偶然、なんて、本当にウソくさい言葉だと思う。
でもその偶然は、どういうわけか、新一とある怪盗の間では良く起こった。それこそ相手がどこかからこちらを窺って、登場のタイミングを待っているような──そんな事故みたいな出会い方ばかりなのだ。
だが、訊けば、普通、その怪盗の姿を拝めるのは、彼を日夜追い求めている輩ばかりだと言う。ならば、計らずともずいぶんな確率で顔を合わせてしまう新一は、彼と一体どんな因縁にあるのか。己は決して運命などという言葉は好きではないが、こうも頻繁だと、さすがに何かを疑いたくもなるというものである。きっと件の怪盗の方にも疑問はあるに違いない。
そう──ちょうどそんな顔で、彼はこちらを見ていた。
要するに、だ。新一の目の前には今、怪盗KIDがいるのである。
ちょうど目暮に呼び出された帰りのことだった。人通りの多い夜の町を、バス停目指して歩いていたら、変な音を耳にして。それが、どうも布みたいなものを裂くような音に聞こえたから、そちらへと近づいてみたのだ。
路地裏だった。見やった先はしっかり袋小路になっていて、本当に道というよりは建物と建物の隙間と言った方が正しいような、狭くて暗い場所。
その中に、ぼんやりと浮かび上がった白。
薄闇で輪郭の読めないそれは、一見すると妙に非科学的な何かを彷彿とさせる。きっと目撃したのが新一以外の誰かであれば、その時点で回れ右をしたことだろう。
ただ、新一の中では、良くも悪くも「白」という色が特別なものになっていたのだ。
その瞬間、予感めいたものは確かにあった。だから迷わずに路地裏を進んだ。すぐにこちらを振り返った彼は、最初信じられないものを見たというふうに目を丸くし、続いて苦笑じみた表情で肩を竦める。
よくよく縁がある──
多分、お互いに同じことを考えていた。
だが、新一は見てしまった。どこもかしこもが清廉で真っ白な彼の肩口に、ひどく似つかわしくない赤黒い染みができている。
血、だ。
途端に、自分でも驚くくらいの衝撃があった。彼が怪我をするなんて考えてもみなかったのだ。新一の知る限り、彼はどんな危険にも不敵な微笑みひとつで勝ってきた。たとえば拳銃を喉元に突きつけられていても、眼差しの強さは変わらなかった。だから、本当に乗り越えられなかった危険はなかったのではないかと思ってもいた。
それがどうだろう。
「……そっちに行ってもいいのか」
新一はそっと呟いた。KIDがいつものように笑う。片手で怪我した肩を庇いながらも、彼は全く弱った素振りは見せなかった。
「今なら捕まえられるって?」
軽口は彼の防壁だ。己は彼にとって敵なのだ。わかっていたので、新一もじっと相手を見つめ続けるしかできない。彼の了承を取ってからではないと傍には寄れないと思った。
どのくらいお互いを探り合っていただろう。進むに進めず、帰ることも考えつかない新一に、とうとうKIDが牽制を崩す。苦笑──最初の気を張った笑い方とは似ても似つかぬような表情である。それと同時に突然、ずる、と、傍らの壁に寄りかかり、彼はゆっくりと視線を寄越すのだ。
「……さっさと見捨ててくれないから疲れた」
口調から緊張が消えている。ほっとして、新一はもう一度近づいていいかと問い掛けた。彼は勝手にすればと小さく笑う。言葉自体はなげやりだったが、どこか楽しげな響きの答えだった。
KIDの怪我は実際ひどいものだった。専門家の手当てなしには治る怪我だとは思えない。知らず蒼白になった新一に、だが彼は、全く危機感のない様子で笑いつづけている。
「何か……良く会うなぁ、俺たち」
確かにそうだと思うが、今話す話題でもないだろう。思うのに、新一は彼の話を止められないでいた。応急処置で、きつく肩口を結わえながら、未だ新しい血の滲むそこを別の布で押さえる。
「……お前にそんなことしてもらってるの、変な気分。こっちはさ、もっと刺々しい関係だと思ってたし……考えてみりゃ、お互い憎んでたわけでもないんだから、場合によってはこんなのもアリかもしんねーんだけど」
