馬鹿馬鹿しくも愛しい三景

01
 海図を描くことが楽しくなったのは、自分自身で麦わら海賊団の航海士であることを納得してからのことだ。それまでナミの手で描く海図は全てアーロン一味のためのものだった。正確な情報を残すという当たり前の作業がどれほど苦痛であったか――ナミは未だに鮮明な過去を思い出す。思い出すたびに条件反射でペンを持つ手が震え、息が詰まり、今はもう全く別の形であるはずの肩の刺青が疼いた。
 ところが、ナミがこうして人知れずかつての屈辱に慄然とする時、なぜだかタイミング良く現れる男がいる。
「腹減った〜」
 そう、大体そんな調子で、描きかけの海図の上に寝転がったりするのだ。その瞬間からナミは過去を解き放たれ、目の前で海図を皺くちゃにされる今現在の怒りに拳を振り上げる。
「ルフィ!さっさとどきなさい!」
「腹減ったよナミ、ミカン食わせろ〜」
「そうじゃなくって!どくの!早く!」
「ミカン〜、一個でいーからさぁ」
 どきなさいってば!、怒鳴っても埒が明かないので手っ取り早く服を掴んで放り投げる。ルフィは乱暴に扱われても全く頓着せず、ただただ未練たらしく「ミカン……」と呟くのだ。
「おなか減ったんならサンジくんとこ行きなさいよ」
「サンジんとこにはもう行った、蹴り飛ばされたけど」
 情景が浮かんだ。
「仕方ないなぁ……」
 一個だけだからね、そう言った途端に彼は破顔した。何の計算もないまっさらな笑い顔だった。まるで年端もいかない子供のような男である。しかし彼こそがいつでもナミに自由の意味を教えてくれる。
 ――どうしたって彼に出会えた幸福を誇らずにはいられないではないか。
 結局はナミも笑って甲板のミカン畑へと立ち上がった。背後からはルフィの鼻歌が聞こえる。ありがとうなんて言葉は野暮ったいだけだろうから、今日は一番甘いミカンを彼に渡そう。
 
 
 
02
 さて晩餐は何にすべきかと、サンジが一日で最も真剣に悩む夕刻のほんの数分間。常であるなら、騒がしい船内は不意に静かになる。
 日没の時なのだ。
 船は四方八方を大海原に囲まれている。夜になれば空と海の区別もつかぬほどだった。だから夕暮れ時は、海が少しずつ空と同化していく時間帯でもあった。空の端がオレンジ色に染まり始めるのと同時に海の端も色付き始めるのだ。
 船上にいれば毎日目にする光景ではある。しかし見れば毎日言葉を失う――それは夢中で遊んでいる船長や狙撃手、船医にしても同様であった。
 厨房にいるサンジはこの静寂を合図に夕食時をはかる。
 とにかくピーマンが大量に余っていた。今晩はこのピーマンを使い切らなければならなかった。
 ピーマンメインのメニューを考えつつ、ザル一杯に積み上げられたそれを眺めていると、間もなく外から大爆笑する声が聞こえるようになった。日没は終わったらしい。サンジは一個目のピーマンを手に取り、慣れた手つきでナイフを入れ始める。
 と、船板を突き破るような勢いで厨房へと駆けつける足音がある。
 顔を見なくとも相手はわかった。ルフィだ。
「――サンジ!」
 入口のドアが大きな音をたてて開かれた。
「まだだ、外で待ってろ」
「違う、晩飯のことじゃなくって!」
「んじゃオヤツか? ピーマン齧るか?」
「違う! いーから俺の話を聞け!」
 かまわず背を向けたままピーマンの種をくりぬく作業を続けていると、とうとう隣に立つ気配がある。
「サンジサンジ、なぁなぁ」
「なんだよ」
「それ貸してくれ、それ」
 てっきり腹を満たすものについての話だと思っていたので、彼がそれと言ったものに驚いた。サンジは手を止め、己の腰に巻いたものに目を落とす。
