目を閉じてみっつ数える

 名前を呼ぼうとして寸前で口を押さえた。まただ。あれほど自分を納得させたつもりでいたのに、己の馬鹿な頭はいつまで経っても佐為がいなくなったことを覚えない。集中して碁盤を見ている時ほどそれは顕著で、例えば追い詰められながら起死回生の一手に閃いた瞬間なんて、どうしたって無意識に自分の後ろを振り返る。
 考えてみれば、ヒカルが碁石を初めて持った時から彼は当たり前にそこにいた。今更いないことに慣れろという方が無理だった。己の部屋ひとつにしても、まだそこかしこに佐為の存在した痕跡が残ってもいるのだ。
 どうして彼はヒカルにしか見えなかったのだろう、近頃はそんなふうに思う。もしも他の誰かに見えていたのなら、その相手と佐為のことを話すことだってできたはずだ。なのに、そうではないから、ヒカルは自分の気持ちを消化できないまま持て余している。
 泣くことにはもう飽きた。今はただ、佐為がヒカルに示してくれたものを目指して頑張るしかないとも思う。
 でも、後ろを振り返って、何もない空間を確かめるたび途方に暮れた。どれほど懐かしもうと、ヒカルの幼い愚痴を聞いて慰めてくれた存在はもういないのである。
 己は一人でちゃんと前進できているのだろうか。塔矢や和谷や伊角などと同じように、しっかり地に足をつけているのか。
 ちゃんと……強くなっていけているのか。
 誰に褒めてもらっても言葉そのままを信じることができない。不安で、他にできることも見当たらなくって、とにかく碁盤に向かうだけの毎日だった。余裕など元からない。ここしばらくは、囲碁の話ができる相手としか会話してもいない。学校でもヒカルの上の空な様子は知れるらしく、話しかけてくるのは幼馴染くらいのものである。
 一日中、碁を打つことを考えている――ほとんんど追い立てられでもしているように。
「……疲れた」
 ふと、知らずこぼれた言葉に自分で苦笑した。
 目の前には並べかけの棋譜。ヒカルは再び碁石を取ると、一度力の緩んでしまった背筋を伸ばす。
 と。
「おーおー、肩にチカラ入れすぎじゃねーのかぁ?」
 声が、した。
 驚いたなんてものじゃない。ヒカルは慌てふためいて背後を振り返る。家には、ヒカルが碁盤の前にいる時は極力部屋に近づかないようにしている、母しかいないはずだった。しかし、その部屋のドア口に立っているのは。
「かっ……加賀……っ」
 ヒカルが呼ぶと、彼は調子よくへらっと笑ってみせたものだ。
「ドォモ。お久しぶりっすねー、進藤初段」
「しょ……初段とか言うなぁ!」
「あぁん? どこが悪いよ、普通だろ?」
「ぜんっぜん普通じゃない! 加賀に言われるとからかわれてる気しかしないよ!」
「おっ、なかなかスルドイ、さすが初段」
「加賀っ!」
 怒鳴ったら、突然泣きそうになった。今のヒカルに加賀の顔や声は刺激が強すぎる。焦ってそっぽを向いたけれど、鼻はつんとしてくるし目の奥も熱くなってくるしで、どうにもならない。辛うじて涙がこぼれるまでは行かなかったが、近くでヒカルの顔を見ていた加賀には、こちらの変化など容易に知れていたのだろう。
 不意にからかう声が途切れたと思ったら、ふうっと大きく息をつく気配があった。
「ほんっと。なっさけねーツラしてるわ、お前」
 加賀は遠慮もなしにそのまま部屋に入り込み、ヒカルの後ろのベッドに腰掛ける。
 すれ違う瞬間、ふわと煙草の匂いがした。何だか驚くくらい懐かしい匂いだった。棋院や碁会所に行けば普通にある匂いなのに、彼のそれはどういうわけか全く違ったものとしてヒカルを困惑させる。
「……突然、どうしたんだよ?」
