七転び八起きな僕ら。

 住宅街の一角だ。日付も変わろうかという深夜、自宅からずいぶん離れたその路地裏に、藤原拓海の姿はあった。
 目の前には、皓々と輝く自動販売機。おなじみの酒造銘柄が並ぶ中、どこからどう見ても場違いなドリンクが鎮座している。
 おしるこサイダー。しかも割高、弐百円。
 これほど正体不明なものを飲むやつの気が知れない、心の中ではぼやいても、実際は、拓海の手にだってそれを買うための硬貨が握られていた。聞いた話によれば、しばしば売り切れるほどの人気商品でもあるらしい。
 果たして噂は真実なのだ。拓海がおしるこサイダーを手に入れるや否や、ボタンは売り切れ表示に切り替わる。
 小豆色の缶のいかがわしさに、ついつい溜め息がもれた。
 自分は一体何をやっているんだか。
 落ち込んでしまうではないか。そうでなくとも決して良い心境ではなかったのに。
「よぉ――」
 だから、その声が聞こえた時、やばい気がしていたのだ。
「珍しいところで会うな」
 高橋啓介。外見が派手で近寄りがたく見えるわりに、開けっ広げな笑顔を見せる人物。彼は、元から他者との垣根が低いのか、顔見知り程度の拓海にも好意的だった。
「……何、してるんですか」
 それでも最初は普通の声が出せた。啓介だって、こちらの異常には気づきもしなかっただろう。
「お前こそ何してんだよ……って、それ」
 彼は拓海が持っていたおしるこサイダーに目を丸くする。
「物好きなやつって結構ざらにいるんだな」
 とか何とか言いながら、彼も物好きの一員だった。売り切れ表示のボタンを見つけた途端、大げさに頭を抱えて見せる。
「……これ買いに来たんですか」
「そーだよ! クソ、また兄貴に罵られる!」
 つまり、必要としているのは高橋涼介なのだろう。
「……これ持っていきますか?」
「えっ、いーのか!」
 喜色満面したくせに、啓介は少し遠慮がちに手を出した。
「でもお前もいるんだろ? これってここしか売ってねーんじゃなかったか?」
 その通りだ。拓海がわざわざ遠出してきたのも、ひとえにそれが理由である。けれど。
「いいんです、別に俺が飲むわけじゃねーし……」
「ふぅん?」
「友達に……頼まれただけだから」
「あ、そぉ? サンキュ、すげぇ助かるわ」
 調子よく笑う彼。その顔を見ていたら、鼻の奥がつんとなる。
 悪い予感は最初からあった。何より啓介の笑顔が一番まずかった。まるで気心の知れた相手にするみたいに気兼ねなく笑う、無警戒さが痛い。
 そんなふうに笑う人物をもう一人知っている。そいつといると楽で、何も考えなくても大丈夫だった。
「おい……?」
 啓介が戸惑った声を出した。全く関係のなかった彼には、さすがに申し訳なかったかもしれない。でも泣きたかったのだからしょうがないではないか。
 目の前の男が慌てるのを、拓海は半ば開き直って無視している。
 
