恋トハ斯クモ偉大ナリ

 そこがどんな場所だったとか、いつのことだったとか、細かいことはもう良く覚えていない。ただ、黄瀬と桃井が、ずいぶん楽しげにしていたことが印象に残っている。
 二人は声を潜めて ── 恐らく寝ていた青峰を気遣ったと記憶しているが、自分にとって好きな人とはどんな存在かといった趣旨の痛痒いことをきゃっきゃと語り合っていた。
 当時の青峰は、恋なんて自分には縁遠いものだと考えていたし、お気に入りのグラビアアイドルにしても、胸の大きさが重要だったのであって、そこにもやはり恋心めいたものは介在していなかったように思う。
 当然のことながら、他人の恋にも無頓着だった。
 しかし、その日の友人たちの会話に限っては、なぜか良く耳に届いたのだ。
「うーん……やっぱ花束とかアクセサリーとか?」
「きーちゃんっぽい! 私はぁ……手料理とか手編みのセーターとかに憧れちゃうなぁ」
「桃っちこそ桃っちっぽいー。まぁとにかくこう……純粋なものあげたいっスよね、混じりっ気ないようなやつとか」
「あぁそれはわかる気がする。一番キレイなものだよね?」
「うん。カタチとかじゃなくて。単純にその人にしかあげたくないような……キレイだと自分で誇れるもの」
  ── 好きな人には、一番キレイなものをあげたい。
 夢うつつに聞きかじり、青峰は、二人の理論は逆から言っても成り立つのかと疑問を持つ。つまり「一番キレイなもの」をあげたい相手が「好きな人」なのか。
 だったら、青峰が「一番キレイなもの」をあげたい相手は。
 考えた時に、最初に浮かんだ顔に驚いた。いや、むしろ当たり前すぎて驚いた。
 好き嫌いは明確な方だと自覚していたが、そこまで他と区別していたかと、我がことながらに感動したのだ。
 そもそも黒子は、かつての青峰の相棒で、親友で。
 それ以上に、今や、何か言葉にできない、強い支えのようなものだった。

 *

 青峰の中で、最初に黒子の立ち位置が変わったのは、自分を取り巻く人やものに対して絶望してすぐのことだった。
 今では自意識過剰だと笑うこともできるが、当時、青峰は誰もかれもが敵に思えてならなかった。
 青峰を見るどの目にも、必ず劣等感や敗北感、警戒心が表れていたからだ。チームメイトの間でもそうだったのだから、クラスメイトに囲まれようと見知らぬ人間の中にいようとあまり変わらない。青峰は自然と人の視線を嫌うようになり、大勢でいても単独行動をとることが増えた。
 そんな中、損得抜きで青峰の傍にいようとしたのは、黒子一人である ── 損得抜き、と表現するか、妬み嫉み抜き、と表現するかは迷うところだが、とにかく他と違う眼差しで、信頼を込めて青峰の手を引こうとしてくれたのが、黒子だった。
 彼の表情はあまり動かない。強く感情を訴えもしない。けれど青峰を見る瞳は澄んで、青峰のあるがままを受け入れた。
 その耳は、いつでも青峰の言葉を丁寧に拾い上げる。
 その口は、いつでも青峰の名を最初に呼ぶ。
 青峰がもたれかかっても平気な顔で、肩を抱けば大人しく腕の中にいる。そこにいるのが当たり前みたいに隣で笑う。
 気づけば、青峰は、息をするように黒子のことが好きだった。むしろ、あんまり当たり前すぎて、恋だと自覚するまでに時間がかかったほどだ。
 高校に入ると、黒子には青峰以外の相棒ができた。
 そのことを伝え聞いた時、ひどく動揺したのを覚えている。わざわざ相手の顔を確かめに行って、相手の力量を自分と比べて心底安心したくらいには、黒子は青峰のすべてだった。
 なのに、一度別離を選ぶしかなかったのは ──
「もしもテツヤがバスケを辞めようと決心するなら、原因はお前以外にあり得ないだろうな」
 かつて、予言者よろしく宣ったのは、赤司だった。
 黒子のプレイスタイルは青峰在りきである。
 青峰も気づいていた。自惚れを承知で言い切ってしまえば、黒子の中のバスケと青峰は、同等の重さを持っている。
 出会った当初から、どれだけあのパスが必死に青峰を追ったか ──