「……これ?」
「ソレ!」
「別にかまわねーけど……何に使うんだ?」
「ん? ウソップとチョッパーと料理対決すんだ!」
 思わず眉をひそめた。手先の器用なウソップはともかく、他のメンバーが料理をできるとは思えなかった。
 しかしルフィは構わず続ける。
「あとで俺以外に他の二人が借りにきても貸すなよ」
 元からそれほど多く持っているわけではない。とりあえずサンジは今つけているものを外し、ルフィに渡してやった。
「これはいーけど、お前らに貸すような食材はねーからな」
「ん」
 聞けば、食材はウソップが持っている卵なのだとか。卵ひとつでどれだけ素晴らしい料理ができるかの競争らしい。ルフィが作るつもりだと言った料理名は、サンジにはちんぷんかんぷんだった。おそらく食い物と言わなければわからないような様相のものに違いない。
 ウソップのものであるとはいえ、食材が無駄になるのは惜しい気がする。
「……できたもんはきっちり食うんだろーな?」
 いささか不安になって問えば、ルフィはからりと笑った。
「当たり前だろー?」
「ふぅん。腹壊すなよ」
「失敬な!」
 怒って笑う彼は、いつものごとく楽しげだ。その顔を見ていると、言う気のなかった言葉まで口を突いて出る。
「……教えてやろーか?」
 多分少しだけ羨ましかったのだ。
 楽しそうなルフィが、ではなく、彼にその顔をさせるウソップとチョッパーたちが。
「卵割って焼くだけの。お前にも作れそーなヤツ」
 ところがルフィはこれにはあっさり首を振った。
「いや。サンジに教えてもらうのはズルなんだ」
 きっちりルールの取り決めもされている。さすがに残念になったが、続けて話すルフィの言葉に、一気に気分が浮上する。
「それでこれだけ借りにきた。これつけてると、サンジが味方してくれてるみたいだろ?」
「へぇ……」
「だからウソップとチョッパーには貸すな!」
「ハイハイ」
 ずいぶんかわいらしいものだが、サンジはルフィに独占されるらしい。
 ルフィはその場で不器用に布を腰に巻きつけ、腹の上で紐の端を結んだ。
「……あんまり似合ってねーなぁ」
 ついつい正直な感想が出た。しかしなぜだか相手は嬉しげに笑って、
「これはサンジだけに似合ってればいーんだ!」
 なかなかに心臓を直撃してくれるような台詞を吐く。聞いたサンジは苦笑いしかできなかった。
 慌しく厨房から出ていく後ろ姿を見送り、さて、と再び手元のピーマンたちを見下ろす。たまにはこういう野菜がメインの料理を作ってみたくもあるのだが――
「悪ィな。うちの船長、肉料理が好きなんだよ」
 大量のピーマンは、大量ながらも脇役に決定した。
 サンジは鼻歌混じりで晩餐の準備を再開する。外からは相変わらずの笑い声が聞こえていた。



03
 その日ゴーイングメリー号の船長はすこぶる上機嫌だったらしい。ゾロがそれを知ったのは、もう夕暮れ間近のことだ。
 ルフィは珍しく晩餐前から酒を飲んでいた。ゾロが甲板上の食卓に足を運んだ頃には、誰のものともわからぬ盃が、台のあちこちに乱立している状態だった。
 夕暮れ時は一日のうちで皆が忙しくしている時間帯だ。暇でいるのは、緊急事態にのみ役立つ船長と、その夜見張りに立つ船員一名。そしてゾロは今晩の見張り役に決まっている。
 ゾロが来るまでは手が空いた順に酒を酌み交わしていたのだろう。使った盃が置きっ放しになっているのは、すぐにまた皆が集まってくるという証拠だった。
 ゾロは黙ったままルフィの隣に腰掛けた。見れば、ルフィの手元にはナミが購読している新聞がある。
 それを覗き込んだ途端、酒の理由を理解した。
