泣き虫と鍛冶屋のポルカ

*青黒本サンプルです。ご購入はこちらからどうぞ。


 【泣き虫】ちょっとしたことにもすぐ泣くこと

 【鍛冶】金属を熱して鍛え、器具を作ること

 【ポルカ】四分の二拍子の軽快な舞曲

 【鍛冶屋のポルカ】Jシュトラウス作、管弦楽曲


00 
 たった一晩、一緒に練習する。
 きっと特別なのは今晩だけで、明日からまた昨日と同じ毎日が始まるのだろう ── 
 こちらの精一杯のディフェンスを軽々振り切り、誰にも真似できない奔放な個人技を織り交ぜ、シュートを放つ青峰の背を見る。
 スピードが桁違いだと思うし、技術も凄い。でも、それ以上に、青峰はとても楽しそうにプレイした。練習して上手くなることを純粋に楽しんでいる人である。見ていて気持ちが良く、黒子は自分も彼のようになれたらと憧れずにはいられなかった。
 自分の体は上手く動かない。バスケを始めたことが遅かったせいもあるのかもしれない。手を伸ばすことだったり、膝を曲げることだったり、その簡単なはずの動作が、一連のプレイの中ではまったくスムーズにできないのだ。
 繰り返し練習するしかないと思うから、ままならなくても繰り返している。多分退化はしていない、わずかでも自由に動く部分が出てきているから。
 今は小さく固いだけの体も、眼には見えずとも進化している。
「……進化、するんです」
 うっかり声に出して唱えていた。
 振り返った青峰が、不思議そうに聞き返した。
「シンカ?」
 黒子は慌てて何でもないと誤魔化す。
 青峰がシャツの裾で汗を拭いながら近づいてくる。困ったと感じるのは、黒子があまり言葉が得意ではないからである。特に同学年の相手と話すのは難しかった。
 何となく身構えたこちらとは逆に、青峰はまったく計算のない様子で、興味津々の眼差しを隠しもせず、覗き込んできた。
「なー、それ、俺が一軍だから?」
「え?」
「それ。敬語? 丁寧語? 俺が一軍だから?」
「違います、ただの癖です」
「そっか。じゃあ気にしなくていーよな?」
「はい……?」
「ん。じゃあ質問その一。シンカって何?」
 黒子はぱちぱちとまばたきをした。
 青峰はこちらの様子に「でっけー目」と笑って、前触れもなくその場に足を投げ出し座り込む。
 練習は一時中断らしい。黒子も何となく腰を下ろして彼に付き合うことにした。
「しんかは……進化です。練習していたら少しずつでも上手くなりますよね? そういう進化です。僕はあんまり早くできないので、口に出して宣言してたら、ちょっとは何かが変わるかと」
「へぇえ! なんか魔法の呪文っぽい!」
「そういうわけではないんですけど……」
「あ。そっか、悪ぃ。がんばってんだもんな、魔法じゃねーよ」
 黒子はまた大きくまばたきした。
 何だろう。真っ直ぐ言葉が通じている感覚がある。
「質問その二。一人が好きだから一人で練習してんの?」
「違います。あんまり仲良い相手がいなくて、一緒に練習しようって言い出せなかっただけです」
「あー、俺も」
「えっ」
「え?」
 驚いた黒子に、同じく驚いた顔の青峰が首をかしげた。
「……なんで?」
「だって、君は……」
 青峰は終始人に囲まれている印象があった。監督からも目を掛けられているように見えたし、上級生たちも青峰には一目置いていた。
 途中で彼も黒子が言いたいことがわかったのだろう。少し面倒くさげに顔をしかめ、片手で短い前髪を掻き混ぜるようにして目を伏せた。
「そういうの、俺、テキトー。誰とも深い話してねーし。一緒に練習してても一人でいるのと何も変わんねー気がするもん」
 では、今二人でしていた練習は何なのだろう。ちゃんとディフェンスとオフェンスがあった気がするが。そして、今している会話は何だ。決して適当な会話ではない気がする。
「……僕からも質問いいですか?」
「おー」
「どうして僕と練習しようと思ったんですか?」