 ***
 
「おしるこサイダー? 何だよ、そのまずそうな飲み物は?」
 イツキの雄叫びも、三月の晴れ渡った空にはあっさり飲み込まれた。拓海は芝生に寝転んだ身体ごとそちらを向き、小さく笑う。
「伝説のジュースなんだってさ。池谷先輩に聞かなかったのか?」
「知んねーよ。うえぇぇ、一体誰が飲むんだよ、そんなもん」
「本当に何も聞いてないのか、イツキ。お前、多分、歓迎会の時にそれ一気飲みさせられるぞ」
 絶句した彼は、見る間に蒼白になっていく。しばらくして、恐る恐る拓海の肩に手を置いた。
「ウソ……?」
 かわいく訊かれても事実は事実である。正直に首を横に振ると、彼は猛毒にのた打ち回るかのごとく芝生の上を転げまわった。
「うそだぁっ、聞くだけでまずいっ! 絶対吐くっ!」
「お前はそう言うけどさぁ、何か良く売れてるらしいし。もしかしたら案外ウマイのかも」
「だまされてんぞ、お前! いいか、拓海。おしることサイダーだぞ、あんこを炭酸で割るんだぞ? うまそうか? お前本気でうまそうだと思うのか?」
「……飲みたいとは思わないけど……」
「だろ、だろ? くっそぉ、俺はなんて不幸なんだ!」
 いつもながらにイツキの喜怒哀楽は激しい。拓海は苦笑して仰向けになる。
「いいじゃん。何か楽しそうだよな、そっちは」
「人事みたいに言うなよなぁ、ちっとも楽しくねーじゃんか……」
 彼はまだおしるこサイダーに気を取られていたようだったが、その時拓海は本気で羨ましいと思っていたのだ。
 高校の卒業式が終わって、アルバイトも止め、新しい就職先にも挨拶に行った。高橋涼介の主催するプロジェクトDも近々始動すると言う。今では完全に、拓海はイツキたちと袂を分けた形で落ち着いている。
 未来は希望に満ち、輝かしく存在していた。ただ、ふと気付くのだ。
 己の隣に誰の姿もない。
 一人だと視界がはっきりしすぎる。見慣れた道が広かったことや、空が高かったこと、光が眩かったこと、誰かの悪意や過ぎる善意――つい最近までイツキや池谷の姿に遮られ視界に入らなかったものが、もの凄いスピードで押し寄せてくる。
 くらくらした。平坦だった日常が、いつの間にか違う世界へ脱皮を終えている。
「……なぁ、買ってきてやろうか、俺」
 たまらなくて、拓海は笑った。
「味に慣れとけば、飲めなくって罰ゲームとかはないだろうしさ」
「そ、そうか!」
 笑うイツキは、ずっと以前から隣にいる者だった。けれどそのうち、彼すら視界からすり抜ける日が来るのだろう。
 
 ***
 
 突然泣き出した拓海に、最初啓介は慌てるばかりだった。それでもしばらくすると動揺もおさまったらしい。不意に煙草に火をつけ、うまくもなさそうに煙を吐き出す。
 煙草一本分の沈黙だった。相変わらずべそをかいて鼻をすするこちらを、彼は不機嫌にねめつける。
「あのなぁ!」
 怒鳴られる、咄嗟の緊張は無駄でしかなかった。
「……ガキと女は泣くからキライなんだよ、ったく……」
 突き放した言葉とは裏腹に、服の袖口で拓海の目元を拭う。
 やさしいとはお世辞にも言えない拭き方だ。けれど、ひどく慰められた気がしてあっさり涙が引いた。
 驚き顔の拓海に、啓介は怒ったような態度を変えない。
「ほら!」
 おしるこサイダーを突き出す彼。突拍子がなくて、さすがの拓海もすぐに反応できなかった。
「……なに……?」
「返す、これ」
 つっけんどんな言葉に考えること、しばし。
「……別にこれのせいで泣いてたわけじゃ……それに、これ買って帰れなかったらあんたも困るって……」
 やっと思い当たって言うのに、啓介は譲らない。
「俺はいーの、困るのは兄貴」
 涼介が困る方が一大事だと思う拓海は、何か間違っていただろうか。だが缶は勢いに負けて受け取ってしまった。
 途端、彼が笑う。
「お前はすげぇ鈍感なやつだと思ってた」
 意味不明。しかも、どこまでも唐突に言うのだ。
「――今から暇?」
「暇って……」
「家に帰って寝る以外に用があんのかって」
「ないけど……朝から。配達が」
「配達?」
「とうふの」
「ああ、とうふ! そりゃ心配すんな、兄貴が何とかするから」
 今の会話のどこに涼介が関係してくるのやら。疑問を目で訴えても、気付いているのかいないのか、彼はあっけらかんと笑い飛ばす。
「車で来てんだろ? 俺のも向こうにあるから、車回して来いな」
 返事を言う暇もなかった。啓介の足は速い。歩幅も大きいから、あっと言う間に視界から消えてしまう。
 拓海は、輝く自動販売機の前で呆然となった。
 前々から、自分の言いたいことだけ言って、こっちの言うことは全く聞かない男だとは思っていたが……。
 いつまでも動かずにいると、派手なクラクションが鳴り響く。今の時刻を思い出した拓海は、もう一度はた迷惑な音が鳴る前にと、慌てて己のハチロクへ駆け込むのだ。
 こうして特別な夜は何気なく始まった。生涯の中で、必ず出会わなければならない時間というものがあるのなら、その夜がきっとそうだったに違いない。
 道しるべも何も見つからなかった場所に、小さな光が射し込んだ。
 やさしい夜だった。
 
