君がいるから世界は美しい

 最近毎日が楽しすぎていけない。青峰は、バッシュの音が響き渡る部活中の体育館を横切り、気分良くベンチに戻って体中から吹き出る汗を拭った。
 春先である。校庭の隅では花の明るい色が目立ち始めている。風の様子も、いつの間にか、木枯らしから刷毛でやんわりなぞるようなものに変わっていた。
 春は人や物が入れ替わる時期、新しいものが古いものを淘汰していく時期である。青峰は、自分の中でもまた、日を追うごとに何かが塗り替えられていくのを感じている。
 その最たる要因が今、目の前で、ベンチまでのあと一歩が出ず、床にへたり込んでいた。
「生きてっかー?」
 青峰と同じか、それ以上に汗で肌を濡らし、肩で息をする彼。
 つい最近一軍の練習に加わったばかりの黒子には、いまだ一軍の練習メニューは鬼のようなものらしい。それでも、今容易に立ち上がれないほどだったとしても、あとには居残り練習を行って人より多く鍛錬を重ねるのだから、彼の心意気には純粋に感動させられる。
 青峰は、うなだれるばかりの小さな頭に手を伸ばし、汗で湿った髪をくしゃくしゃと掻き回した。
「テツー、死ぬなー」
 死んでません、と、蚊の鳴くような声。
 笑って聞こえないふりをする。
「テーツ、テツー? あーあ、今日こそ死んだかー」
「し、んでませんって……言ってるじゃないですか……っ」
 精一杯の強がりで、青峰の手を払って見せた。けれど、そのあとが駄目だ。払った勢いで横に倒れ込みそうになったので、青峰は片足を伸ばして黒子の肩を支える。ついでに、薄く細い体を脇から抱え反転させ、完全に自分の足の間に入れてやった。
 ほぼ二人羽織の体勢である。いろいろ近くて暑いが、ひとまず彼が床に倒れ伏すことはない。
「も……あっつい、です。離れててください……」
「テツが一人で座ってられるようになったらなー」
 意地悪く後ろ頭を小突くと、やわい拳で膝頭を殴られた。全然痛くないから怒るどころか笑えてしまう。
 青峰は、黒子の負けん気の強さが好きだった。明らかに体格で負けていても、どんなに体力差があっても、そんなことはいつか克服すれば良いことだと、目の前の努力を怠らない。
 黒子といると、青峰自身も、願うだけ頑張って良いのだと思えるのだ。
 これまで一緒にいた友人たちは、どこかで青峰の考え方を決定的に否定していた。強くなりたい上手くなりたいと口にしても、練習を嫌う者がほとんどだった。青峰は甘えた相手が一番嫌いだ。そういった意味でバスケにストイックな黒子は、目下、一緒にいて一番楽に呼吸ができる相手となっていた。
 ただ、青峰と比べ、黒子はフィジカル面が頼りない。半分は見目の問題かもしれなかった。細いし小さいし、基本儚げと称される色合いでできていて、大勢の中では簡単に埋もれるし、顔の造形は幼くやさしい。
 気持ちは人一倍強いのに、あらゆる部分が追いついていないのが黒子という人物である。おかげで、青峰はあれこれ余計な手を出してしまう。
 今も彼の汗まみれの姿が気になって仕方ない。春先と言っても気温は低いのだ。拭わなければ体が冷える。
 ベンチの上を眺めて黒子のタオルを探した。
「……テツ、タオルどこやった?」
「……そこにないですか」
「ねーっぽい。いつものやつだろ?」
「はい」
 ベンチの下にも落ちてない。
「どっか置き忘れたか?」
 黒子は返事をしなかった。まだ大きく息を乱したままだから、声を出すのがつらいのかもしれない。
「……忘れた、かもしれません」
 しばらくして返ってきた言葉はぼんやりしている。
 青峰は深く考えず、ないのなら自分のタオルで何とかしてしまえと、使いさしのタオルを黒子の頭に被せた。
 何か言われる前にざかざか擦る。
「ちょ……っ、青峰くん!」
「文句言うなー」
「言います……っ、て……痛いっ……し、汗くさいですっ」
「気にすんな。拭かねーよりましだろ」
「でも……っ」
 もがくのを押さえつけて拭いていると、最初戸惑った声を出していた黒子が、どんどん笑っていくのがわかった。
 途中からは青峰も一緒になって笑っていた。すぐに監督から叱咤の声が飛んだが、二人とも一瞬だけ真面目に謝って、次にお互いを見た瞳にはまた笑いが滲んでいる。
「今日も残んだろ? 帰り、マジバ行こーぜ」
「はい」
 そんな約束をひそめた声で交わして練習に戻る。最近、青峰の日常が楽しすぎるのは、間違いなく黒子の存在のせいだった。
 