忘れようとしても忘れられない。届かなくて泣き出した彼さえ知っている。青峰と同じコートに初めて立った日に、青峰からの言葉を欲しがってユニホームの裾を引っ張ったのも覚えている。その指が震えていたことを、瞳が心細げに揺れたことを覚えている。
 まさしく青峰だけが、黒子の葛藤や焦燥や憧憬のすべてを受けてきた。
 それらをいらなかったものだなんて口が裂けても言わない。
 けれど、今や彼のパスは青峰を容赦なく最強にする。青峰は弱くなりたかった。彼にパスはいらないと言いたくなくて離れた。
 そうして少しでも彼の中の自分を軽くしようとした。
 いつか青峰とバスケを天秤にかけて、彼がバスケを選べば良いと思ったのだ。
 そうすれば ── バスケを続ける限り、彼は青峰を思い出す。青峰は血肉のように彼のバスケに息づく。
 結局のところ、どんな形になろうと、つながっていたくて別れを選んだ。
 ……好きだという感情は不思議だ。
 黒子に試合で負け、青峰の中に巣くっていたものがごっそり剥がれ落ちた時、残ったのは恋情だけだった。
 正気に返った青峰は、黒子には一生頭が上がらないことを悟って、次いで、恩返しとか必要じゃね?と慌て、更に、あーもーこいつの面倒全部俺が引き受ければいいや、と結論付けた。
 青峰の胸中は晴れ渡り、そして新たな嵐の到来を知る。
 自分は黒子が大好きだが、果たして黒子はどうなのか。
 さすがに嫌われているとは思っていない。
 青峰が声をかければ一生懸命聞こうとする、触れば嬉しそうにする、甘えれば仕方ないと笑って、逆にワガママを叶えてやれば恥じらう顔でうつむく。嫌っていないことは一目瞭然だ。
 ただ、その正体を青峰が暴いても彼は逃げないか。この期に及んで、女を相手にするように体ごと縛り付けるという、最低の甘えを許してくれるのか ──
 答えは未だ出ていない。
 最近の青峰は、黒子に会うたび、何か綺麗なものを捧げたくてどうしようもなくなる。特に形がなくても良い。美しい景色でも、美しい瞬間でも、純粋な気持ちでも何でも良い。
 青峰が差し出したものを、彼が受け取ってくれるだけで良いのだ。もっとと疼く欲もあるが、これまで彼が青峰にくれたものの希有さを顧みれば、自分の感情も二の次になる。
「なー、俺テツのこと好きなんだけど」
 実は、先日、最大限に軽い告白をしてみた。
 黒子は初め、ぽかんと口を開けて、次に怒ったふうに頬をふくらませた。言葉は返ってこなかった。代わりに、青峰の足を蹴って寄越した。
 彼の表情はわかりにくい。
 そして、かわいい。
 何だか笑えてしまって、結局それ以上のことは言えずじまいになっている。
 俺がお前のこと好きなことくらい知ってただろ、と青峰は思う。言葉にしたのは、ほんの上っ面だけだ。負担にもなるまい。
 本当はもう少し教えてしまいたかった。黒子だけが青峰に対して持っている権利のこと。
 何でも望むだけ奪って行けば良い。自分が持っているもので、黒子にやれないものなどひとつもない。

 *

 その日、青峰は誠凛に足を向けた。
 桐皇の全部活が学校都合で休止になって、時間が大幅に余ったせいだった。もちろん、誠凛では当たり前に部活動が行われている時間帯であることはわかっていた。終わるまで待って、適当に黒子を呼び出すつもりだった。
 別に邪魔したかったわけじゃない。
 しかし、偶然校外をランニングしていた誠凛に見つかり、火神のうしろを走っていた黒子と目を合わせたら、結局我慢がきかなくなった。
 キセキだと騒ぐ外野には慣れている。青峰は浮き足立つ敵校メンバーを無視し、黒子の視線だけを意識して頭を掻いた。
「……別にさぼってねーから」
 問われる前に言い訳したら、彼の視線が和らいだのがわかった。
 列の中からひとりで出てきて、主将らしき相手に「先に行ってください」と断り、黒子は青峰の傍に立つ。
 火神が何か言いたげにしたがかまわずにいた。誓って言うが、喧嘩を売りに来たわけでも、現相棒の座を揺すぶりに来たわけでもない。
 ただ、黒子に会いたくて来た。
「どうかしたんですか」
 その声が、聞きたかっただけだ。
 他の誠凛部員がためらいがちに去っていくのを見送って、青峰は今日部活何時まで?と黒子に尋ねた。
