鬼道のクラスでは、終業後に日直がゴミ捨てをすることになっている。
焼却炉の場所は体育館裏。その更に奥は古くなった用具の倉庫になっていて、一般生徒は立ち入らない領域だ。
ひとまず迷うことなく目的地に辿り着くことができた鬼道は、ポリエチレン製の大きなゴミ箱を焼却口に傾けた。
実は転校してきて始めてのゴミ捨て当番だった。前回はもう一人の日直が代行してくれた。というのは、鬼道が終業後サッカー部に直行するのを気遣ってくれたらしく、今日の今日まで日直の仕事にゴミ捨てが含まれているとは知らなかったのだ。
雷門中学に編入して一ヶ月が経ったが、クラスメイトとはまだ少しぎこちない。
どうやら「サッカー部に所属している」というのも、鬼道が特別視される原因のひとつらしかった。
二年生と一年生で構成された雷門中サッカー部は、良くも悪くも全校生徒の注目を集めている。下級生と同級生には手放しで応援されるかわりに、上級生には疎まれがちである。
鬼道自身も、帝国学園にいた当時、三年生部員が存在した中でキャプテンに指名された。だから知っている。たかだか一歳の年の差が壁を作ることもある。
変なことでサッカー部に被害が及ばなければ良いのだが ──
ここ最近、他の運動部のグラウンド使用回数が減らされたらしい。そのことに不満を持つ上級生がいる、という噂を、鬼道は今日クラスメイトから聞いたばかりだった。
気がかりだったのだ。
だから、円堂が人けのない体育館裏を、明らかにいつもと違う様子で通り抜けた時、あやしまずにはいられなかった。
その時、鬼道はまだ焼却口と向き合っていた。誰かがこちらに向かってくる足音がしたので、同じようにゴミ捨て当番だろうと思ったのだ。
ところが足音は鬼道のうしろを通りすぎた。この奥にあるのは倉庫くらい。
不思議に思って振り返る。すれ違ったのは、あろうことか円堂だった。
まず、これだけ傍を通りながら、鬼道に気付かなかった彼に驚いた。次いで、終業後すぐにユニフォームに着替えてしまうようなサッカー馬鹿が、いまだ制服姿でいることにも不審を感じた。
「 ── 円堂!」
声をかけたなら、本当に驚いたように肩を跳ね上げた彼。
振り返って、鬼道を見つけて ── 明らかに「しまった」という顔をした。
何かがあったと鬼道に確信させるには充分だった。
「な、なんでこんなとこに鬼道が?」
「ゴミ捨てだ」
「似合わねぇ……」
「ほうっておけ。それで? 円堂はどこに行くつもりだ?」
束の間口ごもった円堂は、それでも笑顔を作って「もうちょっと向こうまで」とおどけて見せる。
ますますあやしいが、鬼道は言葉にして問うことはしなかった。ただ「俺も行く」とだけ、空になったゴミ箱と一緒に円堂のそばに立った。
「……えっと、いや、ごめん。俺一人で行かなきゃいけなくってさ」
「そうか」
「うん、そう。ほら、鬼道はさ、俺少し部活に遅れちゃうかもしれないから、先に行ってみんなのこと ── 」
「豪炎寺には?」
「えっ」
「豪炎寺には何て言って置いてきたんだ」
円堂は黙り込んだ。
正面から向き合って初めて、鬼道は彼の手が紙切れをきつく握り込んでいることに気がついた。すべての答えがそこにあると言っているかのようだった。
手を伸ばして、そのこぶしに触れる。
冷たい ── 緊張と不安に冷えた手。
円堂はしいて鬼道の手から逃げようとはしなかった。うながせば素直に紙切れを離し、鬼道が抜き取るに任せた。
ノートを破り取った切れ端には、三年生の署名で、体育館裏の倉庫に来い、という文面がある。
円堂は語る。
「少し前からグラウンドを独占するなって言われててさ……別に独占してないと思うけど、それまでが俺たち全然使ってなかったから、余計に他のとこから横取りしたみたいに思われてて」
「言いがかりだろ」
「そう、だろうな……」
「そうだ。お前が真正面から付き合ってやる必要はない」
「うん……」
うなずいておきながら、円堂は「でも」と言う。
「俺が逃げて、他の部員のとこに呼び出しが行くのが嫌だ」
「教師にでも相談すればいい」
「うん。でも、そうするとサッカー部が悪いって思われたままになっちゃうだろ」
「思わせとけばいい」
「それはダメだ。俺たちはいいかもしれないけど、一年がかわいそうだ」
それでお前だけが矢面に立つのか。
「……俺も行く」
鬼道が繰り返すと、円堂は笑った。少しだけ困ったふうにしながら、それでも力強い笑顔だった。
「大丈夫! 話してくるだけだって!」
あんなに冷たい手をしていたのに。
ひとつも不安などないと、任せておけと言うのだ。まるで試合で強大な敵に立ち向かう時の円堂だった。
── ダメだ。
