掌編「始」

 泣いて怒って笑って、また泣いた。光の海を翔けるように輝かしく時は過ぎた――
 夕陽にきらめく湖の船着場から、緑茂る避暑地に建つ洋館の屋根を見上げ、遼はそっと溜め息をつく。
 今でこそ見慣れてしまった屋根ではあるが、初めてあの洋館に案内された時は驚いたものだ。ナスティは「別荘よ」と軽く笑ったけれども、普通の暮らし向きをしていれば大部分の人間は別荘など持ってはいない。とはいえ、己の「普通」が実はあまり一般的ではなかったことは、五人の仲間と共同生活を始めてすぐに気づかされた。
「別荘? ふぅん……、まぁまぁだね」
 さらりと批評したもの一名。
「ログハウスの方が良かったよなぁ」
 素直に順応したもの一名。
「うちのと違ってさわがしくなくて良い」
 実は実家が別荘持ちらしいもの一名。
「書庫はどこだって?」
 建物に全く関心を持たなかったもの一名。
 五人いれば当たり前に五通りの感じ方があるのだと、他愛もないことながらに悟った出来事だった。
 あれがもう一年前。明日にはこの場所を発つ。
 泣いて怒って笑って、また泣いた。振り返ればそんな一年だった。数限りない窮地をくぐったにしては、どんな経験も言葉で表しようがない。遼はただ生き抜くことに必死だった。正しくさえあれば――勝利は必ず手に入るものだと信じていた。
 そうして信じるままに得た平和。町はあるべき姿を取り戻し、異空間に閉じ込められていた人々も帰ってきた。
 戦いのために集った五人も五人でいる理由を失った。もう戦士ではなくただの少年としていつでも生家に帰ることができた。
 何もかもが最良の形だった。誰にとっても喜ばしいことだったはずだ。
 遼も嬉しかった。
 そう、嬉しかった。はずである。
「…………」
 思わず溜め息が出た。
 今一人きりだったことに感謝する。皆のいる家の中では笑って見せもしたが、たまらなくなって抜け出して来てしまった。正直なところ、遼は明日から始まる新しい日常に途方に暮れていた。
 故郷に帰れば、仲間を声に出して呼ぶこともなくなる。
 一年間、同じ戦いに身を置いた仲間たちとは、最初から等身大の自分で向かい合うことができた。格好つける余裕がなかったというのが真実ではあったが、今思えばそれで良かったのだと思う。彼らといれば嘘とは無縁で、その分傷つけあうこともあった。けれど、やさしさはやさしさのまま誰の胸にもあったし、寂しさは寂しさとして受け入れられ、悲しみは悲しみのまま皆で共有した。隠すものはいなかった。
 あれほど近しい存在が、手の中からすり抜ける。命を懸けた戦いは秘密になり、誰と思いを共有することも叶わぬ幻になる。
 別れをつらく思わないわけがない。
「……でも決めたことだろう?」
 遼は声に出して唱えた。
 確認の意味も込めてそうしたのだが、気持ちは少しも晴れない。
 元々「それぞれの家に帰ろう」と言い出したのは当麻である。遼も、戦いが終わった今、過去の生活を取り戻すことが一番正しいと思った。それで最初にうなずいて、渋る秀や純をなだめたりもした。そうする遼を伸と征士は意外そうに見ていたが何も言わなかった。皆がこのまま共同生活を続けられないことを知っていたからだ。
「……これで間違ってない」
 遼は繰り返し唱える。
「間違いじゃない、だからこれでいいんだ……」
 ――と、
「ふぅん。間違ってなけりゃいいのか?」
 独り言を言ったつもりの言葉に応えが返ってくるではないか。
 焦って背後を振り返った。
 立っていたのは当麻だ。両手のやり場に困ったようにジーンズのポケットへ手を入れている。何か言いたいことがあるらしいのは、彼の顔色を見ればすぐにわかった。
 その手には乗るものか、遼は思う。
 当麻はわざとこちらを怒らせ気持ちを引き出す。確かに彼のおかげで楽になることも多かったが、今日という今日は発散させてもらう気分ではない。
 明日になれば彼もいなくなる。これ以上手助けされると、遼は一人で歩くことにすら自信がなくなってしまう。
 それでわざとそっぽを向いて冷淡に言った。
「……俺が何考えてたかわかってるのか?」
 ところが当麻は平然と答えるのだ。
「わかるさ。俺を誰だと思ってるんだ」
「わかってたら、そんなふうに訊くはずない」
「そうか? お前があんまり聞き分け良いから、余計に頭働かしてるんだぞ?」
 遼は多少驚いて当麻を見た。
 彼はばつの悪そうな顔をしている。本当に遼の考えていたことを知っている様子だった。彼はその顔のまま、更に言葉を重ねた。
「お前はもっと嫌がるだろうと思ってた。俺がどれだけ説得する方法を考えたか知らないだろ。ざっと数えても三〇はお前専用の作戦があったんだ」
「三〇? ほんとに?」
「遼が一番心配だった。……まぁ、多少個人贔屓はしたが」
 結局、彼の言いように苦笑が出る。
「なんだよ、今日はずいぶん俺にやさしいな?」
「仕方ない、危なっかしいお前が悪い」
「そうか? 当麻だって大差ないだろ?」
「俺のは後先の作戦があるからいいんだよ」
「作戦〜?」
 あんまり信用できたことでもないのに、さも真実のように言うから笑ってしまった。笑う遼を見て、当麻も表情をやわらげる。
 それでも次の瞬間、彼は声の調子を改め言い切った。
「とにかく――明日が決着だ。俺たちの戦いは終わった」
 言葉に胸を突かれた気がした。
「うん……」
 遼はどうにか笑いながらうなずく。笑っていなければ泣きそうだったのだ。
 思えば当麻は最初からその時を狙っていたのだろう。突然わざとらしい咳払いをして、うつむく寸前の遼の耳元に口を寄せる。
「……泣いてもいいぞ」
 彼は声をひそめて言った。
「実はお前が泣いた場合の作戦が三通りある。さいわい、ここなら、泣いたことが伸たちにばれない偽装工作も完璧だ」
「ぎ、そうこうさく?」
 問い返しは既に震えてしまっている。
 ちらりと見えた当麻の瞳は誠実で、遼はこの瞳を明日から見ることがなくなるのだと思って、また堪らない気持ちにさせられた。
「……当麻」
 もう笑えないと伝えることもできない。
 頼るなと心では繰り返しながら、指が相手のシャツを手繰り寄せた。
 すると当麻は、極々自然にこちらを支える体勢で――
 