 彼からすれば、黒子の力量などドリブルひとつで知れたはずである。なのに勝負の形を取ってくれた。物足りない顔も見せなかった。
 今の会話も。ちゃんと「相手」として視線を合わせてくれている。
 黒子は自分が凡庸なことは知っていた。学校でも、いてもいなくてもどうでも良いような扱いを受けてきたのだ。そんな自分が、彼に興味を持たれる理由がわからなかった。
 青峰が、改めて黒子を見つめる。すぐに何かを言いかけて、それから束の間迷うように口を閉じ、慎重に話し出す。
「……俺、飽きっぽいんだ。それで、わりと投げ出しがち。良くじいちゃんに叱られた、最後まで何が起こるかわからないんだから、ちゃんとやれって」
「……はぁ」
 最初は彼が何を話し出したのか全然わからなかった。
「だから ── ずっと続いてんの、バスケだけなんだよ。でも多分、上手くなり続けるって無理だろ。無理だと思うけど……まだ上手くなってる、だから続けられてる。俺、結果出ねぇのダメなんだ」
 けど、と、青峰は続けた。
「お前、全然ヘタクソだけどがんばるから。いいなと思った。そういうの好きだ。そういうふうに俺もなりてぇなって」
 聞きようによっては傲慢な言葉だ。
 青峰が最初に言いよどんだのは、彼自身もそうだと思ったからかもしれない。でも、黒子はそうは思わなかった。青峰の言い方が、曲がりなく伝えようと一生懸命だったせいでもあった。
 ちょっと不思議な心地になる。会話とは、これほど心を晒して大丈夫なものだっただろうか。もっと何かを隠したり包んだりしなければならなかった気がする。
 黒子自身は、自分が飛び抜けて繊細だったり鈍感だったりするとは感じたことがないが、それでも人の言葉が痛みをともなうものであるとは知っていたし、そういった言葉の棘は、わりと頻繁に心を刺激するものであるという印象があった。
 しかし、青峰の言葉は不思議に快い。切っ先はあるが痛くない。
「……青峰くんに好きだと言ってもらえるのは嬉しいですね」
 黒子はそっと笑った。
 今度は青峰が目を丸くしてこちらの顔を見た。
「……なー、お前、自分のこと薄いって言ってたけど、俺は何か違うと思う」
「そうですか?」
「うん。違うと思う、さらっとしてる」
「さらっと、ですか。初めて言われました」
「さらっと……そーだな、するっと? ふわっと? 遠ざかったな、あれ何だろう? もっとなんか気持ちぃ感じなんだけど。水とか空とか森とかそういうの?」
「人間じゃないじゃないですか」
「あ、ほんとだ。あれ? じゃあマイナスイオン?」
「だから。それ実態ないです」
 青峰は真っ直ぐな人らしい。考えていることを考えたまま伝えないと気が済まないようで、黒子が尋ねると精一杯言葉を尽くしてくれる。
 やさしいのかもしれない ── 少なくとも付き合いは良い。
 彼と近い距離で話せるのは、やはり今晩だけなのだろうか。同じ部にいても部活中は滅多に一緒にならない相手だと、黒子は心の奥底でこっそり残念に思う。
 ひとしきり話して、時計を見ればすっかり遅い時間で、二人はのろのろと立ち上がる。
 ボールを片付けてしまえば本当に終わってしまう。黒子が、せめてもう少しだけでもと、簡単な話題を探して辺りを見回した時だった。
「なー、俺、もういっこ質問あったんだけどいーか?」
「どうぞ?」
「お前、なんて呼ばれてんの?」
「えっ……」
「仲良いやつ。お前のこと、なんて呼ぶの」
 黒子は思わず青峰の表情を確かめていた。背の高い彼は、少し困ったような照れたような表情でそこにいた。黒子のまじまじとした視線に気がつくと、ふいと横を向いて、
「テツヤ?」
「えっ」
 びっくりした。一瞬言葉を忘れるほどだった。
「呼ばねぇ?」
 青峰が尋ねているのはつまり、黒子が友人からテツヤと呼び捨てされているかという話なのだろう。しかし、そんなふうに気安い友人はできたことがない。黒子は声もなく首を横に振る。
