KISS IN THE DARKNESS

 Open sesame
 
 強烈な眩暈だった。
 すぐ傍には目暮や高木の姿があり、事件に巻き込まれた一般市民や容疑者、死体など、事件解決時の風景が悪い幻覚のように歪む。
 一瞬何が起こったのか図りかねた。変化は唐突で、新一はまだ何も知らなかった。嗅覚だけが研ぎ澄まされ、未だかつて嗅いだことない強烈な血の匂いにこめかみが痛んだ。既に異常は明らかだったのだ。それでも最初のうちは、死体から臭う死臭に酔ったのだと信じていた。
「そ、それからどうなるんですか」
 高木の声で正気を取り戻す。と同時に、推論を続けなければならないことも思い出した。事件は既に大詰めだ。あとは真犯人の自供を促すだけである。
 ところが新一の声は出ない。上手く呼吸もできない気がしている。指先からは徐々に体温がおちていくようだ。嫌な予感に、咄嗟に目暮へ目配せした。察しの良い彼は、早速高木を新一の元へ行くよう耳打ちしてくれる。
「……工藤くん、何か手伝うことでも?」
 高木がこちらへ一歩近づく──血の臭いも移動する。
 血臭、血臭。鉄の、饐えたような苦いような、ざらつく臭い。
 思わず口許を押さえ、新一はむせた。喉が焼け、胃がひりつく。同時に、脳のどこかでは凶暴な何かが叩き起こされる感覚があった。
「すいま、せん。少し……休ませてもらえますか」
 声を絞り出す。推理半ばの収拾のつかぬ状況に、目暮が慌て、容疑者たちがどよめく。
 新一は不信を買うのも承知で歩き出した。そうすることしかできなかったというのが実情でもあった。ところが、死体のあったフロアから出ても血の臭いは消えないのだ。
 行き当たった洗面所に逃げ込む。独特の芳香剤の香りに混ざる生臭さ──源はどこなのか、視線をめぐらせてもそれらしいものに出会わない。
 傍には誰もいなかった。トイレの個室は全て空いている。
 いくら確認しても、ここにいるのは己だけである。
 途方に暮れ、鏡と向き合う。蒼白の自分が、同じように蒼白の顔をしてこちらを伺っている。
 と、突然気がついた。
 新一自身だ。この身体から濃い血の臭いがする。
 もちろん新一は怪我など負ってはいない。先に死体の検分はさせてもらったが、手袋をしていたし、血溜りを踏んだわけでもない。だが、臭いは己の身体から立ち上っている。いや、正確には何と言い表せばよいのか。皮膚の下の、血管を巡る血潮を嗅ぐのだから。
「冗談……」
 呆然と呟いた。
 異常な事態だった。いくら嗅覚の優れた人間でも、皮下の己の血で酔うものがいるだろうか。しかも突然こうなった。こんな過剰反応の仕方は精神の病としても珍しい。まるで狂った吸血鬼のようである。
「……吸血鬼?」
 荒唐無稽さに自嘲した。だが、後を追って襲ってくる悪寒が、笑い話にさせてはくれない。
「……吸血鬼……いや」
 新一は知らぬ間にその名を呟く。
「……ヴァンパイア?」
 どうして声となったのか。
 しかし、それこそ最後の鍵だった。またしても唐突に歪む視界に息を詰める。洗面所に片手だけを残し、ずるずるとしゃがみ込む。
「くそ……血、が」
 血ガホシイ。
 自覚もないままうつろに唱え、新一はとうとう異様な欲求に取り込まれた。
 己の手の甲に噛み付くケモノを、磨かれた鏡が冷酷に照らしていた。


1)
 
 このところ眠れない夜が続いている。
 新一は、一歩外に出るやいなや目を貫く朝日に渋面を作った。今朝も快晴らしい。たまには雨でも曇りでもいいと思うのに、都合の悪い時に限って底抜けに明るい空が広がっている。
「イヤミか、くそ……」
 溜め息をついて鍵をかけた。中身のない軽い鞄を肩に、通い慣れた通学路をとろとろ歩く。
 何人かの知人に声を掛けられ、おざなりな挨拶でやり過ごす。当たり前の登校時間が、新一の表情を翳らせるようになったのは最近のことだ。
 人通りが多いと吐き気がする。鉄くさい湿った臭いのせいだった、血の臭いである。
 自身がヴァンパイアであると割り切ってみたものの、新一は未だにこの臭いが嫌いだ。加えて言えば、一度だけ吸った血の味も、己のものであったことを差し引いても美味には遠く、おぞましく感じた。
 きっと何かまずいことになっている。
 まずいと言うならヴァンパイアになった時点でそうなのだが、変化がこう中途半端なままではどうしようもないではないか。
 実際、新一は吸血行為をしなければ死ぬというほどではなさそうだし、人間の食生活でもやっていけそうだった。不眠症にはなったが、太陽の光も平気で、鏡にも姿は映る。
 十字架も大丈夫。
 ただ──時折眩暈が訪れる。
 白昼夢を見るのだ。
 ヴァンパイアの歴史、と言えばいいのだろうか。まだ人間が言葉さえ上手く操れない頃の、太古の記憶である。
 その中で祖先たちは叫ぶ。今この種族が途絶えてもいつか必ず蘇る、ヴァンパイアは選ばれた民なのだ、地球の全てを手にする日がきっと来る、と。
 ──アホか。
 夢を見た後の新一はいつも脱力した。
 だってまるで御伽噺の支配者だ。祖先の目指していたのは、つまるところ世界征服である。
 アホか。思わずにはいられない、たとえ新一がそれを行うための呪縛をかけられているのだとしても。
「世界征服? 笑わせんなよ、おい」
 ヒトの血を啜れと祖先は言う。お前がそうするだけで新しいヴァンパイアが生まれる、白昼夢の祖先たちは、何度も新一へ向けて呪いを繰り返すのだ。
 そろそろまずいことの一つや二つ、起こる頃なのかもしれない。
 新一は、真っ青な空に何度目かの溜め息を投げた。
 ちょうど視界の端に蘭を見つけた。小さく手を振って、すぐさまこちらへ駆けてくる彼女。
 思わず苦笑した。
 ほら言わんことじゃない。例えば新一がその気になってしまったら、きっと苦もなくヴァンパイアは生まれてしまう。別に知り合いじゃなくとも、赤の他人相手の作戦だって、絶対に上手く運ばせるくらいの頭は持ち合わせている自信がある。
「おはよう。何よ、朝から考え込んで」
 蘭が鞄で背中を叩いた。
 新一は改めて笑顔を作って、何も知らない彼女の、鼻をかすめる血の臭いをやり過ごす。
 
