幸運という名の愛について

 黒子が今朝目を覚ました時には、既に家を出るはずの時間になっていて、朝から失敗したとは思っていた。
 それでも、どうにか遅刻は免れるタイミングで教室に入ったのだが、入ったら入ったでお約束のように出欠確認で担任に名前を飛ばされ、飛ばされるだけならまだしも欠席扱いにされたものだから、一体朝からの自分の努力は何だったのだとがっくりする。
 もちろん、すぐに担任には訂正してもらった。というか ── 本当にどうしていつもいつも、それが世界の理でもあるかのように、黒子は存在を忘れられてしまうのだろうか。
 黒子を見つけられない相手は、本当にいつも見つけてくれない。黒子が知らないだけで、何かの周波数が合わなければ見えないとかいう条件でもあるのかと思う。
 火神などは、教室で席が前後しているにもかかわらず、いまだに黒子に驚く。そこにいると知っているはずなのに、目で姿を確認するとびっくりするらしい。
 影の薄さを武器にするようになって以来、ちょっとやそっとのことでは落ち込まなくなったが、今日はどうも調子が悪かった。
 多分朝の寝坊も不調の一因だ。ろくに準備せず学校に来なければならなかったから、忘れ物は多かったし、所持金は少なかったし、ついでに言えば携帯電話も家に置いてきた。
 その他、理科の実験の時には、背後に黒子がいると気づかなかったクラスメイトがビーカーを落として割った。数学の時間には、提出したはずの課題が、なぜか黒子の分だけ返ってこなかった。
 食欲がなくてぼうっとしていたら、昼休みもあっと言う間に終わってしまって、五時限目は逆に腹を空にしすぎたせいか胃が痛み出す始末である。
「……なんか調子悪そうだな?」
 さすがに火神は心配してくれた。
「部活、休むか?」
 別に病気ではないから、黒子は首を横に振った。けれど、心はやっぱり少し弱っていたかもしれない。
「ちょっと頭なでてください」
「はあ?」
「僕は疲れています、癒やしがほしいんです」
「アホか。んなこと言われる俺の方が癒やされてぇわ」
 火神はまったく相手にしてくれなかった。
 男友達なんてそんなものである ── というのは、黒子も重々承知している。火神の返事に多少なりとも期待外れを感じたのは、そうではない相手を知っていたからだ。
  ── 頭なでてください。
  ── おー。
 過去の記憶がよみがえって、黒子は慌てて姿勢を正した。
 その人のことは、できるだけ思い出さないように決めている。
 負けて、一度信念ごと突き崩されて、そこからどうにか立ち上がったところである。その人と敵として対峙しなければならないこと、勝つことでしか乗り越えられないものがあることに、やっと折り合いがついたのだ。
 ウィンターカップ予選半ば。頂点まで駆け上がって、もう一度挑む権利を得る。
 弱っている暇はなかった。
 黒子はぼうっとしがちな自分を、意識して奮い立たせようとした。
 ところが、教室移動で廊下を歩いていた時のことである。両手に教材を持った女生徒二名が、例によって例のごとく、黒子の姿に気づかず正面からやって来るのが見えた。
 こちらが避けなければ、また驚かせるとは想像がついたのだ。それで避けようと動いたら、うしろから走って来た男子生徒にぶつかって、バランスを崩した黒子は女生徒にも衝突し、結局彼女たちの荷物を廊下中にばらまく事態になってしまった。
 誰も怪我をしなかったのが唯一の救いだったが、ある教材のひとつが脇の流しに飛び込んで水没し、使い物にならなくなった。
 女生徒からは恨みがましい視線を浴びた。別に黒子は悪いことなどひとつもしていないが、謝らないわけにはいかない状況でもあった。仕方ないから、彼女たちの授業担当の教師には頭を下げに出向いて ── その時点でチャイムは鳴り、黒子は急いで移動したものの、既に行った先では授業は始まっていて、教師は冷淡な対応をした。
 もともと遅刻にうるさい教師ではあったのだ。それでも、こんな侮辱を受ける謂われはなかった。
「そういうだらしなさが負けにつながるんだぞ、黒子」
 あなたに何がわかるんですか。