 足払いをかけ。
 
「……え? え? えぇっ?」
 遼の素っ頓狂な声は、その場一帯に木霊した。
 続く派手な水音。
 元々船着場にいた二人は、頭から湖の中に墜落する。
 
 遼は、それはもう何も知らされていなかったから、水は飲むは鼻は痛くするは溺れかけるは呼吸困難に陥るはで大変だった。
 対する当麻は一人で気持ち良さげにしており、水面に浮かび上がってきた途端、遼のひどい有様を見て笑い出す始末である。
「とぉ……っ、と……とー……まっ!」
 泣きながらげほごほと咳き込む遼を、智将は大雑把に抱きしめた。
「完璧だろ? いくらでも泣けよ」
 軽い声だった。
 もしもこれが彼の作戦通りだとすれば、今日ほど効果覿面だった策は初めてに違いない。
 遼は悔しくてたまらなかった。悔しくて悔しくて、泣き喚きたくなるほど悔しかった。気持ちのままに、瞼は早速滝のような涙をこぼし始めている。
「……くっそー……、おぼえてろ……!」
 水の中、本人の気持ちはどうであれ、涙と一緒に溶け落ちていく思いがある。でこぼこになっていた心がどんどん整備され、遼はやっと一人で立つ準備を終えられそうな己を感じる。
 しかし、同じく水の中、見事にこちらをしてやったはずの当麻は、しばらくすると笑いをおさめ、寂しげな表情で呟いた。
「俺だって……お前のために知恵出すことも当分ない」
 ――誰の元にも、断固とした強さで始まりが迫っている。
 別れがつらいのは自分だけではない。
 やっと思い当たった遼は、近くの肩を静かに引き寄せ、束の間、無条件で心を与え合う仲間がいたあたたかさに酔った。