 授業中に携帯電話に連絡が入っていたらしく、見てみればメッセージが三度も録音されていた。
 ちょうど昼休みだった。新一は午後の授業をさぼって昼寝をするつもりで屋上に来ていた。売店で買ったパンの袋を開けながら、携帯電話を肩と耳の間に挟む。
 メッセージは、三度が三度とも目暮である。またしても難事件にぶち当たったらしい。暇ができたら連絡をくれと、少しだけ平静を欠いた声が早口で告げていた。
 しかし今度ばかりは新一も動けそうにない。そもそも、せっかく人ばかりの教室から抜けてきた直後である。あの臭いに酔いたくなければ、一人でいることが賢明な判断だ。
「あー……くそ」
 携帯はポケットへ逆戻り。せめてこの臭いさえどうにかなってくれればまだ楽なのに。新一はパンにかぶりつきつつ考える。
 そうなのだ、せめてエモノを追っている形さえできれば、祖先の呪いも誤魔化しようがないわけではない。
「どっかに絶対捕まんねーヤツいねーかな……」
 いないだろうな、自分でそう思ってしまう辺りがもう駄目だ。新一は情けなく牛乳をすすった。
 が。
 ふと、待てよ、と思い直すこと、しばし。
 絶対にとは言わないが、そう簡単には捕まらないだろう相手が一人だけいるではないか。
 いっそ馬鹿馬鹿しい茶番を楽しんで付き合ってくれそうな、しかも飛び切り狡猾な相手が。
 慌てて携帯電話を取り出す。目暮の短縮を迷わず押し、新一はどきどきしながら応答を待った。
「目暮警部ですか、工藤です」
 続いて警部の話を聞けば、またしても殺人事件である。
「わかりました、これからそちらへ向かいます。学校? 大丈夫ですよ、午後は自習なんです」
 嘘八百だったが、目暮はあっさり信じてくれた。
「実は僕も警部に尋ねたいことがあって。お忙しいとは思うんですが、事件が解決した後、少しお話を聞かせてもらってもいいですか?」
 新一は、秘密を打ち明けるような心地で、彼の名を呼んだ。
「いえ……、怪盗KIDのことを」
 
 * *
 
 目暮が難事件だと言った密室殺人は、ものの一時間で解決を迎えた。その後、警官たちと連れ立って警視庁へ帰った新一は、署内の喫煙コーナーで怪盗KID専属であるという刑事を待っていた。
 名を中森と言うらしい。高木から聞いた話では、おおらかな目暮とは正反対の、いつも頭から湯気を上らせているような熱血漢だと言う。
 それはまたKIDに遊ばれていそうだ。新一は中森が知ったら憤死しそうなことを考え、しばし笑ったものだ。
 警視庁内部は、人で溢れ返っているわりに血の臭いが希薄だった。人が一定の場所でじっとしていることが少ないからかもしれない。特に新一がいる喫煙コーナーなどは煙草の匂いしかしない。ありがたいことである。
 ……多分、この異常な嗅覚は、実際に新一がエモノと血の契約を結び、新たなヴァンパイアを生み出すまで正常に戻ることはない。新一はヴァンパイアとしてはまだ半端な存在だった。たった一度だけ呪いに負けて行った吸血行為も、自分を自分で慰めたようなものである。
 ヴァンパイアは知能が高い生き物だ。ただし、それは本能が安定しているからこそで、新一はその本能を安定させるための力が足りていない。
 血を、血を、血を。
 今でも頭の奥では声がする。
 従ってしまえば、あるいは全てが丸く収まるのかもしれない。だが、一度でも誰かの血を吸った自分は、果たして人としての生活を保った状態でいられるのか──
 ぼんやりしていると、高らかな足音が聞こえてくる。
 すぐに音を立ててドアが開かれた。眉間に皺を寄せた強面の男が、にらみ付ける勢いでこちらを見る。
「お前か、KIDのことを聞きたいと言ってきたガキは」
 この男が中森らしい。なるほど熱血漢だ、新一は男の言いように苦笑せずにはいられなかった。
「初めまして。工藤新一といいます」
「挨拶はいらん、さっさと用件を言え。それともここで簡単なボディチェックでも受けてくれるか。目暮の知り合いだか何だか知らんが、お前がKIDの変装でないとも限らんしな」
 違いますよ、新一は義理だけで答える。
「お望みならボディチェックも受けますけど」
 しれっと続けると、中森は本当に嫌そうな顔をした。
「……近頃のガキはかわいげがなくなった」
「そうですか? これでも礼儀は尽くしているつもりなんですが」
 彼の後ろから現れた目暮が、こじれそうになった会話を慌てて遮る。
「挨拶はそのへんでいいだろう? 自己紹介は済んだみたいだが、怪盗KIDが起こした事件の、ほとんどの捜査を指揮しているのがこの男だよ、工藤くん。こいつは口は悪いが、腕は確かだ。君が知りたいと思っていることを、知らないということもないだろう」
 確かに中森は想像していたよりずっと有能そうだった。少なくとも黙ってKIDにやられてばかりいる男には見えない。
 新一は気を取り直して軽く目礼した。
「わざわざお時間をいただいてしまってすみません。僕があなたに伺いたいのは、最近のKIDの動向です。もし近くに彼がかかわりそうな気配があるのなら、警察にご迷惑が掛からない程度の情報で結構ですので、僕に教えていただきたいのです」
 中森の目が細まった。
「……極秘事項だ。いくらお前が探偵で、捜査に協力すると言われようと、部外者に教えることはできん」
「マスコミに取り立たされる程度のことでも結構です」
「その程度の情報でいいなら、自分で調べることだな」
「KIDはマスコミを利用する。僕は彼に操られた情報ではなく、真実の情報がほしい」
 中森が黙った。すかさず目暮がとりなしたが、彼が情報を提供してくれなさそうなことは、その目に宿った警戒で新一にも知れる。
 彼は威圧的に続けた。
「お前のような若い探偵を、俺はもう一人知っている。そいつは興味本位にKIDに挑んで、あっさり騙された口だ」
「その探偵と僕が同じだと、あなたはそうおっしゃるんですね」
 新一は苦笑する。はっきり勝敗の見えぬ賭けはしたくはなかったのだが、この分ではやるしかなさそうだ。
「……僕はただ、KIDに会いたいだけです」
 故意に一言一言を区切って声にした。
「聞こえているか。工藤新一が、怪盗KIDに会いたいと言っているんだ」
「……何を言い出したんだ?」
 中森は、明らかに奇異なものを見る目をこちらに向ける。新一は彼を受け流すと小さく微笑んだ。
「何でもありません。お時間を取らせました、もう結構です」
 二人のやりとりを無言で聞いていた目暮が、ひどく複雑な表情でこちらを見ていた。
 