「遅くて八時くらいまでだと思いますけど……」
「早かったら?」
「七時前でしょうか」
「待ってていーか」
「……まだずいぶんありますよ?」
「おー」
「……君が良いのなら、別に良いです。けど」
 けど?、と、途切れた先を目でうながすと、黒子は何とも言えない表情でうつむいた。
「……一緒に、」
 練習できたら良かったですね……、少しかすれ気味の声は、青峰を奇妙にせつなくさせる。
 涼しげな色をした髪が風にそよぐのを、多少強引に押さえつける。そのまま片手でわしゃわしゃと混ぜると、黒子がすぐに顔を上げることを、青峰は知っていた。
 怒ったふりで、その実嬉しそうに、青峰の横腹にまったく痛くない拳が当たる。
「やめてください、ぐちゃぐちゃにするの」
 なー、テツ俺のこと好きだろ。
 尋ねる代わりに青峰は笑う。
 相手を見るたび、何か強い光みたいなものを見ている気持ちになるのは、多分お互いさまだろう。
「そろそろ行こーぜ、あんま遅れると困るだろ。そんで……誠凛って外にもボードあったっけ?」
「えっ」
 知っていて訊いた。情報源は桃井だ。
 誠凛の体育館脇には、部活中には使わない、古い可動式のバスケットボードが放置されている。リンクはあってもネットはなく、高さも未調整なそれ。
「俺が遊んでても文句出ねぇ?」
 黒子が幼い子供みたいに頬を上気させる。
「先輩たちが良いって言ったら、いーと思います」
「ボールも貸して」
「僕のでいいですか?」
「おー。てか、テツは困んねーの?」
「困りません。学校の、使いますから」
 ああ、お前、嬉しそうに笑いすぎだ。
 青峰は目のやり場に困ってそっぽを向いた。
「君が外でボール持ってるとなると……火神くんあたりがうるさそうです」
「知んね。あいつと話すと疲れるし、シカトする」
 通りはいつの間にかオレンジ色に色づき始めていて、思っていたよりも長い時間、黒子を引き留めていることに思い当たる。
 やっと青峰が歩き出すと、黒子もうしろをついてきた。
 こういった時の立ち位置は昔から変わらない。こっそり振り返ってみれば、彼は青峰の視線に気づいていないのか、はっきりと口許をゆるめて、青峰の歩幅を真似るように、うつむき大きく歩いている。
 本当に変わらない。
「……テーツ」
「はい?」
「テツー」
「何ですか?」
「呼んだだけー」
 どん、と、きつめに背中をどつかれる。
 青峰は笑って、ずっと前を向いているふりをしていた。
 
 傾き始めた陽は、どんどん世界を染めていく。
 オレンジめいた空色が遂にオレンジになって朱色に変わり、朱色が紅を差して紫へと移り変わっていく。青峰は手慰みにボールを操りながら、空の色に目を懲らす。
 幾重にも塗り重ねた水彩画の花びらのような夕焼け空。
 黒子にも見せたかった。それとも、今は青峰がいるから、少しは体育館の外にも目を向けているだろうか。
 ぼんやり考えていたら「おい」と、まったく関係のない声がうしろから聞こえて、あーめんどくせぇと脱力する。
 火神だった。
 上着を脱いで動き回っていたものの、ほぼ遊んでいたに等しい青峰と違い、火神はいかにも全力で練習していたあとの汗だくの姿でそこにいた。
 見れば、体育館のドアが開いていて、誠凛部員が鈴なりになってこちらをうかがっている。
 黒子の姿はない。
「……部活終わったのかよ」
「おぉ」
 ふーん、と、青峰は自分でも雑だと思う返事をし、手の中のボールを無造作に投げた。
 ボールは当たり前にリンクをくぐり抜ける。
 高さや位置が慣れたものと違ってもシュートの感覚に大差はない。ただ、ネットがかかっていないので、ゴール後も勢いが死なずあちこちに跳ねるのが難点だった。
 青峰は、ボールがコンクリート塀に突き当たる前に拾い上げる。
 これは黒子のものである。
 少しでも無駄に傷をつけたくない。
「……おい、青峰」
「…………」
「おいっつってんだろ、聞いてんのかよ」
「……るせぇな、なんか用か」
 ボールの汚れを指で拭っていると、火神が無理やり視界に割り込んできた。
 いつになく気まずそうな顔をしている、と、思ったら。
