Let me touch your heart

 円堂の調子がいつもと違うことは、部活が始まってすぐに気がついた。
 鬼道の見立てでは、決してどこかを痛めていたり、体調をおかしくしているふうではない。それなのに、何かが円堂からサッカーをする喜びを奪っているのだった。
 もちろん、円堂はキャプテンであることを忘れていない。彼の変化は、鬼道の目には異なって見えても、チームメイトの士気にかかわるほどのものではないのだろう。
「円堂はどうかしたのか?」
 円堂と同じクラスである豪炎寺に尋ねてみたが、これと言った収穫はなし。ただ鬼道が問うのを聞いていたらしい木野が、あとでこっそり教えてくれた。
「あのね、今日の理科の授業で班ごとに実験があったんだけど、実験が終わってからちょっと変だったよ」
「言い争いでもしていたのか?」
「ううん。そんなじゃなかったけど……」
 結局詳しいところはわからない。
 それでも、豪炎寺も木野も、円堂なら大丈夫だと信じているようだった。二人ともが、今日は落ち込んでいても明日には普通に戻っていると口々に言った。
 二人の言葉は真実だと鬼道も思う。ほうっておいても円堂は明日には元気に笑っている、それは知っていた。
 にもかかわらず、鬼道が気にせずにいられなかったのは、鬼道自身が常から些細なことでも円堂にかかわっていたいと願っていたからだった。
 笑っていてもどこかぎこちない表情でいる円堂。鬼道はその日の練習が終わるまで、彼の心をじっと推し量り続けていた。
 
   特訓メニューが組まれていない日の雷門サッカー部は、至極真っ当な時間で練習を終える。
 今の季節だと、ちょうど空の端が暗く色を変えていく頃にすべての練習メニューが終了する。それから、着替えと平行しつつ、一人一言の反省を部誌に記入して、最終的に円堂が手早く総括を書いて完了。大抵みんなで部室を出て行くことになる。
 ところが今日はそうではない。円堂の手が部誌の上で止まっていた。
 多少後ろ髪を引かれるようにしながらも、部員たちがばらばらと帰っていく。そんな中で、豪炎寺と風丸だけは、明らかに円堂に付き合うつもりのこちらを見て何を思ったのか、最後に鬼道の肩を叩いて出て行った。
 薄暗い部室には今、鬼道と円堂の二人だけだ。
 鬼道は黙ったまま部室の明かりをつける。円堂がふと顔を上げたが、結局言葉はなかった。
 多分円堂は鬼道が残っている理由に気付いている。黙っているのなら、円堂自身が一人で決着をつけたいと思っている証拠だ、鬼道がしいて尋ねることじゃない。
 けれど、もし一言でも ── 彼が心の内を晒してくれることがあるのだとしたら。
 鬼道が沈黙を保って部室に残っているのは、ただそのためだけだった。
 窓の外はすっかり暮れてしまった。
 さすがに空腹を感じていてもおかしくないと思いついた鬼道は、制服のポケットを探って見つけたものを、円堂が開きっぱなしにしている部誌の上に転がした。
 チロルチョコミルク味。
 部活前にふたつ壁山にもらった。最初はひとつだけだったのだが、食べたことがないと言ったらふたつくれた。
 黙ったまま残ったもう片方の包み紙を解いていたら、急に円堂が笑い出した。
「鬼道からチロルもらうとは思わなかった」
 鬼道は菓子好きの後輩に感謝する。円堂が笑うのなら何でも良い。
「実は初めて食べる」
「ホントか?」
「ああ」
「へぇ! ミルクもおいしいけど、他にいっぱい変な味あるんだ。今度、一緒に駄菓子屋行こうぜ」
 円堂は慣れた手つきで包みを剥ぐと、景気良く口に放り込む。
「うま!」
 そう言って笑う顔は、丸っきりいつもと同じに見えた。元気になってくれたのなら嬉しいが、結局鬼道は彼の言葉を聞き逃してしまったようだった。
 ひそかに残念に思っていたら、再び部誌に視線を落とした円堂が「そう言えばさ、」と遠慮がちに言うのだ。
「鬼道、うちのサッカー部が帝国と試合する前、どうだったか知ってる?」
「……いや」
「うち全然人数足りてなくてさ、試合もできないからみんなやる気なくしちゃってて、けっこう寂しい部だったんだ」
 円堂の顔は伏せられたままだ。鬼道は彼がどういう返事を待っているのかわからず、ただチョコのかけらをかじった。
 しばらく円堂からの声はなかった。最初は気にしなかった鬼道だが、次第に円堂の表情が見えないことに落ち着かない気分になった。
 意図しなかったはずの沈黙には、いつの間にか緊張までもがひそんでいる。
 円堂は、おそらくずいぶん長い葛藤を経てやっと鬼道にそれを言った。
「……鬼道は、俺といて疲れない?」
 一瞬、声が出なかった。まさかそんなことを尋ねられるとは思ってもみなかったのだ。
「 ── 疲れるわけがない!」
 ほとんど床を踏み鳴らす勢いで否定した鬼道に、円堂がようやく顔を上げる。ほっとしたような、困ったような。
 泣きそう、な?
