花も嵐も踏み倒せ

The Day After
 
 腕も足ももう二度と上がらない。きっとこの機を逃したら、今度こそ彼らに負けてしまう。それだけは何がどうあっても許せなかった。
 その時、新一の手に固く握られたものを、ジンのコードネームを持つ男が呆然と見た。敵の腕に羽交絞めされていた目暮にしても同様だ。
 一番の協力者であった刑事にさえ、新一は、己がこんなものを隠し持つはめになった経緯を話していない。世界中でたった一人、これを手渡した人物だけが、今のこの瞬間を予想できた男である。
 手のひらにすっぽりと収まるサイズの拳銃──デリンジャー。
 小型であるがゆえに殺傷能力に欠けたそれを、真っ直ぐに構えた。
 一年前までは、まさかこんな瞬間が訪れるとは夢にも思わずにいた。けれど現実として、新一は黒の犯罪組織を個人的に憎むまでに至っている。
 だから迷いはない。照準を会わせ、ジンを激しく睨みつけるのだ。
「お前の負けだ」
 言葉と共に、銃が軽く火を噴いた。
 
 倒れた司令官を捨て置き、ばらばらに逃げ帰っていく男たちの向こうから、パトカーのサイレンが聞こえてくる。白鳥は状況をえらく大袈裟に伝えたらしい、スキール音を響かせる車の台数が少数ではない。
 この分なら、今回の事件に関わった大部分の人間を検挙できるはずである。
 新一はようやく全身から力を抜き、地に膝をつく。脇では目暮が、ちょうどジンに手錠を掛け終えたところだった。輪の片方を己の手首につなぎながら、彼は不意にこちらを振り返った。
「……それは優作さんからかい?」
 何とも言えない表情で尋ねられる。
 新一はと言えば、指摘されて初めてそんな解釈の仕方があったことに気づいたくらいだ。適当に言葉を濁すと、目暮は更に突っ込んできた。
「ではなぜ? 阿笠博士か」
「いえ、それはないです」
 阿笠だって、新一がこんなものを隠していることを知ったら咎めただろう。
 しかし目暮は尚もって納得しかねたようだ。咳払いし、厳しく続ける。
「何にしろ、こんなものを持っているのは危険だ。いくら警察の仕事を手伝おうと、我々にとって、君はやはり一般市民の一人にすぎない。拳銃を所持することは、完全にその枠から逸脱している。これまでの君の尽力に敬意を表して、今回に限り、私の胸の内に納めるが、次からはこういうことは許さないよ」
「……はい」
「そのデリンジャーを私に預けてくれるかね?」
 言われるまま銃を差し出す。にもかかわらず、刑事は再び渋面を作るのだ。
「だが……君が自分の身を守るものを何一つ持たないというのも……いささか不安なんだがね」
 暗に無茶ばかりしていると仄めかされた。新一はまた苦笑せずにはいられなかった。
「すいません」
「うん……、いや、いいよ」
 向こうからは、いよいよ白鳥が多くの警官を引き連れて駆けてくる。目暮と二人それをぼんやり眺め、どちらからともなく溜め息をついた。
「……まぁ、何はともあれこの件は片付きそうだ」
「そうですね……」
「ところで君は足を捻挫したんじゃなかったかね?」
「ああ……大したことないですよ」
「いや。こういう時に無理して休まなければ、君はすぐに別件を抱え込んでしまいそうだ」
 目暮がおおらかに笑う。
「よし、せっかくだからニ、三日まとめて休養を取りたまえ。警視庁が、責任を持って、素晴らしく設備の整った病院を紹介しよう」
「捻挫ですよ?」
「捻挫は立派な外傷だぞ、甘く見ちゃいかん」
「……職権乱用です」
「かまうものか。君は即入院だ──ああ、わざわざ準備に帰る必要もない。私から蘭くんに連絡を入れておくからね」
「……どうしても、ですか?」
「そうだよ? これ以上言うなら、公務執行妨害で強制送還させてもらうが?」
 わかりました、新一は仕方なく肩を落とす。
 目暮は深くうなずき、それから愛用の山高帽を静かに被り直した。
「しかし──」
 いささか困惑したような、けれど妙に感慨深げな刑事の声が、誰にともなく呟く。
「こんなところで怪盗KIDの名を聞くことになろうとはなぁ……何か因縁めいたものを感じる」
 彼はちらとこちらを伺い、
「……君は予想していたのかね?」
 新一は思わず小さくうつむき、彼の問いに答えられないふりをしていた。
 