 
 
 黄色いFDの後を黙々と追いかけ、行き着いた先は小綺麗な豪邸だ。
 何も考えずに車から降りた拓海は、しばらく足を動かすことができなかった。駐車場が広い。一階の一部分をくり貫いたようにして作られているそこは、少なくとも五台以上の車が納められそうだ。
 下手をすれば藤原家はスペースに納まってしまうかもしれない。拓海が真剣に目算を始めるのと、啓介がさっさと駐車場を横切るのとは同時だった。こんなところで迷子になっても情けないので、仕方なく後を追う。
 啓介はつくずく人を待たない男だ。玄関先でもそれは変わらず、拓海がスニーカーを脱いでいる間に廊下を突き切り、一度も振り返らないまま階段を上がっていってしまおうとした。拓海はかなり慌てた。最後には小走りになって、階段を登り切る寸前でやっと啓介に追いつく。
 目が合うと、にっと笑って見せる。彼は気まぐれな獣のようだ。
 そのドアも、まるで気負いのない素振りで開いた。彼の動作は至極当然と言わんばかりのものだったから、てっきりそこが彼の私室なのだと思っていたら。
「……啓介。ノックくらいしろって何度言ったら……」
 涼介が、いる。
 こちらに背を向け、拓海には縁のなさそうな機材に取り囲まれ、一心不乱に何かを操作している。啓介に言った文句も上の空に近かった。実際ほうっていたら、涼介はいつまでたっても拓海の存在に気付くことはなかっただろう。
「――藤原。連れてきたんだけど」
 啓介が言った。ぴたり、涼介の手が動きを止める。
 一瞬後、珍しく取り乱した様子で振り返った。拓海が思わず頭を下げると、彼はひどくやわらかな笑い方をして立ち上がる。
 涼介の反応を見た啓介が、得意げに胸を張った。
「どーだよ、これでおしるこサイダーも用なしだろ?」
「凄いな。これほど強力な秘密兵器がお前に出せるとは思わなかった」
 兄弟の会話は計り知れない。また、別の事情で、拓海は赤くなる頬を擦る。
 プロジェクトDに参加し、何度となく顔を合わせるようになったのに、拓海はいつまでも涼介の存在に慣れなかった。とにかく心構えをしてからじゃないと、言葉もろくに出てこないくらいである。
 必死で準備を整える拓海をよそに、兄弟は至ってなごやかムードだ。
「大体、まずいもん飲んで眠気取ろうってのが間違ってんだよなぁ」
「好きなだけ寝て好きなだけ遊べるお前に言われたくない」
「ちぇっ、だから協力してんじゃんか。藤原だぜ? 凄いだろ?」
「確かにな」
「そーだろ、そーだろ。でもそれよりさ、ちょっと……」
「……どうした?」
「兄貴、時間作れる?」
「今か? ……何かあったのか」
「あ。いや、大したことじゃねーんだけどよぉ……」
 心構えに忙しかった拓海は、そこで初めて二人の視線がこちらを向いていることに気がついた。
「……何か、あったか?」
 涼介の問いは、明らかに啓介に向けてのものではなかった。しかし拓海も彼に何を尋ねられているのかわからず、戸惑うばかりである。
「……啓介。コーヒー」
 結局、そんな言葉で息抜きになる。
「えええっ、何で俺が!」
「お前、昨日、俺との賭で負けなかったか?」
「まっ……負けたけど……ありゃ半分インチキじゃねーかよ!」
「負けたら言うこと聞くって言ったな、お前」
「だっ、だからおしるこサイダー買いに行っただろ!」
「で? 現物は?」
「う……」
 売り切れてました……、すごすごと部屋を出て行く啓介。拓海は何だか不思議な気分で彼らを見ていた。
「……仲良いですね」
 思わず漏らすと涼介が笑う。
「これでも口もきかない時期もあったんだぜ?」
 想像がつかない。拓海は彼に促されるまま腰を落ち着けた。そのままぼんやり話題を探していて、ふと挨拶もまともにしていないことに気がつく。
「あの、すいません俺……夜遅いのに」
「いや、そんなことはいいんだが……藤原」
「はい?」
「もしかして啓介にいじめられたのか?」
 涼介は真面目に訊いたらしかったが、拓海は思わず気が抜けてしまった。
「……どうしてそう思うんですか」
「変な顔してる」
 ついむっとした顔をしたら、彼は楽しげに目を細めた。
「そういう意味じゃない。そうじゃなくて、凄く落ち込んで見えるって」
 痛い。
 そんなことはないと答えながら、拓海は自然と涼介から目をそらしている。これではきっと誤魔化せない。案の定、彼はもう一度問い返してきた。
「言いたくない?」
 言いたいのかもしれない。
 溜め息が出る。涼介はせっかちな弟とは違い、待つ態勢だった。
「……あの」
「うん」
「変な……感じが……最近」
「うん」
「今まで全然気にしてなかったようなもんが急にキレーに見えたり……何でもない誰かの話とかでヤな気分になったり……上手く言えないんですけど、そういうのがいちいち突き刺さってくるような感じで……どっか痛い気がして」
 ちっとも上手く言葉にならないのだ。もどかしくて、拓海はまた泣きそうになる。
「……意外だな」
 不意に涼介が苦笑した。
「もっと鈍感なやつだと思ってたよ」
 それと同じ言葉を彼の弟からも聞いた。拓海が目で問うと、涼介はまるで子供にするように穏やかな表情を向ける。
「心配ない。ちょっと物事に敏感になってるだけさ」
「……鈍感とか敏感とか、良くわからないけど……」
「わからなくていい。どうせあんまり必要じゃないことだから」
「そう……ですか」
「うん。考えるより、もっと遊んで楽しんでた方が効率的だな」
「遊ぶって言っても……俺、あんまり知り合いいないから……」
「ふぅん? 藤原って十八だっけ?」
「はい」
「若いなぁ……まぁ、年上でいいんなら付き合うけど?」
「えっ?」
 涼介が喉を鳴らして笑う。からかわれているのかそうではないのか区別のつかない拓海は、困りきって彼を眺めるしかない。
 ちょうど啓介が戻ってきた。コーヒーを三つ乗せたトレーを片手に、いたく楽しそうな涼介を見て目を丸くし、次に拓海を見て吹き出すのだ。
「なぁに変な顔してんだよ」
 兄弟揃って変な顔と言うなんてひどいと思う。けれど手渡されたマグカップは温かかったし、その後拓海の頭を撫でた手はやさしかった。しかも。
「……兄貴にいじめられたのかよ?」
 こそりと耳打ちされ、何だかこちらまで笑ってしまいたくなる。
「これ飲んだら、ちょっと出掛けてみるか」
 明るい声で涼介が言った。啓介も示し合わせたように賛成する。拓海が慌てて朝の配達のことを話すと、兄弟はそんなことかと一笑に付した。
「俺から電話する。藤原が言うよりごり押しが効くだろ?」
 涼介はなかなか強引な性格をしていたらしい。もっと大人びた冷静な人物だと思っていたから、驚かされるばかりである。
 目を白黒させる拓海に、啓介が意味深に笑いかける。
「兄貴の外面に騙されんなよ。真面目なふりして結構人が悪ぃから、ぼうっとしてるとえれぇことになんぞ」
 