「呼ばねぇの? でも名字は普通に誰でも呼ぶもんな。じゃあやっぱ名前だろ?」
 どう答えて良いのかわからない。
「呼んでいーか」
「え、」
「名前」
「あ、」
 はい、と、答えた気がする。多分答えてしまったのだと思う。そうじゃなければ、翌日、偶然会った校内で「あ、テツヤ発見」なんて、気安く声をかけられるはずがなかった。
 それから、青峰は、たびたび第四体育館に姿を見せるようになった。時には部活中に覗きに来ることもあって、やっぱり気安く名前を呼んでは、黒子の周囲までもを驚かせた。
 最初はテツヤと当たり前に呼んでいたものが短縮するようになって、結局「テツ」に落ち着いたのは、わりに早い時期だった気がする。青峰は、実際頻繁に黒子の名前を口にした。テツ、という、彼しかしない呼称が安定してからは、もっと回数が増えた。
「テーツ、テツ。それ取って」
 あんまり自然に気安いから、誰にでもそうなのかと思ったら、実はまったくそうじゃなかった。青峰が、むしろ人見知りするタイプらしいとは、あとで気がついたことである。
 青峰は人の名前を覚えない。青峰は人にかまわない。青峰は集団行動が好きではない。青峰は途中で会話に飽きる。
 どれひとつとして黒子を相手にした場合は当てはまらないことだが、それが青峰の通常の対人姿勢らしかった。
「テツ、一口くれ」
 他の誰にもしないことを、当たり前のように黒子にだけする。特別扱いとは何たるかを黒子に覚えさせたのは、全部青峰だった。
 青峰と親しくなるにつれ、黒子は更にバスケに打ち込んだ。
 自分自身が上手くなりたかったのはもちろんだが、青峰がバスケを好きだったことも大きかった。青峰といるために、バスケは必要不可欠の条件だったのだ。
 下手でも頑張る、諦めない。
 彼が最初にそこが良いと言葉にしてくれた。それさえ持ち続けていれば嫌われることはないという保証だった。
 その保証は、いつしか黒子の御守となり、難しい問題に突き当たった時や、身体的に苦しくなった時に、絶大な効果を発揮してくれた。
 青峰には言ったことがない。
 本当は、離れている間も、彼の言葉に励まされた。遠くから絶えず届く灯台の光のように ── 辿れば、きっと彼ともう一度出会えるのだと信じた。
 彼はずっと黒子の道しるべだった。
 もうずっと ── 黒子は彼に焦がれていた。


01
 影が薄い。存在感がない。
 黒子テツヤの通知表には、歴代の担任教師のよそよそしさを物語るかのように、その手の言葉が添えられることが多かった。
 概して普通。教師からすれば、黒子の個性を美しく表現しようがなかったのだと思う。黒子は人なつこい質でもないし、誰とでもですます口調で話すローテンションな子供だった。
 言葉遣いが丁寧であるというのは、人としての美徳である一方で、子供社会では異質である。ついでに学校社会でも意外と異質だ。バスケを始めるまで仲が良い相手ができなかったのは、黒子のマイナス面ばかりが表に出ていたせいでもあった。
 影が薄い、存在感がない ── しかし、これらは、黒子自身がほしくて身につけたものではなかったはずである。透明人間になりたいと願ったこともない。では、きっかけは何であったのか。
 実は、良く覚えていないのだ。
 もしかしたら、幼稚園くらいに、何か悪目立ちして嫌な経験をしたのかもしれない。それで子供ながらに世間を悟って、常にローテンションになったとか。ですます口調で大人ぶってみたとか。
 そんなことを話したら、青峰大輝は大爆笑した。
「そりゃよっぽどヤな経験だったんだろーぜ!」
 全然本気で聞いていないのだと思ったのだ。けれども、彼の次の台詞はまったく逆の響きで耳に入った。
「まぁ経験がひとを強くするって言うしなー、テツのそれもそーかもってことだろ?」
「幼稚園でどれだけひどい経験するんですか、僕」
