百禍百恋

 計器を焼き切るかと思われたほどの灼熱が、ひっそりと霧散を始めていることに、シャアは愕然とせずにはいられなかった。
 警報ライトが点滅している。想定基準上でのパイロットの危機なら依然として続いていた。しかし、実際のところコックピット内にいるシャアは五体満足でいたし、エアも生きている。激しかった振動もおさまった。今やサザビーのカプセルは、ほぼ静止状態にあった。
 アクシズはどうなったのか。いや、それよりもなぜ無防備を極めたはずのカプセルが、いまだ形を取りとめているのか。
 死んでもいいと思った、死ぬつもりでいた。アムロにカプセルを捕獲された時点で、シャアは既に自分の死を覚悟していた。地球を汚染する代償だ、己の命ひとつでは安いほどだった。
 にもかかわらず──なぜ生きている?
 シャアは混乱した。モニターも切れ、サイコフレームの共振も途絶え、シャアには外をうかがい知る手立てがなかった。
 そんな時だ。唯一生き残っていた小型スクリーンに、カウント一八〇の文字が表示されるのが見えた。一八〇秒のちに最低限のサバイバル・システムを残し、計器が完全に沈黙する合図だった。カプセルの動力が尽きるのだ。
 シャアは反射的にアムロを探していた。サザビーのカプセルが残るぐらいなら、おそらくνガンダムも無事でいるはずである。
「なぜ殺してくれなかった……」
 いや、彼にそれを望むことこそ間違っていたのか。シャアは力なく自嘲する。
 手元の非常用パネルを立ち上げた。いくつものボタンの下に、強化ガラスでプロテクトをかけられた赤いボタンがあった。自爆装置の起動ボタンだ。
 これを、動力が尽きる前に押さねばならない。
  νガンダムの破損具合によっては、傍にいるらしいアムロも巻き込むだろう。そうなってしまえば、アムロ自身は、どこまでエゴを通すのかとシャアを罵るかもしれない。見ようによっては正当防衛でもある。ネオ・ジオンにすれば、連邦に総帥の身柄を献上するくらいなら、英雄のまま白い悪魔共々戦死してくれた方がましだろう。
 しかし、違う。万にひとつ、爆発にアムロが巻き込まれるとしたら、それはシャアの執着の成就だ。
「無理心中、と言うのだろう……?」
 シャアはアクシズ落としを計画した。建前は、地球を美しいまま保存したかったことだ。我侭に大地を汚していく愚民が許せなかった。
 ただ、動機はひとつじゃない。
「アムロ……」
 彼に宇宙へ上がってほしかった。
 地球の重力を嫌っていたシャアは、いつの間にか地球に嫌われるようになっていた。逆にアムロは地球に愛された。
 時代が二人を分け隔てたのだと──他の多くのことのように理性で片付けてしまえば良かったのだろう。だがアムロに関してだけは、シャアはそれができなかった。
 何を捨てても良いと思えたのだ。本当に。
 アムロさえ残るなら。
 強化ガラスのプロテクトを外す。
 シャアの、グローブに包まれた指先が赤いボタンに触れようとした。
 瞬間だった。
「生きているか、シャア!」
 とっくに焼き切れているはずの無線が回復する。
 一瞬、馬鹿馬鹿しいほどの奇跡に狂いそうになった。
 動力が完全に落ちるまで残り一〇〇秒。シャアは片手を起爆スイッチに伸ばしたまま、アムロの声に時を忘れた。

 * *

 シャアが地球で暮らすアムロを訪ねたのは、ダカールでの、エゥーゴとカラバの共同作戦から、丸二年が経ったある日のことである。
 クワトロ・バジーナとしての生死不明の情報を聞いていたであろうに、アムロは普通にシャアを迎え入れた。再会直後、気楽に「久しぶり」などと笑いかけられて、内心で驚いたものだ。
 その頃のアムロは全く世情に無関心だった。カラバとの接触も絶っていたようであったし、ブライトとの交流も希薄になっていたようであった。緑の濃い南の国で、白く日焼けした煉瓦塀の家に一人。付近の住民には全くの偽名で呼ばれ、時々どこかの工場からメカのプログラムを組む仕事を下請けして暮らしていた。
 とはいえ、これらはシャアが知る範囲でのことだ。本当はどうであったのか良くわからない。彼を縛りつけようとする連邦から身を隠していたのかもしれないし、何か秘密の任務を請け負っていたのかもしれない。