 いつもの黒子だったら反論していたかもしれない。けれど、一緒に腹を立ててくれてもおかしくなかった火神はちゃっかり寝の姿勢に入っていて無反応で、何だか一気に気持ちが突き抜けて、全部がどうでも良くなってしまったのである。
 その瞬間まで参加しようと思っていた部活も、体がだるいのと変に運が悪いのとが嫌な感じで、とうとう見学を申し出ることにした。
 部活は黒子が抜けていても当たり前に済んだ。
 世界は黒子がいなくても当たり前に平和なのだった。
 ひどく気分が落ち込んでいた。黒子は、練習後にラーメンを食べに行くという仲間たちとは別れて、ひとり帰路についた。
 何となく、いつものマジバに寄ってしまったのは、昼食を食べそびれたことを思い出したせいだった。せめて一日の終わりくらいは、好きなものを食べて穏やかに終えたい気分だった。
 が。今度はマジバの自動ドアが開かない。
 たまに自動ドアに気づかれないこともないわけではないが、何も今日起こらなくても良いと思う。
 黒子はじいっとドアを睨む。そこまで僕を無視しますかと、無機物相手に果敢な舌戦を挑もうとした。
「……何やってんの、お前」
 その声。
 だけで ──
 誰だかわかってしまう自分が嫌だ。
 黒子は全身が緊張で凍るのを感じた。動けないから、問いに答えることもできない。
 気づけば、自動ドアに青峰の姿が映り込んでいる。
 黒子とは違う、ブレザーの制服。広い肩幅、長い手足。ガラスの中でも、頭一つ分も背が高い彼とは簡単に目が合って、更に何と言って良いかわからなくなる。
 笑わない青峰は苦手だった。気だるげな仕草も手伝い、大人びた精悍な容貌ばかりが際立ち、ひとり特別な生き物のように近寄りがたい雰囲気をまとっている。
 かつて、黒子といる時の彼は、もっとずっとやわらかかった。いつも何かを探す眼差しで黒子の瞳を熱心に覗き込んだ。誰彼区別なく乱暴しがちな手も、黒子にだけは不思議なくらい丁寧だったことを覚えている。
 その彼が、今は表情なく黒子を見ている。
 もし、今日、先日の試合みたいに鋭い言葉を投げられたなら、耐えていられる自信はない。黒子は、彼の言動にそなえ、懸命に身構えた。何があっても無反応でいようと決めた。
 ところが、彼が次に行ったことは。
「またドアにシカトされてんのか」
 どいてろ。粗野な言い方とは逆に、黒子の肩を支えるようにして入り口から遠ざける。
「……シェイク?」
 返事も聞かず店へと入って行った青峰。
 黒子は激しく混乱した。
 彼自身の買い物のついでかもしれないが、知らないふりくらいいくらでもできただろう。二人はもう同じチームにもいないし、同じ学校にも通っていない。敵同士だ。わざわざ他の誰にもしないような世話焼きをされる理由はない。
 逃げてしまおうか ──
 考えつくまでそう間はなかったはずだ。しかし、黒子が動き出すよりも早く、青峰は再び店から出てきて、手にした紙コップをこちらの胸元に押しつけた。
 Sサイズのバニラシェイク。
 黒子のことは何もかも覚えていると言わんばかりの。
「お前がいなくなると思って焦った……」
 黒子は呆然と彼を見上げた。そうして気づく。青峰が手にしているのは、黒子に差し出したシェイクだけ。彼自身のものはひとつも買っていない。
「……何してるんですか、君」
「……テツ」
「本当に、何して……っ」
 泣きそうになる。
 むしろ惨い言葉で刺された方がましだった。
 いっそシェイクを投げつけてやろうかと思ったが、青峰の大きな手が、振り払ってくれるなと言わんばかりの必死さで黒子の手首を握って、何もさせてくれない。
 そのままゆるく引っ張られた。
「……あっち。誰も来ねーとこあるから」
 昔から二人きりになりたがる。そんなところも全然変わらないから、またわからなくなってしまう。
 そもそも、黒子が青峰と同じ高校を選ばなかったのは、青峰が「味方はいらない」と言ったからだった。バスケで彼が必要とするのは敵だけ。つまり、黒子は、同じチームにいる限り、彼にとって必要ないのだろうと思った。
 だから敵になったのに。敵でいさせてくれないと、また彼のいらないものになってしまうではないか。