「……工藤くん」
 廊下を歩く前と後ろ。新一は、事の次第を確かめるため追いかけてきた目暮に、浅い溜め息をつく。
「目暮警部、僕は何度か怪盗KIDと接触したことがあります。同じ窃盗犯でも、あの相手だけは、そこらにいる泥棒と一緒にはできない」
「中森の奴は、何かヘマをやっているのかね?」
「いえ、それとは少し違うと思うんですが……僕にもはっきりとは言えません。ただ、一度あの人の服や持ち物を徹底的に調べた方がいいと思います。KIDは警察の動きに聡すぎる」
「盗聴されていると?」
 それには答えなかった。目暮が軽く目礼し、今来た通路を足早に引き返していく。
 そうして新一が表へ出た時には、もう立派な夕焼け空が頭上を覆い尽くしていた。目のくらむようなオレンジ色だ。その明るさに誘われたわけではなかったが、真っ直ぐ帰宅する気にはならず、しばらく街をぶらついた。
 困ったことに、これから始まる夜を、新一は眠れぬまま過ごさねばならないのだ。本当はこうしている今も、隣を歩く誰かの血の臭いで胸やけはする。それでも、一人で余計なことばかりを考えたくないという気持ちが、新一を雑踏の中に縫いとめていた。
 例えば、誰かの血を吸うこと、とか。日があるうちはちっとも現実味のないそれが、夜になるとそうではなくなる。
 特別新一の意識が変わるわけではないのだろうに、ただ辺りが暗いというだけで妙に殺伐とした気分になる。世界征服の野望だって、その時は上手く笑い飛ばせもしない。
「また夜、か……」
 長いなぁと呟いて空を見上げる。薄い三日月が、オレンジからスミレ色に変わっていく空に溶けそうだ。
 不意にどうしようもなく寂しくなって、近くの路地裏に逃げ込んだ。気づくと目の奥が痛い。まさかと思ったが、やっぱり鼻もつんとした。
 泣いてどうなるもんじゃないだろうに。
 そんなふうに己を叱咤する。新一は、悲しいことに、一時の激情に負けてしまうほど弱くはなかった。
 だからきっと人の血も吸えない。
「純粋に世界征服なら楽しそうだけど」
 軽く笑う。路地のごみ箱に隠れた猫が、にゃーと鳴いた。
 そんな時だった。
 不思議にやわらかい風が吹いたのを感じた。新一は敏感に顔を上げ、どこを見るともなしに辺りを見回す。
 四方は壁しかない私道である。大通りから入ることはできても、すぐに行き止まりになる道。もしも人が入ってくるのだとしたら、ごみ箱に用があるのか。
 新一に用があるのか。
「……KID?」
 その名を呼んだのは、ほとんど勘だった。
 反射的に大通りをうかがったあと、視線を戻せば、真逆の突き当たりの壁に悠然とたたずむ姿。
 白いマントにシルクハット。これだけ目立つ格好なのに、どうして夜に溶け込んでしまえるのだろう。新一は突然現れた怪盗を声もなく見つめた。
「メッセージを、どうも」
 彼はかすかに笑いのにじむ声で言った。
「おかげで貴重な情報源には警戒されてしまいましたが、割に合うくらいの御用があるんでしょうね?」
 もちろん用があってあんな手段を選んだのだ。しかし実際にその人物を目の前にすると、新一は何だか困ってしまった。
 元々、決して中森に盗聴器がつけてあることに自信があったわけではない。ただ、いつ誰が使うともわからないどこかの会議室や備品に細工するほど、KIDは気の長い男ではないとは思っていた。
 だから中森にそれが仕込まれていたことは、予測済みと言えばそうなのだが──本音を言うと、新一としてはどちらでも構わないことだった。メッセージが届いても届かなくとても、本当はどちらでも良かったのだ。確率の低そうな方法をわざと選んだ。本気でKIDを探すつもりがあったなら、新一は中森より阿笠を頼っていただろう。
 会いたくて──会いたくない、彼に会えば、新一はヴァンパイアの自分を認めねばならなかった。
「おやおや。呼び出しておいて困った顔はないんじゃないですか? あんなに熱烈な言葉を使ったくせに」
 KIDがおもしろがっていることは明らかだ。新一は仕方なく口を開く。
「わざわざ出向いてくれてどうも。別に大層な用はないんだけど──」
「だけど?」
「ああ、まぁその……」
 歯切れも悪くなろうと言うものだ。今から新一が言うことは、全く馬鹿らしいゲームの誘いだったのだから。
「……まぁその、ね? 珍しいな、名探偵。あんたが個人的に俺に会いたいと思う理由は、そんなに言葉に困るような色っぽい話なのか」
「バカ、全然違う」
「ふぅん? 何でもいいさ。おもしろそうだ、早く話しなよ。協力してやってもいいぜ?」
「内容聞く前に返事するな」
「どうして? 大体あんた、俺が断ると思ってた?」
 不思議なもので、どんな条件を出そうと絶対に彼が応じる予感があった。
「……何か、急に話したくなくなった」
「どうして」
「お前が楽しそうなのが気に食わない」
「そんなに深刻な話なわけだ?」
「俺にとっては」
「へぇ、ますます聞きたくなった。さっさとしゃべんなよ、この格好は長く立ち話するには目立ちすぎんだ」
 確かに。
 新一は溜め息をつく。気持ちを落ち着け、それから世界征服の野望を思う。
 目の前の、この男が必要だった。彼ならば、新一とのゲームに勝ちをおさめてくれるはずである。
「お前と勝負がしたい。ルールも期限もなくて、お前に圧倒的有利な勝負」
「俺が有利? おもしろくない」
「いいんだ。お前に有利なんだから、お前が負けた時のペナルティは凄いぜ」
「もしかして警察に捕まれとか、そういうこと?」
「違う。それは近い将来なるに決まってるから、賭けにはしない」
「強気だな、それで?」
「何でも俺の頼みをひとつきくこと」
 KIDが喉を鳴らして笑った。
「それが、ペナルティ?」
「ああ。何でも、だからな。死ねって言われりゃ死ななきゃなんねえ」
 実際、それに近いことを新一は強要するのだ。万一彼が負けるようなことがあったら、彼には世界征服のための最初のエモノになってもらう。
 KIDはまた笑った。楽しくて仕方ないというような目が、ゆっくりとまばたきする。
「で、勝負の内容は?」
「俺がお前の正体をつきとめるかどうか」
「なるほど。そりゃ確かに俺に有利だ」
 そうでなきゃ意味がない。これはKIDが勝つ勝負なのだから。
 これでエモノを定めるという言い訳はなり立つ。呪いだって多少は緩和されるかもしれない。新一はそこまで考え、不意に奇妙なことに気が付いた。KIDは血の臭いがしない。
「お前……?」
 人間だよな、思わず馬鹿なことを聞きそうになって、新一は慌てて口を押さえる。
 彼は相変わらず不敵な笑みを浮かべていた。何度も惑う新一を楽しげに眺め、何気に空へと視線を飛ばすのだ。
「勝負の内容はわかった。俺に有利なのもいいさ。どっちにしろ、すぐにけりはつくしな?」
 強気な男だ。ひとまず己の疑問は横におき、新一は安心で胸を撫で下ろす。
 が。
 何を思ったのか、急にシルクハットを取り去る男がいる。いつも目深にかぶって顔を判別しにくくしていたそれが、目の前であっさり消えた。
「おい……?」
 続けてモノクルも。
 焦ったのは新一の方だった。彼を武装させていたそれらが、見る間にひとつひとつ剥がされていく。
「KID!」
「ほら、これで勝負はつく」
 叫ぶ新一をよそに、初めて見る素顔をさらし、男は無防備に笑ってみせるのだ。
「結果は俺の負け。さぁお前の頼みを聞こうか?」
「おま……っ」
 絶句。
 だってまさかすすんで負けるなんて思いもしないではないか。新一は、死ねと命令したら死ねとまで言ったのだ。なのに彼はこうも簡単に勝負を放棄した。こんなことが許されていいのか。
 既に呆れる域にも入らない。新一は烈火のごとく激怒した。
「ふざけんな!」
 その襟元を両手で掴みあげる。見慣れぬ顔をさらした男は、そうする新一を不思議そうに見返した。
「俺に頼みがあるんじゃなかったっけ? 協力してほしいんだろ、何で怒んだよ」
「誰も協力しろとは言ってねえ!」
「良く……わかんねえけど、とりあえず自己紹介しとくわ。俺の本名、黒羽快斗」
「んなもん聞きたかねえよ!」
「失礼な。KIDが自分から正体ばらすのなんか、お前が最初で最後だと思うぜ?」
 だから何だと言うのだ。そんなものに感謝なんかできるわけがない。
 新一は、彼なら負けないだろうと思ったからこそ勝負を持ちかけたのだ。それが一体どうだろう。
「お前、サイテー……!」
 悔しくてたまらず、新一は腹いせに彼を乱暴に突き飛ばす。そうされてもなお敵は不思議そうにしていて、絶対に悪いのは奴の方だと思うのに、己だけが勝手を働いた気分になった。
 そりゃ少しは新一だって理不尽だっただろう。しかしあの忌まわしい臭いから逃げる口実を失ってしまった自分はかわいそうではないのか。
 彼の他に心当たりはないのだ。悲しいことに、自分の知る限り、この敵が一番の強者だった。
「どうしてくれんだ……」
 苦く呟く。
 と、KIDの白い手袋をはめた手が持ち上がり、新一の手首を思ってもみない強さできつく掴んだ。
「何があった?」
 どうして彼はそんなふうに言ったのだろう。
「力になる。困ってんだったら手を貸す」
 驚かされた、のだ。彼の真っ直ぐな好意に。
「い、るかよっ」
 おっかなびっくりその手を払う。新一は焦って背中を向け、表通りへと駆け出した。良くわからなかったが、彼と長く一緒にいてはいけない気がした。
 そして今日も夜が始まる。表通りに入った途端、吐き気のするような血の臭いにふらついた。
 孤独に迷って見上げた空には、ひどく冷たい三日月が浮かんでいる。
 
