If you give it, anything is good

AM7:55/goenji

 学校へ向かう最後の角を曲がった瞬間だった。
 豪炎寺は、いつもの通学路を、フットボールピッチと錯覚しそうになった自分に驚いた。原因はわかっている。少し先に、ドレッドヘアを粗く括った特徴的な後ろ頭が見えたからだ。
 鬼道有人である。
 豪炎寺は、昨日の試合で、初めてチームメイトとしての彼を知った。
 こちらの足元に吸い付くように届く、正確でやわらかいパス。何気なかったからこそ逆に衝撃だった。あんなボールは誰からも受けたことがなかった。
 こいつとこれから毎日サッカーをすると思うと単純に興奮した。
「……そうか。あいつも雷門中に通うんだな」
 当たり前のことなのに、鬼道が雷門の制服を着ているのが不思議だ。
 豪炎寺は足を速めた。
「鬼道」
 呼べば、無視することもなく当たり前に振り返る。豪炎寺、と、多少びっくりしたような声が続くのも、何だか新鮮だ。
「今日からか?」
「……見ての通りだ」
「クラスは?」
「まだ聞いていない」
 お互い、どこかにむず痒さがある。チームメイトの立ち位置に慣れていないのが丸出しの会話。
 今日からこれが日常になるらしい。
 鬼道がどう思っているかは知らないが、少なくとも豪炎寺は悪くないと感じた。今ぎこちなくても、あんなパスを普通に出してくる相手だ、サッカーボールさえあれば会話に困ることもない。
 それよりも何よりも、今は ── そう。
 豪炎寺は、ここに円堂がいればいいのにと思いながら口元をゆるめる。
「……似合わないな、制服」
 即座に「くだらん」と切り捨てられた。
 確かにくだらない。けれど、そんなくだらない会話が今日から増える。正直、楽しい。
 円堂がここにいれば、多分豪炎寺と同じことを言ってもっとうるさくしただろう。残念なことに豪炎寺はさわぐ方ではないが、人の機微を読むことに長けた天才ゲームメイカーは、こちらの言葉の奥のつたない歓迎を感じ取ったようだった。
 鬼道の口端がゆるく上がる。
 静かな笑みの形。
 ああ ── 本当に。円堂がいれば良かった。豪炎寺は思うのだ。
 そもそも円堂こそが、もっとも鬼道と一緒にサッカーがしたいと願っていた張本人である。
 肩を並べて黙ったまま歩きながら、豪炎寺は円堂に会ったら鬼道が登校していることを教えてやろうと考えていた。きっと大さわぎして嬉しがるはずだ。
「……訊いてもいいか」
 ふと鬼道が口を開く。
「どうして俺をチームに誘った?」
 最初は何を問われているのかわからなかった。
「諦めたくなかったんだろ?」
「俺はな。だが、お前が俺に同情する理由はない」
「ああ」
「なら、なぜだ?」
 俺はお前にとっては敵だったはずだ、と、鬼道は続けた。大人びた、理性的な口調だった。
 なるほど、確かに豪炎寺にとって鬼道は敵だった。
 雷門に誘った時点でも、半分は疑いながらだったかもしれない。それでも自分が誘うべきだと思った。なぜなら。
「円堂は言わないだろうと思ったからだ」
 鬼道は帝国学園のキャプテンだった。
 同じキャプテンの立場にいる円堂は、たとえ思いついても他チームのキャプテンを引き抜くことは迷っただろう。
 第一、転校なんて変化球が円堂の頭にあったかどうかもわからない。円堂と似たり寄ったりの豪炎寺にしても、転校を示唆することができたのは単に自分が同じ経験をしていたからである。
 豪炎寺も転校を経て、円堂守と出会った。
「……お前、円堂が好きなのか?」
 その鬼道の問いは、それまでが嘘のように子供っぽく唐突だった。
 豪炎寺は笑ってしまった。
「好きだな。あいつ、いいやつだ」
「……そうか」
「そうだ。いいやつが誰かの心配でまいっていた。転校って手もあるぞと教えてやるくらい良いだろ」
 鬼道の横顔は、どことなく困っているように見える。
 おかげで豪炎寺の方は気分が良い。
 もし今日、円堂がいつもの鉄塔広場で特訓をするなら、鬼道を引っ張って行こうと思った。普段は大人びた様子でいる鬼道だが、円堂に関することなら、おもしろい反応をしてくれそうだ。
 こいつとは絶対長い付き合いになる。
 根拠もなく思って、豪炎寺は笑う。



