拓海はとうとう諦めた。その日何度目かの溜め息を重くつき、見慣れぬ夜道に途方に暮れる。
そもそも、今日は朝から運が悪かった。寝坊するし仕事でミスはするし、会社ではいいことなしだ。定時になってさっさと退社しようとしたら、一番質の悪い酒飲みの上司連中に捕まった。嫌だと言っているのに無理やり借り出され、居酒屋で苦痛の3時間。カラオケボックスで最悪の2時間。同じ場所にいるのだから、酒をすすめられれば飲まないわけにもいかず、なのに帰りは電車がないからと、アッシーに大抜擢。
そりゃもらった酒をことごとく隣に回しはしたけれど、全くのしらふではない。もしもどこかで検問なんか張ってあった日には、きっと即飲酒運転で注意を受けるに決まっている。
だが、酒飲み上司の絡み方はしつこく、静かに切れつつあった拓海は、それでこの苦痛から解放されるのならと、アッシーを引き受けたのだった。
そんな拓海を、今日何度目かの不幸が襲った。
いや、上司たちは全員無事に送り届けたのだ。問題はその帰りである。あまり地理のわからぬ場所に立ち入っている自覚はあったが、まさか自分が道路地図を持ってきていなかったなんて、思いもよらないではないか。
薄暗い山間だ。坂を登ったり下ったり。上司を送り届けてから、一体どれくらいの時間道に迷いまくったことだろう。適当に走れば大通りに出るかな、などと、当初の自分の甘さ加減が恨めしい。その時は、まだ民家の明かりが見える場所だったのだから、素直に誰かに道を尋ねるべきだったのだ。
いざ誰かに訊こうと思っても、公衆電話さえ見当たらない。
頼みの綱は、プロジェクトDで配給された携帯電話ひとつ。
拓海はまた溜め息をつく。自分で料金を払っているわけでもないこの電話を、私用で使うのはひどく申し訳ない気がする。でも背に腹は変えられなかった。まず自宅の電話番号を押した。
と──
文太が出ない。まさか親父まで飲み屋か。嫌な予感が頭を掠める。
次はイツキ。ところがこちらも出ない。一人暮らしでもないのだから、深夜に長くコールするのも気が引ける。拓海はこちらも諦めた。
さて次は……池谷……池谷の電話番号は……ひかえていない。
困った。
他に思いつく顔は二つ。しかしどちらにも気軽に電話なんかできはしないのだ。確かにこの携帯電話には彼らの番号が、彼ら自身の手でメモリー登録されてある。しかし──
「……絶対からかわれる」
普段の己に対するイジワル兄弟の仕打ちを思い出し、ハンドルに額を打ち付ける。あーあ、あーあ、あーあ、苦い溜め息を続けざまに3回。
けれど──仕方ない。
拓海はとうとうその番号を押した。とりあえずこの時間でも絶対起きていそうな高橋涼介へ。
相手も携帯だから、本人以外の誰かが取るということもないだろう。
そして彼はあっさり捕まった。
「……はい?」
「あの……すみません、遅くに。藤原です」
「──珍しいな、普段はこっちら頼んでもかけてこないのに。どうした?」
涼介相手だと、拓海は未だに緊張する。彼の顔を見ているわけでもないのに、何だか頬が熱くなってきて思いっきり焦った。
「あの……その……道に」
「ん?」
「道に……迷って。その……っ、親父もイツキも捕まらなくって、それで他に誰の番号も覚えてなかったからっ」
「わかったわかった。そう怒鳴らなくても聞こえるよ」
「す、すみません」
「いや? なるほどね、他に頼れる奴がいなかったってわけだ。ラッキーだったな」
誰が、だろう。でもダメだ、拓海は経験上言葉を飲み込んだ。ここで突っ込むと、またあれこれ滅茶苦茶なからかいを受ける。絶対だ。涼介は、その点では恐ろしく人が悪いのだ。
「あの、それで、良かったら道を……」
「ああ、わかってる。そこは一体どのあたりなんだ?」
拓海は上司に聞いたままの土地名を告げた。
「ああ……あそこか。ちょっと遠いな。お前が一人で出ていくような場所でもないだろ、どうしてそんなところにいるんだ?」
受話器の向こうで何やら物音が聞こえてくる。どうやら地図を引っ張り出しているらしいことに気づいて、拓海はようやく安心できた。シートにぐったりと寄りかかり、窓の外の夜空を見上げる。
「飲み会があって……こっちの家の人を送ってきたんです」
「飲み会、ね。酒は嫌いじゃなかったか?」
「嫌いですよ。でも今日も無理やり誘われて……」
「誘われたのに飲まなかったのか?」