 あの夏の日から一年が経とうとしている。
 あの日感じた涼やかな風も、陽の高さも、最近初夏に入ってより季節が近づいたせいか、まるで昨日のことのように鮮やかに思い出されてならない。
 決して嫌な思い出ではないのだ。
 ただ、思うたびに泣きそうになって困った。
 お互いに前を向いて戦うことを誓った。あんなにも切実で真摯な瞬間を、新一は他に知らない。
 
「……工藤くん?」
 気づけば、目暮が不思議そうにこちらを見ている。
「ああ……すいません。やっぱり足が痛くて」
「それはいけない。事件も解決したし、ここはもう私と白鳥くんがいれば大丈夫だろう。今すぐ車を手配するよ」
 機嫌良く笑う彼に逆らうこともできず、新一は諾々と指示に従った。
 
 
 目暮が用意してくれたのは、若い新米刑事が運転する覆面パトカーである。その後部座席に乗り込むと、車は早速急発進した。
「お疲れ様でした」
 名も知らぬ刑事がにこやかに言う。
「今回の事件で組織の幹部を検挙できるそうですね。これで少しでもあの組織の構造がわかればいいですよね」
「……そうですね」
 苦く答えた。
 一年かかってまだこの状態なのだ。ようやくジンを拘束できたが、あの男が組織の中でどれほどの位置にいるのかは、未だはっきりしていない。
「でも、どうして工藤さんはこの件に?」
「……え?」
「あの組織の事件というのは、臓器密売や銃器製造、麻薬の売買でしたよね? 僕が聞いたところによると、あなたは殺人事件が専門のようだった」
「それは……違います」
 若い刑事がバックミラー越しにこちらを見た。
「今の僕には殺人事件の方が付属なんです。あの組織のことがなければ、もっと気楽に探偵稼業を続けていたでしょう」
「探偵稼業って……工藤さん、今も探偵ですよね?」
「そうですね……」
 笑ってごまかす。新一の含みをいぶかしんだのか、それ以上彼が話し掛けてくることもなかった。
 探偵、だと。
 己を断言できたのが、もう遠い日のことのようだ。今はもうわからない。夢のために己がここにいるのか、それとも憎しみのためにいるのか──あの日の誓いを壊さないためにいるのか。
 こんな新一を見たら、あの男はきっと笑う。いや、怒るだろうか。
「……着きますよ」
 刑事の言葉と共に、車は都内で一番の大学病院に滑り込んだ。
 