AM9:21/kidoh
 
 一時間目の授業が終わった。
 新しい教科書が揃わない鬼道は、机を寄せてくれた隣の男子生徒に礼を言い終え、まずこの相手の名前を覚えようと慎重に口を開いていたところだった。
 既にクラス中の生徒が、物珍しそうに鬼道を観察している。
 あまり居心地の良い空気ではない。それでも慣れていた。転校そのものは初めてだったが、鬼道は公には大財閥の跡取りだ、帝国学園でもクラス替えのたびにままあった状況だった。
 ある意味、学校生活について鬼道は達観している。
 どういうクラスに振り分けられようと、放課後にサッカーさえできれば良いので、クラスメイトの興味は極力引かないように過ごすつもりでいた。
 ところが、だ。
 バンッ、と、派手な音を立てて教室のドアが開く。
「鬼道っ!」
 実に通りの良い声だった。
 円堂だ。彼は、誰もが目を奪われるに違いない、満面の笑みで駆け寄ってきた。
「すげぇ! 本当に鬼道がいる!」
 鬼道の机に両手をついて、なお身を乗り出して全身で喜びを訴えるのだ。
 しかも跳ねた。二度、三度。
 あまりのはしゃぎっぷりに、鬼道の方は声が出ない。
「朝から豪炎寺が鬼道に会ったって言うからさ! 制服が新しかったとか、似合ってなかったとか、俺見てないよチクショーって思って、一時間目終わって速攻ダッシュしたんだぜ!」
 うわー、ほんとだ似合ってない!
 笑われているのに、鬼道はと言えばやはり何も言えなかった。というか、目の前の円堂があんまりにも嬉しそうで、悪口と感じないのだ。
 己の耳にじわりと血が集まる。
 しまった ── うっかり鬼道まで嬉しくなってしまったではないか。
「……円堂、少し抑えろ」
「休み時間だぞ、平気だ!」
 しかし円堂があらわれた時点で、鬼道のクラスはすっかり静まり返っている。
 平気だと言い放っておきながら、円堂もようやく静けさに気付いて目を丸くした。
「あれ……? なんで静か?」
「お前がさわいだからだ」
「ええっ?」
 寸前まで鬼道と話していた隣の相手などは、口までぽかんと開いたままである。
「うわ……ごめん。もしかして俺、邪魔したのかな」
「邪魔?」
「そうだよな、転校初日だもんな。きっとみんな鬼道に話しかけようとしてたんだ。なのに俺が飛び込んで来たから……」
 そうだとしても、鬼道が彼を邪魔に感じるはずがない。
「いや、ちょうど良かった。部室の場所を聞かなければと考えていたところだ」
「え ── あっ、荷物か!」
「ああ」
「わかった。昼休みでいいか? 給食終わったら俺がこっちに来るよ」
「ああ」
 鬼道がうなずくと、円堂はまたひどく嬉しそうに表情を崩した。
 本当は、部室の場所など、何度も雷門に偵察に来ていた鬼道は熟知している。
 ただ、改めて気兼ねのいらない場所で、制服が新しいとか似合わないとか、円堂が言うのを聞きたかった。そうすれば、鬼道も「抑えろ」なんて、勿体無いことを言わなくても良い。
「じゃあ、またあとで!」
 そうして嬉しげに円堂が行ってしまうと、興味の眼差しはますます鬼道に集中する。
 鬼道は努めて平静を装い、隣の席に向き直った。
 とりあえずこいつには謝って ──
 円堂の登場ですっかり頭から掻き消えてしまった相手の名を、もう一度名乗ってもらわなければならなかった。



