ネコ型ロボットは見返りを要求したか

 ちょうど前日は日本に大寒波がやって来た一日で、前々から咳で悩まされていたヒカルは、その日、終始吹き荒れた北風と、時折混じるみぞれとで、ものの見事に風邪を悪化させた。そうして翌日の今日はと言うと、とある催し物にプロ棋士として招待を受けていた。当然、風邪がどうのという言い訳はきかない。ヒカルは平熱を三度近く上回った体温のまま、仕事場である催事場へ出向いたのだった。
 その帰宅途中のことである。
 一足でも早く自宅へ辿り着きたくて、満員電車に飛び乗ったまでは良かったが、たったの二駅の間に眩暈はするは吐き気はするはで、真っ直ぐ立つことすら難しい。結局ヒカルが持ちこたえられたのは三駅目まで。生ぬるい車内の空気も嫌で、とうとう四度目にドアが開いたと同時に外へと逃げ出す。
 そこは全く見ず知らずの駅だった。あまり大きな町ではないのか、同じ場所で降りた乗客は数人だ。
 ヒカルは溜め息をつき、いっそのことタクシーで自宅まで乗り付けるかと考えた。実は今夜は家のものが揃って外に出ている。ヒカル一人が自宅で過ごすことになるわけだが、夕食代として母からは充分すぎるほどの金額を受け取っていた。それをそのまま足代にすれば楽ができると思ったのだ。
 ところが、だ。
 手荷物を探ろうとしたヒカルは、己が手ぶらで立っていることに、その時初めて気がついた。
 はっとして振り返ってももう遅い。電車は既に乗車口を閉じ、のろのろと動き出しているではないか。
「……ウソ……」
 茫然と見送った。追いかけることすら思いつかなかった。
 財布は荷物の中だ。ちなみに電車の切符は、財布の中。
 悲壮な現実に動く気力まで削がれた。駅の改札まで行って駅員に事情を説明すればどうにかなったのかもしれなかったが、まず改札まで歩く気力がなくなってしまった。
 ヒカルはふらふらと傍のベンチに腰を落とす。
 北風が容赦なくホーム中を駆け巡った。
 背筋がぞくぞくする。身体の表面は火照っている感覚があるのに、寒くて寒くてならなかった。
 これはあれだ、ヒカルは眩暈をこらえながら己の状況を判断する。
 ――発熱。
「やばいぃー……」
 このままじっとしていても助けは来ない。ヒカルは今や最後の頼みの綱になってしまった、上着のポケットを探った。指に当たるのは携帯電話だ。
 まず最初に頭を過ぎった顔を無視して――他に迷惑を被ってくれそうな人物を思い浮かべる。和谷、塔矢、幼馴染のアカリ、いくつかの顔がヒカルの中を浮かんだり消えたりした。それらのどれもが、ヒカルが窮地に陥っていると知ったら、文句を言いつつも慌てて動き出してくれそうな顔だった。
 助けを呼ぶならその中の誰かにすればいい。しかしヒカルの指は動かないのだ。
 彼らの電話番号を登録していないわけではない、そうではなくて。
 再び一番最初に打ち消した顔を思い出す。
 加賀。
「……来てくれるかなぁ?」
 大きく息を吐き出すと、目の前が白く染まった。それが掻き消えるのをしばらく眺め、ヒカルは携帯電話に視線を落とす。
 加賀は、生活の中心が囲碁になってしまったヒカルにとって、接触を図ろうと思わなければ間違いなく疎遠になる一人である。
 実際、加賀本人にとっても、ヒカルなど「顔見知りの後輩」くらいの認識に違いないのだ。わかっているのに、窮地に立った時は何度となく彼を思い出す。佐為がいなくなったあとは特にそうだった。加賀は、今のヒカルを囲碁と切り離して見てくれる、たった一人きりの貴重な人物だった。彼にそういう気持ちがなくとも、会うたびに叱咤と激励をくれる。
 ヒカルは祈りを込めて携帯電話を操作した。番号を登録した時に、わざわざ一番上に入れた彼の名前は、既に小さな画面の中で自己主張している。
 最後のボタンを押す。すぐにコールが始まって、どきどきしながら機器を耳に押し当てた。
 ひとつめ、ふたつめ。いつもはそう待たずに電話口に聞こえる声が、今日に限ってなかなか出てはくれない。さすがに不安になった頃だ、ようやく着信した音が聞こえた。
「……加賀?」
 呼びかけたヒカルに対し、しかし聞こえた声は、加賀のものではなかった。
『え、あ? 知んねーヤツだ、加賀、加賀ーーーっ、電話!』
 ヒカルにとっても聞きなれぬ男の声だった。彼の友人だろう。他にも何やらガヤガヤと騒ぐ声が聞こえていた。どこかの店なのかもしれなかった。
 ヒカルは己の気分がすうっと落ち込んでいくのがわかった。