「飲みました」
「──……何で運転してるんだ」
不意に涼介の声のトーンが低くなった。拓海は内心で慌てたが、努めてそっけなく答える。
「俺だって運転したくてしてるわけじゃありません」
沈黙。
最初は意地を張って自分も黙り込んだ拓海だったが、それが長くなるにつれ、どうにも居心地が悪くなる。何しろこっちは道を教えてもらう側なのだ。さっきのはさすがに態度が悪かったかもしれない。
あの……、再び切り出そうと口を開きかけた時だ。
「──そこから何が見える?」
涼介のとても怒っているらしい声が聞こえた。
気おされて、言いたかった言葉を飲み込む。とにかく質問されることに答えながら、ますます事務的になっていく会話にびくびくしていた。
「わかった」
涼介はかなり不機嫌そうな声で言った。
「今から迎えにいくから、そこで待ってろ」
「ちょっ……っ、待ってください! 俺、自分ちの車で……」
いつかそう来そうであらかじめ考えていた言い訳も、だが涼介には通用しない。
「わかってる。啓介も連れていくから、ハチロクは俺か啓介で運転して帰ろう」
「でも、もう時間遅いし、ここでずっと待ってても……!」
「飛ばせば二十分でつく」
「と……飛ばせばって……」
涼介の「飛ばす」というのは、一体何キロを指しているのか。
「あの……涼介さん?」
「──すぐに行く」
電話は唐突に切れた。拓海は、応答のなくなった携帯電話をしばらくぼうっと眺め──
「……うわ、ごめん、啓介さん」
今ごろ、兄の理不尽な八つ当たりを受けているかもしれない彼に密かに謝った。
けれどもちろん、こちらの声など、はるか遠くに離れた啓介まで届いているわけがない。仕方なくシートを倒して待ちの体勢に入っていると、慌しく携帯の呼び出し音が鳴り出した。
見れば啓介である。
うわー……、拓海は覚悟を決めて着信ボタンを押した。
「……もしもし」
「もしもしじゃねーよ、てめー兄貴に何言ったんだよ!」
彼は既に泣きが入っていた。しかもひそひそ声なのが何やら哀れを誘う。
「あの……すいません、俺……酒飲んでるのに車運転しちゃってて……」
「ああ!?」
そこだけ一気に大音量。しかし我を持ち直したらしい啓介は、またもやひそひそと話し出す。
「バカ、お前何やってんだよ! そりゃ兄貴じゃなくったって怒るっつーの!」
「俺だって困ってたんです。でも会社の先輩に無理に命令されて」
「断われよ、タコ」
「できたら俺だってやってます!」
ああ、もう! いらいらとどこかに拳を当てる音が受話器越しに聞こえる。良く見知ったその様を想像できてしまった拓海は、何やら急に気が抜けた。本気で怒っている兄弟二人には悪かったかもしれないが、どうにも顔が緩んでならなかった。
とても嬉しい気がしたのだ。実際のところ、全然彼らには関係のないことなのに、これだけ真剣に怒ってくれる。一人っ子な上に、どちらかと言えば先に切れる側だった拓海には、今までこうして真っ向から叱ってくれる相手は、父以外にいなかった。
「……ごめんなさい」
だからぽろりと漏れたのだ。言った自分も驚いたが、受話器の向こうの啓介は更に驚いていたみたいである。
「ま……まぁ、しょうがねーし……その、今から迎えに行くから」
あたふた言う声がくすぐったい。
「……あの、啓介さん」
「お、おう」
「涼介さんもいますよね?」
「ああ」
「ちょっとだけ変わってもらえますか?」
「……えれぇ機嫌悪ぃぞ」
「知ってます」
沈黙。それでも啓介は渡してくれたようだ。ふと、今まで聞いたこともないくらい低い声の応答があって、拓海はまた苦笑した。
「……ごめんなさい、涼介さん」
沈黙。応答はない。
しかし。
ぎゃはははっ、突然後ろから啓介の大爆笑が聞こえてくる。
「お前すげぇよ、藤原! ソンケーする!」
「あ、あの……?」
「すっげぇ、この変わりようを見せてやりてーっ!!」
「啓介!」
何だか良くわからないが、束の間兄弟の間で電話の取り合いがあったらしい。結局勝ったのは兄の方だったが、それでも弟は後ろでしつこく笑いまくっていた。
「……藤原。とにかくすぐに行くから、そこでじっとしててくれ」
そう言った涼介は、しっかりいつもの声音に戻っている。
拓海はようやく心底ほっとして、
「わかりました。待ってます」
全幅の信頼を込めた声で、気持ち良く答えたのだった。