 膝が震えるまで走らされる部活が終わり、休憩を挟んで、二人きりの自主練習を終える。その頃には、すっかり夜で、校舎に残っているのも老いた守衛だけである。
 暗い昇降口で、手探りで靴箱を開くのにももう慣れた。
 青峰と黒子はクラスが違うので、靴箱のコーナーも当然違う。部活や自主練、ロッカールームでは近くにいても、帰る間際のこの時だけはお互いの顔がまったく見えない。
 それでも、声は届く距離だ。
 青峰は大抵くだらないことを話し続けている。少し離れたところから黒子の相槌が返ってくるのだが、それが妙に律儀でくすぐったくって、話すのがやめられない。
「 ── って灰崎が言うから、赤司にチクったらさー」
「それは君が人でなしです」
「あ、やっぱり? 灰崎にも血の色ミドリとか言われたわ」
「そういうとこありますよね君。やさしくもできるくせに」
「俺にやさしーとか言うのテツだけだぜ?」
「ああ、僕の目が節穴なんですね」
「おい、コラ。そこは否定するとこだろ」
「いえ、多分僕が ── ……」
 ふと不自然なところで言葉が切れ、青峰は靴を履き、踊り場側から黒子のいる別クラスのコーナーに向かった。
「 ── どした?」
 時間が遅いせいで、昇降口の電灯は必要最低限になっている。黒子の手元に何かがあった気がしたが、青峰からは影になり良く見えない。
 黒子は何でもありませんと一本調子に言うと、さっと革靴を履いて踊り場に出てきた。まったく普通の様子だった。
「帰りましょう。マジバ寄るんですよね?」
「腹減ったよなー」
 昇降口の脇には、幹の太い大木がある。その木が桜だと青峰が知ったのは、白い花がつき始めてからである。
 去年の今頃に帝光中学に入学したのだから、恐らく満開の状態で木を見たこともあるはずだったが、記憶にない。つまり桜は、青峰にとっては、取り立てて考えるほどではないものだった。
 しかし、黒子にとっては違うらしい。
「もうすぐ満開になりますね」
 連日、靴箱を出ると立ち止まり、木を見上げ、彼はそうっと目を細める。
 楽しみ、なのだろう。花が咲くのが。
 青峰も彼に釣られて見上げはする。ただし、桜を特別美しいと思ったことがないから、どうしても鈍い反応になる。
「……桜、嫌いですか?」
 連日同じ会話を交わしていたのに、それは初めての質問だった。
 青峰は視線を感じて黒子を見た。
 黒子といる時、背が前に折れるのが癖になりつつある。二人の身長差はちょっとしたもので、並んで歩いている間は、お互いがお互いの身長に合わせないと目の奥が覗けない。青峰は上体を倒し気味に、黒子は逆に頭をそらし気味になるわけだが、もちろんどちらも楽な姿勢ではなかった。
 それでも二人の視線は合うことの方が多い。今も。
「嫌いじゃねーけど、好きとかもねーな」
「僕は好きです」
「知ってる。ここ通る時いつも桜の話してんもん」
「そうでしたっけ? 君が毎回つまらなそうなのは覚えてるんですが」
 つまらなくはなかった。はずだ。
「良くわかんねーんだって。テツこそ、なんで桜好きなの?」
 黒子は困ったらしい。青峰の質問も、恐らく彼にすれば初めてのことだったのだろう。
「なんでと言われると……綺麗だと思うのに理由はないです。でも、そうですね……」
「何だよ?」
「ここにある桜は、君と一緒に見れると思いました」
 事実を淡々と述べただけの言葉が、なぜか胸に響いた。
 青峰は、もう一度、蕾ばかりの桜を見上げる。
「……キレーかな?」
「綺麗だと思います」
「ふぅん……」
「綺麗だったら……残ります」
「あ?」
 何のことだかわからず、黒子に視線を戻した。桜を見上げているのだろうと思っていた彼は、予想に反して、もっとずっと下の足元を見ている。
 地面には二人分の影、それを閉じ込めるように桜の木の影が網目になっている。
「春が来るたび、桜って見ますよね?」
「まぁ見るな」
「そしたら、桜見るたび思い出すかもしれないじゃないですか」
 君と一緒に見たことを。
 青峰は上手く言葉が選べず「ふぅん」と、さっきと同じ答えを返した。
 黒子が言うのなら、残りそうな気がした。
 網目になった木の影が二人をつなぐように ── その瞬間を閉じ込めるように。共通の記憶が二人ともに残る。
「……キレーだといいな」
 いくらか感情のこもった呟きに、黒子がそっと笑った。
 何でもなかったはずの桜の大木が、急に特別なものに見えた。
 
 翌日、部活は休みで、そのまた翌日は学校の始業式だった。新入生のオリエンテーションに使うとか何とかで、今日も部活はない。