 沈黙がつらくて先に口を開いていた。加賀は少しだけ笑ったようだ。背後から手を伸ばしてきたと思ったら、ヒカルが持ちっぱなしになっていた碁石を取り上げ、碁笥の中に返してしまう。その石だけではない、彼の指は盤上の石をひとつひとつ丁寧に拾い上げ、棋譜をどんどん崩していくのだ。
 普段だったらヒカルは大慌てで彼を止めていた。けれども今はそうする気になれなかった。盤上が綺麗に片付いていくのを、ただぼんやり眺めていた。
「……最初は、お前の幼馴染から三谷に行ったらしいぜ? 近頃お前の様子が変だから話聞いてやってくれってさ」
 加賀がゆっくりと言う。
「三谷はほっとけって言ったんだと。それで今度は筒井に話が来た。筒井はああいう性格だから、どうやらお前んとこ行くつもりだったらしい。この前会った時そういう話を奴から聞いて、俺がほっとけって言ってやった。筒井は確かに面倒見はいいが、せいぜいお前と一緒んなって悩んじまうのが関の山だろ」
「……それで。加賀はどうしてここにいるんだよ」
「俺? 俺はついで。――ほらよ」
 後ろから差し出された彼の手の上には、数枚のプリント物が乗っていた。そのプリントの中から一枚を取り出し、加賀は陽気な声で笑う。
「進藤ヒカルくん、英語25点〜」
「え……っ、ええっ、なっ何でそんなものまで……っ!」
 慌てて全てのプリントをひったくる。ヒカルが囲碁のために学校を休んだ時など、こういった類のものを家に届けてくれるのはあかりだった。加賀が持っているということは、つまり、彼女と加賀がどこかで顔を合わせたということに違いない。
「……あかりが加賀に頼んだんだ?」
「用もねぇのに会いに行けねぇっつったら答案ごと押し付けられたぜ。押し強ぇオンナだな」 
「おせっかいなんだ」
「そーか? 心配だったんじゃねぇの、単純に。お前学校でもそーゆーツラしてんだろ?」
「そういう……?」
「余裕全然ありませんってツラ」
 笑えてしまった。自覚があるだけに怒れもしない。ところが加賀には反論しなかったヒカルが意外だったらしい。会話はぷつりと切れて、碁石を碁笥に運ぶ手の動きまでもが止まる。
 少し長い沈黙のあとも、ヒカルは彼を振り向くことができずにいた。
 たった一年だけだったが、彼とは同じ学校の先輩と後輩だった。クラブも違ったし、もちろん学年自体が違うのだから、話す機会だってほとんどなかったというのに、ヒカルの中で加賀という相手はいつも特別な位置にいる。
 特別。そう、長く会っていなければ、電話して会う約束を欲しがるくらいには特別な相手だ。
 同じように先輩だった筒井とは全く会わなくなったというのに、加賀とは今でも時々遊んだりする。大抵ヒカルから声をかけて、暇ならちょっとだけ付き合ってもらうとか、その程度のものである。普通に過ごしていれば接点のない相手を、多分ヒカルの方が必死になって繋ぎとめていた。
 だって加賀だけなのだ。ヒカルがプロ棋士になっても以前と同じように接してくれる相手は。
 他はみんなが変わってしまった。クラスメイトも、仲の良かったはずの友人も、みんなヒカルを特別視するようになった。
 加賀だけが普通にヒカルを受け入れてくれる。囲碁での愚痴も、そこらの何でもない話と同じように笑い飛ばしてくれる。彼といれば、気落ちしている時ですら馬鹿騒ぎができた。加賀は、彼自身にそういう気がなくとも、頑張っているヒカルと真摯に向き合ってくれる、数少ない人物の一人だったのだ。
 だから本当は、こんな時には加賀と会いたくなかった。
 今のヒカルは絶対に笑えていない。囲碁に関する話題でしか頭は働かず、何でもない会話にすらびくついている。きっと加賀にとってはおもしろくない相手だ……彼にだけは、そう思われたくないのに。