AM11:33/endoh
 
 あと七分。
 円堂は、教師の朗読が教室に響く中、壁掛け時計の秒針ばかりを見ていた。
 四〇分で午前中の授業が終わる。そのあと給食になって ── 給食が終わったら、鬼道のところに行く。
 顔が勝手に笑うのがわかった。慌てて教科書に隠れる。
 喜びすぎだとは豪炎寺にも指摘された。
 円堂自身もそう思う。
 けれど、本当に、昨日の試合会場で雷門のユニフォームを着ている鬼道を見るまで、彼と同じチームでサッカーができるとは思っていなかったのだ。
 以前、河原のサッカー場で会って、一緒に練習しないかと鬼道を誘ったことがあった。
 あの時、鬼道ははっきりと断りはしなかったが、多分断らないことが「帝国の鬼道」に許される最大の好意だと、円堂には何となくわかっていた。
 鬼道は帝国学園サッカー部のキャプテンだった。キャプテンは、時として、部員にこうあるべきという態度を率先して見せなければならない。
 中には、円堂のようにこだわらないキャプテンもいるだろうが、鬼道はそうではなかった。少なくとも、率先して高圧的な雰囲気を帝国に作り出すくらいには、キャプテンという立場を意識していた。
 円堂がそれを強く感じたのは、彼がたった一人で冬海と土門の件を謝りに来た時だ。
 良いキャプテンだなぁ、と、思った。
 だから雷門と帝国が対立している限り、この先も、彼とは、一緒に練習したり、普通の友達のようにふざけ合ったりすることはないのだと思っていた。
 それが、突然かなう環境になったのだ。
 あの鬼道がチームメイトである。
 嬉しかった。嬉しくて、どきどきして、何度も確かめたくて、じっとしていられなかった。
 ふと、後ろ頭に硬いものが当たる感触があった。見れば、小さな消しゴムが足元を転がっていく。
 それには覚えがあった。豪炎寺のペンケースの中に入っていたものが、ちょうどこのくらいの大きさだったはずだ。
 犯人は豪炎寺か。円堂が後ろを向くと、同じくこちらを見ていた彼と目が合う。
 その口が音のない言葉をつづった。
『う・か・れ・す・ぎ』
 わかっているから、あまり言わないでほしい。これでも一生懸命普通の顔を作っている。
 授業終了まで、あと二分。
 円堂は秒針の動きをじりじりとした気分で見つめた。
 あと三〇秒、二〇秒、一〇、九 ──
「では今日はここまで」
 教師が教科書を閉じた。
 すかさず床の消しゴムを拾い上げ、豪炎寺に投げつける。
 最速を狙ったが、彼は円堂がそうすることを見越していたらしい。ずいぶんと綺麗に額の中央でトラップし、丸く跳ねた消しゴムを右手に着地させた。
「くっそぉ」
 悔しい。でも、さすがエースストライカーとも思う。
「今日はヘディング練習の日か?」
 しれっと言い放つ豪炎寺。
 円堂はいーっと子供の顔で怒って、それから笑った。
「あとで鬼道を部室につれてくことになってんだ、豪炎寺も行くだろ」
「行く」
「遅れたら置いてくからな」
 豪炎寺はうなずき、すぐに給食の準備を始める。円堂も机の上を片付け、決められていた当番に向かった。
 クラスメイトと給食の献立のことを話しながら、何となく、もしも鬼道が同じクラスにいたらどうだったろうと考えた。
 たとえば消しゴムを投げ合うようなこともあるだろうか。
 豪炎寺がしたように、鬼道もサッカー部らしく額でトラップして見せるのか。それとも普通に避けて終わりか。
 いつか試してみるのも良いかもしれない。
 そんなふざけ合いができる距離に、自分たちはなったのだ。