「放してください……っ」
「嫌だ」
「青峰くん」
「嫌だ」
 言い争う間にも、青峰はどんどん黒子をよそへ連れて行く。
 そうして二人が辿り着いた先は、あと数日で閉鎖予定と看板が掛かった地下への入り口だった。既に照明も撤去され薄暗く、簡易形式ながらに立ち入り禁止の仕切りが作られた場所。
 青峰はいとも容易くそこを跨ぎ、境界の先からなお黒子の手を引いた。
「テツ」
 半分闇に融けた暗い入り口の向こうに青峰がいる。
 頭では付いて行ってはいけないと思うのだ。けれど他の全部は彼と一緒にいたがって、一度は止まった足を動かしてしまう。
 そそのかされるまま立ち入り禁止の仕切りを越えた。
 青峰が今日初めてそうっと目許をやさしくするのが見えた。
「……もう少し降りたら明るくなるから」
 足元気をつけろよ。
 更に奥の階段へと導く手のひらは、もう黒子をかけらも拘束することはなく、ただ恭しく添えられているに等しかった。
 青峰が言った通り、中程まで階段を降りていくと、下からの光がぼんやり辺りを照らすようになる。あと四、五段降りたなら、地下通路のどこかと普通に合流するのだろう。
「この辺だったら座ってても平気だろ?」
 足元は乾いていた。しばらく使われていないらしい、タイルの剥げた古い石段は、特に汚れたふうにも見えなかった。
 路上の雑踏も聞こえず、かといって地下の音も遠い。上からも下からも、ぎりぎり人の死角になる場所。
 青峰が腰を下ろすのに釣られ、黒子も彼の隣に座る。
 それから、はっとして心持ち距離を取った。うっかり昔と同じ位置に戻るところだった。そうではなく、敵同士の位置である。本当はそんな距離も知らないけれど、昔より遠くに座るのだということくらいはわかる。
「…………」
 青峰が何か言いたげにして口を閉じた。
 黒子は何も言えないままだった。青峰にもらったシェイクもどうにもできずにいる ── と、支払いを彼に任せたことを思い出し、唐突に慌てた。恐ろしい間違いを犯してしまった心地がして、自分でも過剰と思うほどに、ばたばた荷物を漁りポケットを漁って財布を取り出す。
「テツ」
「あの ── ちょっと待ってください、払いますからっ」
「いらね」
「でも、」
「いらねぇ!」
 怒鳴るように言われて肩が跳ね上がる。次いで聞こえた、青峰の舌打ちの意味は何だ。黒子は声もなく混乱する。自分で自分の感情に追いつけないのだ。
 今日は朝から嫌な一日だった。最後の最後で最大に嫌なことが起きないと、誰が保証してくれるだろう。
「……違う、そうじゃねーって」
 多分黒子は震えていた。
 その肩を、もどかしげに引き寄せた腕があった。わざわざ遠くへ座った腰を、彼は両腕で抱え上げてまで近づけた。
 懐かしい距離と温度に眩暈がする。
「テツ」
「……み、ね、く」
「テツ……テツ、違う。ごめん。だから、頼むから、」
 頭をなでられる。背中をなでられる。
 大きな手。黒子にだけはやさしい手。
 今日一日ほしくてほしくてどうしようもなかったものだった。黒子は知らず彼の上着の胸元を握り込む。
「……あお、みねく……?」
「……ん」
「なんで……?」
 青峰は、はーっと、黒子の肩口で特大の溜め息をついた。黒子が落ち着き始めたことで、いくらか安堵の混じった溜め息だった。
「……メール」
 拗ねた声、だったかもしれない。
「返してくれねぇし。あーやっぱ嫌われてんなぁって思ったけど、会いたくてうろついてたらテツがいて。ドア相手に泣きそうになってっし」
 端から見た自分はそんなふうだったのだろうか。
 黒子は、昔の調子でつらつらと言い募る青峰に戸惑う。何よりも、彼の最初の一言だ。
「メールって、何ですか?」
「は?」
「いつくれたんですか?」
「……今朝」
「今日?」
「今日」
 自分の肩の力が抜けていくのがわかる。青峰がまったく昔の調子でいるから、余計に早く緊張がほどけてしまったようだった。
 黒子は、どこもかしこも頑丈な造りの大きな体に寄りかかって、覚えていた位置におさまり息をついた。
「……今日、携帯、家に忘れてきました」
「はぁ?」