 アムロはそういったことを一切シャアに話さなかった。そしてシャアも、アムロの事情を知りたかったわけではなかった。
 そもそも、シャアがアムロを訪ねたのは、実は気まぐれが原因だ。
 確かに、ネオ・ジオンの建て直しは胸中にあったが、時はまだ熟していないという確信もあった。アムロとの決着は「いつか」必要になるもので、こちらの組織が立ち行かない「今」に必要なものではない。
 こうしてシャアは、会いたいという理由だけで、アムロの家をたびたび訪ねるようになっていたのだった。

 その日もシャアは地球に下りたついでにアムロの家へと寄って帰ることにした。実際のところ、ついで、と、言い切るには毎回ずいぶんな移動距離になるのだが、不思議と苦だと感じたことがない。
 最寄りの空港から、借り物の車で約二時間。
 空港まではどうあっても付いてくる取り巻き連中を追い払い、単独行動が叶うやいなや、まず酒屋で適当な酒を選ぶ。それから花屋で観賞用の鉢植えを購入。 アムロ宅へ向かう時のシャアの行動パターンは決まっていた。
 住宅地から離れた高台に立つ彼の家は、もともと観光者用のペンションとして作られたものらしい。
 こじんまりとしてはいたものの、窓からは絶景が臨める。赤土の大地と原生林、それから近くを流れる大河。日没と夜明けの素晴らしさは格別だ、愛用のスクリーングラスも用無しになる。
 風景ばかりに限ったことではない。感覚の鋭いアムロならではのことなのか、彼の周りには今、シャアの目から見ても、眉をひそめなければならないようなものがひとつもなかった。
 門前に立ち、ベルを二回。大抵アムロは出てこないので、シャアは勝手に扉を開いて家に入る。
「……アムロ?」
 飾り気のない無人のリビングでは、カーテンが外からの風でふわふわと浮いていた。留守ではないらしい。シャアは荷物だけを置いて、アムロが作業部屋にしている一室へ足を向けた。
 開けっ放しにしたドアの奥、必死に工具を振るっている細身の背中を発見する。
「──ちょっと待っててくれ」
 こちらから声をかけるよりもアムロの方が早かった。シャアは戸口に立ったまま、相変わらず跳ね回った赤毛の頭を眺め、それから背骨の尖りまで透けて見える、薄手のTシャツを着た背中を見つめる。
「……傍へ行っても?」
「いいけど、邪魔しないでくれよ?」
「ああ」
 その一室は、何に使うのかもわからないような部品がごちゃごちゃと置かれている部屋だった。ひとつひとつに真新しいタグさえついていなければ、シャアには鉄くずと区別がつかないものばかりである。だが、スクラップ場さながらの落ち着かない光景に反し、この中にいるアムロを見るのは楽しかった。アムロの気持ちがシャアに影響を与えていたのだろう。アムロが楽しそうにしているから、シャアも居心地が良いのだ。
 作業の邪魔にならぬよう、少し距離をとった場所でパイプ椅子を広げる。
 途端に背を向けたままのアムロが笑い声を上げた。
「そこでは俺の手元すら見えないだろうに。貴方はそういうところが不思議だよ、くつろぐつもりならリビングの方が涼しいだろう?」
「私は君の姿が見えればいい。それよりも、作業は長引くのか?」
「何か急ぎの用事でも?」
「いいや。だが、新しい鉢植えに水をね」
 アムロは黙り、束の間手元に集中したあと、ようやくこちらを振り向いた。
「また買ってきたのか!」
 憤然とした表情で彼が言う。シャアはにやりと笑った。
「水遣りは私がすると言っているだろう?」
「貴方がうちに来るのは、せいぜい一ヶ月に一度だよ。枯れるからやめろって言ってるじゃないか」
「枯らしてもいいさ、どうせまた持ってくる」
「だからもう枯らしてるんだって……」
 アムロが拗ねたように言うのがおかしかった。少しは苦労してくれたのかもしれない。
 最初にアムロ宅を訪れた時から数えると、シャアが持ってきた鉢植えは少なくとも五つ以上になっているはずだった。特に理由があったわけではない、ただ彼が嫌がるから余計に贈りたくなる。
「また持ってくる」
 子供のように悪びれず言うシャアへ、アムロは諦め顔で息をつく。
「何か意味でもあるのかい?」
「いや? ただの口実さ、君に会うための」