 紙面には、アラバスタ王国に住む若き王女の写真が印刷されている。
「祝杯だ」
 ふとルフィが笑った。彼が見下ろす先には笑っているビビの記事。全文を読まなくとも、良いニュースが伝えられていることがわかる。
「俺も飲む」
 ゾロも言った。手近にあった盃を取って、その辺の酒瓶から酒を注いだ。
 厨房からは、サンジが誰かを怒鳴りつける声が聞こえてくる。もう晩餐の時間だった。あの男は女に手伝わせるようなことはしない、相手はチョッパーとウソップだろう。声の調子から、今晩は盛大な酒盛りになることも予測がついた。
 ゾロが最初の酒で舌を湿らせる頃、遠くの水面で海王類の群れが飛び跳ねるのが見える。七色の鱗が夕陽に映え、続く水しぶきがきらきらと光を反射した。
 何だかひどく良い夜になりそうだった。海も風も、穏やかで乱れがない。
「……見張り番じゃなけりゃつぶれるまで飲むとこだ」
 思わず不平を漏らすと、ルフィが喉で笑う。
「飲めよ。俺たち運は良いから、酔っ払ってようがどうにかなるさ」
「明日の朝、目が覚めて、船が飛んでもない場所走ってても知らねぇぞ」
「楽しそうじゃないか」
「バァカ。お前と一緒にいると、いくつ命あっても足りねぇよ」
 こちらがうそぶいてもルフィは満足そうにしているだけだ。軽口でこそ返したが、ゾロも密かに根拠のないはずの彼の言い分を否定しなかった。
 ルフィは多分、ログポーズがあろうとなかろうと――グランドラインの気まぐれな海にどれだけ翻弄されようと、変わらぬ航海を続けるに違いない。そして、悪魔の実の能力者を嫌うはずのこの海は、まるで彼を愛しているような奇跡を、行く先々に用意するのだろう。
 ゾロが唯一頭を垂れた船長は、そういう男だった。
「運を天にまかすって言うもんな? 何か冒険のニオイがする。ゾロ、今晩の見張り、ナミに内緒でやめてもいいぞ?」 
 どこまで本気なのか、彼は機嫌良く言う。
「くだんねぇことに命懸けたくねぇよ」
 ゾロが取り合わずにいると、突然ビビの写真の載った新聞を捲り、別の小さな記事を指差すのだ。
「これ、見てみろよ」
 えらく楽しげな顔で言われた。怪しく感じつつも、盃を傾けながら、言われるまま文字を目で追う。
 と、思わぬ名前に行き当たり、含んだ酒を吹き出しそうになる。
「罪人収容所でオカマ大発生?!」
「オカマ基金募集中だってさ。ボンちゃん、金集めて何に使うんだ?」
「そういう問題か? こんな広告出しやがって……あいつバカじゃねぇのか?」
「そうか? 収容所の中からじゃ呼びかけんのは命懸けだ、海軍に抑えられなかっただけでもスゲェ」
「くだんねーにもほどがある……」
 心から疲れ果てて呟くゾロをよそに、ルフィは景気良く盃を空ける。
「そりゃ違うぞ、ゾロ」
「ああ?」
「くだんねぇことに命懸けるから海賊って言うんだ」
 言い切った彼の言葉は真理だった。
 ゾロはしばらく反論を探したが、結局諦めるしかないことを悟るのだ。
「……で?」
「ん?」
「明日、本気で飛んでもねぇ場所に出てたらどうすんだ?」
「冒険するさ」
「違う、バカ。ナミへの言い訳だ、殴られんのは俺だろ?」
「平気だ」
 ルフィは力強く笑った。
「あいつも冒険好きだから、見たことない場所に出たらきっと喜ぶ」
 そりゃ絶対ナイ。思ったが口にはしなかった。どちらにせよ、今晩己は酔いつぶれるまで酒を飲むことに決定した。
 船長の言葉に従うのも船員の義務だ。元々ゾロの命はルフィのものだった。いつもの無茶に比べれば、うまい酒を飲むために命を懸けることは平和でもある。
 海賊万歳。
 今晩の酒盛りは、これが乾杯の合図になるに違いない。