 気付くや否や、鬼道は脳が沸騰するかと思った。実際、どくどくとひどい音を立てて血が体を巡るのを感じていた。
「疲れるわけがない! 何だってそんなことをきく?」
「ごめん……ありがと。でもごめん、俺、鬼道はそう言ってくれるかなって思ってきいた、ごめん」
「謝るな! それよりなぜだ? 誰かがお前にそう言ったのか!」
「えっと……いや、その……」
「はっきりしろ!」
 鬼道のあまりの剣幕に、円堂が慌てて首を横に振る。明らかにその場しのぎだったが、鬼道はそれでようやく円堂に怒りをぶつけそうになっていた自分に気がついた。
 無理やり溜め息をつくと、円堂がまた小さく「ごめん」と言う。
「もう謝るな。そもそも俺はお前に謝ってほしくない」
「うん……ありがと、鬼道」
 そうじゃなくて、もっと全部晒してほしいのだ。
 けれど円堂はそうしない。むしろ、大失敗でもしたあとのように無理に笑って違う話を振ってくるので、鬼道はもどかしさで一杯になってしまう。
「円堂、違う」
「……鬼道?」
「違う。俺は ── 」
 どんなことでも聞かせてほしいのに。
 心からの懇願を声にする寸前のことだった。ぷつんと何かの線が切断されるような音が響き、部室の明かりが消えた。
「えっ……え?」
 慌てたような円堂の声。次いで彼がいた位置で、椅子と机がぶつかる音がする。
 鬼道ははっとした。
「動くな、円堂!」
「えっ……わ ── わぁ!」
 ガタガタガタッ、盛大に転げ落ちる音。
 墨で塗りつぶしたような真っ暗闇の中では、何がどうなったのかまったく見えない。鬼道は肝を冷やし、円堂の名を呼ぶ。
「だ、大丈夫っ! ちょっと打っただけだ。それより、どうして電気が消えたんだ?」
「停電だろう。円堂、ケガは?」
「ない、と思う ── わ、わっ」
「バカ、動くな! いいから、そこにゆっくり座れ!」
 円堂が動くたびに大きな音がするので、鬼道は気が気じゃない。何とか「座った!」という元気の良い声が聞こえた時には、本当に胸を撫でおろした。
 次に鬼道が考えたのは、円堂の傍に行くことである。足先に神経を集中させ、記憶を頼りに最初の一歩を歩く。
 円堂がいたのは、部室の端に寄せていた大机で、その近辺には、背もたれのない丸椅子が並んでいた。また背後にはロッカーがあって、足元にはネットや三角ポールが片付けられていたはずだ。
「……鬼道?」
「大丈夫だ、お前はじっとしていろ」
 たった数歩の距離を慎重に進み、ようやく円堂のどこかに爪先が当たる。
「これ、鬼道か?」
「ああ。円堂、こっちに手を出せるか」
「うん!」
 宙に差し出した手が、互いの指を辿ってしっかりと絡み合った。
「……本当にケガはないか、円堂」
「うん。鬼道も平気か?」
「ああ」
 円堂の助けもあって、どうにか二人座るスペースを確保した。暗くて判別はつかないが、三角ポールと椅子が倒れて床を占領しているらしかった。
 鬼道は今、円堂と膝を突き合わせて座っている。つないだままの互いの手は、ちょうど二人の間にあり、下には何の支えもなく不安定な感じがする。
 それでも円堂を離したくなかった。
 と、不意につながれた手が軽く揺らされる。離せという催促じゃなく、じゃれつくような動きだ。
「なんかちょっと楽しいよな、こういうの」
 内緒話みたいにひそめた声で円堂が言う。
 鬼道は笑ってしまった。
「暢気だな。部誌は書き終わったのか?」
「まだ。でも今日はもうやめとく」
「そうか。じゃあどうする? 外の方が明るいかもしれんが……」