 受付のロビーでは蘭が待っていた。
「捻挫だって? ……うん、でも思ってたより全然大丈夫みたい」
「全然大丈夫だよ、警部が大袈裟なんだ」
「それは違うわ、警部は心配してくれただけ。私や阿笠博士と一緒よ。新一がこのところ根を詰めすぎるから、休ませようって取り計らってくれたんじゃない」
「世間ではそれを何て言うか知ってるか?」
「ええ、知ってるわ。転ばぬ先の杖よ」
「ありがた迷惑」
「そう思ってるのは本人だけね、かわいそう」
 かわいそうなのは自分だ、新一は思う。
 しかし蘭がいてくれて助かった。せっかく念願のジンを捕まえられたのに、己の思考はどんどんと後ろ向きになっていくのだ。彼女はそれを一掃してくれる。
「さ、行きましょ。受付はもう済ませてあるの、後は本人がベッドに直行するだけ!」
 蘭に連れられ病院の中を歩く。
 都内で一番というだけあって、わりに明るく小奇麗な内装をしていた。さすがに薬品の匂いだけはどうしようもなかったが、通路のいたるところに窓があり、充分に陽光を取り入れられるようになっている。
 天窓からは青空も見えた。不意に何かを思い出しそうになって、新一は慌てて足元へと視線を落とす。
「どうかした?」
 蘭が目ざとくこちらを向く。
「何でもないさ」
「そう? でも何か……やっぱり疲れてるんじゃない、新一? この頃学校にいてもぼうっとしてること多いもの」
「そうか?」
「そぉよぉ。もうすぐ期末試験も始まるし、あんまりぼんやりしてると内申書にまで変なこと書かれるわよ」
 受験生なのだ、自分も彼女も。
 新一自身も進学を希望していた。時々忘れそうになるけれど、日常は否応なしに日々動いていく。
 動かないのは、気持ちだけだ。
 あの日から──もうずっと。
「あ、ほら。あの突き当たりの病室よ」
「って……この辺りって六人部屋じゃないか」
「新一が使う部屋は二人部屋らしいけど? でも、捻挫くらいで優雅に一人部屋にいようっていうのも、ちょっと虫のいい話なんじゃないの?」
「警部の紹介だぞ」
「いいじゃない、どうせニ、三日で出てくるくせに! それにねぇ、相部屋の人、明日で退院するらしいわよ?」
「そうなのか?」
「うん。あたし先に挨拶に行ったもの。少し話してたらそう言ってた。同い年くらいの男の人だったよ?」
「ふぅん……」
 ドアの前に立つ。新一が中に入ろうとすると、蘭は思い出したように後ろを振り返った。
「そっか……あたし担当の看護婦さんに挨拶してない」
「後でもいいだろ?」
「駄目よぉ。無理言って入れてもらってるんだから、ちゃんとしておかないと」
 先に中に入ってて、彼女は言い置き軽く身をひるがえした。
「ついでに売店に寄ってくるね!」
 新一は仕方なく息をつく。蘭が傍にいるとにぎやかなのはいいが、どうも落ち着きがなくなる。
 改めてドアノブに手をかけた。
 扉を開けると、清々しい風が頬を打つ。見れば窓が開いており、薄いカーテンがゆるくはためいていた。
 向こうには空。
 一瞬、ものの見事にその青に目を奪われ、何とも言えぬ感情で、たちどころに喉元が熱くなる。
 持て余すほどの激情だった。きっと久しぶりにあの名を聞いたせいだろう。期待して裏切られ、がっかりするのはもう嫌なのに。
 溜め息をつく。無理やり熱を吐き出す。そうしないと熱は身体中に伝染し、いずれ瞼から溢れ落ちる。
 新一はすぐに弱くなる己を叱咤した。そうして何とか頭を上げ、気持ちを切り替え、窓の向こうではなく室内へと目を向ける。
 己の他にも、この部屋には住人がいるはずだった。
 何の気なしに話し掛けようとして──
 話し掛けようとして、息を飲んだ。
 