「さー? 俺の幼稚園での一番つらい思い出は、虫かごの中のセミ全部を猫に大虐殺されたことだったけど」
「全部ってどのくらいですか?」
「八匹くらい」
「惨劇ですね」
「ひでーだろ、未だに夢に見るもん」
 青峰との会話は、お互いをあまり知らない頃から、不思議なバランスで成り立っていた。
 青峰大輝。名は体を表すと言うが、黒子は彼ほどその名にふさわしい人物を知らない。
 彼はどこにいても人の眼を惹く。肌の色がまず日本人らしくないから、大勢の中にいると自然と彼に注目してしまうのだ。次に、その身長、手足の長さ、均整の取れた体躯と、目鼻立ちの良さ、表情の豊かさに驚かされる。動き出せばなお目立つ。何をしているわけでもなくても輝きを放つ人、それが青峰という人だった。
 そんな彼は、意識の上でもしっかり自己を持っていた。百人がイエスと言っても、彼は一人堂々とノーを主張する。ある意味、子供っぽい部分や我儘な部分がないとは言わない。ただ、多くの人間は彼の不敵さに憧れ、好ましく思う。そして、彼を自分より一段上に置く。
 結果として、青峰は黒子に会うまで近い友人を持たなかった。
 黒子にしてみれば奇跡的な巡り合わせだ。二人の特性は正反対だったのに、それすら一対の鍵のように噛み合い、お互いがお互いに興味を持つきっかけになった。
 青峰はいつだって黒子を熱心に観察した。
 馬鹿な話題が転がって、壮大な逃走劇に発展したことがある。一人で逃げるなら僕は最強ですとうそぶいた時、彼は黒子の悲観を見逃さなかった。
「一人がいーの? 俺いらねー?」
 青峰は、黒子が「影が薄い、存在感がない」と言われることが好きではないと、いつの間にか知っていた。もしかしたら、それが理由でひとりぼっちになりがちなことも、決して望んでいないと知っていたかもしれない。
「……青峰くんが一緒なら国外逃亡しかないですね」
「あ。俺、船なら操縦できるかも」
「かもで僕の命預からないでください」
「いや聞けって。高知のじーちゃんが海の男でさー」
 彼は大勢の中にいれば誰からもちやほやされる人なのに。だからこそ、誰の好意にも区別なく無関心でいる人なのに。
 どうしてか、黒子の目の奥だけは熱心に覗いてくる。何でも良いからそこにいろと隣を指し示す。
 黒子は、早い時期から、自分の心の揺れに気づいていた。
 青峰が隣にいるだけで何かが劇的に違う。楽しさも嬉しさも胸が痛むほどだった。今のままが良いと思ったから、今の距離を保つよう細心の注意を払っていた。
 ところが、ある遠征試合の帰りのことである。
 忘れもしない。中学二年の初夏だった。
 やっと一軍での練習に体がついていくようになり、青峰以外の一軍メンバーとも話をする機会が増えた黒子は、同時に、青峰がチームの中心人物であることも理解するようになっていた。
 つまり、放っておけば、誰彼となく彼に話しかける。
 電車で移動する帰り道、何とはなしに、黒子は青峰と距離をとっている。
 なぜ、と言われると、少し困る。
 その日の勝利の立役者が青峰で、皆が青峰のプレイについてそれぞれの考えをぶつけていた。黒子がコートに立った時間は三分足らず、ほぼ何もせずに交代だった。相手チームが皆長身で、高い位置でのパス回しを武器にしていたからである。
 勝利に対し、温度差ができるのは当然の出来だった。
 興奮の冷めないチームメイトは、いまだに試合中の顔で語り合っている。そういった仲間に囲まれた青峰も、適当にしつつ満更でもない様子に見えた。
 一人窓の向こうを眺めているうちに大きな駅に着き、あっと言う間に大量の乗客に飲まれる。入り口付近に立っていた黒子は、押しに押され、チームメイトと分断された。
 繰り返すが、黒子の影は薄い。ちょっといなくなろうが気づく者もいない。わざわざ人がひしめく間を無理に動く気にもならず、乗り換えの駅まで一人でいいかと諦めた。
