
「わかってます、ゆっくり入れた方が跳ねないんですよ」
「ほんとかよ……」
いつの間にやら、まるで黒子を護るみたいに、青峰の片腕が腹の上に巻き付いている。黒子もひとつめの鶏肉を油に入れるまでは見事に緊張していて、青峰の立ち位置を知ったのは、油に四つ五つと肉を入れてからだ。
「おお……なんかすげぇ」
背後からとはいえ、青峰があんまり近くで目をきらきらさせて鍋を見ているものだから、どうにもこうにも笑いしか出てこない。三分経った頃に、一番小さなものを油から出して、少しだけ冷まして、箸でつまんでやった。
「どうぞ。味見してください」
黒子が言うと、青峰は目をまん丸にして、それからくしゃりと照れたように笑って、素直に口を開く。
あちあち言いながら嬉しそうに食べる。彼のそういう顔が、ずっと見たかったのだ。
「ウマイ」
真っ直ぐな讃辞に黒子もはにかんだ。久しぶりに大きな手で頭を撫で回され、ぎゅっと抱き込まれ、ひどく幸せな気分になった。
どうにか計画したものすべてが並んだ食卓で、青峰は良く食べたし、良くしゃべった。黒子は逆に気持ちで満足してしまい、相変わらずの食の細さを披露し青峰を心配させたが、二人ともに期待以上の食事を楽しく終えた。
食後、冷たいウーロン茶を飲みながら、青峰が興味津々の面持ちで尋ねたことがある。
「テツさ、この前まで料理なんかしませんっつってなかったか」
「言ってましたね」
「どうして急に作ってんだよ」
「母に習ったからです」
「俺のために?」
「母が怪我をして、手伝わされたんです」
「あー、そーゆーことかー」
理由はもちろんそれだけじゃないが、嘘は言っていない。黒子もウーロン茶で喉を潤して、尋ねたかったことを口にする。
「それより、青峰くん、この前言いましたよね?」
「ん?」
「僕が食べさせるんなら、他の人のごはん食べないって」
「言ったな」
「あれ、本気ですか」
「本気」
「そうですか。でも、ああいうのプロポーズみたいに聞こえるんで、他の人に言う時は気をつけてくださいね」
「……あー……」
何に落ち込んだのか知らないが、不意にうなだれた青峰が、まだ食器を引いていないテーブルに行儀悪く突っ伏す。
今なら彼の視線はこちらにない。
黒子は少しだけ早口で付け足した。本当に注意したかったのは、実はこちらだと気づかれないように。
「それと。知らない人からもらったもの、食べないでください」
青峰からの返事はない。しかし、そろりと顔を上げた彼は、真意を問うように黙ったまま黒子を見ている。
気まずい。
「……だから。言ったじゃないですか。もし毒入りだったら。死んじゃいますよ」
我ながらつたない言い訳だ。努めて無表情を作ってはいたが、どんどん顔が熱くなっていったので、大して意味はなかっただろう。
そして、青峰は、その真っ赤に熟れた黒子の顔を茶化しもせずしげしげ眺め続け、最後にしれっと、本当に何でもないことを言うようにうそぶいた。
「俺さー、お前が食えっつーんなら毒でも食うぜ」
誰がそんな話をしましたか、誤解しそうな台詞もやめろって言ったじゃないですか!と、いっぱいいっぱいになった黒子が逆切れしたのは言うまでもない。