「貴方ねぇ……そんな迷惑な口実で遊ぶくらいなら、服でも持ってきたらいいんだよ」
 意外なことを言われてしまった。シャアが、君の?、と尋ねると、貴方のだ、と彼は苦笑する。
「そんな皺になったら困る服──」
 シャアのスーツ姿を指してそう称する。
「どう見ても、植物の水遣りに来た人間のする格好じゃない。ここで休ませてくれと素直に言った方がよっぽどかわいいよ」
 アムロにかわいいと思われるのは嫌だが、申し出自体はなかなか素晴らしい内容に聞こえた。
「私の普段着を君が預かってくれるのか?」
 念を押せば、肩を竦め仕方なさげに承服して見せる。
 シャアは頭を過ぎった下世話な言葉に笑い出した。せっかくなので、いぶかしげにするアムロにも教えてやろう。
「いや……ただ現地妻のようだと」
 すかさず工具が飛んできた。
「出て行け!」
 水をやってくるよ、シャアはアムロの作業部屋から上機嫌で撤退する。

 鉢植えはキッチンのテーブルに並べられている。
 シャアはこれについて、一度食事の邪魔にならないかと訊いたことがある。
 しかし、アムロによると、料理した時というのは、コンロに置いた鍋からそのまま食べるからテーブルの方こそいらないのだとか。君は変わった習慣を持っているなと言ったなら、食器を使わずに済むから洗い物が少なくなると返ってきた。確かに一人住まいでは合理的な考え方だと思った。それ以来シャアも、ここにいる間だけはアムロの習慣に付き合うようになった。
 コンロの前へふたつ椅子を寄せ、フライパンや鍋に直接フォークを伸ばし合うのだ。時々テーブルの鉢植えに目をやって、葉に元気がないなと話したりする。
 こんな調子であるから当然食器も多くない。シャアは空間の余って仕方がない棚から、コップを取り出し水を汲んだ。
 水は鉢植えのためのものだ。
 アムロの家にはジョウロがない。
 ジョウロに限ったことではなく、ここは足りないものが足りないままで完結している家だった。普段のシャアであれば許せない不足も発見するのだが、アムロの顔を見ると不満が消えてしまう。
 そう言えば、この家の中ではまともに怒ったことすらなかった──
 シャアは植物に水を遣りながら、普段の自分を思い起こす。
 とりあえず毎日何かに腹を立てている気はするのだ。そもそも総帥職などと言うものは、民衆のために苦労を重ねることが仕事である。連邦を思って腹を立て、自由にならない我が身に腹を立て、まとまらない組織に腹を立て。気が休まることがないとまでは言わないが、とにかく多くの怒りを押さえつけながら息をしている気がする。
 もちろん、この家に来たところでシャアの憂いが減るわけではないのだ。ただ不思議とおおらかにはなった。
「……アムロのせいか?」
 呟いた時に足音がする。
「俺が何だって?」
 アムロが背伸びをしながらキッチンに入ってきた。
「腹が減らないか? そろそろ晩飯でも作ろうと思うんだけど、貴方も食べるだろう?」
「ああ、そうだな……」
 外はまだ充分に明るいが、この地域は夜が短い。時刻を見れば確かに夕飯時であった。
「それで、何だって?」
 冷蔵庫を開きながらアムロが言う。
「何が俺のせいなんだ?」
 シャアは苦笑った。
「それが上手く言えないから困っているんだ。ここにいるとあまり怒らなくて済むのでね、なぜだろうとそんなことを考えていた」
「そう言えば、俺も貴方の皮肉をあまり聞かないな。アウムドラではいじめてくれてありがとう」
「いじめたのは君の方だろう? 私は君の叱責に堪えかねて、泣く泣くダカールで演説したのだ」
「良く言う」
「君こそ」
 アムロもこちらを振り返って微笑んだ。
「でも確かに……貴方はずいぶんやわらかいね」
 雰囲気がと言いたいのだろう。それを言うならお互い様だと思ったが、シャアは素直にうなずいた。
「だからそれを君のせいかと言ったのだよ」
「違うだろう?」
「そうかな」
 答えておいて、ふと思う。
「もしずっと君が傍にいてくれたなら、私は生涯怒らず暮らせる気がする……」
 束の間、アムロはひどく驚いた顔をした。シャアが我に返ったのは、その彼の表情を見たからだ。
 今自分は何を言ったのか。
 アムロさえいれば満ち足りると、そう?