「……加賀、用済んだんだろ。もう帰っていいよ?」
 ヒカルは小さく言った。言っていて自分が一番傷ついた。
 本当は彼と話すことも、顔を見ることだってすごく好きなのだ。彼の気分を悪くさせる言葉など言いたくないし、嫌われる仕種もしたくない。けれども今一緒にいれば、今言った言葉よりずっとひどい言葉を吐いてしまう気がする。もしかしたら泣いて甘えてしまうかもしれない。弱音も吐くだろう。そうすれば、彼はきっと鬱陶しいと思うに違いなかった。普通にしていてさえ、無理に合わせてもらっているのではないかと疑う時もあるほどだ。これ以上ダメな奴だと思われて、今以上に距離が離れてしまうのが怖い。
 しかしこれだけこちらが切実に思っているというのに、背後の気配は動いてはくれない。
 それどころか、彼は再び手を差し延べ、わざわざヒカルの目に両の手のひらを晒すと。
「ちょっとじっとしてな」
 言うや否や、両手でヒカルの両目を覆ってしまうのだ。思わず身がすくんだ。
「……か、加賀?」
 名を呼んでも答えはない。けれども。
「いーち」
 耳元で、数を数えているらしい、笑ったような声が聞こえた。
「にーい」
 彼が何の意図でこんなことを始めたのか予想もつかないのだ。ただ、数え方がひどくゆっくりだったので、ヒカルは躍起になって彼の手を外そうとした。
 後にして思えば自分でも不思議なくらい、この時のヒカルは目の前が見えない状態が怖かった。きっと加賀はそんなこともお見通しだったのだろう。こちらが暴れたと見るや、両手はあっさり眼前から除けられる。
「おいおい、たったふたつかよ」
 そうして彼は苦笑した。相変らず後ろを振り返ることのできなかったヒカルを、無理やり引っ張って正面から向かい合わせ、しっかり目と目を重ね合わせた状態で、また笑った。
 どきりとする。加賀の笑い顔は、ヒカルが特別に好きだと思うもののひとつである。
「いーか、進藤」
 その顔のまま、彼は言った。
「今、お前の目の前にいるのは誰だ?」
「……か、加賀」
「俺だな。よし、わかったら目つぶれ」
「え……? え? 何で?」
「いーからつぶれ! ホラ、早く!」
 う、うう? ええ?
 勢いに押されて目をつぶる。やっぱり見えないのが不安ですぐに目を開けようとしたのだが、そこへ加賀の効果的な釘がひとつ。
「前にいたのは俺だけだったろ。わかってんのに不安がるな、じっとつぶってろ」
「で……でも……っ」
「いーから。とにかくそのまま、俺がみっつ数え終わるまでそうしてろ、いいな」
「み、みっつ?」
「ホラ、黙れ」
 ――いーち。
 問答無用で始まったカウントは、やはりヒカルにはじれったいほどに遅いものだ。だが、目の前に加賀がいて、あの表情で笑っていたのを思い出すと、言うとおりにじっとしていなければという気になった。
 ――にーい。
 ……目を開けたい。
 でも、加賀が言った。閉じていろ、と。
 加賀の言うことなら聞いていたかった。加賀だけは信じていたいと思うのだ。ヒカルはじっと堪えた。最後の数は、もうたったひとつだった。
 ――さーん。
 
「……もういいぞ。目、開けてみな?」
 
 そろ、と。言われるままに目を開ける。
 加賀の顔がすぐ近くにあった。目が合うと、彼がにやと笑って見せる。
「……ちょっとは落ち着いたか」
 ぱちぱちと瞬きする。何だか良く事態が飲み込めない。
「加賀?」
「おう」
「……今のなに?」
 わからないが、さっきまで見ていた加賀の顔と、今こうして見る加賀の顔が違う気がした。彼の少しきついような視線も、今なら普通に受け止めることができる。