 嘘だと思った。
 
「……久しぶり」
 掠れた声が、やわらかく言う。
「泣きそうな顔してたから……焦った」
 
 男の名を、新一は知っていた。
 けれど声は出ない。一度は抑えたと思った激情が、あっという間に胸を敷き詰めていく。
「……先週、帰ってきたんだ。向こうでやれること全部試して……結局、日本に帰ってきた」
 空っぽだった水槽が、なみなみとした水で満ち溢れる感覚。
 そうなのだ、彼はこんな声をしていた。彼はこんなふうに笑った。己はこんな目で彼を見て、こんなふうにしたたかになれた。
 思い出す。誓いの意味を、あの時の眼差しの強さを。
「……何してんだよ、ここで」
 新一は精一杯剣呑に言った。笑っていた彼の瞳が、その瞬間、どうしようもない懐かしさに切なく揺れる。
 ああ──そうだった。
 彼の前で新一は決して泣かない。どんなに苦しい時も嫌なことがあった時も、彼の前にいる時だけは、最も強い自分でいると決めた。
 それが、一緒に戦うための約束だった。お互いがお互いに誇れる自分になることを誓って別れたのだ。
 だから彼の前でだけは絶対に泣かない。
 そして新一と同じように、相手の瞳を真っ向から見返し、彼は──快斗は晴れやかに笑う。
「そりゃお前に会いにきたに決まってんじゃん?」
「バーカ、んなハッタリ信じるかよ」
「ウソじゃないもん」
「本当でもないくせ」
 さらりと返すと情けない顔でこちらを見る。そんな表情もちっとも変わらない。新一は嬉しくてどうしようもなく、けれども笑うに笑えずに、努力して渋面を作る。
 すると快斗は何を思ったのか、
「……今から俺が言うことを、黙って聞いててくれる?」
「……変な言葉じゃないだろうな?」
「違うよ。でもすげぇ大事なこと」
 真剣に言うから、ついうなずいてしまった。
「いいか?」
 彼はすうっと大きく息を吸い込み──
 
「Happy Birthday」
 
 驚くではないか。我に返って日付を数えると、確かに今日は新一の誕生日だ。そう言えば、今朝方電話で蘭からそんな言葉を聞いた。事件で取り込んでいたし、大して特別な日だという意識もなかったから、すっかり記憶から抜けていたのだが。
「……信じる? お前に会うために帰ってきた」
 快斗の言葉に何と答えることもできず、せっかく努力していた渋面も長続きしない。
「信じらんねー……」
「でも本当だもん。お前が信じようとそうじゃなかろうと、真実はひとつしかねぇの」
 まぁ入院は怪我したからなんだけど、快斗はついでのように付け足し舌を出す。しばらく二人で笑った。一年も会っていなかったことが嘘のようだった。
「……向こうで、組織のヤツからお前の名前を聞いた」
 だいぶ後になって、彼はようやくそれを言う。
「やっとだ──やっと。今度こそお前と戦える」
 一緒に戦おう、少し緊張した様子でこちらを見た彼に、新一は笑ってうなずくのだ。
 止まっていた時間が流れ出そうとしていた。
 もう二度と一人にはならないから、きっと真っ直ぐに走り出せる。
 
 強くなれ。
 
 
 
 
 
The day before
 
「フランスに行く」
 何でもないことのように言って笑った男。
 
 一年前の夏だった。新一は、快斗と二人で都心からはずいぶん離れた場所へ来ていた。
 空港である。とは言っても、ロビーや展望台にいたわけじゃない。空港内部ではなく外だ。フェンス越しに滑走路が見えるような、本当にそれ以外は何もない、ただ見晴らしが良いだけの、工場跡地。
 最後の最後にこんなところを選んだのは、やっぱり快斗だった。本当を言うと、新一の方は嫌々着いて来ていたのだが、予想に反して、こうして二人で突っ立っていても未だ退屈を感じることはなかった。
 それどころか、かえってリラックスできていいくらいなのだ。もう夏も近いというのに、今日は朝から涼しい風が吹いていた。当然、滑走路脇なんてもの凄い風通しの良さで、視界を遮るものもないから、空を見上げれば、果ての果てまで雲が流れていく様も見てとれた。
 そんな空へと、また白い機体が飛び立っていく。
 もう何度ここでこうして見ただろう。近い未来、あの機体のどれかに隣にいる男も乗る。考えると、何だかひどく殺伐とした気分になった。どういうふうにしたら飛行機が墜落するのかとか、真剣に考えようとしている自分に飽きれもした。
 そんな新一を知っているのかいないのか、快斗はずっと空を見上げている。彼の目はもう異国の地を見ていたのかもしれない。確かに出国のためには多くの準備が必要だろう。何より、留学という名目で動くからには、それなりの手続きもしないわけにはいかない。
 快斗は言った。
「相手はあそこにいる。向こうが来ないんなら、俺が行くしかないだろ?」 
 彼の気持ちはとても良くわかる。新一が黒の組織に対して持っている感情と同じものだ。
 やらなければ先に進めない。
 ならばやるしかない。例え一人になろうとも。
 だから新一は快斗がフランスに行くと言った時、何も聞かなかった。新一の敵が日本にいて、彼の敵はフランスにいた、ただそれだけのことだと思った。
 道は否応なしに分かたれる。
 仕方のないことなのだ。
「……そろそろ行くか」
 快斗が不意にこちらを向いた。新一は適当にうなずく。背後では、また新しい飛行機が滑走路を駆け始めていた。
 二人は強風にあおられながらも、最後にその機体が飛び立つのを眺め、無言のまま歩き出す。
 