 すると間もなくだった。青峰が移動してくるではないか。
 大勢の中で良く自分を見つけたとまず感心して、けれど彼の表情を見た途端に何を言って良いかわからなくなる。
 彼は拗ねていた。ずいぶんとわかりやすく。
「……なんか怒ってんの?」
 黒子の隣に立った青峰は、開口一番にそう言った。
 むしろ、それを訊くべきは黒子の方であったから、咄嗟に答えが出てこない。
 言葉を探すうちに電車が大揺れし、体重のない黒子は青峰の肩口へと突っ込んだ。同じ揺れの中にいても青峰はびくともせず、今にも逃げ出しそうなものを捕まえたかのように、黒子の肩を自分へと寄せる。
 テツ、と、呼ばれた気がして頭を上げる。
 彼はやっぱり拗ねていた。
 理由はまだ聞いていない。でも彼の表情はわかりやすい。感情に素直で隠れることもない。その手は、黒子に離れた場所にいるなと訴えている。わざわざ一人になるなと責めている。
 過去の記憶を総ざらいしても、彼ほど黒子を特別扱いする人はいない。というか、十把一絡げの扱いしかされたことがないのだ。どうしても慣れなくて、嬉しがって良いのかもわからない。黒子は彼の目を避けて顔を下向け、どうにか両足を踏ん張ると、支えの手を断って独力で立つ。
 乗り換えの駅は次だ。黒子一人がはぐれたのであれば忘れられて終わりだろうが、青峰が一緒なので目立ったらしい。離れた場所から「青峰、次降りろよ!」と声がかかる。
 隣ではかすかな舌打ちの音。
「……テツも一緒だっつの」
  ── どうして君が怒るんですか。
 黒子はひたすらうつむいた。軽く流すことができず、まともに嬉しがってしまう自分が恥ずかしかった。
 心臓が啼いている。彼の近くにいるとこんなことが多い。科学反応みたいに何かが生まれ、胸の内に次から次へと積み重なっていくのがわかるのだ。
 隣で青峰が動き出す。目的の駅に着いたらしい。
 周囲の乗客もほとんどが同じ駅で降りるようで、一歩目で出遅れた黒子は、また人の波に埋もれてしまった。
 わざとそうしたわけじゃなかった。ただ少し戸惑っていた。あんまり青峰が近すぎて、自分の中での変化も早すぎて、本当にこのまま進んでいいのかと不安になった。
 しかし。
「 ── ほんと、お前、俺舐めてんのかよ!」
 ぐい、と、力強くジャージを引っ張る手に、思いっきりたたらを踏む。
 多分周囲には激しく迷惑だったろう。もっとも狭い乗車口付近で、青峰は人の流れに逆らい、黒子を手繰り寄せたのだ。
 ほぼ抱きかかえられて電車から連れ出だされた。
「ちゃんと全員いるなー?」
 誰かが点呼を取っている。青峰が勝手に「俺とテツここ」と手を挙げて、同じジャージの集団は次のホームを目指し、ぞろぞろ動き出す。
 黒子は肘を掴まれ、彼と同じ速度で歩かされた。
「……なぁ、なんで離れんの」
「…………」
「怒ってっから、一緒に歩いてくんねーの」
「……違い、ます」
「でも、さっきわざとはぐれただろ」
「わざとじゃないです……」
「嘘だ。俺が気づくかどうか試した」
 そんなことをしたつもりはない。
 なのに、彼の指摘に耳が熱くなって、頬は熱で痛いくらいで、掴まれたところも焼き鏝でも当てられたみたいになる。
 関節の一番太い部分も余裕で一周してしまう、大きな手。そんなことを今更意識する。何だか思考がどんどん変になっていく。多分酸素が足りていない。
連れられるまま足は動くが、実際は綿の上でも歩いているように感覚が怪しかった。
 小さな段差で爪先がくねる。
「……テツ?」
 その頃には、青峰もさすがに異常に気づいたらしい。
「お前、顔っ……」
 真っ赤だ、と、言うより早く、彼はこちらの額に手をあてていた。一度じゃ良くわからなかったのか、項や襟首にまで手を差し込んで熱を測る。
 黒子の許容範囲はそこまでだ。がくんと膝が砕けて、尻餅をつく寸前で青峰に助け起こされる。
「バカ! 具合が悪いんならそう言えよ!」