「──……何を、言ってるんだ」
「そう、だな……変なことを言った」
「全くだ」
 茫然とするシャアの様子に、アムロの方が気を遣って冗談に変えてくれた。けれども、言葉になってしまった思いは二度とあやふやな状態には戻らない。
 シャアは半ばへたり込むように椅子へと腰掛ける。
 しばらくは二人とも声がなかった。アムロは黙々と料理の下ごしらえをしていたし、シャアはシャアでテーブルの鉢植えを見たまま動かなかった。
 それでもずいぶん経った頃、突然思い切ったふうな口調でアムロが言ったのだ。
「貴方はさ、何も考えないといいよ」
 シャアは相槌に困ったが、結局「どうやって?」と問いで返していた。
「今、ここにいるみたいに」
「それは。だから君がいると──」
「甘えだよ、シャア。そういうのは恋人に言え」
 言われて初めて気がついた。確かに自分の言葉はアムロを口説いているようだ。
「貴方、ただでさえ考えることが多いんだろう? 少しは意識して頭を空っぽにしたらいいよ、そうすればいくらか穏やかになる余裕もできる」
「つまり君の傍にいる時の私は頭が空だと?」
「違うのかい?」
 あんまりなことを言われている気がした。だが思考する前に感覚を言葉にしてしまうくらいには、アムロの前のシャアは無防備だった。
 結局怒ることもできずに笑い出す。アムロが、気味が悪いものでも見るようにこちらを振り返った。シャアはことさら快活に言ってやるのだ。
「では、君が恋人になってくれればいい」
「はぁ?」
「そういう流れなのだろう、今の話は?」
 違うよ!、彼はフライ返しを振り回しながら否定する。
「貴方を恋人になんかできるわけないだろう!」
「どうしてだい? 男同士でもキスとセックスぐらいはできるぞ?」
「知ってるよ。そういうことじゃなく!」
 シャアは小さく笑って相手を見つめる。彼は途端にばつの悪い顔になってそっぽを向いた。
「……クソ。からかっているのか?」
「違うよ、君とこんな話をするとは思わなかったからだ」
「全くだ。もうやめよう」
「どうして?」
 アムロが唇を尖らせる。
「……あんまり良い思い出がないんだ」
 シャアは彼の言った言葉の意味を考えた。考えて、それからどういう顔をしたものかと思って、あさってに目を泳がせる。気をつけていたつもりが、やはり多少笑ってしまっていたらしい。アムロが舌打ちする。
「笑っていいよ! あんただって経験がないとは言わせないぞ、周りはあんたの信者ばかりだろう!」
「確かに逃げ回るのに必死になった記憶はあるな」
「見ろ! 俺だって伊達にエースパイロットやってたわけじゃないんだからな! 仕方ないだろう!」
 アムロの言いようにとうとう吹き出した。
「笑うな、シャア!」
「君が笑えと言ったのだよ、アムロ」
 何だかいちいち楽しくてならなかった。シャアは立ち上がり、アムロが作っている料理を覗き込む。
 フライパンの中身は野菜の炒め物だ。
「……赤ワインを買ってきたのだが」
「何か文句でも?」
 ワインはあんたの都合だろう、と、アムロの不機嫌な目が言っている。シャアは苦笑って続けた。
「肉や魚はあるかい?」
「冷蔵庫になら」
「勝手に作っても?」
「いいけど、漏れなく俺も食うから」
「当然だ、食べなければ私が食べさせてあげよう」
 すぐさま足を踏まれそうになったので避けた。アムロの舌打ちにまた笑って、シャアは冷蔵庫へと足を向ける。
 そこで、マグネットで留められたメモを発見したのだ。アムロの字で書かれたものであれば特に見ようと思わなかったかもしれないが、それは明らかに子供の字だった。
 川らしき波模様と、その上にある十字の落書きと、いくらかの風景のようなもの、数字、それから「blue box」の文字。
「……アムロ、これは何だ?」
「え?」