 青峰は暇を持て余し、真新しい机に突っ伏した。
 新しいクラスの新しい席は名前順なので、当たり前に一番前になってしまった。配布物はすぐに回ってくるし、教師とも目が合うし、いろいろ居心地の悪い席である。何より、せっかくのクラス替えでも黒子とは別クラスで、休み時間に話したい相手もいない。
「よー、青峰。一緒メシ食わねー?」
「誰だよ、お前。名前知んねーよ」
「ひっで! クラスメイトだろー、前は隣のクラス! ちょっと喋ったことあんじゃん」
 知んねーよ、と、思いながら適当に話をする。
 青峰は、これまで自分から友人を作ろうと動いたことがない。黙っていても向こうから寄ってくるのだ。いろいろ理由はあるのだろうが、どうも青峰自身が他より目立つらしい。
 今も、一人横に座ったのを皮切りに、あちこちから知らない相手が寄ってくる。名前を名乗られても全然覚えられない。当分は話すたびに「誰だ」と言う自分が想像できた。
 別に、クラスで目立つことは嫌いじゃなかった。
 少し前までは馬鹿騒ぎにも混じったが、今はあまり必要を感じなくなっている。新しいクラスで、新しい友人をという人の気持ちは理解できても、いざ自分に降りかかると、好きでもない相手に懐かれるのは煩わしいばかりなのだ。
 明日からテツんとこ通おーかな……、青峰は目の前の誰かを眺めつつ、真剣に吟味を始めている。
 黒子は新しいクラスでも影が薄いと言われているだろうか。
 彼にあまり仲の良い相手ができなければ良い。もしも、別の誰かと親しくなったせいで、一緒にバスケをする時間や話す時間が少なくなったら、つまらない毎日に逆戻りである。
 やっぱり明日と言わず今日から通うべきか。
 青峰がポケットの携帯を本気で取り出そうとした頃だ。
「大ちゃん、ちょっといいかなぁ」
 その声に、青峰を取り巻いていた男どもはぎょっと背後を振り返り、青峰自身は面倒くささを隠しもできず、睨まれた。
 声をかけてきたのは、幼なじみの桃井である。何の因果か、彼女とは今回も同じクラスだ。
 ちなみに、同クラスには緑間もいた。いても、まず話さない相手なので、友人の数には入れていない。
「ちょっとごめんなさい。すぐ済むから、この人貸してねー」
 だりぃ、と呟いたら、滅茶苦茶良い笑顔が返ってきた。まずいやばいと本能で察した青峰は、教室を出る彼女に大人しく従う。
「……おい、大ちゃんってヤメロ」
「次からね」
「おい」
「いーじゃない、別に。青峰くんって呼びにくいもの」
「テツは呼んでんぞ」
「あの子は特別。誰でも君付けで呼んでるし」
「子ってお前……テツのこと舐めすぎじゃね?」
「どーして大ちゃんが不機嫌になるのよ」
 この頃の桃井はまだ黒子のことを知らず、青峰の話の中で頻繁に出るようになった名前を不思議そうにしていた。
 いや、多分、青峰の周囲にいた者のほとんどが、青峰が黒子と急速に距離を縮めたことを不思議に思っていたはずだった。
 そもそも青峰はこれまで特定の友人を持たなかった。基本的に人とべたべたするのが嫌いで、単独行動を取りがちでもあったせいだ。それが一転し、むしろ青峰の方が相手にかまいたおしているとなると、何が起こったのかと訝しむ者も出てくる。
 でも、仕方ない。黒子はいろいろ特別なのだ。青峰と同じく近い相手が少ない彼は、友人という関係に気後れするのか不器用なのか、こちらから行かないと来てくれない。そうして、行けば彼はわかりやすく嬉しそうな顔をするから、実は青峰が強引に突撃するくらいがちょうど良いのかもしれなかった。
 とどのつまり、特別扱いはお互い様なのである。
 一度、部活外で黒子と誰かが喋っているのを見たが、あんまりにも彼の表情が動かないので爆笑した。黒子も青峰相手の方が気安いのだ。それさえわかっていれば、いくらか我儘を通して隣に居座る形になろうと、かまうものかと青峰は考えている。
 桃井と別れたら黒子のクラスに行こう。そわそわする青峰をよそに、桃井はひどく慎重に口を開いた。
「ねー、大ちゃん。先輩に仲良い人いる?」
「センパイ? さー?」
 桃井が言うからには、バスケ部内の上級生限定だろう。去年の三年生は卒業し、今いる上級生は元二年だけだが、青峰はその誰ともあまり話をしない。
 嫉妬をかっているというのは感じている。本来なら、一軍を率いるのは最上級生のはずだった。ところが、蓋を開けてみれば、今年のレギュラーの大部分は下級生だ。上級生にしてみれば、おもしろいはずがないのだった。