「メールも見てません」
「お前……じゃあ、俺のこの数時間分のアレは一体……」
「アレって何ですか」
「……多分何人か殴った……」
「君、何してたんですか」
「覚えてねー」
 黒子を懐深く抱え込んだ青峰は、更に己の頭も抱え込んだようだった。彼が今日一日をどうやって過ごしていたのかももちろん気になるが、黒子が追求が必要だと思った場所は別にある。
「……嫌われてんなって、何ですか」
「 ── …………」
「敵になったら嫌いになるんですか」
「…………」
「君も。……嫌いですか?」
 黒子を抱く腕が強くなる。
 黒子はそれ以上訊かなかった。言葉で答えられるのなら、青峰もすぐに答えたはずだ。そして、黒子も同じ問いには答えられない。
 好きだったから敵になった。
 黒子は自分の恋を自覚していた。青峰が黒子をどんなふうに思っているのかは知らないが、少なくとも誰よりも黒子を大事にしていてくれたことは知っていた。同じように青峰も、黒子について、察していることは多いはずだった。どうして彼の敵になることを選んだのかも薄々は気づいているだろう。
 だから、本当はこんなふうにしていてはいけない。
 抱き合って、お互いの存在で自分を支えて、どうにもならない気持ちを教え合って、ああやっぱりこの人だけなのだ、なんて。
「……青峰くん」
「……もうちょっと」
「ダメです」
「ヤだ」
「……でも、」
「……ここ俺らしかいねーよ」
「…………」
「誰も見てねーし、バスケもしてない」
「……はい」
「テツのことしか考えたくねぇ……」
 馬鹿ですね。
 呟いたら、涙まで出そうになって慌てて笑った。青峰は全部わかっていると言いたげに、黒子の頭に頬を押しつけていた。

 *

 黒子が家に帰り着いた頃には、時計は九時を指していた。
 食事を抜きっぱなしで腹は減っていたし、帰りが遅すぎると親には怒られた。それでも、朝から黒子の中にあり続けた不調感はなくなっていた。青峰がどこかへ捨ててくれたのだと思う。
 あのあと、すっかり溶けて生ぬるくなり、本来の味とはかけ離れたバニラシェイクを、青峰と二人で、相手に押し付け合いながら飲み干した。かつてのように、笑って怒ってからかって拗ねて。そうして、最後にもう一度だけ、お互いしか知らないお互いの顔を目に焼き付けて別れてきた。
 ちゃんと敵に戻れた自信はない。次に会う時までに、再び気持ちを入れ替えるしかないとは思っていた。
 とにかく、今晩だけでいい。青峰を好きな自分を許したい。
 帰宅して部屋に戻り、何よりもまず先に、隅に置き忘れていた携帯電話のメールをチェックした。
 青峰が話していた通り、朝八時半頃に彼からのメールが届いている。その頃の黒子は、遅刻を免れようと、通学路を全速力で走っていた最中だっただろう。
  ── 朝メシ、何食った?
 なんと他愛もない。
 けれど、彼の様子では、迷いに迷った末のメールだったと想像はつく。
 黒子は小さく笑って、それから、彼にはまったく関係のない、今朝からの一連の自分の不運を訴える長文メールを打った。
 寝坊したこと。担任に欠席扱いにされたこと。ビーカーが割れたこと。昼食を食べられなかったこと。教師に嫌みを言われて気持ちが切れたこと。部活を見学したこと。黒子を除いた部員たちがラーメンを食べに行ったこと。
 返信はなくても良かった。
 そんな一日の最後に、青峰に会ったのだということを、ただ伝えたかっただけだった。
 しかし、黒子がメールを送信し、ほぼ読了直後と思われる素早さで返ってきた返事は。
  ── さっさと食え。寝ろ。そんで、思い知れ。
  ── 俺は今日、めちゃくちゃラッキーだった。
 あんな他愛もないメールに返信がなかったことで、朝から振り回されたらしい青峰が ── 一日の終わりに幸運だったと言って寄越すのか。
 黒子はその場にへたり込んだ。何だかいろいろ苦しかった。嬉しいし、もどかしいし、せつないし、恋しい。
 腹は減っているはずなのに、食べられそうにない。
 青峰のことしか考えられない生き物になりたい。
 今日ばかりは真剣に願って、彼の気配が色濃い自分の体を大事に抱きしめた。