「もう少しじっとしてようぜ、動くとケガしそうだ ── それに、やっぱり暗いとこで話してるのがおもしろい」
 いいだろと許可をとるように揺らされる手。こちらも了解を伝えるために円堂の手を揺らしたら、軽い笑い声が返ってきた。
 今なら気まずい思いをさせずに済むだろうか ── 鬼道は、先ほど円堂が飲み込んでしまった話の続きが気になっていた。
 円堂が感じたことを感じたままに話すのが聞きたかった。
 たとえそれが誰かの悪口でも良いのだ、建前や強がりじゃない、正直な円堂の感情に触れたい。もしも何かに傷つけられたのだとしたら、その傷を見せてほしかった。鬼道はきっと誰がするより丁寧にその傷を治療するだろう。
「円堂。さっき、帝国と試合をする前のサッカー部の話をしたな?」
「……うん」
「続きが聞きたい」
 手を握る力を強くする。
 円堂の答えはない。それでも、つながれた手が逃げていかないことを頼りに、鬼道はもう一度強く「聞きたい」と繰り返した。
 ためらうような沈黙があった。そして。
「……今日、な?」
「ああ」
「……理科の、授業で。実験があって」
「ああ」
「班ごとの実験で……うちの班だけずっと上手くいかなかったんだ」
「そうか」
「うん……それで、何回も実験してたら、もうやめようぜって誰かが言い出して。一生懸命、やっても、疲れるだけだって……」
 途切れ途切れに話した円堂は、少し笑ったようだった。
 鬼道にはそれが、今日何度も見た、作られた表情に思えてならなかった。思わず円堂の手を揺らすと、円堂の指がすがるように鬼道の薬指と小指に絡んで、たまらない心地にさせられた。
「俺……俺さ、帝国と試合する前は、けっこう部員みんなから言われたんだ」
「……何を?」
「やたら一生懸命で疲れるって。……今日の理科の授業で、その頃のこと思い出した。今はきっとみんなそんなこと思ってないってわかってるけど、本当にそうかなと思ったら……なんかどんどん自信なくなってきてさ、」
 それで鬼道に否定してほしくてああ言ったんだ、ごめん ── 円堂は早口に言って、それから大きく息をついた。
「俺がキャプテンなんだから。俺がしっかりしてなきゃいけないのに……甘えてるよな、今も。本当にごめん」
 なんで謝るんだ、と。鬼道の喉元では、一度目と同じように、怒りに似た強い言葉が渦を巻いている。でも本当に伝えたいのは一度目も今もそんなことではないのだ。
 そうじゃなくて ── ただ。
 ただ。
「円堂」
 名前を呼んで、どうにもならない気持ちごと、つないだままのその手を引き寄せた。
 まだ爪にも節にも丸みの残る円堂の手。鬼道が神が宿る手だと真剣に信じている傷だらけの手。その尖りのひとつひとつに、祈りを込めて唇を押し当てる。
「 ── き、どう?」
 伝わらないだろうか。
 鬼道が今、どれほど彼が心を見せてくれたことに、喜びを感じているか。円堂が甘えと自己嫌悪した行動に、どれほどのかけがえのなさを感じているか。
 円堂さえ許してくれるのなら、むしろ全力で甘やかしたいくらいなのに。
「……あの、鬼道……その……俺……手、あつい」
 幼い声に、がつんと頭を殴られた。
 即座に、己の唇も指も、彼を束縛していた全部を遠ざける。
 円堂の手は重力に従い、まったく無防備な状態で音を立てて落下した。その音でびくついたのはむしろ鬼道の方だった。
 円堂はと言えば、ぼんやりした口調で、
「ごめん……力、入んなくて……」
「いや、俺の方こそ……すまない、驚かせた」
「う、ん……おどろき、まし、た」