「なんでんなこと訊くんだよ?」
「うーんと……ちょっと変な雰囲気になってるみたいだから」
「へー」
 きっと、そこで別の名前が出ていたら、青峰は何の迷いもなく話を聞くのをやめていた。
「少し気にしてあげた方が良いよ、黒子くん」
「テツ?」
「一番最後に一軍に入ってきたし、まだあんまり一軍の練習にも馴染めてないでしょう? だから、何かあればすぐ辞めてもおかしくないって……」
 青峰は自分でも驚くほど気持ちが振れ、続く細々とした情報に反応することを忘れた。
 腹の底を冷やすのは純粋な怒りだ。
 自分は人のために怒る人間だったらしい。そんなことすら、今この時まで知らなかった。
「……誰がテツに嫌がらせしてるって?」
 桃井は二人の名を上げた。
 どちらにも聞き覚えはない。つまり、その程度の人間である。
「二軍の先輩らしいよ。黒子くんが一軍に入らなければ、どっちかが一軍に昇格してたって噂だった」
 青峰は鼻で笑った。そんな噂があるものか。
「わかった、気をつける」
「うん」
「あんがとな」
 大ちゃんがお礼言った!、と、失礼にも桃井は派手におののいたが、青峰はもはや彼女には目もくれずひたすら足を動かした。
 肩を怒らせ、目つきを悪くした青峰は、どれほど恐ろしげに見えたのか。すれ違う相手はことごとく左右に避け、廊下の中央には真っ直ぐな道が開いていく。
「 ── テツ!」
 勢いのまま、他クラスのドアを非常識な強さで開け放った。
 ざわついていた教室がしんと静まった。
 同じ制服、同じ背格好の中でも、この目は簡単に彼を探し出す。
 大股で距離を詰めた。誰もが浮き足立って席を立ったが、黒子は一人、怒りの形相をしている青峰を静かに見つめ返している。
 青峰もぎりぎりと睨み付けた。
 その間、およそ十数秒。緊張状態で沈黙が続くには、多少長く感じる時間だったはずだ。二人の周囲にいた者たちも、今にも片方が拳を振り上げるのではないかと、息を殺して見守っていた。
「こんにちは、青峰くん」
 均衡を崩したのは、黒子の声である。
 どこか幼さが残る涼やかな声音。一本調子なようでいて、そこには密かな親しみが込められている。
 内心でひるんだのは青峰の方だった。これだけ怒っていると主張しても、彼は自分を恐れたりはしないのか。
 ささくれ立っていた気持ちが急速にしぼむ。
「……テツ」
「はい?」
 真相を問い詰めなければと思ったのだ。
 にもかかわらず、目を逸らさず静かな黒子を見ていたら、動揺した自分こそが馬鹿だった気がしてきて、言葉が出てこない。
 青峰は、しばらくぶすったれた顔で黒子を睨んだあと、唸るように「メシ食った?」と訊いた。
「これからですが」
「じゃー付き合え」
「いいですけど。君、手ぶらじゃないですか」
「買いに行く。購買も付き合え」
「……いいですけど。君が怒鳴り込んで来るのって、そんな用なんですか」
「悪いかよ。いーから付き合え。これから毎日」
 毎日ですか、どうしましょうか。呑気に迷う黒子に激しく負けた気分になる。
 青峰は、彼の机に用意されていた弁当を雑に掴み、もう片手に黒子の手首も掴んで ── 掴んだものの、自分より遙かに細い手首に乱暴しきれず、小さく揺らすにとどめた。
「……テツ」
 ねだるような声になったと思う。
 黒子が淡く笑う。そして立ち上がった。
「わかりました。付き合います」
「毎日」
「はい、毎日」
「……ん」
「でも、そういう平和な用件で怒鳴り込まないでくださいね。君、意外と有名なんですよ、みんな引いてます」
「知んねー。つか、なんでおんなじクラスじゃねーの、お前」
「さぁ」
「もーヤダ。お前、緑間かさつきと代われよ。なんであいつら一緒なの?」
「知りませんって。そんな無茶言うくらいだったら、君がこっちに来たらいいじゃないですか」
「おー、誰とでも代わってやんぜ。どいつとがいい?」
 黒子が呆れて溜め息をついた。青峰の手から弁当を受け取り、まだ購買に食べ物残ってるといいですね、などと、不穏なことを言いながら歩き出す。
 教室から遠ざかると、黒子は思い出したように「それで?」とこちらを仰いだ。
「本当は君、何か違うこと言いに来たんですよね?」
 青峰は苦々しく黙り込んだ。
 一度勢いを失ってしまうと言い出しにくいことだった。
 もともと自分は何を問い詰めるつもりだったのか。上級生にいじめられてないかと黒子に訊いて、それで違うと言われたら笑い話にして ── そうだと肯定されたなら?