 啓介の忠告は全く持もってその通りだった。
 拓海がぼんやり彼のなすがままに従っていたら、三人を乗せた車は県外まで突っ走ったのだ。途中コンビニに寄りはしたけれども、それだけである。こんな夜中に目的もなく遠出をする彼らが信じられない。
「えー? 遊ぶっつったら普通そんなもんだろ」
 啓介は軽く笑う。涼介に至っては、
「腹減ったら言えよ。アメでもチョコでも、何でも買ってやるから」
 どこかのアブナイ親父みたいなことを口走り始める始末である。後で啓介に聞いたのだが、この時点で、彼は二日目の徹夜に突入したのだということだった。
 確かに涼介はテンションが高かったかもしれない。ひどく屈託なく笑う表情は、楽しいとか嬉しいとか言うより、むしろ自然と浮かび上がってくる様子だ。おかげで拓海は目のやり場に困った。更にはそれを兄弟に悟られ、散々からかわれまくることになる。
「……そんなに俺で遊んで楽しいですかっ」
「楽しいな」
「訊くなよ、そんなこと。俺らの顔見ろって」
 彼らの顔には、楽しくて仕方ないと書いてある。
「――……イジワル兄弟ッ!」
 精一杯の訴えは、大爆笑で却下された。
 涼介の運転する車が急停車したのは間もなくのことだ。それまで拓海は外の景色に注意を払っていなかったものだから、着いたと言われても、すぐにはどことも想像がつかなかった。
 しかし車から降りた途端、しおっからい強風が顔を直撃する。
「……うわ……っ」
 目が開けていられない。しかも寒い。慌ててコートの袷をかき寄せたが、そんなものでは何の足しにもなりそうになかった。
「さっみー!」
 啓介の声が聞こえる。だが台詞に反して彼は楽しげだ。たまらず拓海が叫ぶ。
「こんな……こんなさみーとこ来てどうすんですか……っ」
 言ってる傍から髪も服も激しく風になぶられる。他の二人だって、実際は拓海の状況と変わることはなかっただろう。けれど、相変わらずひとつの泣き言もないのだ。
 彼らと自分とでは感じる温度が違っているのだろうか。拓海が一生懸命目を開いて彼らを窺うと、何をしているのか、二人とも車のトランクからバケツやらブランケットやらを引っ張り出している。
 思いっきり嫌な予感がした。
「あの。まさか下に降りるとか言いませんよね?」
 下が海岸だということは匂いでわかる。風の音に混じって潮騒も聞こえてきている。
「なぁに言ってんだよ、お前」
 啓介が、本当に満面の笑みでこちらを振り向いた。
「ここまで来て、降りないなんて言うわけないだろ?」
 