 二人でどこかに遊びに行く時、新一は大抵快斗の後をついて歩く。行く先の決定権もほとんど快斗が握っていた。新一はと言えば、その場所に着くまで、己がどこへ向かって歩いているのか知らないことも少なくないくらいだ。
 その日もそうだった。工場跡地の続く殺風景な場所を抜け、倉庫の連なる通りに出ても、どこへ向かっているのかちっともわからない。
 いくつかの曲がり角を、本当に思いつきみたいに曲がる。快斗の様子は、洞窟を探検する子供のようだ。
「……いつ着くって?」
 彼ばかりが楽しそうなのが気に入らず、つい口を挟んでもみた。しかし、新一だって彼との付き合いがそれほど浅いわけじゃない。こんな時にろくな答えを寄越す男じゃないことは、重々承知してもいる。
 案の定、快斗は肩を竦めるだけだ。悔しいから、新一も答えなどどうでもいい振りをした。
「もうすぐ、もうすぐ。心配すんなって」
「別に……そんな期待してねぇし、どこでもいい」 
「期待しろって。絶対おもしろいから」
 快斗の「絶対」は本当に「絶対」なのだ。彼がそう言うことに、いつも外れはない。
 新一が、快斗と敵とか味方とか全く関係のない位置で付き合い始めたのは、ここニ、三ヶ月のことだった。なのに、もう数年来の友人のように相手のことがわかる。
 思えばずいぶん密度の濃い付き合い方をしていた。今では、何か異常があって報告しなければならない時は、互いの顔を一番に思い浮かべるほど。
「──お」
 ふと、その彼の顔色が明るくなった。
 何を聞いてそんな顔になったのかは、新一にもすぐに知れた。
 音が聞こえるのだ。
 何か、鈴が転がるような、不思議に清涼な音。
 快斗が自然とこちらの手を掴んだ。二人して思わず急ぎ足になって、最後の曲がり角を曲がる。
 倉庫の合間の通路を占領する形で、それはある。
 多分手作りの──不格好なバスケット・リンク。
 その下では、外国人の青年たちが楽しげな顔で躍動していた。肌の色の黒い者、白い者、黄色い者、様々な人種が集っているようだが、日本人はいない。
 快斗は彼らに気軽に声をかけた。
 どうやら初対面ではないらしい。彼はあっという間に色とりどりの肌の色の中に溶け込んでしまう。
「新一!」
 その輪から、陽気に呼びかけるのだ。
「混ぜてくれるってさ、一緒にやろう!」
 さすがにたじろいだ。新一だって英語が話せないわけではなかったが、良くも知らない人間に囲まれて簡単に笑える気安さは持っていない。
 だが、快斗もわかっていて新一をここに連れて来たのだろう。咄嗟に延ばされた手は、こちらが逃げぬよう、しっかりと肩を抱くためのものだった。
「ちょっとだけ付き合えって」
「やだよ、お前一人で入れ。俺はそこで見てるし」
「運動神経抜群のくせに。できねーわけじゃねーじゃん」
「……でもルールがいまいち……」
 とにかく断ろうとした新一の耳元で、彼はしてやったりの笑顔を見せる。
「ウソツキ」
「ウソ? ウソって、お前に何でそんなことが断言できんだよ?」
「あのねぇ、俺はそんなにお前を見くびってないだけ。こういうののルールを、お前がだぜ?、知識として頭に叩き込んでないわけがない」
 嫌な男だ。確かにルールを知らないというのは嘘だったけれども。
「わかった……。でもストバスなんてやったことねーよ、ちょっとリズム覚えさせろ」
 諦めて言えば、OK、OKと笑う彼。軽く地面を蹴って、早速ゲームの中に入っていく。
 新一は一人アスファルトに座り込むと、たちどころに動き出すゲームを見ていた。茶色い革製のバスケットボールが、地に弾むたびに鈴のような音をたてる。
 しばらくそうしてしなやかに身を躍らせる彼らを見ていたのだが、ある時をきっかけに、立てた膝に顔を埋め、ボールの音を耳で追うだけになった。
 だって悔しいのだ。快斗がおおよそのスポーツをそつなくこなすことなら知っていた。けれど、それがこんなに綺麗だとは思わなかった。
 それとも己の目が悪いのか。
 今バスケを楽しんでいる人間の中には、明らかに経験者らしきものもいる。快斗なんか、体格的に見れば一番華奢で脆そうなのに──それらの誰より綺麗なフォームで、まるで指先の角度まで気を配ったように正確なシュートを打つのだ。
 ただのレイアップの一瞬が、息を詰めるほど美しいなんて詐欺である。
「──新一!」
 呼ばれて、今度こそ立ち上がった。
 彼に見とれるくらいなら、自分でボールを追いかけるのに夢中になった方がましだと思った。
 新一は力強く駆け出し、自分のために開かれた輪の中へと踊り出た。
 