 いや、待て。と、青峰は自分の思考を修正する。
 だって、もしも事実そうであったとして、黒子がそんなことを話すとは思えなかった。黒子の負けん気の強さを誰よりも買っているのは青峰である。むしろ、彼に弱音を吐かれたら幻滅することもあるのかもしれない。
「……青峰くん?」
「……おー」
「怒ってたんじゃないんですか?」
 怒っていた。黒子を虐げようとする者の存在に。
 でも、多分それだけが原因ではないのだ。弱音を吐かれたら幻滅すると思いながら、一方ではもっと別のことを考えた。
 黒子は誰にも弱音を吐かないと予想はするのに、そういう黒子を好ましくも思うのに、その「誰にも」の範囲の中に自分が含まれてしまうことが納得いかなかった。
 青峰は己の額に手のひらを当ててうなだれた。
 気位が高い、強がりが上手い。そういう彼が、青峰にだけ弱みを見せて、もたれ掛かってくればいいと願ってしまった。
 怒りの半分は身勝手な欲求でできていた。
 本当は、ただ頼ってもらえなくて悔しかったのだ。
「……悪ぃ。テツ、忘れてくんね?」
「なんですか。意味わかりませんよ、君」
「わかんなくていー。わかられたら俺がへこむ」
 黒子は大きな瞳でパチパチとまばたきをし、それから変に納得した様子で「そうですか」と言った。
「仕方ありません、忘れます。君がへこむのは見たくありません」
 思いの外きっぱり言い切られ、嬉しいんだか情けないんだかわからない心境になる。
 しかも、うっかり浮上させられてしまいそうだ。これでは、あまりに黒子に不公平だった。だから頑張って反省しようとするのに、黒子の方はと言えば、青峰が浮上するのを今か今かと熱心に眺めて待っている。
 チクショウと思う。
 こういうところが、彼は本当に。
「あーもーテツー……」
「はい?」
「……ほんと、どーして別のクラスなんだよ?」
 黒子が思わずといった具合に笑う。
 その笑顔ひとつ、きっとよそでは簡単に見せない表情だった。知っているのに、もっと別も欲しいと欲張る自分こそが間違っているのではないか。
 結局、桃井からの情報は置き去りになった。
 単純に言い出しにくかったこともあるが、青峰自身が疚しかったせいでもある。
 これまで一度でも黒子が青峰を頼っていたら、青峰は強引に手を出しただろう。恐らく、嫌がらせはあった。桃井が嗅ぎ付けたことを考えると、ない確率の方が低かった。それでも黒子はちらとも片鱗を見せてはいない。青峰も桃井に聞くまで気づかなかった。
 とすれば、黒子が敢えて事態を隠しているのだ。
 暴く権利は、青峰にはない。少なくとも、身勝手極まりない欲求を免罪符にはできなかった。
 青峰は悶々と過ごした。これまで、自分が誰かにどう思われているかなんて興味がなかっただけに、黒子を思って身動きが取れなくなった自分に戸惑っていた。
  
 翌日は、三日ぶりの部活があった。
 上級生から入部希望者まで、新しい年度が始まるせいか、珍しくも男子バスケ部総員での統一練習である。内容もいつもと違って大人数で動くものが主だった。声出しであったり、走り込みであったり、簡単なパス練習であったりと、ほぼ基礎の反復に終始している。
 さすがに一軍の練習に慣れた青峰には物足りない。
 黒子も、今日ばかりは平然としていた。最近は、体力の限界まで動かされることが続いていたから、頭を上げて普通にしていること自体が久しぶりでもあった。
 ふと、その足に目が行く。黒子の肌は白い。些細な異常もくっきりと目立つ。太腿の裏に、何かにぶつけた痕ができている。
「……テツ、足どーした?」
 黒子は驚いたように青峰を振り返った。
「足、ですか? どうにかなってます?」
「痕できてる。どっかぶつけた?」
 足の裏側。後ろから何かが追突しない限り、痕がつくような場所じゃない。
「……あぁ、さっき。走ってて接触しました」
 全体練習で一定のペースを守るように言われていたのに?