 
 
 2)
 
 翌日、またもや眠い目をこすりつつ学校生活に耐え、無事一日を終えようとした新一を、校門の前で待ちかまえていたのは、例の怪盗KIDならぬ黒羽快斗である。
 この黒羽快斗という男、なかなかに手ごわい。
 視線も合わさず、新一の完全無視でやり過ごした一日目。これで二度と会うこともないと高をくくっていたら、その翌日も、そのまた翌日も、彼はそこで新一を待っていた。
 さすがに四日目になると無視もしにくい。
 新一は彼が自分以外の誰かを待っているのだとは決して思わなかったし、先日のやりとりに少しの悔恨が残っていたこともある。また、彼の素性を警察に知らせることも善しとは思えなかった。犯罪者にかける温情などないが、彼が自ら正体をさらしたことが納得できなかったからだ。
 そうして四日目の放課後、とうとう新一は彼の前で立ち止まった。
「……人見捨てんの下手だな」
 視線が合うと、彼はそんなふうに陰りのない笑顔を見せた。
 相変わらずこの相手からは血の臭いを感じない。それも不思議だった。新一自身にも特に思い当たることがないので、人間にもいくらか種類があって、血の臭いをさせるものとさせないものの二通りがあるのだろうと、単純に理解することにした。
 つまりは、現段階において、良くも悪くも黒羽快斗は特別な相手になってしまったということである。
 新一は深い溜め息をついた。
「何か用かよ。俺は、この前のあれ、もう続ける気もないんだぜ?」
 自分は彼の素性を知ってしまった。口止めでもしにきたのかと思ったら、そうでもないらしい。
「だって気になんじゃん。お前がわざわざ俺を名指しで頼みがあるって言ったんだ、そりゃ気になって当然だと思わねえ?」
「頼むから気にすんな。俺はお前と関わるつもりはない」
「俺はそうでもないけど。お前にはずっと興味があった。もし機会があるんなら、探偵とか泥棒とかそういうのとは別のところで話してみたいと思ってた」
「だから簡単に正体ばらしたって?」
「そんなもん」
 信じられるか、新一はもう一度息をつく。
「とにかくもうここで待つのはやめろ」
 親切で言ってやったのに、敵は言う。
「やだね。お前がどう言おうと、俺は負けたの。お前は俺をこき使う権利があるんだよ」
 弁のたつ男だ、ああ言えばこう言うの見本のようだ。
「お前の言い分は聞かない。とにかく二度と俺の前に顔を見せるな」
「警察でも呼んでみる?」
「次にお前に会ったらそうしてやるよ」
「ウソツキ」
 彼はそれこそKIDのように不敵な顔で断言した。
「賭けてもいい、お前はそんなことしない」
 さすがにむかっとくるではないか。だが新一が文句を言うより先に、彼はまた意味不明を口走る。
「ところで、お前って笑うの?」
「はぁ?」
「笑うよな、人間だもんな」
「何……?」
「どうやったら?」
「? 何言って……」
「お前が楽しいとか嬉しいとか思うことって、どんなことだよ?」
「へ?」
「笑ってほしいんだけど、俺」
「はぁ?」
「──お前に」
 新一は頭が真っ白になった。
 彼を見ると、恐ろしく真剣な目をしているのだ。本気かどうかを問うまでもない、彼は大真面目にそれを言ったのだろう。だがしかし。
「……頭、大丈夫か?」
 新一の問いに屈託なく笑って、彼はもたれていた壁から身を起こした。
「考えといてよ」
 そんな台詞を残し、黒羽快斗は背中を見せる。
 彼とは対照的に、新一の方はしばらく校門の前から動けなかった。
 誰が何だって? だいぶあとになって、もう一度繰り返した問いに答えてくれる者はいない。
 