 そこまで分析したヒカルは、唐突に我に返るのだ。どうして自分は加賀の顔を普通に見れているのだろう。さっきまでは、どんなに傍にいても絶対に振り返れないと思っていたのに。
「……おまじない?」
 急に心臓がどきどきとしてきて、ヒカルは改めて彼に尋ねた。
 加賀が笑う。いつものように、それだけで嬉しくなる自分を感じる――こんな余裕、己の中には今の今まで全然なかったではないか。
「おまじないっつーのか? ただ数かぞえただけだけどな」
「でも、なんか変わったよ、俺」
「そりゃ良かったな。俺も良かったわ、お前が単純で」
 何気に傷つくセリフを言われた気がする。ヒカルがじろりとそちらを見ると、加賀は小さく吹き出した。
「ん。その顔、その顔。お前はやっぱそんくらいの方がからかい甲斐があるわ」
 ぐいぐいと頭を押さえつけられる。痛いのに何だか嬉しい気分になるのだ。
「まぁ、自分見失いそうになったらやってみるといいんじゃねぇ? たったみっつ数える間くらい目閉じられねぇんなら、よっぽど焦ってるってことだろ」
 加賀が言う。加賀が言うのなら、そうなのだとヒカルも思う。
 焦ることと前進するために頑張ることは違う。闇雲に進んでも、余裕をなくして回りがわからなくなってしまったら、進む道を間違ってしまうかもしれない。
 佐為がいなくなって、ずっと誰からも確かな言葉が返ってこないことにヒカルは慌てていた。どれだけ頑張っても表立って己の成長を保証してくれる者はおらず、不安で不安で仕方がなかった。
 でも、加賀に会って思い出したことがある。佐為と同じくらいには、大事に思っていた人がヒカルにもいたのだ。
 彼は多分、ヒカルのことなど一生褒めてはくれない。それでも、頑張れば頑張ったぶんだけの評価をくれるだろう。少しだけやさしくしてもくれる。今日の、この日のように。
 彼に嫌われないうちは、多分ヒカルは真っ直ぐに上を目指して行けているのだと思う。
「……なんか……チカラ抜けたかも」
「ふぅん? 悪かったのか?」
「ううん。多分……」
 良かったのだ。
 
 
 ところで、と彼は言う。
「俺が数かぞえてる間、何か考えてただろ?」
「う、うん……」
「じゃあソレ大事にしとけよ。お前が余裕ない時に支えてくれるもんだぜ、きっと」
 ヒカルはちらと彼を見上げた。視線の意味に気付かない彼は、やっぱりあっけらかんと言い放つ。
「さぁて! 用事も済んだし、帰れって言われたことだしなー、帰るかなー、俺も」
「うっ、わっ、ええぇえっ! せっかく来たのに、もう帰んの?」
「お前が帰れっつったんじゃん」
「言ったけど! 言ったけどでも!」
 本当に今にも立ち上がりそうになる彼の腕を捕まえた。ヒカルが必死で抱え込むと、彼は意地悪そうに笑って、けれどくしゃくしゃと髪を掻き混ぜてくれる。
「だってお前の部屋灰皿ねーもん」
「ええっ! そんなんだったら今から持ってくるって!」
「いんね。息子が灰皿なんか探してたらママが心配すんだろ?」
「ママって言うな!」
 笑う加賀が嬉しくって、ますます腕を抱きこんだ。
 楽しいなと思う。ずっと一緒にいてほしいな、とも。
「あーあ……俺、加賀がほしーなぁ」
 ヒカルは思いのままを口にしていた。自分では特に変なことを言ったつもりはなかったのだが、それを聞いた途端、彼はびっくりしたように目を大きくする。
「……何だって?」
「え。だって、俺のだったらずぅっと一緒にいれるじゃん」
 俺はドラエモンかっつーの。ぼやいた加賀は半分引きつったような表情になる。それでもヒカルがあの手この手で必死になって引き止めると。
「あーあ、全く……始末におえねーガキ!」
 最後に乱暴に言い捨て、ヒカルの鼻面を指で弾いて、彼はヒカルが一番大好きな顔で笑った。