Let me call your name

 今朝、目が覚めたら布団を着ていなかった。
 少しまずい気がしたのは、手足や肩が冷えてしまっていて動かせば痛むほどになっていたこと。鼻水も少し。喉は明らかに腫れてしまったらしい痛みがあった。
 それでも起きて、朝食を食べている間にずいぶんましになった。だから不調は母には告げなかった。今晩は親戚宅で法事があり帰りが遅くなると聞いても、ふぅんで通した。
 円堂の優先順位は、言うまでもなくサッカーが第一位となる。
 学校に行けば部活がある、部活があればサッカーができる。つまり、学校イコールサッカー。体調不良で学校を休むという選択肢は、円堂の頭の中に存在しなかった。
 そうして現在がある。
 保健室。風に揺れる白いカーテンを背景に、年配の女性養護教員がほとほと呆れた様子で何度目かの溜め息をついた。
 その対極位置には豪炎寺と木野。こちらも、どうにもならない無理難題を前にした時のように眉をひそめている。
「だから。どうせ、そんな状態じゃサッカーできるわけないだろ」
「そうよ、円堂くん。熱、三七度五分もあるんだよ? 今日は帰ってちゃんと休んだ方がいいよ」
「いや、寝てれば放課後には熱も下がるって。先生、俺ここで寝てていいでしょ?」
「円堂、あのねぇ ── 」
 養護教員は三度目になる説明を根気強く繰り返した。曰く、保健室では飲み薬を処方することはしておらず、高熱が予想される生徒には速やかに帰宅をうながし、家族に看病してもらうことになっている云々。
「でも俺、放課後には普通になってる!」
 最後まで聞かずに主張すると、円堂を囲む三人ともが揃って肩を落とした。
「……わかった」
 唐突に豪炎寺が言う。円堂は束の間味方が増えたと喜んだが、次の彼の言葉に大慌てした。
「鬼道を呼ぶ」
「 ── ま、待て、豪炎寺!」
「いや呼ぶ。お前の説得にはあいつが適任だ」
 円堂は、豪炎寺が携帯電話を取り出すのを何とか防ごうとしたが、椅子から立ち上がっただけでぐらついてしまい、すぐに腰を落とすことになる。しかも木野に肩を支えられなければ、椅子からだって転げ落ちそうだった。情けない。
「……鬼道って、この前転校してきた子だよね?」
「そうです。同じサッカー部なんです」
「へぇ? 円堂を説得できる子か、覚えておくよ。今後にも役立ちそうだ」
 養護教員と木野が勝手なことを言い合っているうちに、豪炎寺は一言二言のやり取りで電話を切ってしまった。
 円堂は、熱でくらくらする頭を抱え「ああああ……」とうなだれる。
 円堂自身、鬼道に弱い自覚がある。
 語り口が理性的でいちいち反論が難しいとか、気持ちと理屈を分けて考えるタイプだとか、こちらが熱くなっても勢いじゃ流されてくれないだとか ──
数え上げれば、表面的な理由だけでも星の数ほど。
 でも、多分一番の理由はこれに尽きた。
 嫌われたくない。
 実は、円堂が誰かに対してそんな感じ方をするのは初めてだった。
 サッカー仲間やクラスメイト、友達、幼馴染、親戚連中、近所のおじさんおばさん……誰と対峙する時も、自分に良い印象を持ってもらうのは嬉しい。ただ好き嫌いは相手に無理強いできることではないから、半分運任せみたいに思っていた。
 ところが、鬼道を相手にする時、この運任せという言葉を円堂は忘れる。
 自分を嫌わないでほしいし、彼に嫌われるようなことはしたくないし、できれば少しでも好きになってほしい。
「……ひでーよ、豪炎寺」
 だからこそ、鬼道を相手にわがままを言い張り続ける自信がない。
「ひどいのはお前だ」
「鬼道を呼ぶのはヒキョーだ」
「卑怯って。円堂はそんなに鬼道が嫌いか?」
 多分、豪炎寺は逆説的に「嫌いか」と尋ねたに違いない。声も笑っていた。しかし前後を知らず一文を切り取った時、人の耳にはどんなふうに響くだろうか。
 円堂はそんなに鬼道が嫌いか?