 料理のさなかでこちらに目を向けた彼は、ちらりと笑顔をのぞかせ、再びコンロへ向き直る。
「宝の地図」
「宝?」
「そう。仲良くなった子供に、いつも使ってた工具の箱を隠されてね」
 シャアはしげしげとメモを眺めた。
「……つまり、君の工具の隠し場所を書いた暗号か?」
「そういうこと。いくらか心当たりを探してみたんだけど、もう降参するしかなさそうなんだ」
 勘の強い彼のことであるから、そういった遊びは大得意ではないかと思っていた。やはりアムロであっても重力の中では鈍るものか。シャアがほろ苦く考えた時だ。
「……あのなぁ、俺はエスパーじゃないんだって」
 どきりとするではないか。
「大体、敵の殺気と子供の無邪気を比べる方が間違ってるんだよ。命の危険があるわけでもなし、俺に子供の気配なんか辿れるわけがないだろ」
 シャアは答えを詰まらせ口を押さえた。
「それより、こっちはもう出来るぞ。貴方の料理はどうなるんだ?」
「すぐに作る」
 とは言ったものの、冷蔵庫を開けラム肉を取り出したシャアの目は「宝の地図」に戻っている。
「……食べたら探してみないか」
 自分でも突拍子のないことを言った自覚はあった。しかしアムロはちっとも不思議じゃなさそうな顔で軽く笑い飛ばすのだ。
「貴方が宝探しに興味があるとは思わなかった」
 君といるからだよ。無意識に言いかけた言葉を、シャアはまた奇妙な心地で飲み込んだ。

 コンロにかけっぱなしにした鍋から食事をして、ワインボトルを一本空けた頃、二人はどちらからともなく立ち上がると、宝探しの準備を始めた。
 アムロが懐中電灯や方位磁針、スコップなどを揃えに行く間、シャアは食事に使った諸々の後片付けをし、ついでに帰って来てからの酒の肴を用意する。
「──行こう」
 投げ渡された磁石を受け取り、シャツの胸ポケットに落としたのが出発の合図だった。シャアは、楽しげに先頭を切ったアムロのあとを行く。
 空もようやく陽が傾き始めている。遠くまで続く原生林の上には、七色に輝くうろこ雲が広がっていた。更に上空には、一番星も顔をのぞかせている。
 アムロの背中も夕焼け色に染まっていた。
 彼のいる風景は掛け値なしに綺麗だと思う。
「とにかく川があるからこっちの方向だと思うんだよな、それで大岩もあっちだと思うし……ただこの十字がわからなくってさ?」
 メモを片手にアムロが振り向く。彼の瞳まで夕焼け色で、シャアは束の間ぼうっと見惚れてしまった。
「……シャア?」
「ああ……いや、すまない」
「いいけど。俺の話を聞いていたか?」
「十字の落書きの話だったな」
「うん」
 メモを受け取り、問題の暗号を吟味する。
「……普通に考えれば方位記号か?」
「俺も思った。けど、だったらどれが北なんだ?」
 十字は、まさしく長短二つの線がただ垂直に交わった形で、どこの線の先にも北を表す矢印はついていないし、NとSのアルファベットも書かれていない。
「……どれなんだ?」
 逆に尋ね返してしまったシャアは、アムロにほとほと呆れた顔をされた。
「貴方が宝探ししようって言ったんだろう? 何か手がかり見つけてくれよ」
「そうは言っても、実際にここに住んでいるのは君だよ、アムロ。私が君の知識をあてにしても仕方がない」
「もう……結局見つからないんじゃないか」
「気が早いな、まだ何も終わっていないのに」
「俺の中では一回終わってるんですー、あとは貴方頼みなんですー」
 シャアは笑った。
「では、もう少し気持ちの入った応援が欲しいところだ」
「要求が多すぎるんだよ、貴方は」
 ぷいとそっぽを向いて早足で行ってしまう。アムロは子供のようだ。シャアはいくらか駆け足になって、彼の手首を捕まえた。
「君に置いていかれると私が迷子になる」
 アムロはまだ不機嫌な顔をしていたが、シャアの手を振り払ったりはしなかった。