鬼道はこんな顔で本当に打ち勝ってきた円堂を知っている、だからこそ止める術を持たない。円堂の決意と真っ向から対峙して打ち砕く自分が、まず想像できない。
戦意喪失。
負けを承知で鬼道は懇願する。
「俺も連れていけ」
「ダメだ。鬼道にならわかるだろ、これはキャプテンの役目だ。俺にお前ら守らせてくれよ」
円堂が胸を張る ── いっそこちらが打ち砕かれてしまいそうに、誇らしげな表情をしていた。
鬼道は、どうにか「危なくなったらすぐに声を上げるか逃げるかしろ」と円堂に言い含め、うなずかせた。そうして、しばらく真っ直ぐに倉庫に消えていく背中を見送って、とうとうその場でしゃがみ込む。
重いゴミ箱は、その辺に転がした。
「くっそ……」
本当に、こんな時だというのに。
腹立たしくて、すぐさま携帯電話を取り出した。コール一回。相手は待っていたような素早さで応答する。
「なんでお前がこういう時にいないんだ!」
怒鳴りつけてやった。
相手はもちろん豪炎寺だ。
「いいから来い! 今すぐ! 体育館裏だ!」
言うだけ言って、すぐに通話を切った。
骨まで円堂に侵食されている鬼道とは違い、豪炎寺はいざとなれば円堂の意思を無視できる男だった。少なくとも、鬼道と体育館裏で遭遇するまで豪炎寺が付いて来ていれば ──
二人がかりなら円堂を止めることができたかもしれないのに。
豪炎寺は間もなくやって来た。
一応全速力で走ってきたらしく、息を切らせて鬼道の脇に膝をつく。
「円堂は!」
殴りつけてやりたかったが、堪えて向こうの倉庫を指差した。
「……なぜ円堂を一人にした?」
「…………」
「答えろ、豪炎寺」
「……一緒だ」
「何だと?」
「一緒だ、お前と。ここにいるってことは、お前も円堂を一人で行かせたってことだろ」
鬼道は歯軋りして豪炎寺をにらみつけた。同じように怒りに満ちた眼差しが、こちらを鋭く睨み返してくる。
ずいぶん長い間そうしていた。結局、先に目を逸らしたのは鬼道の方だった。
もし本当に豪炎寺が鬼道と同じ気持ちで円堂を一人にしたのだとしたら、その気持ちは察して余りある。
円堂守に負けること。
多分、彼の周りに集う仲間の多くが、その快感と誘惑に抗えない。
鬼道もそうだ。鬼道は、円堂の決断に惚れ抜いている自分を自覚していた。
「……あいつは、守らせろって言った」
豪炎寺が呟いた。
「円堂にそういうふうに言われて、俺にどうしろって言うんだ?」
鬼道は腹の底から溜め息をつく。
本当に ── どんなに悔しくても、円堂を正面にした時、所詮自分たちは全面降伏するしかないのだろう。
それからどのくらい経った頃か。
ふと倉庫の扉が開き、中から、すっきりと晴れ渡った青空のような表情をした円堂が出てきた。
「あれ? 豪炎寺もいる?」
何してんだ?、と、いたく暢気に問われて、鬼道も豪炎寺もものの見事にへたり込んでしまった。
「あーもー二人してどーしたんだよ」
円堂に肩を叩かれ、背中を叩かれ、それでも反応できずにいたら、最後に頭を撫でられた。見れば豪炎寺も似たり寄ったりだ。
円堂は反応の鈍い二人の手を、それぞれ取って、指をからめて、それから笑った。
「嘘。わかってるよ……さんきゅ」
まだ冷たい手だった。
鬼道はたまらなくなって、ぎゅうっと力を込めてその手を握った。せめて、かけらでもあたためてやることができればいいと、心から祈っていた。
「なぁ、今晩さぁ、お前らうち来ない?」
「……それは泊まりに来いと言うことか?」
「うん、そう。うちの母ちゃん、料理上手いぞ。まぁ練習終わってからだし、どうせみんなボロボロになってるだろうから、嫌ならムリは言わないけど」
「……行く」
「お。ホントか? 鬼道は?」
「……お母様に迷惑じゃないのか」
「平気! 俺が来てもらいたいんだし、母ちゃんには頭下げて頼むから気にするな!」
「じゃあ俺も行く。お前が頭を下げて頼むんなら、俺もお母様にはそうしよう」
「俺も」
「ええ? いや、お前らはお客さんだってば!」
既に部室には誰もいなかった。
口を動かしながらも、慌しく着替えているのは三人だけだ。他は当たり前のように今日もグラウンドで次の試合を見据えて練習している。
円堂は、おそらく今日の出来事を部員に話しはしないだろう。
鬼道は、あの時、体育館裏に居合わせることができた偶然に感謝する。それから、図らずも、同じもどかしさを共感してくれた豪炎寺に感謝する。
円堂は、決して強いわけじゃない。
ただ強く在ろうとする、その姿勢にどうしようもなく目を奪われる。
願わくば、彼がいつでもそうしてくれるように、鬼道も彼の決断を後押しする存在でいたい。これについては、多分豪炎寺も同じことを考えている。
たとえば、世界中が円堂の敵になっても ──
鬼道の手は、ただ円堂を支えるためだけに、そこに在れば良い。