 そう、たとえば ── ちょうどその時、保健室の引き戸を開いた話題の主の耳などには、どんなふうに響くものか。
 扉を開くなり、ぎくりと足を止めた鬼道。
 ゴーグルで表情がはっきりしないが、決して良い意味には取らなかったと、正面から見ていた円堂は直感した。
「違うからなっ!」
 思わず熱も忘れて立ち上がった。体はぐらついたが、ここで踏ん張らなくてどこで踏ん張るのだ。
「俺、鬼道好きだ! 好きだってば!」
 多分、円堂は必死に言いすぎた。
 気付けばみんな呆気にとられていて、保健室全体が微妙な膠着状態におちいっている。
 ごほん、と、咳払いをしてくれたのは、年配の養護教員だった。
「わかったから。落ち着きなさい、円堂」
 途端に体中の力が抜けて倒れそうになる。
 幸いにも、四方から手が伸びてきて床と衝突することはなかったが ── 円堂に伸ばされた手のうち二本は鬼道のもので、そちらを向くと何とも戸惑った様子でそっぽを向かれた。
 ちょっと悲しくなった。
「ううっ……やっぱ豪炎寺がヒドイ」
「うん、まぁ……悪かったかもな」
 スマンと謝られたら、どっと疲れてしまった。前と同じように丸椅子に座らされながら、このあと鬼道相手に学校にいると言い続けるのはつらいだろうなと想像する。
「それで、円堂が体調を崩しているっていうのは本当なのか?」
 気を取り直した鬼道が言うと、豪炎寺と木野が口々に顛末を語り出す。途中で始業のチャイムが鳴ったが、口調が多少早くなったくらいで誰も教室に帰るそぶりがない。
「……なー、みんな授業行けよー」
 円堂が言うと、養護教員が苦笑した。
「そうだな。せっかく来てもらったから鬼道だけ残って、あと二人は帰りな。この分じゃ円堂もすぐに気持ちを改めるだろ」
「せんせー、俺は鬼道とだって戦うぜ」
 言ったとたんに、まったく痛くないゲンコツが円堂の額に落ちた。鬼道の手だった。
「病人はさっさと帰れ」
「やだ。俺、放課後にはなおってる」
「どこの小学生の言い分だ」
 呆れる鬼道を残し、豪炎寺と木野が保健室を出て行った。
 頭ごなしに怒られる覚悟をしていた円堂は、次に目線を同じ高さにしてこちらを覗き込んできた鬼道にどぎまぎする。
「……しんどそうだな」
 真剣に心配されるのは苦手だ。ゴーグル越しの瞳を見ていられず、横を向くのが精一杯だった。
「寝てたらなおるって……」
「なら家でしっかり寝ろ」
「それじゃサッカーできないだろ」
「するな。と言うか、体調悪い時に無理してケガでもしたら、一日二日じゃ済まないんだぞ」
「わかってるけどさ……でも」
 俺、キャプテンだしさ。
 続く言葉を飲み込んでいたら、鬼道がまるで心を読んだようにこう言った。
「お前の代わりに、風丸や俺がしっかり練習の指示を出す。信用できないか?」
「そうじゃない、よ……」
 仲間を信用できないわけじゃなく、役目を果たせないことが嫌なのだ。
 以前、鬼道と停電した部室で二人になった時、暗闇の力を借りても言い出せなかったこと。円堂は、自分が充分にキャプテンを務められているか自信がない。
 せめて練習の時に全員へ声をかけるくらいは、毎日続けようと思っていた。それくらいしか、自分にできることがわからなかったのだ。
 声を詰まらせた円堂に何を見たのか、鬼道は深い溜め息をついて腕組みをした。
「今から言うことを想像してみろ、円堂」
「?」
「明らかに具合の悪そうなお前がキーパー位置に立つ。いつもよりつらそうに動いて、無理に笑ったり、声を張ったりしながら仲間に指示を出す」
「う……」
「一年はちらちらお前の顔色をうかがって気もそぞろで、二年はお前がいつ倒れるんじゃないかと気が気じゃなく、事あるごとにお前に声をかけにいく」
 何だか異様にリアルに想像できてしまって、円堂は慌てた。
 そんなに集中が乱れた状態じゃ、どんな練習をしたところで ──
「練習にならん」
 鬼道の断定に胸を突かれた。
「わかったか。今日は帰れ」
 うなだれるしかないではないか。
「……自覚していないなら言うが、雷門にお前の影響を受けないやつはいない」

「……うん……」
「大事をとって早くなおせ」
 やさしい言い方に鼻がつんとなった。
 少しでも動くと泣けてしまいそうで、本当に鬼道といると弱いと実感する。感情が端から端まで振れて涙もろくなるし、鬼道は鬼道で弱っている円堂に根気強く付き合ってくれる。
 甘えてしまっている、と思う。
「……わかった。帰る」
「ああ」
「練習、頼む」