『――もしもし?』
 だから彼の声が聞こえても、すぐには声が出ない。ヒカルは一呼吸間を空けたあと、何とか口を動かした。
「……あの、俺だけど」
『進藤?』
「うん……もしかして今、ジャマ?」
『いいや? 何だよ?』
 あの……。言ったっきり、続きを言い出せずに時間が過ぎる。電話の向こうでは相変わらず騒がしい音が聞こえていた。加賀も何も言わなかったから、向こう側の声はヒカルの耳にもはっきり聞こえていた。「オンナか?」「いや、オトコ、オトコ」「オトコか、切れー」「切れー」「バーカ、静かにしてろよ」大体そんなやり取りだった。
 少し息が詰まった。今日の加賀の時間は、多分電話の向こうにいる彼の友人たちのために使われるものなのだ。
 加賀はヒカルのものではない。
「あの……ごめん、またかけるよ」
『進藤?』
「ジャマしてごめん」
『おい、待て。まだ切るなよ』
 一言言い置いて、彼が話し口を手で覆ったらしいことがわかった。「黙れてめーら」という怒鳴り声がくぐもって聞こえる。
 しばらく経って、再び聞こえた彼の声は、ひどくはっきりとしていた。場所を移動したのかもしれなかった。さっきまでと違い、背後からの声も聞こえない。
『――で、どうしたって? お前、声が変だぞ』
「そう、か、なぁ?」
『ああ。で?』
「……うん」
 やはり言い出せずに苦く笑った。言ったところで彼が迎えに来てくれるとは思えない。
『進藤?』
 訝しげに呼ぶ加賀の声がひどく胸に痛い。どうにもたまらなくなって、次の瞬間、ヒカルは無理を承知で彼に泣きつくのだ。
「加賀、タスケテ……」
『あ?』
「タスケテ。俺、今、一文無し」
『おいおい、待て。お前、一体……』
「タスケテ。迎えに来てよ……」
 駅名を告げた。それから荷物を置き忘れて電車を下りてしまったことや、切符すらその荷物の中に入れたままになっていることも話した。
 加賀は呆れきったように長く深い溜め息をついていた。
『ナニやってんだ、お前?』
「タスケテ」
『あぁ、うるせぇよ! 大体、何だってそういう時に俺に電話かけんだ、てめーは! 前にも言ったが、俺はてめーのドラエモンじゃねーっつの! ハイそうですかって、何度も何度も助けに行けるか!』
「だって……」
 何だか泣きそうになってしまった。しかしヒカルが言い募るよりも早く、彼は黙れと言い捨てた。
『いーか、今度が最後だ。とにかくそこ行ってやるから、大人しく待ってろ!』
 それきり、電話はぷつんと切れてしまった。
 ヒカルは、もう彼の声を聞かせてはくれない携帯電話をポケットにしまい込む。
 人けのないホームは妙に寂しくて、電灯までもが他より暗い気がしていた。首に引っ掛けるだけになっていたマフラーを、口元付近まで引き上げる。陽はほとんど暮れかけており、気温はあっと言う間にマイナスの世界へ突入しそうだ。
 もう爪先がかじかんで上手く動かない。ヒカルは意味もなくふと笑って、それからくしゃりと顔を歪めた。
「……加賀。加賀、早く……」
 早く来てよ、俺泣いちゃうよ?
 本当に加賀がヒカルのドラエモンだったらいいのにと、心から思った。そうすればどんな時も一緒にいて、ノビ太みたいに甘えて擦り寄って、いっぱいワガママをきいてもらえたのだ。しかもどんなワガママを垂れようが、迷惑をかけようが、絶対に嫌われることがない。
 ベンチに腰掛けたまま動けないヒカルの前を、電車は何度か通過していった。やはり少ない乗客がこの駅で下り、皆静かにホームを出ていく。ヒカルは、てっきり、加賀が現れるのなら、電車に乗って辿りつくものだと思っていた。それで、電車が停車するたびに、乗客に彼がいないかを確かめていたのだが、不意にかけられた声は全くの逆方向からだった。
「……なにやってんだ、お前」
 はっと振り仰ぐと加賀だった。顔は笑っているが、目が微妙に怒っている。
 ようやく彼に出会えたヒカルは、やっぱり泣きそうになった。来てもらえて嬉しいのは嬉しいのだが、普通迷惑をかける相手を好ましく思う人物は少ない。口ではひどいことを言いながら、実は加賀は案外面倒見の良い男だった。しかし、面倒見が良いことと、面倒をかける相手を好ましく思うかどうかは別問題である。
 きっと確実に嫌われた。
 でも、彼に助けてほしかったのだ。
「ごめん……」
 いよいよ真剣にべそをかいたヒカルを、加賀はそれ以上問い詰めることをしなかった。一度だけ舌打ちすると、彼も隣にどかりと腰を落とす。