 せっかくだったので手はそのままにしておいた。二人は何をするでもなく、しばらく黙って歩き続ける。
 シャアは今、ひどく満ち足りた気分でいた。
 憎み合った時期もあったというのに、今ではもうその頃の感情はすっかり凪いでしまっている。決してお互いの確執が消えたわけではない、だが──シャアがかつてどれだけアムロを憎んだか、知ってくれているのはアムロだけになってしまったし、シャアが戦いながらどれだけ嘆いたりやりきれなく思ったりするのかを感じてくれるのも、アムロだけになってしまった。
 四六時中傍にいて、いざとなればシャアのために命を投げ出す部下たちでさえ、シャアが当たり前に戦いで苦しみ悲しむ存在であるとは思っていないだろう。だからこそ、彼らは簡単に人類を導けなどと求めるのだ。
 シャアはこれからどんどん虚像になっていく。生きた人形を演じ、自分で自分を追い詰めなければならなくなる。
 いつだったか、アムロが人身御供と称したのは正しかった。シャアは自分の信念と理想を犠牲に、人々から穢れた血を吐き出させ、足りなくなった血を己の血で贖う、かりそめの時代を切り開く。真実に新たな時代が生まれるのはまだあとになる。正しさが正しさとして認識されるために、まずシャアが悪行の限りを尽くすのだ。
 いろいろ試行錯誤してみたが、他のやり方は見つからない。導くとは、きっとそういうことだった。
 いつか、シャアが人形であることを見抜ける者がいるとすれば、アムロだけに違いない。シャアの憎しみと嘆きとやりきれなさを知っている彼だ、信念を捨てる決意も受け止めてくれるだろう──
 シャアの意識は取り留めなく未来を憂える。
 そして、アムロが立ち止まったのは突然だった。しかも無造作に手を払われ突き飛ばされて、シャアは驚きに目を瞠る。
「何だね、急に」
 言いかけたものの、それ以上は続けられなかった。彼が、掴まれていた手首を抱いて、ひどく苦しげな顔をしていたからだ。
 伝わってしまったのだ。
「……あんたはいつもそうだ」
 彼の糾弾は震えていた。
「いつも俺に一番つらいことをさせようとする」
 強いるのはシャア自身であるにもかかわらず、その瞬間、アムロがかわいそうでたまらなくなった。
「……アムロ」
 心から呼んで、手を差し延べる。今度は振り払われなかった。シャアはアムロを抱きしめた。抱きしめただけでは足らず、何とか包み込んでしまいたくて、更に強く自分の身体に彼の身体を引き付ける。
「……いたい」
 彼の掠れた声こそ、尖ったナイフのようにシャアの胸を突いた。
「私の自由はもう君だけなのだ、アムロ」
 それが言い訳になるのかわからない。ただ、最後に呼ぶなら彼の名前が良いと、シャアの願いはそれだけのことだった。

 いつの間にかすっかり夜だった。
 切実な抱擁を解いたあとの二人はどこかちぐはぐで、会話もほとんど交わさぬまま、だらだらと歩き続けている。
 シャアは見るともなしにメモを見ていた。
 アムロではないが、子供の文字は邪気がなさすぎて伝わるものが少ない。目下の問題は十字の落書きである。この辺りだというアムロの台詞にならって来てみたは良いが、十字型のものなどどこにも見つからないのだ。
 既にアムロは立ち止まってしまっている。何を考えているのか、ぼんやりと彼方を眺めていた。
 決着が必要なのは「いつか」であって「今」じゃない。詭弁だとわかっていても、シャアに教えてやれることはそればかりである。
「……アムロ」
「…………」
「アムロ」
 彼の視線が遠くをさまよってシャアへと戻ってくる。
「君の友達は何かヒントを言わなかったのか?」
 ぱちぱちと大きな瞬きをし、アムロは今初めて時を思い出したような顔をした。
「アムロ」
「あぁ……うん」
「ヒントは?」
「ヒント? ヒント……ええと……そう言えば夜に探せって言われたんだったかな」