 君が近すぎて息できないんです。言えたらどんなに楽だっただろう。
 青峰はこんな時ばかり過剰に世話を焼いてくれた。
 黒子を脇のベンチに座らせると、近くの自販機でミネラルウォーターを購入。キャップを開けてやって、ペットボトルを持たせるところまで手を添えて、
「じっとしてろよ! 動くな!」
 そのまま、自分はチームメイトのとこに走り、上手く別行動の許しを得てきてくれたのだろう。帰ってくる時には、部で使っている保冷剤まで調達してきてくれた。
 普段はあまり他人の面倒など見ないくせに、いざと言う時には目端が利く。青峰は学校の勉強こそ嫌うが、頭の悪い男ではなかった。
「人に酔ったか……?」
 タオルにくるんで温度を調節した保冷剤を、頬やうなじに当ててくれる。気持ちが良くてうっかり甘えそうになる。
「ありがとうございます、自分で持ちます」
「平気か?」
「はい、だいぶ落ち着きました」
「ならいーけど」
 保冷剤を持ったら、キャップのないペットボトルの扱いが難しくなった。と、すぐに青峰の手がボトルを奪う。特にことわるでもなく彼も一口飲んで、ポケットからキャップを出して栓をした。
 黒子はまたくらりとした。
 そう言えば、青峰はずっとこんなふうだった。黒子をあまり他人と認識していない。回し飲みは当たり前で、手はつなぐし肩は抱くし、どうにかすると荷物みたいに抱えるし、とにかく何だかんだで接触過多なのである。
 今も。わざわざ近くならないように間に置いていたバッグを退けて、黒子の隣に腰掛ける。
「……なぁ、やっぱり何か怒ってる?」
 大きな体を背で折って、こちらの顔をのぞき込むようにする。
 彼と視線が合うだけで震えそうになった。自分の過敏さに、いよいよまずい事態になったと黒子は悟る。
「……別に怒ってないです」
 声が変でなければ良い。青峰が何も不審に思わなければ良い。
 けれど、不意に持ち上がった彼の手は、気遣う仕草で黒子の目尻をなぞった。揺れそうな体を押さえるだけで精一杯だ。
「……目ぇ赤い」
「平気、です」
「家まで送る」
「一人で帰れます」
「俺、お前送るっつって部活抜けてきたんだぜ?」
 いろいろ奔走してくれた彼には悪いが、今は本当に距離をおいてくれないと大変なことになると思った。
 少し離れたら落ち着くかもしれない。黒子は、ただ穏便に事を終わらせてしまいたい一心だったのに。
「……やっぱ、わざとだっただろ」
 その時、青峰はどうしても退いてくれなかった。
「何の話ですか?」
「わざと隠れた。試したのかと思ったけど……違うんなら、お前けっこうひどい」
「さっきもそんなこと言ってましたよね。でも、僕は」
「俺が見つけた時びっくりしてた」
「びっくりします、見つけられないことの方が多いんです」
「それって、他のやつがテツんこと見つけられないから、俺もお前見つけらんないと思ったって、そういうことだよな?」
 青峰が何にこだわっているのかがわからない。
 そもそもは、電車の中で、二人が離れていたことが発端だが、青峰自身は他の仲間に囲まれていたのだから、黒子が傍にいようといまいと賑やかだったはずだった。
 寂しかったのは黒子の方で、彼と合流したあと人に埋もれたのも、半分は事故だった。経験上、一度大勢にまぎれてしまえば見落とされるのが常だったし、むしろ彼が黒子を見つけたことこそ特例である。
 あんまり青峰がこだわるので、電車での経緯を吟味していたら、隣から絶望したと言わんばかりの派手な溜め息が聞こえた。
 黒子は驚いた顔を晒してしまう。その顔を見た青峰が、また大げさにがくんと頭を垂れた。
 彼はついさっきまで拗ねていた。今は多分落ち込んでいる。
 彼はわかりやすい。原因は黒子である。
「……どうかしましたか?」
 おそるおそる声をかけると、恨めしげに横目で睨まれる。
「俺が他と同じとか、すっげー侮辱」
 侮辱?