「……お前、あんまウチ来んなよ」
「来てねーよ」
「今来てんじゃんかよ」
「……テツになんかあったか」
「ねーよ! ただ……めちゃくちゃ気ぃ散らしてた、から……」
 少しでも暇があれば体育館の外を見ていたと、火神は言う。そりゃそーだろうよ、内心でうなずいたが、当然火神には伝わっていない。青峰が聞き流したとでも思ったか、火神はますます目つきを悪くして肩を怒らせた。
「とにかく! 敵だろ、お前! 来んな!」
「っせぇなぁ……仕方ねーだろ」
「ああ?」
「敵でも会いてーし」
「……て、え……? へ?」
 火神があからさまに気勢を崩す。
 相手が何を聞いたのかわからないという顔をしているので、青峰は会話自体を放棄した。しばらく遊んでばかりだった手足を、もう一度軽くならし、呼吸を改める。
 部活が終わったのなら、もうすぐ黒子がここに来るだろう。
 普段の青峰は、自分のプレイが人にどう見えるかなど気にもとめない。けれど、黒子が見ているのなら別である。誰の何と比べられようと、わずかでも見劣りする一瞬を見せる気はない。
 地を蹴る ──
 不意に身にまとう雰囲気まで変えて躍動した青峰に、火神が度肝を抜かれて身を退いた。視界の端では、体育館のドアにたむろしていた部員たちが、姿勢をはっと前のめりにするのが見える。
 赤い花のような空の色。
 手を延ばす ── ボードに弾かれ、空へと翔け上がる赤いボールへ。
 全身の筋肉が、引き絞られた神経が、その瞬間を逃すなと収縮する。張り詰めたものは音なく放たれ、青峰はふわりと宙へ躍り出た。
 そうして天辺で掴みとったものを、直接ゴールへ連れていく。
 叩きつける、というよりは、むしろやさしく。
 ボールはなされるがまま純真無垢にリンクをくぐり抜け、いまだ宙に棲みついた青峰の手に舞い戻ってくる。
 両足が重力に浚われる前に、二度目のシュート。
 今度こそ容赦なく叩き込んだ。
 空で遊ぶような四点プレイ。試合ではまったく意味がない。
 それでも、間近で見た火神はうめき、体育館方向からはどわっと歓声が上がるのを聞いた。
 背後を振り返れば、息をするのも忘れて青峰に釘付けになった黒子がいる。
「テツ」
 青峰は笑った。
 自分が持つもので一番誇れるものを、好きな人に。
 青峰は転がっていくボールを拾い上げ、軽く指で拭いて元の持ち主に放る。
 受け止めた彼は、ひどく幼い表情を晒している。
「帰ろー」
「……は、い」
 脇に投げ出していた上着を手に、荷物を背負って、固まったままの黒子の腕を引いた。
「おつかれさん」
 黒子に他を見る余裕がないのはわかっていた。青峰は、彼の代わりに誰にともなく挨拶をして、早速歩き出すのだ。
「なー、テツどっか寄るとこある? 俺、バッシュ見に行きてーんだけど、腹も減ってんだよなー……」
 適当なことを話すうちに、ようやく夢から醒めたみたいに、現在の青峰へと黒子の視線が戻ってくる。
 夕焼け空の下、誠凛のグラウンドはいよいよ赤く、蹴り上げる砂の一粒ですら薄紅に色づいて見える。
 黒子の頬も赤い。
 おいしそーだ、と、脈絡なく考えて青峰は目を逸らす。
 頬にキスくらいは今の関係でも許されるか……許されそうか。いやそんなわけはないか。でも、今絶対に黒子は青峰のことしか考えていない。ちょっとくらいなら許されないか。
「……さっきの、」
「んー?」
「さっきの、君の、」
「おー」
「……魔法みたいでした」
 青峰は、黒子から目を逸らしたまま赤い空を見る。
 そうして黒子の頬の色を思う。その熱は青峰のせいである。ならば青峰が触っても許されないか。
 迷っていたのはほんの数秒だ。ちょうど誠凛の門を出て、左に曲がるその時を利用した。
 黒子の進路を体で塞ぎ、青峰を振り仰いだ頬へ、素早く唇をかすらせる。
 間近で見た瞳には、青峰だけが映っていた。
 このあと、パニックに陥った黒子からは、恐ろしくキレのある掌底打ちを腹部にもらったが、青峰は充分満足した。
「だってそれ俺のだろ?」
 一見何を指したかもわからない問いに、黒子がますます頬を赤くしたからだった。