 夕暮れ時、別れ際は嵐みたいだ。盛大に背中を叩かれ、肩を抱かれ、幾度となくキスまで受ける。
「……今日の記念だって」
 ごつい黒人男性から熱烈な抱擁をいただいた快斗は、半分よたよたしながら笑っていた。新一も笑った。彼らの中に入って気がついたが、彼らは、英語さえまともに通じないくらい国籍の不揃いな連中だったのだ。日本語も片言だったし、言語というよりはボディアクションでの会話の方が多かった。
 それでもひどく楽しくて、結局何だかんで三時間近くも一緒に遊んでいた。
 彼らはこれから傍の倉庫で仕事だと言う。その離れていく後ろ姿を快斗と見送りながら、新一は知らず考えるのだ。
 一人だけ違う国へ行くというのは寂しいだろうか。
 敵と戦うことよりも、ただ一人でそこに立っていることだけで、手がいっぱいにはならないのだろうか。
「……快斗」
「うん?」
「……どうして今日ここに俺を連れて来た?」
「楽しくなかったか?」
「そうじゃなく……」
 そういう意味ではなく──
 けれど言葉は最後まで言えない。不意に身を寄せた彼が、新一の頬に軽く口付けた。
「……今日の記念」
 笑う男を、どうしようもない心地で見つめた。彼はきっと新一が今何を考えたか知っている。
「……お前のは、意味合いが違う」
 だからそれ以上は言わないことにした。新一は全く別のことを、憮然と呟くのだ。
「ええっ、同じキスじゃん! あいつらのは素直に受けてたくせに、俺相手だとそうなんの?」
「だって全然違うだろ?」
「そりゃまぁ……そうかも……」
 珍しく困ったような顔をして、快斗はそれでも笑っている。
 彼が強くいようとするなら、新一もそれを壊すようなことはしたくなかった。お互いに対する思いは、もしかしたら恋というのが一番近かっただろう。ただ、快斗は新一にとってその枠に納まりきれるような存在ではなかったし、新一も彼にとって己がそうであるよう努めていた。
 初めて好きだと言われたのは、いつかの雷の日だ。
 激しい雷鳴の中で、彼の囁くような声を確かに聞いた。
 それ以来、何度か同じ台詞を聞く機会もあったけれど、新一の方は一度として同じ言葉を彼に返してやったことはない。
 絶対言ってやるものか。実を言うと、新一はひそかに誓っている。
「……なぁ。全然違うって思ってくれてんだったらさぁ、もうちょっとこう……嬉しそうにするとか」
「なんで嬉しそうにするんだよ、俺が」
「だってお前俺のこと好きじゃん?」
「んなこと言った覚えはねーよ」
「俺も聞いた覚えがないんだよねー。変だよなぁ、こんなにはっきりしてることなのに」
「勝手に言ってろ」
「ちぇっ。しばらく会えなくなるんだから、少しくらいサービスしてくれたって……」
「アホか」
「あんまり冷てーと泣くぞ」
「泣いたら信じてやるよ」
「ひっでー、絶対泣く」
 快斗の「絶対」という言葉に驚いた。慌ててそちらを振り返ったが、何と言うこともない、快斗はちゃんと笑っている。
「……どした? 変な顔して」
 何でもない、新一は焦ってそっぽを向いた。
 どうして「泣く」と言っていた相手じゃなく、己が泣きたくなるのだろう。
 そのまま、二人はまた元来た道を後戻りし始める。
 帰りは新一が前を歩いていた。もちろん後ろを歩いている快斗の背中は視界になく、見えるのはどこまでも広がる空ばかりだ。
「しーんいち」
「……何だよ?」
「泣くなって」
「……泣いてない」
「あ、そ。だったらいーけど」
「余計なこと言ってねーで、さっさと歩け。帰る時間遅くなるじゃねーか」
「あ、それね。言ってなかったけど、俺、今日この近くに泊まるから」