 ところがその夜。今度は怪盗がやって来た。
 新一の部屋である。外が騒がしいと思ったら窓が叩かれて、カーテンを開けるとベランダに彼が立っていた。
 塀の向こうを何台ものパトカーが駆け抜けていく。もちろんお尋ね者がここにいることを、その中の誰も気づいてはいないのだ。
「……突き出してやろうか、こいつ」
 不穏な言葉を呟いたわりに、新一の動作は早かった。サッシを開け、ご丁寧にも靴を脱いでいた泥棒を、おとなしく自室へ招き上げた。
「俺のとこ逃げ場所にすんのは間違ってないか?」
 精一杯不機嫌に言うのに、奴はどこ吹く風だ。
「間違ってない間違ってない。大正解だと俺は思うね」
 その上無防備にも、シルクハットやらモノクルやらマントやらを次々脱ぎ捨て、新一のベッドの上に放る気安さだ。さすがに眩暈がした。
「……てめえ、今警察呼ばれても文句いえねえ立場だぞ」
「ん、そうかもね」
「わかっててやってるわけだな!」
「まあね、危険なこととそうじゃないことの区別くらいはつくけど」
 つまり新一は奴にとって危険ではないわけだ。これは侮辱と受け取っていいものか。
 しかしその男は、イライラしているこちらを横に、のんびりとぼやくのだ。
「でもさぁ、もし今おもてをこの格好で歩いたって捕まらない自信はあるぜ」
 そうなのだ、そういう奴なのだ、こいつは。
「まぁ、お前が警察の味方につくんならやばいけど」
 ……こういう奴でもある。新一は溜め息をついて手を上げた。
「勝手にしろ」
「ん、させてもらってる」
 笑う男。まだその名さえ一度も呼んだことはないのに。新一の何を信じてそんなふうに笑うのだろう。
「なぁ、そろそろさぁ」
 しかもこんなことまで言い出す始末だ。
「そろそろ頼みごととやら、聞かせてくれてもいいんじぇねえ?」
「……まだ言ってたのか。忘れろよ、いい加減」
「やだね、こんなチャンス逃せるかって」
「何のチャンス?」
 意味ありげに笑うから気になってしまうではないか。
「……言えよ」
 新一が詰め寄ると、まんざらでもない顔をして、それでも彼はそっぽを向いた。
「やだ。お前こそ言えよ、頼みごとって何」
「それはもういいんだよ、間に合ったんだ」
「ウソつくなよ。俺に頼むようなことなのに、他の誰が代役やれるって?」
 確かに問題は解決などしていなかったのだが。
 だが今となっては、目の前の彼でさえ、新一の願いを叶えるのは難しくなってしまった。
「だから……いいんだ、本当に。もう」
「協力するって言ってんのに」
「違う。本当は協力してほしくなかったんだよ」
「……何だって?」
 真実はとうとう口を突いて出た。
「協力してほしくなかった。本当を言うと、俺に負けなさそうな相手、お前しか思いつかなかったから、お前に勝負を持ち掛けた」
 彼が思わずといった具合に黙り込んだ。
「……俺は、お前に勝ってほしかった」
 新一の告白が終わると、相手は珍しく困った素振りを見せた。大きく長い溜め息を派手につき、まいったとばかりに額に手を当てる。
「……悪い」
 何で彼が謝るのやら。新一は知らず苦笑する。すると、こちらの様子に気づいた彼が、突然表情を明るくした。
「それ!」
「え?」
「そういう顔が見たかった!」
 ああ、そう言われれば昼にそんなことを言っていたっけ。あの時は馬鹿なことだと思ったが、今になってみるとそう不自然にも思えない。
 きっと彼が謝ったせいだ。最初から彼は新一に協力するつもりで姿を現したのだと、素直に思えた。
「……なぁ、何か困ってんだろ? ここまで来たんだ、話くらい聞かせろって」
 彼は言う。新一は笑ってそれには答えなかった。代わりにコーヒーでも用意しようかと部屋を出ていく。
「──なぁ、新一!」
 初めて名前で呼ばれた。今にも階段を降りようとしていた新一は、やわらかい表情のまま後ろを振り返る。
 慌てたようにドアから顔をのぞかせ、彼はやっぱり真剣な顔をしてこちらを見ていた。
「トモダチになろう」
「やだよ、バカ」
「いいじゃん、俺といると退屈しないって」
「やだ。知ってるか、お前泥棒で、俺は探偵」
「泥棒捕まえない探偵なんているの?」
「ウルサイ」
 新一が取り合わずに背中を向けると、彼は自分も部屋から出てきた。
「なぁって。だったらコイビトでもいいし」
 何だかそんな場合ではないのに、ひどく楽しくなってきた。新一は今度こそ自然に笑う。
「バーカ。心にもないこと言ってんじゃねーよ」
「あるってば、あるある。俺、ウソはつかない」
「ウソじゃなくても冗談にしか聞こえない」
「そりゃお前の耳が悪いんだ」
 何だかなぁ、何でこんなに居心地いいかな。
 新一は笑いながらキッチンへ足を踏み入れた。もちろんその後を男もついてくるのだ。
 大体、彼から血の臭いがしないのがいけない。たったそれだけで、こんなに気分がいいなんて嘘のようだった。
 呪いも祖先も世界征服も。己がヴァンパイアであることも、今は全部が関係ない。こんなふうにいれるのなら、彼と友人関係を結ぶのもいいかもしれない。
「なぁ、新一ってば。いい加減に信じねえと、本気出すぞ」
「そりゃすごい、見てみたいな」
 あんまり居心地が良かったので、危険地帯に踏み込もうとしていることに少しも気がつかなかった。
 だから、はっとした時にはもう、彼の顔は呼吸が触れ合う位置にあったのだ。
「信じろよ」
 力のある目に縫いとめられた。新一は抵抗ひとつしないまま、冗談でも親愛でもない、どこかが切実に痛むようなキスを受ける。
「……何度だって言う。俺はウソはつかない」
 何も言えなくなった。近い瞳は、確かにこれ以上もなく真剣な色をしていた。
 
 翌朝、目がさめて驚いた。
 このところの不眠症はどこへやら、新一はぐっすりと眠っていたらしい。おまけに隣には怪盗KIDの衣装のままの男がいる。
 黒羽快斗。新一の記憶違いでなければ己の口は、昨日の夜、自分でも不思議なくらい親しげに、この男の名を呼び捨てで呼んだ。
「……快斗」
 違和感は、今朝もやっぱりない。だが、それがかえって恥ずかしく、新一はまだ熟睡中の男の頭を派手にはたいた。
「な、んだよ……もうちょっと寝かせろって……」
 気安い。あまりにも気安い。こんなやりとりなど、未だかつて他のだれとも経験したことはない。
「起きろ、起きろったら起きろ、てめえ!」
 頬が一気に赤くなるのが自分でもわかる。
 何なのだ、こんなことが許されるのか。新一は混乱した。しかしこともあろうに寝ぼけた男は、そんな新一に腕を伸ばし、しがみつくように抱き込んだのだ。
「は、離せー!」
 おかげで朝から余計な格闘を強いられた。
 何とか覚醒した快斗は、今では浴室でシャワーを浴びている。着替えも何もないと言うから、とりあえず服も貸してやった。
 新一はぶつぶつ言いながらトーストを用意する。今日も学校は当たり前にある。こちらがこうなのだから、同い年の快斗もそうに違いない。生憎と不真面目な男は遅刻してもいいとぼやきまくっていたが、新一は耳を貸さなかった。
 そう時間もかけず、快斗はすっかり身支度を整えた。新一も制服に着替えようとして──
 不意に彼から呼び止められる。
「それ、どうした?」
 快斗は己の首元を指差しながら、新一のそこを怪訝そうに眺める。
「何だよ、首がどうにかなってんのか?」
「あざだと思うけど……はっきりとはわかんねえ、何か変なもんできてる」
 彼の様子があんまり困惑していたので、新一も戸惑った。嫌な気配を感じたのもその時だ。追い立てられるように鏡の前に急ぎながら、心臓が変なふうに動悸するのを自覚した。
 案の定、ありさまを目にした瞬間、全身が総毛立つ。
 首の付け根、まるで焼印でも押された後のように醜い色をした、十字のあざが浮き上がっている。
 すぐには声も出せない。硬直した新一に、さすがに異常を悟った快斗が強く肩を掴んだ。
「──どうした」
 咄嗟に首を横に振ったけれど、そんなものじゃ彼の疑問をはぐらかすことなどできなかっただろう。
 わかっていて新一は快斗を押しのけた。急がないと遅刻するから、そう何度となく言い訳し、努めて彼の目を覗き込まぬよう振舞った。
 あざはシャツの襟に隠れたが、一応用心してバンドエイドを貼りつける。
 これは人の目に触れさせるわけにはいかぬものなのだ。
「大丈夫か? 学校休んだほうがいいんじゃねぇ?」
「大丈夫だ。……これも、多分どっかでぶつけでもしたんだろ」
 十字のあざ。
「……なぁ、もう一度言うぞ」
 半分上の空だった新一に、それでも快斗は、家を出る直前まで根気強く言い張った。
「俺はお前に協力する、お前は俺にそうさせる権利を持ってる」
 いいか、と彼は続けた。
「俺はウソをつかない。覚えろよ、俺は──」
 お前が好きだ。強い瞳で言い切り、こちらを戸惑わせたまま背を向ける。
 新一はひどく心細い思いで彼の後姿を見送った。
 