でも変な気分だ、とKIDは言った。新一がそちらを見上げると、そっと片手を上げて視界を塞ぐ。
「そんな近くで見られたら、いくら俺でも隠せないよ……悪いけど、今はこっち見ないで」
彼の言葉に従う義理はないのだ。それでも新一は言われるままに視線を落とした。
目の前には無残な傷痕。早く病院に行けと言わねばならないのに、言葉は喉に絡んで出てこない。代わりに、ひどく痛々しいようなせつないような思いで胸が一杯になる。ふと気がつけば彼の血に染まった己の指が震えていた。新一はその時、己がこの怪盗を気に入っていたことにようやく思い至った。犯罪者だとかとはまた別の次元で、この怪盗の存在を好ましく思っていたのだ。
「……これ、警察が……?」
何となく尋ねてしまった。言葉は微妙に非難じみていた。
それに気づいたのか、KIDがまた笑う。彼は怪我の原因をはっきりと言わなかった。
「こーゆーのは滅多にないんだけどな……ちょっと運悪かった。でも、いっつも俺ばっかり勝ってたらかわいそうだろ」
「……そういうもんか」
「ああ」
満足そうに言う彼が、一体何を考えているのか新一には少しもわからない。
だってその傷は見ているだけで痛い。きっと受けた本人は、新一が感じている痛みの百倍は痛いに違いない。そんな傷を受けてもなお笑う男が不思議でならないのだ。その表情を見ることができたなら、もっと別の感情も彼から見つけることができたのかもしれない。しかし新一は、彼に言われた通り、最後までうつむいたままでいた。
彼を逮捕するとかしないとか、そういう考えは、今晩彼に出会ってから一度も新一の頭にのぼることはなかった。ただ、当然のことのように毎回、警官から拳銃を突きつけられる彼を思い出だしていた。
どんなに発砲されても、全てが無駄なことに思えるほど、鮮やかに身を翻していた彼。まるで弾の方が彼を避けているようで、だからこそ警官たちも、尚更執拗に彼へ狙いを定めて発砲を繰り返す。かく言う新一ですら、一度は彼に銃口を向けた記憶があった。だが、彼の何も知らなかったあの頃と、何度か顔を合わせ言葉さえ交わした今では、圧倒的に存在の厚みが違う。
例えば、将来、どうしても彼に照準を合わせなければならない時がきても、己は引き金を引くことはできないだろう。
新一はたまらずに呟く。
「……なぁ」
「ん?」
「……ドロボウ、やめれば」
答えはなかった。
彼がどんな顔をしてそれを聞いたのかさえ判断できない。新一がそれ以上言葉を継げずにいると、目の前の身体が静かに立ち上がった。
おそらくそのままどこかへ消えてしまうのだろう。さすがに常のように煙のごとく、とはいかないが、彼にしたっていつまでも無防備に敵の傍にいられるわけもない。
何だかやり切れずに重い息をつく。と、もう口を開くこともないだろうと思っていた彼が、奇妙に寂しげな声でうそぶいた。
「……きっとお前とはまた会うんだろうなぁ」
おずおずと目を上げてみれば、彼はすっかり元の出で立ちで背を向けている。やっぱりその表情は見えないままだったけれど。
「手当て、サンキュ。俺だって、お前の前では絶対に捕まりたくないってくらいには、お前のこと気に入ってる」
そんな言葉が聞きたいわけではなかった。多分新一がそう感じていたことすら、彼は気づいていたに違いないのだ。だから結局、諦めたように笑って──
「お前が……」
彼は言いかけた言葉を中途半端に飲み込む。
味方ダッタラ良カッタ。
何も言えなかった。KIDはその隙に、わざとらしい気障なお辞儀をひとつ、あっさりと町へ溶け込んだ。
新一は言葉を失ったまま、しばらく突っ立っていることしかできずにいた。彼の声にならなかった呟きは、そのまま新一の本心でもあった。
「……味方だったらよかった」
小さく唱える。
真実、もはや敵には戻れそうになかった。