「夜に?」
 わざわざ暗くなってからを指定すると言うことは、暗号そのものが夜を想定して書かれたものだということだ。シャアは再びメモと辺りの風景を付き合わせた。
 そしてようやく十字型のものを発見する。
「君の友達はなかなかロマンチストだぞ、アムロ」
「え?」
 シャアは空を指差す。
 天空に描かれた十字型の道しるべ、白鳥座だ。
「そうか! てことは、工具はあっちか……!」
「そうらしい」
 アムロが早速草むらに分け入っていく。間もなく「あった!」と歓声が上がった。
 青い工具入れを抱えた彼が嬉しそうに帰ってくるのを、何だかたまらない気持ちで見た。本当はシャアにだって彼を笑わせてやることができるのだ。
「貴方のおかげだよ」
 彼のように、自分もちゃんと笑えているのだろうか。
「ならば分け前をくれないか、アムロ」
「分け前?」
 尋ね返す彼の頬にキスをした。重い箱を両腕で支えた彼には避ける手立てがなかった。こんな奪い方は卑怯だとわかっていて、シャアはその唇にも掠るようなキスを落とす。
 アムロは何も言わなかった。
 今にも泣き顔に変わりそうな微苦笑を浮かべ、恐らくアムロより泣き出したかったシャアを許した。

 シャアが持って行った鉢植えは、最終的には二十を越える数になった。アムロの家にはシャアだけが使うクローゼットができ、ベッドもひとつ余分に増えていた。
 それでも、いつしかシャアは、アムロの家に向かう自由さえ失った。シャア自身が敷いたレールが、とうとう二人を分けたのだ。
 否応なしに決着が迫っていることに気が付かされた。
 時代を動かせと、声なき声が宇宙中で木霊する。シャアの手足は見えぬ糸に操られ、シャアの喉はただ紙に書いた言葉を発するだけの意思のない器官になる。
 もはや心さえ自由に動かなくなっていた。
 シャアは身を切り裂くような思いでアムロを呼んだ。
 今更助けてくれと言うつもりはなかった。ただ傍にいてほしかった。もう戦いの中でしか会えないのであれば、その戦いの中に来てほしかった。
 彼以外の手で訪れる終焉など受け入れられなかったのだ。シャアは、地球に幾多のわざわいを残す自分に、正しい赦しと断罪を与えてくれるのは、彼だけだと信じていた。

 * *

 残り一〇〇秒──
「生きているか、シャア!」
 どうして今無線が回復するのだ。驚きから我を持ち直したシャアは、真剣に天の采配を呪った。
 サイコフレームの共振などという馬鹿げた奇跡から始まって、νガンダムは巨大なアクシズを押し返し、呼ばれもしない応援のモビルスーツ部隊が現れ──、我を殺して推し進めた計画は全く完成しなかった。
 せめて死ぬ瞬間くらい選ばせろと思うのに、アムロの声ひとつでそれすらままならない。
 シャアはスクリーンに拳を打ち付ける。
「──シャア? 聞こえているんだろう?」
 音を拾ったらしいアムロが、慌てて声をかけてきた。
「νがまだ動く! アクシズは静かになったが、またいつ誘爆し出すかわからない。すぐにここから離脱しなければ危険だ、あんたそこから出られるか?」
 シャアは笑い出しそうになった。
「……何を言っているのだ、アムロ君。さっさと君だけ離れたまえ」
 元から生き残る気などさらさらない。アムロを道連れにできれば嬉しいが、できなくとも仕方がないと諦めるくらいには、悪行を重ねた自覚もあるのである。
 カウントが八〇を切った。シャアは再び起爆スイッチに手を伸ばす。
「結局、最後の最後で神は君に味方した。負けた私はここで沈むのが順当だろう。アクシズは落ちなかったが、重力に囚われた人々は宇宙で渦巻く思想を思い知った。彼らが見たものは恐怖や絶望だけだったかもしれない。しかし、少しでも多くが重力を振り切るきっかけにするのなら、私の失策もいくらかの意味はあったのだ」