 * *
 
 その日から新一の日常は血の臭いで溢れた。
 人ばかりでなく、猫にも犬にも、食料のはずの調理済みの肉にも魚にも、何もかもに滴るような濃い血の臭いを感じるようになる。
 不眠症の次は拒食症か。投げやりに考えては、上手く喉を通らなくなった食べ物をごみ箱に捨てた。
 土日の、休日で誰とも顔を合わせずにすむ日は、じっと寝て過ごした。
 当然のことながら、首のあざも消えることなくそこにあり続ける。
 本当のところ、新一はあざの意味を知っていた。
 ヴァンパイアは知能が高く冷酷、そのくせ血族の絆だけは重んじる種族だ。規律を乱そうとする異分子を発見すると、二度とそんな考えを起こさぬよう重い刑罰が加えられる。
 食用の焼印を押すことも、罰のひとつであった。
 裏切り者には、ヴァンパイアが一番目にする場所に印をつけられる。そうしてその焼印を押されたものは、同じヴァンパイアであっても食用になるのだ。飢えた輩からはこぞって血を吸われる。しかも、誰からも助けは得られない。そうする輩を咎めるものもいない。なぜなら、彼は、食用になることくらいでしか、血族に報えないできそこないのヴァンパイアだから。
 こうなってくると、さすがの新一も、日に日に体力が落ちていくのが怖かった。誰かと一緒にいられるような状況でもなかったが、一人でいるのも限界に来ていたのだ。
 気まぐれに快斗を思い出し、これといった行動を取ることもなく、ただベッドの隅で丸くなる。
 世界征服などと言ったら、目を輝かせて手伝うと言い出しそうだ、あの男は。そんなふうに、彼の無鉄砲なところを考えるとおかしくてたまらず、泣きそうになって困った。
 それでも新一は、三度彼からかかってきた電話も、居留守で通し続けるのだ。そして、最後の、明日また学校の前で待っているというメッセージを聞き終えると、ソケットを抜き、電話機をベッドの中に引きずり込み、それを抱きしめて目を閉じる。
 これが日曜日の夜。
 新一は、快斗と一緒に目を覚まして以来、うたた寝さえもできなくなっていた。  
 
 
 
 3)
 
 ぼろぼろになりながら、それでも学校へ行ったことの理由なんて、ほとんどが意地でしかなかった。
 負けるのは相手がどんなものでも悔しい。特に血の臭いときたら嫌がらせである。性格の悪いイジメに屈するつもりはなく、新一は気丈に前を見据えていた。
 所詮、記憶の中にしかいない祖先など敵ではない。確かにものも食えず眠ることもできないとなれば苦しいが、幸か不幸か今の自分は人間ではないのだ。
 最低でも死ぬことはない、新一は思う。
 このあざにしたって──
 結局は、ヴァンパイアが世に溢れていなければ何の効果もない呪いだった。
 今のところ、世界中でたった一人のヴァンパイアが新一だ。自分自身が進んで仲間を増やさぬ限り、共食いまがいの吸血行為を受ける恐れもない。
 ざまぁみろ。
 だから呪縛でふらふらになっても、新一は笑っている。
 ただし、その日はまた一段と血臭が凄まじかった。いつものごとく、蘭が傍に寄ってきた時は倒れるかと思った。蘭一人でそうなのだから、教室に入ればもっとつらい。一限目は何とかなったが、それ以上は何がどうなろうと耐えられない。
 早々に保健室へと逃げ込むと、毛布を被って不貞寝する。相も変わらず睡魔には嫌われたままだったが、薬品の匂いでいくらか嗅覚が鈍くなるのは悪くなかった。
 
 いつも人の気配の絶えない保健室が、妙に静かなことに気が付いたのは午後になってからだ。
 まさか休んでいる人間が新一一人なわけはない。何人かは昼食を挟んだので外に出ていったはずだが、それら全てが回復して戻ってこないなどと嘘のような話である。しかも、あれほど自分を悩ませていた血の臭いもしないのだ。情報を総合すると、校医まで外へ出払ってしまったことになりはしないか。
 とうとう不自然さが無視できなくなり、毛布を抜け出す。
 そして新一は奇跡のような事実を知った。
「快斗……?」
 どこからどう見ても、その背中は黒羽快斗のものなのだ。
 実際、彼はこちらを振り返って微笑んでも見せた。
「うえ、顔色わっるー。寝てろ寝てろ、しばらく誰もこねえよ」
 じゃあどうしてお前がいるのだ。
 新一は慌てて毛布を引き上げる。今彼を見ていたら真剣に泣いてしまいそうだった。
「何で……?」
 ようやく出した声が震えた。
 快斗は笑ったようだった。
「理由なんかどうだっていいじゃん。予定よりちょっと早く着いたから、お前の幼馴染みにお前呼び出してもらおうと思って声かけたんだよ、そしたら具合悪くしてるって言うし」
 それでどうして人払いまでする必要があるのだろう。
 確かにそうしてもらえて新一は楽になったが、一体どうやって校医までもを言いくるめたのだ。
「でも来て良かった。そんなんで早退もせずに、きっと放課後になったら全然いつもどおりに俺に会おうと思っただろ? そういうの何て言うか知ってるか、無茶っつーの、無茶。俺はなぁ、自慢じゃねえけど、自分が無茶すんのは許せても、他人がするのは許せねえんだ」
「……すげぇ勝手」
「何とでも言え。とにかくお前は寝ろ。寝て、ちょっと楽になったらメシでも食いに行こう」
「やだ」
 新一は目だけを毛布から出して答えた。
 ちょうど彼が振り返る瞬間で、視線がかすった途端ひどく心が震えるのを感じた。
「……人のいるとこにはいかない」
 新一の言い方に、快斗は驚いたふうに瞠目する。
「人けのないとこがいいの?」
「うん」
「……ふうん」
 答えまで少しの間があった。新一が目で理由を問うと、彼はにっと明るい笑顔を見せる。
「ずいぶん色っぽい話になってきたと思ってさ」
 違うよ、バカ。新一も少しだけ笑った。
 快斗といると、すごく楽だ。
 血の臭いもしないし、変な気疲れもしない。それに何だか眠れる気がしてきた。新一が小さくあくびすると、快斗は何もかも心得たように薄く微笑む。
「……眠れよ。俺もやることあるから、午後一杯はここにいる。人は入れないよ」
「それじゃあ保健室の意味ないじゃん」
「いーの、お前にはあるだろ」
 どこまでわかって言っているのやら。けれど嬉しくて、新一も反論はしなかった。
 
 本当に何日ぶりかの睡眠を心置きなく取り、再び目覚めた頃には、辺りはすっかり夕方である。
 人を入れないと言った言葉どおり、目が覚めても保健室で休憩していたのは新一だけだ。校医も変わらず姿を消している。
 寝る前と比べ、ずいぶん軽くなった身体を起こし、新一は改めて彼を見る。
 整った顔で線が細いわりに優男の印象がない。目には独特の強さがあって、笑うと信じられないくらいやさしい顔にもなった。決して女にもてない男ではないだろう。それなのに、彼はいつかの夜、新一を好きだと言ったのだ。キスもした。他のことで取り込んでいたから、ゆっくり考える時間がなかったけれど、良く良く思い出せばかなりすごいことを言われている。
 自分を信じろと言う彼。
 信じるだけなら、多分新一はとっくの昔に快斗を信じている。彼の言葉に追いついていないのは、もっと別の部分だ。
 果たして彼は、新一がヴァンパイアと知ってもなお、同じ声で同じ表情で、その言葉をいってくれるだろうか。
「どうした?」
 突然顔を覗かれて大慌てする。いつもと変わらぬ動作で立ったつもりだが、どこかがぎくしゃくしているようで自分自身落ち着かない。
「……これからどうするつもりだ?」
「いいとこ知ってるから、そこ行くつもり」
「変なとこじゃないだろうな?」
「んーん、ステキなところ」
「アヤシイ」
 ふざけた会話を何でもないふりで続ける。
 一人ではない今だけは、どんな不安にも怯えたくはなかった。
 