「……アイシングしとけよ」
「大丈夫ですよ、君に言われるまで気づかなかったくらいですし」
「でも目立つ」
 青峰はにわかに苛立った心を抑え、動かない黒子に代わって冷却スプレーをベンチまで取りに行き、たたずんだ彼の患部に広く噴き付けた。
「……青峰くん、わりと心配性ですよね」
「お前が危なっかしいんだっつの」
 その痕には、何だか嫌なものを感じるのだ。
 青峰の危惧がただの杞憂ならそれでも良かった。青峰は全体練習の間中、できる限り黒子の傍にいるように努めた。
 およそ3時間の部活はつつがなく終わりを迎える。青峰と黒子は、当たり前に居残り練習することを選んだ。
 誰もいない体育館に心底ほっとしたのは青峰の方である。黒子はどこまで行っても普通だった。むしろ気にする方がおかしいと言わんばかりの態度でいた。
 青峰は少なからず落ち込んでいる。やはり黒子には自分の手助けなど必要ないのである。
「……青峰くん、今日どうかしましたか」
 コートの端と端で、別々のゴールへのシュート練習の最中、黒子が静かに言うのを、何とも言えない心地で聞いた。
「さっきも変でしたし……何かあったんですか?」
 あったと言えばあったのだろう。けれど言わない。尋ねたいのは青峰の方なのだ。
「……別に何もなかったよ。テツは?」
「えっ?」
「テツは何かあった? 今日」
 黒子はしばらく黙っていた。ボールの音が消え、彼がこちらを見つめているのがわかったが、青峰はまだフリースローを打ち続けていた。手元の籠からボールを取り出しシュートを放つ。何度やっても当たり前にネットをくぐる。
「……最近の出来事の中で、一番の大事件は、昨日の昼休みに君が怒っていたことですね」
「大事件か、それ?」
「僕にとっては。初めて見ましたから」
「そうだっけ? 俺けっこうキレ易いだろ?」
「そうかもしれません。でも、君、僕に怒ったのは初めてだったでしょう?」
 手元がぶれた。シュートを打った瞬間にしまったと青峰は思う。
 案の定、リングに弾かれる。
 これは誤魔化せない。青峰は観念して振り返った。
「……俺、怒るとめちゃめちゃ顔怖くなるらしーぜ」
「そうでしたね」
「殴られるとか思った?」
「殴られてもいいなとは思いました」
 黒子は至って真面目な顔でそれを言う。そんなこと世界がひっくり返っても無理なんじゃないかと思った青峰は、溜め息をついて後ろ頭を掻いた。
「……あのな、テツ、」
「約束したからもう忘れます。でも、もし君が僕のどこかを嫌だと思ってああいう顔をしていたのなら、僕は ── 」
 言葉は続かなかった。黒子が困ったように目を伏せたのを、青峰はひどくもどかしく感じた。
 確かに嫌だった。黒子が青峰に何かを隠すのが。強がりを言うのが。でもそれは黒子の非ではない。
「……お前が考えてるようなことじゃねーよ」
 そう言うのが精一杯だ。そして、黒子は悲しげに「そうですか」とだけ呟いた。
 他のどんな時も平気な顔をしていたくせに。
「……そろそろ帰っか」
「……はい」
 二人、言葉足らずのままボールを直して、帰り支度を整える。その間も、盗み見る限りは黒子の表情は晴れず、青峰はいよいよ現状に歯噛みする。
 別に黒子が悪いわけじゃない。青峰自身は彼を嘘で誤魔化すつもりもなく、いっそ本音を吐いてしまいたかった。けれど、それによって黒子が離れていくのは嫌なのだ。そもそも、今より近づきたいと思ったからこそ苛立ったのである。
 何をどう伝えれば良いのかわからないまま、気まずい沈黙が続いていた。
 二人はいつもの惰性でシャワー室へ直行し、汗を流して着替えを済ませ、靴を履き替えるために校舎の昇降口へと向かう。
 靴箱に来ても会話がなかった。青峰は黒子と分かれ、自分のクラスのコーナーに辿り着いた途端、沈黙の圧力に負けて座り込んだ。
 十数年の人生の中で、過去最大のピンチである。
 どうするのが良いのか全然わからない。というか、黒子が青峰の我儘を聞き入れてくれるくらいしか解決策がないのだが、どうやって彼に納得してもらえば良いのだ。
 青峰は両腕で頭を抱えて唸った。昇降口は今日も薄暗く、二人の他に人の気配もなかった。早く靴を履かなければ、黒子が不審に思うだろうに動けない。
 と ── 
 不意に、耳が奇妙な音を拾った。
 ぱらぱらと小さなものが大量に転がる、雨にも似た軽い音。靴箱で聞くような音じゃない。
「……テツ?」
 音は、黒子がいる方向から聞こえる。青峰はしばらく迷って、結局待ちきれずに靴を出し、履いて、踊り場から彼のクラスのコーナーへと回り込んだ。