PM0:05/kidoh
 
 いつからそうだったのか、廊下側の窓の向こうに円堂と豪炎寺がいる。二人は鬼道がそちらに気付くや否や手を上げた。
 鬼道もすぐさまトレイを手に席を立つ。
 少し前に食べ終えてはいたのだが、片付けるタイミングがわからなかったのだ。転校初日は戸惑うことばかりである。授業の開始や終了の挨拶ひとつ取っても勝手が違う。
 決まった位置で布巾を使ってトレイをしまう。それから教室の後ろに取って返して、隅に置きっぱなしにしていたドラムバッグとサッカーボールを背負った。
 と、傷痕の多い手が横に。
「手伝うよ」
 円堂である。思わずキーパーの手に見入ってしまったこちらから、迷いなくドラムバッグを取り上げようとする。
 鬼道は、はっとしてボールの方を押し付けた。円堂は「おおっ、鬼道のボール!」などと無邪気に笑っている。
「……へぇ。このメーカー使ってるのか?」
 豪炎寺は鬼道の愛用品に興味を持ったらしい。スパイクはどこのだと訊くので、とりあえず正直に答えていく。
 しかし目は円堂の手に釘付けだった。
 馴染みのボールを楽しげにいじるその手。傷痕は多いものの、健康的な色をした丸みのある爪が、まだまだ幼さを残しているように見える。
「……鬼道?」
 さすがに不審に思われたらしい。円堂に呼ばれて、鬼道はやっと目を上げた。
「悪い。珍しくてな、つい」
「珍しいって……俺の手が?」
 きょとんとする円堂の向こうで、豪炎寺は合点がいったような顔になった。
「キーパーの手は特別、か」
 その通りである。鬼道と豪炎寺がうなずき合うのに、当の円堂だけが首をかしげた。
「普通の手だと思うけどなぁ? 普通にごはん食べて、普通にゲームしたり本読んだりする手だ」
「そうか」
「そうだよ! さっきは消しゴムも投げた」
「消しゴム?」
 急に話が飛躍した気がしたが、豪炎寺は円堂の言葉に笑っている。
「ナイスパスだったよな」
「うっさい。次は覚えてろよ!」
 円堂と豪炎寺は同じクラスだ。きっと何かあったのだろう。鬼道はぼんやり推察し、少しうらやましい気分になった。
 これまで誰かと同じクラスになりたいなどと考えたこともなかったが、円堂や豪炎寺と一緒だったら楽しかったかもしれない。
 ひそかに気落ちした鬼道をよそに、円堂は妙に嬉しそうしている。
「なぁ、鬼道はどうする?」
「何がだ?」
「消しゴムが飛んできたら」
 良くわからない。ただ豪炎寺までもが答えを期待してこちらを向いているので、答えないわけにもいかないのだろう。
 鬼道は考えてみた。
 消しゴムが飛んできたら?
「……避ける」
 とたんにがっかりしたように息をつく豪炎寺。円堂は「そうかぁ」と感慨深げだ。
「いったい何の話だ?」
「消しゴムの話」
 だから、それがわからないと言っているのに。
「なぁ、今度消しゴム投げてみてもいいか?」
「何でだ?」
「俺、鬼道が避けるの見たい」
 円堂はひたすら嬉しそうにしている。
「サッカー部ならトラップしろ、鬼道」
 豪炎寺は更に意味不明を言う。
 なぜにここまで意思疎通がかなわないのか。
 鬼道は早々に二人に説明を求めるのを諦めた。仕方がないので、本当に単純にその場面を思い描いてみる。
 円堂が鬼道に消しゴムを投げたら?
 想像では円堂の楽しげな顔も見えた。
「……当たる」
「えっ?」
 気付いた時には言い直している。
「訂正する。お前が投げるのなら、俺は消しゴムに当たる」
 円堂のまん丸な目がぱちぱちと瞬いた。
 ふぅん……と、おもしろがるような顔をしたのは豪炎寺だ。
「俺が投げたらどうする?」
「避ける」
「他の誰かなら?」
「避ける」
「円堂が投げたら?」
「当たる」
 ふぅん。笑う豪炎寺。
 円堂はと言えば、話の途中から見る見るうちに顔を赤くして俯いた。
「き、鬼道ってさ……」
 何とかしぼり出したらしい声も上ずって、それ以上は続かない。
 動揺もはなはだしい円堂には悪いが、鬼道はそろそろ時間が気にかかり始めている。
「どうでもいいが、この調子で昼休み中に部室まで行って帰って来れるんだろうな?」
「あっ! まずい、急ごう!」
 円堂が駆け出したので、自然と他二人も続くことになる。
「もー豪炎寺のせいだぞ」
「俺か?」
「そーだよっ、お前が消しゴム ── 」
「円堂がにやけてたからだ」
「あれは! だって鬼道が雷門の制服着てるから ── 」
「俺のせいか?」
「いや、円堂のせいだ」
「違う、豪炎寺!」
「お前が元凶か?」
「違う、円堂だ」
 違う違うと三人それぞれに言い合いながら。
 意味不明の話は相変わらず。それでもいつしか鬼道も笑っていた。
 想像以上ににぎやかな毎日が始まろうとしていた。
 些細だが愛しいものが溢れる日々。
 きっと、世界中のどこもかしこもが、見たこともないほどの光に満たされる。

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