 侮辱とはあれか。あなどり、はずかしめる?
 黒子はぽかんと口を開ける。
 青峰はかまわず続けた。
「この際言っとく。俺、お前がいないのすげーヤダ。見失いたくねーから離れりゃ速攻探すし、一回見つけたもんどっかやりたくもねーから、手で捕まえる。こっちは必死でお前の傍にいるんだっつの。なのに当のお前が、俺が他の
やつらと同じで、簡単に見失って当たり前だっつーんなら、侮辱も良いとこだろ」
 言葉が出ない。
 青峰は何を言っている? ただ何となく傍にいるのではなく、一緒にいたくて努力していると?
「だから、結局、俺が言いたいのは ── 」
 顔から火を噴きそうだ。思わずうつむいたなら、逃げを許さぬ両手がこちらの頬を挟み、無理やり上向かせた。
「テツ、聞け」
 聞いてます、としか言えない。
 真っ赤な顔は彼にも見えているだろうに、多分こちらが恥ずかしがっているのも伝わっているのだろうに、彼は嫌がらせのごとく堂々と宣言してみせた。
「俺はお前が離れても見つけっから。それでいちいち驚くな。ついでに、わざと離れて手間かけさせんな」
「わかりました……」
「俺は他のやつらと違う」
「……そう、です、ね……」
 全面降伏である。これほどあからさまに特別だと訴えられ、実際その通りに行動でも示されて、嬉しがるなと言う方が無理なのだ。
 しかも、他と一緒に考えるなとまで言われてしまった。青峰は意識しているのかどうか怪しいが、それは黒子に「彼だけを」特別扱いしろと言っているのと同じ意味である。
 肯定の言葉を引き出して満足したか、青峰はやっと機嫌を直したらしい。両手で挟んだ黒子の頬をぐいぐい押して、好きに遊んで屈託なく笑った。通行人がいようがいまいがおかまいなしだった。
「テツ顔ちっせ!」
「……君の手がデカいんです」
「そぉ? あと肌しっろ!」
「君が黒いんです」
「あー、そりゃそーかもなー」
 本当に何がそこまで楽しいのかと尋ねたくなるくらい、今の青峰は楽しそうだ。
 黒子は、ふと電車で仲間に囲まれていた時の彼を思い出す。彼はこんなふうに笑ってはいなかった。会話の中心にいたくせに、もっと薄い反応でいた。
 黒子の心臓は、彼のために未だ啼いている。彼がそこにいるだけで呼吸は難しくなるし、心が波打って落ち着かず、逃げ出したい気持ちにもなるけれど ── 
「……青峰くん」
「んー?」
「僕も、君の傍にいるように努力します」
 青峰はつかの間黙ると黒子の目の奥を覗き、勝手に何かを確認してうなずいた。
 別に相手を縛ったつもりなどなかった。しかし、それは確かに約束の形をして黒子の心に残ったし、恐らく青峰の心にも刻まれた。
 あとで思えば、一緒にいるために努力をする、なんて、友達相手に誓うことではなかっただろう。それでも二人の間では自然な約束だった。


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2013/8/10夏コミ発行「泣き虫と鍛冶屋のポルカ」
フルカラー表紙込140p、青峰×黒子小説本。イベント販売は終了しました。