掌編「笑」

 とうとう自重を支えきれずに空を墜ちた。
 ついさっきまで神の御使いさながらに天を駆けたハウルの背には、不自然に折れ曲がった翼があった。千切れかけている翼だ。根からは、コールタールのようにどろりと滑る黒い体液が、おびただしくこぼれてもいた。
 旋風と重力の間で身体がめちゃくちゃに回転する。体液と羽毛が散った。ハウルは指ひとつ動かすことも諦めたまま、花畑の大地に墜落する。
 ぐしゃりと嫌な音がした。風圧で翼がもげた音だった。
 しばらく息すらできずに苦痛を耐えた。魔法が解ける。全身を覆っていた羽毛がぞろりと抜け落ち、花を圧しつぶすのがわかった。
「は……ハハ……ッ」
 あんまり痛くて笑いが出た。
 強張った喉には酸素までもがつらかった。思わず咳き込むと、肩から裂けた皮膚が引き攣れた。腕が一本なくなっているのだ。出血だけは魔法で抑えたが、いくらハウルが優れた魔法使いであろうと薬もなしに痛みまではコントロールできない。
 ゆっくりと息を整える。騙し騙し身を起こす。
 脇には汚れた腕が花に埋もれていた。まだ指先に痙攣の残るそれは、裂傷のない箇所を探すほうが難しいほど傷だらけだ。
「……形が、残っていただけで……上等、か……」
 ハウルはありったけの力で己の腕を手繰り寄せた。
 そうして荒くなる呼吸を抑え、意識を真っ直ぐにする。
「血ハ血ニ、肉ハ肉ニ……我ニ連ナルモノハ我ニ還レ……」
 自分自身の防御のため、幾重にも施していた魔法を、一から詠唱しなおす。重力に沿って下へと流れるばかりだった血が、途端に宙で赤い糸になり、無残にもがれた腕へと触手を伸ばす。
 血が、肉が、骨が、筋が。じりじりと繋がれていく。
 じりじりと。
 まるで金属同士を溶接しているようだ。ふと連想した場面があながち外れとも思えずに苦笑いが出た。うっかり呪文の詠唱がおろそかになって、腕を取り落としそうになったが何とか堪える。
 痛みは依然としてあった。
 それでも見た目だけは五体満足の身体に戻るだろう。魔法の出来に安心したハウルは、ついでに血濡れのシャツにズボン、上着にも目くらましの呪文をかけた。
 ふと空を仰ぐと、もう日が傾きかけている。
 ──夕食までには帰ってくるわね?
 ソフィーの言葉が蘇る。
 遠くには、たくさんの爆弾を卵のように船底につけた、巨大な飛行艇が浮いている。ハウルの大切なものを脅かしかねないあれを、今日こそ沈めてしまうつもりでいたけれど。
「……ソフィー」
 何だか今日は疲れたよ。
 両手いっぱいの花を持って帰ると言ってきたのに、身体の方が動いてくれない。ハウルは、茎のやわらかい花をやっと一本手折り、ゆらゆらと立ち上がった。
「一本でも喜んでくれるかなぁ……?」
 彼女さえ笑っていてくれるなら。
 それだけで。どれだけボロボロになっても、もう何も。