 アムロに自爆装置のことを知られたくはなかった。だから適当なことを話すうちにさっさと終わらせてしまおうと思ったのだ。
 今のシャアはネオ・ジオン総帥という人形だった。かつてアムロに鉢植えを贈り、会いに行く口実を欲したシャアではない。
 意志のない言葉が喉で空回る。最後にアムロに聞かせたいことはこんなことではないのに──
「君との因縁だけは断ち切ってしまいたかったが、それももう良い。願わくば、君がこれ以上愚民に与するような愚行を続けぬよう、心から……」
 涙がこぼれた。アムロにこの光景が見えなくて良かったと、シャアは苦笑して運命に感謝する。
 残り五〇秒。充分な時間だった。起爆スイッチに置いた手に力を込める。
「心から──」
 祈っている、と。
 最後の言葉を伝えようとした、その時だ。
「……シャア」
 アムロの呼びかけは、ひどく静かだった。
「貴方にもらった鉢植え、全部枯れてしまったんだ」
 シャアは耳を疑った。聞いた言葉を正確に理解するまでしばらくかかった。そして理解したあとで、人形だと思っていた己の身体の奥底から、じわりと湧き上がってくるものがあることに気がついた。
 殺したはずの心が動く。無線からアムロの吐息。小さく息を詰めたような──まるで泣いているような。
 シャアは激しく動揺した。
 耳の傍からどくどくと鼓動が聞こえる。これは己のものか、アムロのものか。
「聞いているか? いつまで待っても貴方が水を遣りに来ないから、わざと枯らした……枯らしたら、貴方また持ってきてくれるって言ったよな?」
 シャアと呼ぶ声。
 誰でもなくシャアだけを呼ぶ。
「アムロ……」
 思わずこぼれた名前は、ひどく真っ直ぐな響きをしていた。シャアは、突然、あれほど逃げられないと思っていた操り糸から、自分が解放されていたことに気付く。
 手足が動く。自由に。
 血が通う。全身に、心に。
「アムロ、私は……」
 茫然と彼の名を呼んだ。
 シャアには何が起こったのかわからなかった。何もかもが一瞬にして色を変えたように見えた。鮮明な警告ライト。赤く点滅する光に、ふとアムロの髪の色を思い出す。
 それから何度も一緒に見た大地を。
 幾多の部品の転がった作業部屋を。
 不思議においしかった彼との食事を。
 カウントは残り一〇秒に達しようとしていた。シャアは起爆スイッチに置かれたままの己の手を凝視する。これは押さねばならなかったものではないのか。今ならまだ間に合う──今なら。
 けれど。
「シャア。もう一度、貴方とキスがしたい……」
 シャアは小さく息を飲み、そうしてついに苦笑う。
「アムロ……アムロ、君、私は恋人にできないと言ったじゃないか」
 くつくつと。何だかもうおかしくてたまらなかった。目の前では、小型スクリーンの数字がどんどん若くなって行く。だが、シャアはそれにはかまわず、後ろに放り投げていたヘルメットに手を延ばす。
「──アムロ、νは本当に大丈夫なのか?」
 突然調子を変えたシャアに、慌てた様子で是と応答する声がある。
「無線が切れる。ハッチはνで開けてくれ、すぐにそちらへ移る。それから──」
 私も君とキスがしたい。
 声は最後まで聞こえただろうか。
 シャアは慌しく身支度を整えながら、さてこれからどうしたものかと思いを馳せる。恐らく二人揃って戦死に見せかけるのが一番安全だ。自分で起こした戦争を半端に終えてしまうのが情けなかったが、やるだけのことはやり遂げて来たつもりだ。シャアの出番は終わった。時代は動いた、結果はそれで充分だった。
 あとはアムロと一緒に過ごせればいい──
「君さえいれば何もいらない」
 何を失ってもこれだけはと、シャアが最後まで守り続けた言葉だ。今度こそ真っ直ぐに彼へと伝えよう。
 ハッチが開く。
 暗い宇宙の向こう、傷だらけのνガンダムが見えた。