「さ、む、いぃぃぃっ!」
「てめーそれ以外の台詞はねーのかっ! 一番若いんだから、もっとはしゃげ! 犬のように喜び駆け回れ!」
「はっはっは。それは楽しそうだな、走ればあったかくなるぞ、藤原」
「もー、もー、あんたたち、そんなに俺からかって楽しいんですかっ」
「楽しいって言ってんだろ、しつけぇな」
 拓海は強風を上手く避けきれずに散々な目にあっていた。涙は止まらないし、鼻水は出るしで最低だ。さいわい月明かりだったので、みっともない顔を二人に見咎められはしなかったが、鼻はしきりにすすらなければならず、それを耳にしたらしい啓介から速攻で突っ込みが入る。
「てめ、また泣いてんじゃねーだろうな?」
 暗がりでもわかる。きっと彼は下からねめつけるようにして拓海を見ていた。
「寒いんですっ! 風で目が開かないし、あんたたちこそ何で平気なんですか!」
「平気だぜぇ? お前、多分要領悪いんだわ」
 風を避けるのにどんな要領がいるのだ。拓海が憤然となると、涼介が中に割って入ってきた。
「まぁまぁ。これで気をまぎらわせればいい」
 手渡されたのは、花火セット。それから啓介にはバケツを。
「で、お前は水汲み」
「えええっ! ヤだよ、絶対水冷てーって!」
「けど、お前以外の誰が行くんだ」
「そりゃもう藤原がっ、藤原が行きてーって!」
「ええっ、俺そんなこと一言も……っ」
「お願い! 後でアメでもチョコでも買ってやるから」
 啓介の言いように涼介が笑っている。つくずく意地悪な兄弟だと思う。
 仕方なくバケツをぶんだくった拓海は、怒りまくって海辺へと歩いた。が、怒りが持続していたのはほんの数秒のことで、気がつけば、珍しい夜の海の光景に見入っている自分がいる。
 月がこんなに明るいとは知らなかった。風は冷たいが、その風に踊る波のきらめきはどうだろう。昼の、目を眇めたくなるような輝きとは全く違う。もっと穏やかで、もっと真っ直ぐに胸を突く。
 ぼんやりたたずんでいると、唐突に小気味良い音がした。
 振り向けば、一体どこから調達してきたのか、こんな季節に打ち上げ花火である。
 それも綺麗だった。
 冬は空気が澄んでいるから星座が見つかりやすいと聞いたことがある。多分、同じことが花火にも言えるに違いない。夏の夜に見たものよりもずっと鮮やかで、拓海は何だか馬鹿みたいに見惚れてしまった。
「……綺麗だろ?」
 ふと耳元で声がする。涼介である。彼は拓海の手からバケツを奪い、そのまま波打ち際へと進んでいく。
「あ……、あっ、すいません、俺」
 慌てて彼の後を追った。啓介ならいざ知らず、涼介に労働させるのはひどく申し訳ない気がしてならなかった。しかし彼は拓海がそれを奪い返すのを許さず、あっと言う間に海水を汲み上げてしまう。
「さすがに冷たいな」
「すいません、本当は俺がっ」
「どうして? 別に誰でもいいさ、こんなのは」
 涼介が笑う。すかさず真っ赤になる拓海に、彼はまた苦笑した。
「……そろそろ慣れてもいいと思うんだが」
 拓海だってそう思うのだ。でも頭で考えてできることと、そうじゃないことがある。
「努力はしてるんです……!」
「それで、慣れる予定はいつ頃だろう?」
「えーと……えーと……あの、次に会う時までには」
「――それは残念」
 え、と拓海が顔を上げた瞬間だった。
 火照っていた頬に、冷たい唇が押し当てられる。
 え、と再び混乱する拓海。驚いて瞠目した前で、そうさせた犯人は小さく笑う。
「……あっついな」
 何のことを言われているのかわからなかった。しかし、一瞬後に、それが自分の頬を指しているのだと思いつき、ますます真っ赤になる。
「……りょーすけさん……っ」
 これは洒落にならない。
 ところが慌てる拓海の横で、彼は今初めて気付いたように声を上げるのだ。
「あれ、藤原、オトコだったっけ?」
 男だったっけも何もない。最初っから男で今も男だ。当然これからも男である。
 あまりの言いぐさに腰が抜けた。その場にへたり込みそうになるのを、根性でこらえる。
「……そーやって、いつも女口説くんですね」
「さあな、口説いた記憶はないけど」
「それって口説かなくっても寄ってくるってことですか」
「身持ちは堅い方なんだ」
「つまり全部袖にしてるってこと?」
「相手によりけり。それ以上はノーコメント」
 拓海が口をへの字に曲げるのを、彼はどんなふうに見ていたのか。最後に綺麗に微笑んで、水を入れたバケツを掲げ持つ。
「でも、お前が相手だったら口説くよ」
 楽しそうで良かった、涼介は付け足しのように呟いて背を向ける。
 上の方では、啓介が何本もの花火に一緒に火をつけて遊んでいた。しばらくそこに立ち止まっていた拓海は、息をついて力を抜くと、軽い足取りで前へと進むのだ。
 いつの間にか、あれほど切実だったはずの悩みが消えている。新しい就職口のことも、誰かの陰口や過剰な賞賛も、今はどうでもいい気がした。
 それよりも明日である。
 明日、徹夜明けでつらいかもしれないけれど、イツキに会いに行こう。それで二人でおしるこサイダーを飲んで、あんまりまずかったら大声で笑って――少しだけ泣くのもいいかもしれない。きっと今夜みたいに楽しい気分になるだろう。誰彼なく何もかもに感謝したくなるような、素敵な気分になるだろう。
 未来は明るい。
 その中のどこかには、今夜と同じ、不安や寂しさが吹き飛ぶくらいの、特別な出来事も待っている。
 
