掌編「操」

 焚き火を囲んで二人きり。荒れ果てた創界山の夜は、ひどく静かだ。
 虎王は静寂にも動じることなく、慣れた手つきで小刀を扱い、見る間に小鳥の木彫りを完成させる。以前では考えられないほど器用に動く彼の指に、ワタルはいささか居心地の悪い思いをしていた。
 最後に二人が会ったのは、ワタルの時間で考えるなら、ほんの二年前のことだ。しかし話を聞いてみると、どうやら双方の時間経過には開きがある。
 そのことについて、虎王はきっぱり口をつぐんでいた。尋ねても「答えたくない」と笑うだけ。彼の笑顔さえ、見慣れていた明るさを微妙に失っているから、ワタルも強く問うことができずにいる。
 本当のところ、虎王にとっては何年ぶりの再会だったのか。
 ワタルの顔を見た途端、ひどく懐かしげに目を細めた彼が忘れられない。ワタルだってその瞬間は泣きそうなくらい嬉しかったけれども、虎王の瞳はもっと別の感情をたたえているように見えた。
 痛いような、苦しいような、悲しいような。
 ――離れている間、君の身に何があったの?
 訊けば傷つけそうで言えずにいる。ワタルは、ただ彼が助けを必要としているらしい時に、自分に時空を渡る資格があって良かったと思うだけだ。
 剣も勾玉も龍神丸も今はない。厳密に言えば、ワタルは当に救世主としての力を失ってしまっている。それでも虎王は、かつて「救世主」という名を冠したワタルを呼んだ。
 久しぶりに見た創界山は、荒れ果てた荒野になっていた。ワタルが今まで訪れたどの時よりひどい状態だった。
 水は涸れ、木や花、動物は姿を消し、気温の低い砂漠と岩場ばかりの大地。
 こちらの世界へ来て以来、ワタルが見た人型の者は虎王だけである。魔物の姿も見えず――と言っても敵がいるのかどうか、はたまたそれは魔界の者であるのかどうかすらワタルは知らなかったが、過去に人と町とでにぎわっていた場所は、ことごとく瓦礫と化していた。
 虎王は、その荒涼とした場所に一人でいたらしい。
 創界山の安否よりも彼の様子が気になった。彼はワタルに何をしなければならないとは言わなかった。少しだけ笑って、困ったような顔をして、
「何度もワタルが救ってくれた世界だったのに。結局こんなことになってすまない」
 頭を下げ、辛うじて緑の残った一角へワタルを連れてきた。
 彼を守り導くはずの天馬の姿も見当たらない。ワタルは次第に事態の危うさに気付き始めていたが、やはり疑問をぶつけるタイミングを掴めずにいる。
 沈黙が重くなる前に、できたばかりの木彫りを手に取り、彼へと笑いかけた。
「……前はもっと不器用だったよね?」
「慣れたんだ。いろんな場所へ行ったし、野宿もずいぶんした。今では何でも俺様一人でできる」
「そっか。せっかく会えたけど、僕が役に立てることってあんまりないかもね」
「ワタルはそこにいてくれるだけでいい」
「そんなの僕がいやだよ」
「じゃあ俺様を手伝ってくれ」
「今の僕にもできること?」
「ワタルにしかできない」
「本当だね?」
 念を押せば、いつかの記憶と重なったのか、懐かしげに虎王が笑う。
 彼の明るい表情を見ると安心する。かつてのワタルは、虎王が傍にいれば己の持つ以上の力を出せた。虎王こそがいつも巨大な困難に立ち向かっていたせいだ。彼の友人だと胸を張っているためには、ワタルも同じだけ頑張っていなければならなかった。そうして死力を尽くしてみると大抵の事柄には打ち勝つことができる。
 彼の存在がワタルの勇気になった。
「呼んでくれて嬉しい。虎王と一緒なら何だってできるよ」
 だから心から言ったのだが、聞いた彼は顔を強張らせる。衝動的に何かを口走ろうとして黙り、悲しげに視線を落としてしまう。
「どうか、した?」
「……いや」
 彼は否定したけれど、その表情に痛み以外のものは見つからない。
 途端にワタルもたまらない気持ちでいっぱいになる。もう疑問を先延ばしにしてはいけないと強く感じた。ワタルが尋ねずにいれば、彼は一人で秘密を抱え続けなければならなくなるのだ。
 焚き火の炎がゆらゆらと揺れていた。二人共が言葉を失うと、あまりに静かな夜だった。風が木の葉を揺らすこともない。天には星も見えないし、闇に生き物の気配もない。不自然なくらいに無音の世界。
 いくらワタルが他界の者でも、異常に気付くには充分だった。
「……虎王?」
 小さく名を呼んで促した。彼の告白は間もなくだった。
「選べと――言われた」
 最初は何の話をされているのかわからなかった。
「何でもいいと。俺様が一番残したいと思ったものを選べと言われた」
「?」
「神部界は、新たな王を選び、過去から王が望むひとつのものだけを引き継がせ、原始の世界に戻った。ここは……確かにワタルの知っている創界山でもあるけれど、全く別の、新しく生まれたばかりの世界でもある」
 ワタルは思わず虎王を見上げた。虎王はワタルを見てはいなかった。焚き火の炎を決然と見つめ、抑えた口調で話を続けた。
「俺様は王になったらしい」
「――…………」
「誰もいない国の……守るべき全部が消えてしまった国の、王に」
 つまり彼は全てを失ってしまったのだ。ワタルは声もなく虎王を見た。
 唐突に記憶が巡る。
 いつでも真っ直ぐに笑った虎王。誰より創界山のために戦っていたのに、皇子として望まれたのは翔龍子ばかりだった。果てには類稀な運命のもとに故郷を捨てねばならず、それは虎王のためでも創界山のためでもあったが、本来あるべき家は奪われ、彼は一人で旅立った。
 事態を悟ったワタルは、腹を立てずにはいられなかった。
 結局また繰り返しだ―― 虎王だけが孤独な戦いを強いられる。
「俺様は、新しく生まれた国を耕さなければならない。でも一番に何をすべきかわからなくて……ただお前に会いたいと思った」
「…………」
「お前しか選べなかった」
 淡々と言う声が今にも嘆きに変わりそうだった。けれど彼は助けてくれとは決して言わないだろう。
 ワタルは怒りで泣きそうになりながら手探りし、なお一人で強くあろうとする彼を己へ寄りかからせる。
「虎王……虎王? じゃあ今度は別れなくてもいいんだよね?」
 どうか声が震えませんように。祈って、今できる精一杯の笑顔を作った。
「それなら僕も一緒に創るよ、君の国を。たくさん木を植えて、花を植えて、人を呼んで、家を建てて……新しい町を作ろう?」
 虎王が小さくうつむいた。
「ねぇ、何度でも言うよ? 僕は君に会えて嬉しい。一緒にいられるならもっと嬉しい。虎王が一緒なら、本当にどこだって何だって――」
 言葉は最後まで言えなかった。次の瞬間、ワタルは折れよとばかりの力で抱え込まれていた。
 彼の心音が耳元に聞こえる。
 二度と孤独になどさせるものか、心に誓い、ワタルはぎゅっと瞼を閉じた。