 そこで目にした光景は、青峰の散漫だった意識を殴り飛ばすほど衝撃的だった。
 黒子の持った革靴から、大量のガビョウがこぼれ落ちている。
 元から溢れるほど入れてあったらしい。その足元には、今も金色の欠片が丸く広がっていく。
 悪意で光るグロテスクな水たまり。中央にたった一人で呆然と立つ黒子が、あんまりにも頼りなさげで ── 
「……んだ、これ」
 青峰の声に肩を跳ね上げ振り返る。むしろ、黒子こそが悪いことをしたかのような表情だった。青峰は頭に血が逆流するのを感じた。なんでお前がそんな顔をしなければならないのかと、制御不能の怒りが喉元まで突き上げる。
 恐らく青峰を見ていた黒子にも怒りの奔流は伝わった。ガビョウの散らばった足元もかえりみず、慌てて向き直ろうとしたほどだったから、多分青峰は本気で形相を変えていた。
「動くな、バカ!」
 きつく放った声は、必要以上に黒子を突き刺しただろう。
 けれど、自分でもどうにもできなかった。
 青峰は怒りに震えつつ靴先でガビョウを散らし、固まった黒子から悪意にまみれた革靴を奪い、放り投げ、薄い体を荷物さながらに抱え外へと連れ出した。
 あんな薄暗い、どす黒い場所は黒子に似合わない。彼はもっとやさしくて綺麗なものに囲まれているべきである。
 激情に我を忘れそうな青峰の目を、ちらと掠るものがある。
 最初は雪かと疑った。すぐに桜だと気がついた。いつだったか黒子が綺麗で好きだと言った花が、今晩は満開になっていた。
 根元には、うっすら甘く色づいた花びらで、絨毯ができている。
 黒子に似合う場所だと思った。青峰は、迷わず彼を木の根元に運び、丁重に立たせてやった。
「ここで待ってろ」
 そうして、自分はもう一度靴箱へ引き返した。
 昇降口の暗がりの中に、金色の悪意がひしめいている。こんなものを、二度と黒子に見せる気はなかった。青峰はすぐさま近くの掃除用具入れに向かい、箒で掃いてガビョウを片付けた。
 それから、勝手に放り投げてしまった黒子の靴を探し出し、中が安全か指で探って念入りに確かめたあと、外に待たせている黒子の元へと返る。
 桜の木の下、色のない様子でぼうっとたたずんでいた彼は、青峰の顔を目にすると、今にも泣きそうな様子で唇を引き結んだ。
 それは強がりだろうか。
 いっそ泣きわめいてくれと願う青峰は、間違っているか。
「……靴、大丈夫だと思う」
 差し出しても黒子は手を出さない。息を飲んで固まっているというのが正しいのかもしれない。
 青峰は彼の足元にひざまづく。
 少し待たせすぎたか、彼の爪先には桜の花が絡んでいた。ガビョウよりも数倍良い。
「……足上げろよ、テツ」
 ぴくりと怯えたふうに身動く。視線を感じて目を上げると、色素の薄い瞳が不安に揺れていた。
「だいじょぶ、絶対痛くねえ。……俺のこと信じらんねえ?」
 黒子は一度小さく頭を横に振り、それから、そんなことは決してないと主張するかのように、再び大きく横に振った。
「俺の肩に手置けよ。そんで、足」
 そっと上がった爪先の、桜を払って、靴を履かせてやる。片方ずつ。青峰は丁寧に同じ手順を繰り返した。
「……痛くね?」
「……はい」
「ん」
 やっと黒子の声が聞けた。青峰はほっとして力を抜いた。実は自分も余裕がなかったらしいと気づいたのは、その時だった。すぐには立ち上がれず、肩に乗った彼の手の重みに目を閉じる。
 頭を下げたら、自然と黒子の胸元に押しつける形になった。
 テツ、と、再び呼んだ声は、多分ひどく弱かった。
「なあ、俺、怒ってんだ」
「……はい、知ってます。僕のせいですよね」
「そうだけど。多分お前が考えてる理由じゃない。俺お前の中に入りたいんだ」
「なか……」
「お前が誰にも見せないようにしてるとこ、全部開いて見せろよって思う。怖がったり痛がったり、俺の前で隠すなよ。他のやつらには見せなくていい、でも俺には見せろ」
 しばらく黒子は黙っていた。
 青峰は、ひとひらふたひらと地面に落ちる花びらを見ていた。
 こんなふうにやさしく降る感情だったなら、もっとやわらかく黒子に伝えられたのかもしれない。
「……テツ。お前、嫌がらせされてんの?」
 答えはない。
「二軍のやつ?」
 何も聞こえない。
「さっきのが初めてじゃないだろ? 今日の足だって、もしかしたらこの前のタオルだって、そうじゃねえの?」