「任せろ。終わったら連絡を入れる」
「……ん」
 ぐしゃぐしゃと髪を掻き回す勢いで頭を撫でられた。普段から手荒なしぐさのない鬼道だから、円堂を気遣ってわざとそうしてくれているのだろう。
「 ── お見事」
 ふと、今まで黙っていた養護教員の声がした。円堂が鼻をすすって顔を上げると、彼女は楽しげに口元をほころばせている。
「助かったよ、鬼道。円堂の強情さにはまいっていた」
「……そうですか」
「ああ。君はすごいな」
 純粋な賞賛だった。ところが鬼道にとってはそうでもなかったらしい。
「お言葉ですが。強情さは、円堂の良いところです。円堂は納得さえすれば何でもやり遂げる。俺はただ円堂に説明しただけです」
 聞くや否や円堂の頬が熱くなる。
 養護教員は「そうかい」と笑っただけだったが、円堂は気恥ずかしさで窒息しそうなほどだった。
 鬼道は良く円堂を肯定してくれる。ちょっとばかり困るのは、心からそうなのだと彼が生真面目に態度でも示すせいだ。
 早いうちに何でもない顔で聞き流すわざを身に着けなければ心臓がもたない。
 平常心、平常心。繰り返し自分に言い聞かせつつ、円堂は鬼道を伴って保健室を出た。
 授業中の廊下はしんと静まっている。
「……授業、遅刻させてごめんな」
「いや。お前が具合を悪くしていることを知らないよりましだ。それよりも、一人で家まで帰れるか?」
「ああ、平気」
「……お前の平気はあまり信用してはいけない気がするんだが」
 そんなことは初めて言われた。びっくりして鬼道を見ると、思った以上に心配そうに見つめられていている。
「えっと……本当に平気だぞ? ちょっとふらつくけど、俺んち学校に近いしさ。いくら何でも途中で倒れたりはしない」
「……そうか」
「うん」
 鬼道とはクラス前で別れた。
 円堂は、ちょうどその時間の担当教師だった副担任に、養護教員から早退するよう指導を受けたことを伝え、クラスメイトに心配されたり羨ましがられたりしながら教室をあとにした。
 誰もいない校庭や校門を歩くのは奇妙な心地がした。
 自宅まで、歩いてほんの十分の距離だったが、さすがに今日は骨が折れた。自宅の屋根が見えた頃には軽く息切れしていたくらいだった。
 しかし、もっと疲れが身にのしかかったのは、玄関の扉に鍵がかかっていた瞬間である。
 朝の、母の言葉を思い出した。
「親戚の法事だって言ってたっけ……」
 ああ……、と、体中から空気が抜けるみたいに溜め息が出る。
 予備の鍵の場所は知っているから家には入れるが、問題はそこじゃない。
「えー……熱が出た時ってどうすんだっけ? 病院……はヤだし、薬どこにあるかわからないしなぁ……うう、とりあえず寝てればいいか……?」
 やはり学校に居座るべきだったか。もっと早くに自宅に誰もいないことを思い出していれば、養護教員を説得できていたのかもしれない。
 今から学校に戻る元気はなかった。
 円堂は、軽い寒気に肩を震わせながら家に入り、二階の自分の部屋に直行し、制服のままベッドに倒れ込む。
 携帯電話だけは手元に寄せて、他はどうにでもなれとベッド下に押しやった。
 時刻は午前十一時を回ったばかり。
 長い一日になりそうだった。
 
   寒い。
 関節が痛い。
 午後になっても、円堂はうとうとしかけては目が覚めるということを繰り返していた。母親に電話をかけるべきかと考えたが、大げさにされるのも嫌で踏ん切りがつかない。
 それに法事だと言っていたから携帯電話は切っている可能性が高かった。いつだったか円堂も同席した際に、両親がそんな気遣いをしていたのを覚えているのだ。
 どうしようかなぁ……。
 ぐずぐずと考えては、思考ごとどこかに沈み込んでいく。眠りと覚醒の狭間である、意識はあっても、体の方は蝋で塗り固められたかのごとく指一本が動かせない。
 こんな時こそ誰かの声がほしかった。一声で良いのだ。きっとそれだけで目を開く力が出せる。
 目が開きさえすれば、体を起こして両親のベッドから布団を引っ張ってくることもできる。寒さは着ればおさまるし、寒さが和らげば関節も自然と痛くなくなるに違いない。
 けれど、今はここに円堂だけだ。携帯電話だって、鬼道が連絡をくれると言った夕方まで、うんともすんとも言わないだろう。
  ── そう言えば、頼ってくれ、と夢みたいなことを言ってくれたのは彼だった。
 それが嘘じゃないことは彼の様子を見ればわかった。何より彼は偽りを嫌う。人を喜ばせる目的だけで軽はずみも言わない。