 快斗が導くまま進んで行き着いた場所は、閑静な住宅街の一角である。
 庭付きの一戸建て。いくらかくたびれた石造りの外観は、まるで西洋風の古城だった。
「ここ、お前の家?」
 新一がそう問うと快斗は笑っていた。
「ジイちゃんちだよ」
 必要最小限で答える顔から、多くを説明したくないのは伺える。新一は黙って彼の後を歩き、庭の奥にあるガラス張りの温室へと案内された。
 良くある温室のように、隅から隅まで緑というわけじゃない。片隅にはこじんまりとしたテーブルセットがあって、明らかに接待用に作られた空間があるのだ。草花の配置も、人の目を考えて整理されているのが良くわかる。
 椅子に腰掛けて眺めると、一番見栄えのする場所に、それはそれは美しい一本の馬酔木があった。
 白色でつぼ状の小さな花がこぼれんばかりの房を作っている。馬酔木は、外見はかわいらしい風情だが、実際は葉に毒を持つ難しい木だ。
「ちょっと待ってろ、何か持ってくる」
 快斗はそう言い残して温室を出ていった。
 新一は彼のいない数分を、馬酔木を見て過ごす。何となく警告されている気がした。葉に毒を持つ木、それは快斗を暗示している気がしてならなかった。
 ……信じてはいけない男なのかもしれない。
 新一は、ただ彼が怪盗KIDであるという一面しか知らない。確かに重い秘密だったが、快斗の素振りを見ていると、快斗自身にとって重要ではないことのように思えるのだ。
 けれど──
 快斗がトレーを持って帰ってくる。紅茶セット一式とサンドイッチが乗ったそれを見て、新一は知らず微笑んだ。タイミングのいい男である。今の新一の状況を知っているわけではないだろうに、少ない選択の幅から、食べられるものを持ってくるのだから。
「お前、ちょっと見ないうちに痩せた気がすんだよな。遠慮せずどんどん食え。もっと食えるんなら、またもらってくるからさ」
「これで充分。さんきゅ」
「そっか? ま、今日は具合悪そうだし、外食は今度な。次はもっと美味いもん食いにいこう」
 そう言って笑う。この男を嫌いになれる人間がいたら、会ってみたいと真剣に思う。
 新一は彼がカップに注いだ紅茶をゆっくりと飲んだ。何かをおいしいと思ったのも、本当に久しぶりのことだった。
 しかし幸福は長く続かない。平穏の幕切れは唐突に始まった。
 ふとまぶたを伏せた快斗が、次の瞬間、初めて見せる厳しさをたたえた瞳で、こちらを射抜いたのが合図だった。
「どうした……?」
 どくりと跳ねた己の心音を、新一は他人事のように聞いている。
 快斗はまだ何も言わない。先に視線を逸らしたのは結局新一の方だ。追いかけてくる快斗の溜め息。彼の一挙一動に、自分でもおかしいと思うほどびくついた。
「……何だよ?」
 声はみじめにかすれる。
 快斗が苦く笑った。
「なぁ、まだ強がる気?」
「……何の話だ」
「お前がわからないはずねえだろ」
「……知らねえよ」
「さっさと話せよ」
「何を」
「お前が一番話したいことを──最初に俺を呼んだ理由を」
 どうして知らぬふりをしてくれないのだろう。それを話すのが、本当は一番つらいのだ。
「……新一。俺が落ち着いてるうちに話せ」
 快斗はなおも言った。新一はそれでも話せなかった。
 軽く言ってしまえば良かったのかもしれない。世界征服を手伝え、とでも。そのために不老不死にならなければならず、不老不死にはヴァンパイアという名がつく、とでも。冗談みたいに勧誘すれば良かったのかもしれない。快斗はおもしろがって協力しそうな雰囲気もあった。しかし新一にはできなかった。
 ヴァンパイアに変な思い入れがあるわけでもない。人間を守りたいなんて、偽善的な理由もない。
 ただ、せめて人並みに。
 人として生きてきた誰かを人として生きられなくするような、こんな強い呪いに、己を好きだと言った人間を晒したくなかった。
 そもそも新一自身が人としての生活ができなくなってきている。
 今はまだいい、まだごまかせる範囲だ。だが未来はわからない。血の臭いはもっと日常を狂わせるのかもしれないし、睡眠不足や拒食が進めば身体的に問題が出てきもするだろう。しかも、外見的に骨と皮だけになっても死ぬことはない。
 おおかた気が触れる方が早いに決まっている。狂った新一は、人であり続けることができるのか。それともヴァンパイアの本能に負け、醜いケモノと化すのか。
 こんなものに、一緒に苦しんでくれと言う方が間違っている。
「言えよ、力になる。俺はお前を助けられるんだろ?」
 駄目、だ。
 新一はついにじっとしていられず席を立った。けれどすかさず腕を掴まれ、ぐいと引き寄せられ、正面から彼を見ることを余儀なくされる。
 一瞬細まった彼の目が、ひどく冷淡に燃えた。
 新一が思わず息をのむのと、彼の指が静かに首筋を辿るのとは同時だった。
「……実はさぁ、お前の首のあざ」
 言いながら、無駄のない手つきで新一の襟元をくつろげる。バンドエイドで隠された忌まわしい呪いを、彼は丁寧に光に晒すのだ。
「どこかで見たことがある気がして、ずっと調べてた」
「何か、わかったか……?」
 新一は震える声でたずねた。問いに笑う男の顔は、まるで見知らぬものだ。
「いや。なーんも」
 それでもその答えが返ってきて、新一は喜んだ。束の間力の抜けた肩を、きっと快斗もわかっていただろう。
 ずるい男なのだ。こちらが一番弱くなる瞬間を待てるくらい。
「──だって俺、古代文字なんて読めねえもん」
「古代、文字……?」
「どこの文書なんだろうな、あれ。いわゆる未解析の文明ってやつ? けど、俺に読めない文書でも、そういうこと専門に研究してるやつにとっては、全く読めないわけじゃない」
 まさかと思う。新一は笑う男の顔を茫然と見上げた。
「──なぁ、どうしてお前の首にヴァンパイアのしるしがついてんの?」
 言葉を失った。
 常の状態なら、新一も見破られぬ嘘くらいつけただろう。しかし今の精神状態は最悪だった。快斗がそうさせた。今ここにいるのは、最も脆い部分をさらけ出された新一に違いなかった。
「お前は俺に協力してほしくなかったって言った。勝負に負けたかったって──そう言ってたよな? あの時、言ってた頼みたかったことって、俺の──」
「快斗!」
 叫んだ。それ以上聞きたくはなかった。新一は滅茶苦茶に暴れ、彼の手を振り切った。
「二度と俺の前に顔を見せるな」
 蒼白になりつつも強く言い切る。
 だが、その言葉を聞いているのかいないのか、男は全く不遜な態度でこちらへ近づいてくるのだ。
「何で? 俺はお前が好きだって言っただろ? 会えないと死にそうになるんだ、そんなこと言われても聞けねえな」
「わからないのか!」
 言葉は、ほとんど泣き声に近かったはずだ。逃げようとした身体は逆に引き寄せられ、新一は手だけを彼に取られた形で、なすすべもなく地面に座り込む。
「……俺はお前を殺すよ?」
 最後の告白だった。
「なぁ……KIDの血なんて、どんな味するんだろうな?」
 心は救いようもないほど冷えていた。掴まれた手だけが、あまりの強さに感覚を失っている。
 しばらくすると、彼の手もゆっくりと離れ、新一の手は本人と同じく地面に落ちた。
 ヴァンパイアの恋なんてこんなものだった。たった数日間の、今思えば嘘のように甘い感情に、ひび割れた胸が痛んだ。すぐにでも泣いてしまえそうなのに、涙は不思議と出てこない。悲しすぎると感覚が麻痺するというのは本当らしい。新一は泣くかわりに少しだけ笑って、きっとひどく情けない顔をしているだろう己の顔を、両手で覆った。
 