 そんなことは聞いていない。つい振り返ると、快斗の探るようだった目が、小さく揺れた。
「……良かった。本当に泣いてない」
 胸が痛い。
 新一は大きく首を振り、再び踵を返そうとする。
 が──
「今日、お前をこっちに呼んだのは、渡したいものがあったから」
 突然快斗は話し出すのだ。
「普通に手渡しても絶対受け取ってくれねーだろうって、いろいろ考えてたから、結局こんなぎりぎりになっちゃったけどさ」
 無造作にポケットに手を突っ込んだかと思うと、まるで何か取るに足らぬものをそうするように包みを放る。
 だからこそ、同じく特に注意も払わずそれを受け止めた新一は、手にした途端、小さいくせに嫌に質量のある包みの感触に戦慄かずにはいられなかった。
 それが何であるかは、包みを開けずとも知れた。
 小型だけれども、それ独特の──特殊な形をしたもの。
「……快斗。どういうつもりだ?」
 低くうめく。
「まさか、これがお前の代わりだとか言う気じゃないよな?」
 もしもそうなら大した侮辱である。まさか彼は新一が何であるのか忘れたわけではあるまい。
「俺にこんなもん渡すってことは、お前を銃刀法違反か何かでしょっ引けって、そう言うことか?」
「違う」
「じゃあ何だ!」
 憤る新一とは反対に、快斗は終始静かだった。わずかに笑みの滲む瞳はやさしく、見ていると泣きたくなるくらい、新一の一番好きな表情をしていた。
 その顔で、彼は言うのだ。
「……俺と一緒に戦って」
 意外な言葉だった。すぐには何と答えることもできない。彼は単身でフランスに行くと、はっきりと口にしていたではないか。それなのに、一緒に、なんて。新一の敵は日本にいるのだから、きける頼みじゃないことくらい、彼ならわかるはずなのだ。
 上手く状況の整理ができない新一に、快斗は続けて言った。
「誤解しないでほしい。俺は、お前が心配だからそれで身を守れって言ってるんじゃない。俺が──俺が、怖いから、ただそれ持っててほしいだけなんだ」
 怖いという言葉を、その時初めて彼の口から聞いた。新一は更に何も言えなくなる。
 快斗の声は、いつもよりずっと掠れがちだ。口調にも滑らかさはない。ひどく不安定な調子で、しかし恐ろしく真剣に、聞いたこともない言葉が綴られる。
「俺は、これからもっと簡単に犯罪を犯すようになる。日本から飛び出して、敵の懐に入って──時々は、故意に他人を傷つけるようなこともする。全然関係ない……もしかしたら俺個人を好きだって言ってくれるような人たちを、裏切るようなこともするだろう。でも、絶対にお前だけは──」
 快斗は小さく笑った。
「……お前だけは裏切らない。何があっても──もしそれで誰かが命を落とすようなことがあっても、お前だけは裏切らない」
 ──絶対ニ生キテ戻ッテ来ル。
 泣きそうになった。けれど新一は泣かなかった。
 快斗は一緒に戦おうと言ったのだ。戦うことは、泣くことじゃない。
「だから、新一。お前も、どんなことがあっても絶対に元気でいてほしい。凄い敵がいて、そいつと戦って大怪我するようなことがあっても、絶対に生きろ。そいつ殺してでも生きろ。絶対負けるな」
「……これは、そのための武器?」
「ああ」
 何だか笑ってしまった。
「バカ……デリンジャーの殺傷能力なんて、あやしいもんだろ?」
「……知ってるよ」
 快斗が笑う。そいつで死ぬんなら、死んだヤツの運がなかったのさ。物騒な台詞を冗談みたいにうそぶく。
 もう声が出ない。新一はただ笑った。彼をとても好きだと思った。これから何年生きようと、きっとこれ以上誰かに強くあこがれることなどないだろう。
 彼と一緒に戦うことを誇りに思う。
 
