掌編「清」

 放っておけば四六時中、「腹が減った」「疲れた」「少し休もう」と騒ぐホビットたち。彼らは、感情を己の内に秘めること自体に馴染みがないらしく、どういった感情であっても話すことで消化する。
 アラゴルンが、彼等のそういった習性を理解するのも早かった。
 とにかく追手のある旅であったし、人目を避けることや闇に紛れること、火を使わぬように努めることなど、旅慣れぬ彼等に約束させなければならないことが多くあったためだ。最初はいくら言い聞かせても不平をこぼすホビットたちに腹が立ったが、そのうち彼等が文句を言いつつも逞しく笑い合っていることに気が付いた。
 それは、世界のほとんどを知り尽くしている灰色の魔法使いに、ホビット族は他のどの種族よりも純朴であると、しみじみ言わしめた逞しさだった。
 しかし一方で、開けっぴろげなホビットたちの中にあって、唯一どんな不平も漏らさぬ人物もいた。
 フロドだ。本来は、イシルドゥアの血を継いだアラゴルンこそ負うべき重荷を、善良な資質のために肩代わりすることになった指輪所持者。
 彼は、まだ、アラゴルンがどういった理由で彼等を先導していくのかを知らない。ただ灰色の魔法使いの友人であることを頼りに、道なき道を進む野伏の男を疑うことなく追ってくる。
 不思議な人物だった。他のホビットともずいぶん違う。決してホビット特有の天真爛漫さを持っていないわけではないが、まず彼だけはアラゴルンに「腹が減った」「疲れた」「少し休もう」とは言わない。それどころか、仲間の誰かがそう口にするたび、ひどく申し訳なさそうな様子でこちらを見た。
 張り詰めた青い瞳は、いつでも声にならぬ言葉でアラゴルンに謝る。
 その瞳に出会うたび、たまらない心地になるのだ。謝るべきと言うのなら、そもそもアラゴルンの方である。フロドは無関係な争いに巻き込まれたに過ぎない。
 それでも彼は悲しげにしている。
 ホビットたちの中にいても、フロドはあまり声を上げて笑わない。心身が疲れ果てるまで歩きつめ、満足な睡眠を取れぬ夜ですら、文句の聞き役に回り、アラゴルンの代わりに優しく仲間をたしなめたりする。
 ―― 一度くらい君も文句を言ったらどうなんだ。
 アラゴルンは、ホビットたちが寄り添って話す傍で、寝ずの番を務めながら、密かに思ったものだった。
 そんなこちらの思いを知っているのかいないのか、フロドは今夜も静かに笑って、ホビットたちの無邪気な不平の矢面に立っている。
「――見てよ、この足の裏! 歩きすぎでかちかちになってるよ」
「せめてもう少しゆっくり歩けたらなぁ。みんなも見ただろ、途中で立派な実がついた木があった。シャイアでは見ない果物だったけど、取る時間さえあったら、僕等きっとステキなパーティが開けていたよ」
「確かにあれはおいしそうな実でしただ、旦那さま」
「うん……。今度、時間がある時にみんなで探索できたらいいね」
「今でも行けるさ! 今から取りにいってみないかい? いいだろ、フロド?」
「ダメだよ、メリー。お願いだから、今度にしよう?」
「フロドぉ。食べたくないのか、あれ」
「そうだよ。食べたらこの足の痛みだって忘れられるかもしれない!」
「うん……でも今度ね。それよりそんなに足が痛いのかい、ピピン。僕がマッサージしてあげようか?」
「旦那さまがそんなことする必要ないですだ! ピピンの旦那は甘えてるだけですだ!」
 今夜は、久しぶりに火を使った夕食ができそうな夜だった。
 エルフの気配の残る森は穏やかで、夜行性の動物たちにも悪意が感じられない。アラゴルンが狩ったばかりの野うさぎを見せ、晩餐の用意を頼むと、ホビットたちは先を争って立ち上がり、一目散に近くの泉へ駆けていく。
 あとにはフロドが一人残った。
「……君は行かないのか?」
 実はアラゴルンが最も喜んでほしかったのは彼だった。尋ねれば、しかしフロドは小さく笑って首を振る。
「ここで火の番をする人間も必要でしょう? 僕よりも、あなたが休んでいてください。あなたは僕たちよりずっと多く動き回っています」
「私は慣れているからいい。しかし君は違う」
「いいえ。僕ができることは大したことではありません。あなたが疲れていないと言うのなら、少しだけですが手伝いをさせてください」
「フロド……」
 アラゴルンは困惑して小さな彼を見下ろした。
 見かけによらず強情な彼は、静かに笑ってこちらの言い分を受け付けない。言い募っても決して首を縦には振らず、アラゴルンは仕方なく火の番を預けた。
 確かに火の番を代行してもらえるのなら、アラゴルンはもう少しの間この森の中を歩くことができる。エルフの力が働いているからといって警戒を疎かにするわけにもいかなかった。ホビットたちの安全を考えるなら、己がやるべきことは手が足らぬほどあるのだ。
 しかし――
 フロドに促され離れてみたはいいが、結局気が咎めて仕方がない。危険がどうのとか安全がどうのといったことではなく、彼を孤独にしてしまったことが気になった。ちょうどそこへスグリの木を見つけ、これはホビット好みに違いないと、戻る口実を思いつく。
 アラゴルンは赤い実を一粒摘んで早速引き返した。
 フロドは変わらず焚き火の傍で膝を抱えている。
「……フロド」
 彼はさすがに早すぎる帰還に驚いたようだった。その口が何かを言うよりも早く、アラゴルンは人差し指を立てて声を制し、彼の傍らに膝をつく。
「手を。フロド」
 おっかなびっくりの様子でおずおずと差し出される手。
 瑞々しいスグリの実をその上に落とした。
「これ……スグリ?」
「そうだ。すぐ傍にあった。あとで皆と一緒に取りに行けばいい。だが、この一粒は先に君のものだ」
「あ、あの……でも」
「嫌いか?」
「いいえ。そうではなくって……」
 ほっとした。アラゴルンは今にも実を返しそうな小さな手のひらを、そうっと彼の方へ押しやった。
「ではこれは私から君へ。君が私を気遣ってくれることへのお礼だ」
 言えば、フロドはひどく驚いたような顔をする。大きな瞳を更に大きくして、アラゴルンを見つめ、細い息をつく。
「……いいえ。いいえ、僕こそあなたには迷惑ばかりをかけています。でも――」
 言ったきり小さな沈黙があった。けれど次にはゆっくりと笑う。フロドのそれは、淡雪が空に溶けるようにやわらかな笑顔だった。
 アラゴルンは思わず目を瞠っていた。
「ありがとうございます……!」
 笑う彼は、どうしようもなく綺麗な生き物だった。
 その時唐突に気がついた。予感というよりも、むしろ確信に近かった。
 アラゴルンは、この生き物を守るためにいつか命を懸けるのだ。己の剣は、彼に捧げるべきものだった。