 
 余談。
 拓海は、つくずく似ていない兄弟なんていないと確信する。
 同じ夜のことである。景気良く打ち上げ花火を上げる傍ら、啓介が、またもや煙で涙目になっている拓海に絡んできた。
「なぁ、実は泣きムシ?」
 ちょうど涼介が近くの自動販売機に温かい飲み物を買いに行って、いなかったことも災いしたのかもしれない。
 本日二度目の珍事だった。拓海はまたしても頬にキスされた。
「いーかげん普通に戻んねーと蹴るぞ」
「……とか言いながら、何でこんなことするんですか」
「苦手だっつったじゃん、俺。泣かれると、どうしたらいいかわかんなくなんだよ」
 じゃあキスもしなければいいものを。ぶすったれていると、不意にはっとしたように息を飲む気配がする。
 何かと思って彼を見れば――
「まじぃ! てめ、オトコじゃんか!」
 だから最初からそうだと言うのだ。腹が立ったので、拓海は彼を蹴っ飛ばした。
「だって泣きそーな顔してっから!」
「だから、煙で目が痛いんですってば!」
「要領悪ぃんだよ、お前」
「そんなことに要領あるんだったら教えてください」
「んー……そうだなぁ、まぁ時間はいっぱいあるし?」
 不穏な空気にいささか顎が退ける。啓介は人の悪い顔で笑った。
「ま、気楽に遊ぼうや」
 とりあえず週末は空けとけよ?
 
 日常が、新しく塗り替えられる予感がする。