「バイトぉ? おお、いーぜ、全然オッケー」
なんて軽い調子で代理を引き受けたのが、五日前のことである。
大学内にある小さなコンビニのレジ打ちだ。元々学内では知り合いの多い啓介のこと、三日も経てば、顔を合わせる友人、合わせる友人「バイトしてんだって?」と声をかけてくるようになった。しかも、啓介のバイト時間帯になると、情報を聞きつけた輩がコンビニ内に押しかけ、明らかに商品を買う気のない客がうろついていたりもする。
ほとんどが顔見知りの啓介にとっては何てこともないのだが、他の店員にとっては大迷惑な話である。仕方ないので、昨日はこっそり「何でもいいから買って帰れ」と根回しの電話まで行った。
それでもやっぱり今日も暇人は集う。
「……用もないのに来んなよなぁ」
申し訳程度にガムなどを買う友人にぼやきつつ、一生懸命マジメに(見えるよう)働く啓介なのだった。
代理を頼まれた期間は、ちょうど一週間。本当を言うと、その一週間の間には、啓介にとって他には替えられない用事もあるにはあったのだが……今回だけは涙を呑んで諦めた。なぜなら、元々このバイトをしていた代理の相手が、念願の「彼女と旅行」期間中だったからである。二人がそうなるまでにはずいぶんな紆余曲折があって、実を言うと啓介でさえ、一時は彼らの事情で振り回されたりもした。
もっと楽にレンアイしろよ。
当時は簡単にそう励ましたりもしたけれど、今思えば──
楽になんかできるわけねぇよなぁ。
実際、お手軽な恋愛なんてどこにも転がってはいないのだ。かくゆう自分ですら、えらく格好の悪い恋をしていると思う。
「……ちぇ。俺も会いたかったっつーの」
呟くと、目ざとく女友達に聞き返されたりして。
ふざけて笑いながら、おにぎりのバーコードを読み込んだ。
そんなこんなで午後六時。そろそろ閉店しようかという時間のことである。相変わらず知人は店内にうようよしていて、さすがに店長のおばちゃんが渋面を浮かべ始めた頃──
開け放たれている入口のドアから、ひょこ、と、顔だけ出した恋しい人を見つけ、啓介は会計中の商品を取り落とした。
「ふ……!」
「ふ?」
そう尋ね返したのは、またまた知人である。
何でもない何でもない!、慌てて言い訳して商品を突き出した。それから同じように何人かの会計をマッハで片付け、ようやく己の目の前にレジ待ちの友人がいなくなったのをいいことに、すかさずレジ休止の看板を出す。
とは言え、勤務中である。大手を振ってさぼるわけにはいかない。啓介は、レジ下に溜めていた返品の品物を引っ掴み、さりげなく入口付近に移動した。
ちらとそちらを見ると、彼が苦笑している。
彼──藤原拓海が、今啓介が片思い中の相手なのだ。
「……どうしてここにいるんだよ?」
何だかどきどきしながら尋ねると、拓海は少し困ったようにはにかんだ。
「この前、啓介さん来なかったじゃないですか。その時、今バイトしてるんだって涼介さんに聞いて」
「うん」
気のきいた言葉が何もでない。こんなところで会うことなんかないと思っていたから、本気で動転してしまっていた。
啓介は目のやり場に困って、半ば機械的に返品の商品を棚に返す。
と、ちらちらこちらを伺う知り合いの何人かと目が合った。うわ、邪魔すんじゃねぇ!、心で叫んでも興味本位の目は集まるばかりだ。
啓介が有名人だったことも災いした。落ち着きのないこちらの素振りで、拓海までもがうつむいてしまう。
ひどく間の抜けたような沈黙が落ちた。
「あ、のな、えーと……」
声が空回りする。
しかも、気づけば返品する商品もなくなっているのだ。途方に暮れて突っ立っていたら、
「高橋くん、何してるの」
いよいよ苛立った店長のおばちゃんから注意を受けた。拓海がすまなそうに顔を上げる。
「あの……俺ジャマですか」
違う違う全然違う!
言葉にならなくて、とにかく十回近くも首を横に振った。
拓海までもが途方に暮れたような表情をしていた。ここにいるのが啓介ではなく、もしもあの兄だったとしたら、絶対に彼にこんな表情をさせたりはしないのだろう。思うと、ひどく悔しい気がする。そうでなくとも涼介には、日頃から勝てた試しのない啓介だった。何より、兄と自分は、同じように目の前の彼を好きなのだ。
でも、どうして自分はいつも格好悪くなってしまうのだろう。
拓海の前になると、いつも。
「……何か欲しいもんあっか?」
そんなふうに訊いたのは、半分開き直りもあってのことである。自分のポケットから財布を取り出して、それをそのまま拓海の手に握らせた。
「適当に買っていいぜ。もうすぐバイトも終わるし……それで時間潰してて」
「えっ……え、でも」
「財布の中に生協のカード入ってる。会計の時は、それ出すんだぞ」
拓海は何か言いたげだったが、そのままレジに戻った。おばちゃんは、あからさまに「全く近頃の若い人は……」という顔をしていて、啓介はちらと愛想笑いを返しレジ打ちを再開する。
しかし、そうしていてもやっぱり拓海が気になってならない。狭い店内だ、どこにいても顔は見える。何より、大学自体に不慣れな拓海は、ただそこにいるだけで戸惑っているふうだったので、余計に目立った。
店内に残っている啓介の友人連中さえ、彼の動作を興味深そうに見ている。いつもは鈍感な拓海も、今回ばかりはさすがに己が注目を集めていることに気づかないわけにはいかなかったらしい。彼は目に見えて困惑顔になっていった。
結局、慌しく缶コーヒーを取って、拓海はレジまでやって来た。無意味に人の並んでいる啓介のレジではなく、背中合わせの、がら空きなレジへ。
ところが。
「カードを見せてください」
言われるままに、啓介が渡した財布の中を探っていた彼が、ひどく困ったように眉を下げた。カードをひとつ取り出しては、見慣れぬそれが何のカードかを確かめている。
密かにそちらを気にしてした啓介は、彼が困っているというだけで頭が一杯になってしまい──
その瞬間、自分の仕事をすっかり忘れ。
「それ違う、これ」
隣のカウンター越しに手を延ばし、己の財布からカードを抜き出していた。
「あ……」
びっくり顔になったのは、拓海ばかりではなかった。啓介と背中合わせで拓海の会計をやっていた、もう一人のバイトくんも、店長のおばちゃんも、呆然とこちらを見上げた。
「……高橋くん」
「……あ、ヤベ」
いよいよおばちゃんは噴火秒読みである。拓海はあたふたと会計を終えて店を出ていく。啓介はおばちゃんに視線を合わせることなく、またせっせと目の前の商品のバーコードを読み込んだ。
「何やってんだか」
友人に冷やかされて苦笑いしながら。
それでも、入口のドアの向こうで拓海がコーヒーに口をつけ、ほっとした顔をしたから安心した。彼に己の財布を渡したのも、カードを取り出してやったのも、たったそれだけのためだった。
──格好悪い恋愛をしている。
我ながら笑えてきて困った。
とりあえず、今晩は一緒にどこかへ食べにいけたらいい。ささやかな野望を抱きつつ、啓介はバイト終了の時間を待つ。
格好悪いのも楽しいなんて。
ふと思ってしまう自分は、もしかして結構マゾかもしれない。