 黒子は応えない。つまり、青峰はこれ以上彼の中には入れてもらえないのだろう。ひどくつらくて泣きそうだ。本当に泣けたら、それこそ数年ぶりに人に泣かされることになる。
 青峰は、はぁっと涙の気配に満ちた息をつく。あと少し待って、駄目なら離れなければならない。何秒が限度だろうか。それよりも泣けてしまうのが先か。
 油断していたら、肩にあったはずの黒子の手が消えている。
 ああ、もう駄目か。青峰が、ないものねだりをして固まる手足に、動けと気合いを込めた時だった。
 そうっと後ろ髪を梳く手があった。
「……桜。ついてます」
 青峰は、おそるおそる頭を上げた。
 珍しく、見上げる位置で黒子の顔が目に入る。
 薄甘い色をした桜の花と。幼さの残る丸い頬と。青峰の視線を受けて、それでも懸命に逸らさずにいる瞳と。
 風に煽られた桜木が、空一面に花びらをまき散らす。
 まるで光でも散ったかのようにその瞬間は鮮明だった。満開の花を背に、頼りなくとも清く在ろうとする彼 ── その髪を肩を、風に巻かれて次々に伝い落ちていく、やわらかな花弁たち。
 驚いた。
 これほど綺麗なものを、青峰は見たことがなかった。
「青峰くん」
 今度はこちらの声が出ない。青峰の目を釘付けにしたまま、黒子は密やかに続けた。
「僕は、君にがっかりされるのが一番怖いです。だから、いろんなこと、言えないままかもしれません。でも、君が見たいのなら見てください。隠すかもしれないけど……それでも」
「……見ていいの?」
「どうぞ」
 そっか。青峰はうなずき、それからこみ上がるものに我慢ができず、黒子の体を両腕で抱え込んだ。
 何か、奥底でぐるぐると渦を巻いていたものが、すうっと溶けた気がした。青峰はじっとしている薄い体に懐き、頭を擦りつけ、満足の溜め息をつく。
「……なぁ、俺にもわかった。桜、綺麗だった」
「良かったです」
「これで残るな」
「残りますね」
 お互いにしかわからない言葉で笑い合って、黒子に手を引っぱられ立ち上がる。
 しばらくぶりに見た彼のつむじは、盛大に花びらまみれだった。青峰は迷わず自分の指を入れて散らした。小さな頭、細い首、彼のどこを取ってもひどく綺麗に見える。
 自分の目は、一瞬の間に何か違うものになってしまったかもしれない。別にバスケさえできれば困りもしないけれど。
「……そんで、これからどーすんの」
 歩き出す。誰もいない校庭を横切る。これまでと同じコースを、同じ歩幅で。それでも確実に変わったものがある。
「どうもしません、どうせ相手の方が飽きます」
「俺が我慢できねーんだけど」
「僕の喧嘩です」
「知ってる。でも、腕力勝負になったらどーすんの。お前絶対負けんだろ」
「失礼ですね」
「勝てんのかよ?」
「負けますよ?」
 おい、と、青峰が眉間に皺を作れば、逆に黒子は笑った。
「腕力勝負になったら応援を要請します」
「今すぐしろよ」
「あとでです。でも、きっと君の出番はないですよ。僕が先に黙らせますから」
 黒子が、あまり見たこともないような強気の表情で微笑んだ。青峰は思わず目を瞠る。自分の中での黒子が重さを変えたように、黒子の中でも青峰の立ち位置が変わったらしい。
「僕が一軍にふさわしくなれば文句はないはずです。君が力を貸してくれるのなら簡単ですよ」
「……いくらでも使えよ」
「ありがとうございます。次の試合が楽しみですね」
 黒子の言葉が正しかったことは、週末の練習試合ですぐに証明された。
 彼は、たった十分の間に、誰にも真似できないプレイスタイルを見せつけた。青峰は、その試合で、一試合での最多得点数を二〇点も更新した。すべて黒子からのアシストだった。
 当然、上級生からの嫌がらせは立ち消え、最初から何もなかったかのように、平和な日々が二人のもとにやって来た。
 割り切れないものを抱えているのは、今では青峰だけである。たまに例の上級生を目にしてボールをぶつけたい衝動に駆られ、実際にやって黒子に怒られたりする。
 昇降口脇の桜は、もう葉桜に変わっていた。
「桜が終わったらツツジの季節ですね」
「ふぅん」
「他にも黄色い綿毛みたいなミモザや、白い藤みたいなニセアカシアも綺麗です」
 黒子は相変わらず青峰にはわからない話をする。
 けれど、たまに道端で「あれです」と彼が指さす先に見えるものは、確かに美しく華やかで、これまで青峰が見てきたものと同じには見えなかった。
 きっと黒子が指さすから、青峰にも格別に見えるのだ。
 彼のおかげで、青峰の世界は今日も鮮やかに色付き続けている。