 いつものように煙草に火をつける気配があった。ホームは禁煙という言葉が頭を過ぎらないでもなかったが、今日ばかりは何も言えなかった。
「で? 俺に何の用があるって?」
 突き放すような声がつらい。ヒカルはそっと彼をうかがい、電話で言った用件をもう一度繰り返した。
「あの……電車の中に荷物置き忘れて、俺、今お金持ってなくって……切符もなくって」
「だから? 金貸してほしいのか?」
「そ、れもそうなんだけど……」
 しかし、それは、他の誰でもなく加賀を呼んだことへの理由ではない。
「……加賀、さっき友達と遊んでた最中だった?」
「ああ。お前のおかげで出てきたけどな」
「ごめん……だって」
「だって? 何だってんだよ、あぁ?」
 だって加賀に傍にいてほしかったんだ、口を突いて出ようとした言葉を飲み込んだ。ヒカルは小さく息をついて、口元まで覆ったマフラーの中へと顔をうずめた。
「ねぇ、加賀、俺の一生のお願いきいてよ」
「あぁっ?」
 ふざけたことを、と、言わんばかりの形相でこちらを睨んだ彼から、更に顔を隠し、真剣に言う。
「俺のドラエモンになって」
「――はぁ?」
「俺いっぱいワガママ言うけど嫌わないで。怒ってもいいからずっと傍にいてよ」
「――…………」
「俺のものになって」
 加賀が沈黙した。ヒカルはまた泣きたくなる。頭の中では、今すぐ笑って嘘だと言ってしまえば良いと思ったが、そうする余裕もなかった。
 これで、彼に鬱陶しがられる要素がまた増えた。
 グスと鼻をすすったら、隣で盛大な溜め息の音がする。
「ったく、どこのオコサマだ、こいつは……」
 こぼれた呟きは、苦々しかったにも関わらず少しだけやさしかった。ヒカルは恐る恐る顔を上げる。目を合わせた加賀は、それでもしばらくじぃっとヒカルを睨みつけ、だが最後には、普段の人を食ったような笑みを浮かべた。
「――ドラエモン、なってやってもいいけどな?」
「えっ?」
「ああ、別にいいぜ? ただし、タダではなってやれねぇだろ」
 何を言われているのかわからず、ヒカルは首をかしげる。加賀はイジワル笑顔のまま、へろっと続けた。
「報酬による」
「報酬……お金?」
 と、言われても、今ヒカルは一文無しなのだ。だが加賀は、この問いに首を振った。
「カラダで返すんだよ」
「カラダ?」
「そ。考えてみろよ、お前のドラエモンになるってことは、俺はお前にカラダ差し出してんだろ?」
 そう言われるとそういう気もした。加賀はいよいよ調子に乗って笑う。
「だからお前もカラダで返す。それでいいなら、ドラエモンになってやるよ」
 正直なところ、ヒカルに加賀の理論はわからなかった。だが、彼が自分のものになってくれるのなら、どういう条件でもかまわなかった。
「それでいい!」
 ヒカルは強く言い切った。
「俺のカラダ、加賀にやる!」
 ところが次の瞬間、加賀は、はーっと、先にも増して特大の溜め息をつくのだ。ヒカルは全くわけがわからずに彼を見た。加賀は今や疲れ切ったように笑っていた。
「ほんっとオコサマな、お前」
「?」
「ワガママ許してやって、ずっと傍にいる見返りにカラダもらう相手のこと、普通どう呼ぶか知らねぇか?」
 ドラエモン?、そう言いたげな目など全く無視し、彼は――
 ひょいと互いの距離を縮めると、こちらの耳に噛み付いた。
 氷ほどにも冷たくなっていた外耳には、彼の体温は炎のようで、ヒカルは咄嗟に情けない悲鳴を上げてしまったのだが、それも加賀の瞳に捕まると途端に勢いを失った。
「コイビト」
「えっ……?」
「ドラエモンじゃなくって、恋人だろ、そりゃ」
 一番好きな顔で笑われて、それでもまだ言葉が脳に到達せず、ぼんやり彼を見上げるしかできない。
 何だか急に身体中がぽかぽかしてきて感覚が鈍った気がした。
 さっきまで北風で凍えていたのに、やっぱり加賀の力は偉大である――彼がドラエモン(加賀曰くコイビトらしい)になってくれて良かった……あれ、でもコイビトっていうのはオトコとオトコでなれたのか?何か忘れているような気がするのだか……まぁいいか、加賀も嬉しそうだし云々。
 ヒカルの思考はそこまでだった。
 ヒカル自身はすっかり忘れていたが、この時ヒカルの体温は40度を超えた。発熱に気付いた加賀が、慌てて小柄な身体を背負うのは、もう少し時間が経ってのことだ。
 
 ――北風の吹きすさぶホームで、初めてのキスを交わしたあとのこと。