「……あ」
 急に素っ頓狂な声を上げ、彼が空を見上げた。
 新一もそれに習う。すぐに理由は理解できる。通り雨だ。晴れた空の上に真綿を置いたような暗雲が、風に押し流されて頭上へと迫ってきていた。
「やべ……っ」
 快斗が呟いた瞬間だった。
 スコールというのは、この雨のことを言うに違いない。
 驚くほど唐突な降り出し方である。しかも土砂降り。ぼうっとしていたら一分も待たずにずぶ濡れになっていたことだろう。
 幸い、新一と快斗は、雨がくると知った時点で避難場所を見つけていた。道路脇の電話ボックスに、二人で慌てて駆け込む。
 そうして狭い場所に無理やり身体を押し込んで、顔を見合わせて爆笑した。
「すっげー! これってもう滝じゃねーの!」
 ボックスのガラスが激しい音をたてて雨を弾く。雨量は相当のものだ、外の景色が中から見えない。
「ちょうど良かったな」
 新一はゆっくり包みを開いた。中からは、小型の拳銃が一丁──。
 快斗が間近で見ている前で、恭しくそれに口付ける。息を飲んだ彼の様子がおかしくて、また笑った。
「……そんなもんにするくらいなら……」
 憮然とした呟きが聞こえる。
 もちろん新一だってそう思っていた。ただちょっと意地悪がしてみたくなっただけなのだ。
 
 唇を合わせる。
 じんと、そこから染み込むような熱が、頭のてっぺんから足のつま先までの体温を一気に上昇させる。
「……スキ」
 快斗が言った。
 新一はやっぱり言葉で答えることはしなかったけれど、その唇にもう一度自分からキスをして離れる。
「……じゃあ、元気で」
「うん」
 
 雨が上がる。
 デリンジャーは新一のポケットの中に。
 快斗はそれを確かめ、ようやく強く微笑むのだ。
「──行ってくる!」
 お互いに笑って手を振った。
 雨に洗われた清潔な風が、異国へ向かう彼の背中を後押しするように走り去る。
 
 いつかもう一度、二人が同じ道を歩ける日を信じた。