 闇が鬼道の行いを隠してくれたとはいえ、おそろしく気まずかった。
 鬼道は内心の動揺を必死で殺し、つとめて冷静に「そろそろ外に出よう」と提案する。円堂は大人しくこちらの指示通りに動き、やがて息苦しかった密室からどうにか脱出することができた。
 外は星明りで明るく、互いの表情も簡単に見分けることができる。
「……その、鬼道?」
 振り返るべきだとはわかっていたが、今の自分がどんな顔を晒しているかと思うと体が固まって動かない。
 ふと、制服の袖口が突っ張る。
 反射的に鬼道が視線を落とすと、そこには円堂の手があり、思わず顔を上げてしまって、結果、互いの目と目が正面衝突することになる。
「さっきの……慰めてくれたんだよな?」
「…………」
「違った……?」
 うっすら涙の膜ができたような円堂の瞳は、呼吸を忘れるほど真っ直ぐにゴーグル越しの鬼道の目を覗き込んでいた。
 この瞳で見つめられ、答えを乞われて、嘘をつける相手などいるのだろうか?
「……慰め、じゃない」
 鬼道は余計なことまで口走りそうになる自分を律し、無理やり彼から視線を引き剥がす。
「 ── 慰めじゃなく。あの時の俺は、ただ祈っていた」
「いのる……」
「お前がもっと話してくれたらいいって。キャプテンだからチームメイトにも弱音を吐き出せないのなら、俺にだけ言えばいい。もっと俺を頼ってくれと祈っていた」
 円堂が息を飲む。
「俺は円堂が甘えられる相手になりたい」
 鬼道は、いつの間にか汗をかいていた手のひらを、強く拳を握ることで隠した。
 緊張していた。
 とてもじゃないが、ゴーグル越しでも今の円堂の顔を見ることはできそうもない。鬼道の視線は地に落ちており、そこには星明りでできた円堂の影がはかなく伸びている。
 円堂はすっかり言葉を失っているようだった。
 鬼道の緊張は刻々と増す一方で、激しく鼓動を繰り返す心臓も、間もなく限界を超え破裂するのではないかと思えた。
 ところが、ある時、円堂の爪先に小さな水滴が落ち ── それは彼自身の影よりもずっと濃く、砂地の地面に確かな傷と名残を残す。
 鬼道は茫然とした。
 たまらず見上げた先では、円堂が声もなく涙をこぼしていた。
「円堂……!」
「……へへっ」
 あとは一瞬の出来事だった。
 円堂は涙を素早く拭い去って、すっかり悩みも何もなくなったいつもの明るい表情で笑って見せる。
「ありがと、鬼道。俺、もう平気」
 その時の違和感をどう例えるべきか。鬼道には円堂が真実を隠したように見えた。
「もう遅いし、そろそろ帰らなきゃ」
「あ……ああ、そうだな」
「うん! 荷物どーしよ、まだ部室は暗いけど、持って帰らないわけにもいかないし」
「……守衛室で懐中電灯を借りるか」
「お! 鬼道、頭良い!」
 笑う円堂には、既に脆さのかけらも見当たらない。
 彼に合わせていつもの調子で話しながら、鬼道は改めて思うのだ。
 彼の真実が知りたい、彼の心をささえたい。
 今、言葉を尽くして頼れと言ったところで、実際に円堂が鬼道を信じるには長い時間がかかるだろうし、何より鬼道自身の努力が不可欠になる。
 それでも思う。強さも弱さもひっくるめた円堂全部に触れたい。その許しを誰でもない円堂自身からもらいたい。
 一瞬だけ見えた涙がもしも円堂の奥底にある真実なら、彼は決して、好きで独り立ち続けているわけではないはずなのだ。
  ── どうか、明るく笑う彼の強がりが、もう二度とこの目を欺きませんように。
 鬼道は祈り、前を行く円堂の細い背中を見つめた。