 ただ、円堂は、未だにその言葉を消化できずにいた。
 頼ってくれと言われて、甘えても良いのだと言われて、でも何をどのくらい?と思ってしまう。サッカーやろうぜ、と彼に言うことは頼っていることにならないだろうか。一緒にサッカーしたい、は甘えていることにならないだろうか。
 まさか、今すぐここに来てほしい、なんて、彼に限らず、誰が相手でも言えるはずはなく。
「 ── ……っ……」
 あの夜、手のひらが重なった感触をまだ覚えている。
 彼の温度が今も指に灯っている気がして、円堂は固まった体をどうにか丸め、自分の手を胸に抱きしめた。
 それから、どれくらい時間が経ったのか。
 無機質な電子音が鳴り響き、ぼんやりしていた意識が急速に掬い上げられるのがわかった。
 目を開けると、室内は薄暗かった。外は夕方らしい。
 重い腕を伸ばし、携帯電話を探る。
「……もしもし?」
 円堂か?と声が聞こえた。鬼道の声だ。
 とたんに目の奥が潤んだ。
 妙にほっとして、喉でつかえていた何かがすうっと違う熱に変わっていく。
「……きどう?」
── ああ。練習終わったぞ。
「そっか。ありがと」
── ……寝ていたらすまなかった、メールでも良かったんだが。
「ううん。こえ、ききたかったし……」
 電話の向こうで車が走り去るような音がしていた。
 円堂は今鬼道がいる場所を思い浮かべる。学校の近辺だろうか?、それとも彼の自宅がある遠い町か。
 どちらにせよ、ここではない。
 目尻からこぼれたものを布団に吸わせ、円堂はそっと溜め息をつく。
 ありがとう、また明日。あと二言さえ言えば鬼道を安心させてやることができる ── 電話を切ったら体を起こして下に布団を取りに行こう ──
寒くなくなれば、きっと何も考えずに眠っていられる。
 円堂は、声が変にならないよう注意深く口を開こうとした。
── 円堂。
 その鬼道の呼びかけが、もう一瞬でも遅かったなら。
── 違っていたらすまない。だが、もしかして泣いていないか?
 否定できれば良かった。
 しかし、変わりに出たのは、どうしようもない嗚咽だ。すぐさま「ごめん」と「何でもない」を繰り返しても、もう隠せるものじゃない。
── すぐに行く!
 鬼道はそれだけ言って通話を切ってしまった。
 嗚咽が止まらなかった。一度抑えを失ってどこかが壊れてしまったのかもしれない。涙は次から次へと溢れ出て、せめて鬼道が来るまでに笑っていられるようにしようと思ったのに、ひどくなる一方なのだ。
 やがて家の呼び鈴が鳴る。
 誰もいないから、もちろん呼び鈴に応えて玄関に行く人間もいない。鬼道は即座に不自然を感じとったらしく、再び携帯が鳴った。
「ごめ……いま、だれもいなくて……っ」
── どうしてそういうことを一番最初に言わない!
 電話口から聞こえてきたのはそこまでだ。
 次に階下で遠慮なしに扉が開く音がして、階段を駆け上がってくる音がして。
「円堂!」
 息を切らした彼を見たら、もうごちゃごちゃ考えていたこと全部をどこかに投げて、手を伸ばさずにいられなかった。
 指が届いた瞬間、体の苦痛も消えた気がした。
 円堂はつながれた手を自分から引いて、勢いで覆いかぶさってきた彼に一生懸命抱きついた。
 
  「……覚えたか?」
 いつにも増して生真面目な声と瞳。
 彼は今ゴーグルを外している。おかげで切実に望まれているのが痛いほど伝わってくる。
 円堂は、こんもりと盛り上がった布団の中から右手を彼にのばし、小さく笑った。
「ひとつめだ」
 言葉とともに握られる手。
 この熱と一緒に、今日の約束はきっとずっと円堂の手のひらに残る。
「……困った時は、誰にでもいいからちゃんと言う」
「ふたつめ」
「平気じゃない時に平気と言わない」
「みっつめ」
「鬼道に遠慮しない」
 鬼道は眉間に皺を寄せ、何かの儀式のように重々しくうなずいた。
 熱でふうふう言っている相手に物を覚えさせ暗誦させるなんてあんまりだと思うが、彼は布団を調達してきてくれた上に、水分補給や食事、薬、着替えまでしっかり手を回してくれたので文句も言えない。
 今の円堂は、本当にじっと休んでいるだけで明日には回復しそうだった。
「……ありがとな、鬼道」
「礼はいらない。約束だけ覚えてくれ」
「ん」
 約束を覚えたら、両親が帰ってくるまで、何時になろうと手をつないでいてくれると言った。
 今夜に限り、鬼道の手は、眠っている間も円堂のものなのだった。