「アホだな」
 
 そんな瞬間だった。快斗の、心底呆れ果てた、けれどやさしい声が耳を打った。
「お前、ちっとも人の話聞いてねえな。だから俺は協力するって、最初から言ってんだよ」
 恐る恐る顔を上げる。どうしようもなく自信に満ちた瞳をした男が、したたかに微笑んでいた。
「俺はウソつかない……いい加減信じろ」
 声は、凍った心の奥底を真っ直ぐに貫いた。


 Close sesame
 
「だからさぁ、何でそこでお前が我慢するわけ? 俺がいいって言ってんだから、吸えばいいじゃんかよ」
「お前こそ人の話を聞け! いいか、ヴァンパイアになるってのは、本当に死なないんだぞ。姿かたちだって、どこまで老いるかわかったもんじゃない。俺なんかは、きっと一生今のままの姿でいる」
「すげぇじゃん。良かったな、美人に生まれついてて」
「──アホか!」
 新一はティッシュで鼻をかみながら怒鳴りつけた。目の前にいるのは、自ら志願してヴァンパイアになろうと言う不届き者だ。その不届き者のおかげで、こうして未だ止まらぬ涙を流しつづけていたのだが、新一は色気もへったくれもなく怒っていた。
「世界征服だって、バカみたいな響きだけど、そんなに簡単にできるものじゃないだろ!」
「んー、それね。それそれ、すげぇ楽しそうで笑えるよな。俺は常々自分が悪の帝王になるの夢見てた口だから、お前みたいに悩むこともなく、がんがん仲間のヴァンパイア増やしちゃうと思うな」
「親とかトモダチにでも噛み付けるって?」
「噛み付くよ? それでお前が助かるんならいくらでも」
 平然と言う快斗に力が抜ける。
 あの温室から新一の自宅へと場所を移した二人は、一夜を掛けて吸うの吸わないのの、ヴァンパイア論争を繰り広げている。
「大体さぁ、お前は呪い呪いって言うけど、所詮はただ早く誰かに噛み付けって、尻叩かれてるだけじゃねえか。それって多分俺に噛みつきゃ消えちゃうんだろ? もちろん、ヴァンパイアになった俺がまた誰にも噛み付かなきゃ、そういう呪縛に掛かっちまうかもしんねえけど、まあ俺の場合はそういうこともない」
「誰にでも噛み付けるってか」
「当然。俺はお前が苦しむのも自分が苦しむのもヤだ」
「簡単でいいよな、お前は!」
「簡単なんだよ、最初から。お前が一人でややこしくしてたんだろ」
 ったく、何だよ、この腕の細さは!
 快斗は本当に肉の落ちてしまっている新一の腕をとり、心底腹立たしげにわめく。
「いいからお前はさっさと俺の血を吸え。自分で吸うのが嫌ならどこでも切ってやるから、希望の場所を教えろ」
「ばーか、ただ吸うだけでヴァンパイアになるわきゃねえだろ。俺の血とお前の血が混ざんなきゃ何の意味もねえの!」
 二人ともかなり大声で言い争っていたので、隣の阿笠宅なんかでは一体何の喧嘩なのだと不信がってもいたかもしれない。
 だが、生憎とどちらもお互いのことで頭が一杯になっており、周囲を顧みる余裕は少しもなかったのだ。
 もう怒った!、とうとう叫んだ快斗が実力行使に出た。
「吸えったら吸え! 首か、手か、足か、腹か! どこでもいい、早く決めろ!」
「嫌だっつってるだろ! お前は知らないだろうから言うけど、血なんかすげえまずいんだぞ!」
「まずくても薬だと思って飲め!」
「だから飲むだけじゃ駄目なんだってば! お前の血と俺の血と混ぜるんだよ、俺もどっか肌切んなきゃいけねえってことだろ!」
「──じゃあ切れよ、俺はどこでもいい」
「俺はやだ。痛いのも好きじゃない」
 沈黙が、落ちた。
 快斗の目が完全に据わりきった。新一は知らず後ずさりして彼との距離を保とうとした。
 が、それも一歩遅かった。
「こぉの、ワガママ小僧!」
 一声叫んで襲い掛かった相手は、今度こそ本当に容赦がなかった。新一がまた逃げようとするから、あちこち引っ張られ、どつかれ大変なことになる。
 それでも最後に落ち着いた構図が、外から見ればおそらく色っぽいものになっていたのは、快斗の天性の手腕だったのかもしれない。
 羽織ったカーデガンも肩から抜けかけ、襟はくつろげられ、足を足で、胸を胸で抑えられた。にらみ合うような眼差しの強さだけが、未だ新一の強情を物語っていたのだが、おそらくその程度の抵抗など、彼にとっては取るに足らないものだったに違いない。
 証拠に、真正面から目が合った途端、快斗は嬉しくてたまらないとでも言いそうな笑顔を見せた。
「くそ、知らねえぞ……」
 そして新一の言葉は、お互いの唇の中に消える。
 あらかじめ己の口内を傷つけていたらしく、口付けはかすかに血の味がした。何度も何度も繰り返し与えられ、ずいぶんと感覚があやしくなってきた頃、ちくりとした痛みがあり、彼がこちらの唇に噛み付いたことを知る。
 混ざり合う血は、やっぱり赤かったのだろうか。
 ──それを確かめる術はなかったけれど。
 しばらくそうしていたら、快斗の身体がぐったりと倒れ掛かってくる。
 最後に一度だけ軽く唇を重ね合わせ、新一は小さく笑って彼を見上げた。
「……仕方ない。看病してやるよ」
 血の契約を済ませてすぐは高熱が出るのだ。彼はそれを言う暇さえ待ってくれなかったので、自業自得である。
「あー……くそ、だりぃ」
「嫌になったか?」
 問えば、それでも明るい笑顔が返ってきた。
 
 後になって、本当に高熱で意識すら危うくなっている状況の中、快斗がうわごとのように言っていたことがある。
「俺は……必要じゃないものはこの世に生まれて来ないと思ってる。だから、ヴァンパイアっていう種族が今復活したってことには、それ相応の要因があるんだろう……以前にいろんな生き物が地球の環境に適応できずに滅んでいったように……今度は人間が滅ぶ番なのかもしれない……。俺は、その時のために保険かけたようなもんだ……だから……これからどんなことになっても、お前が気にする必要はない」
 どこまでも勝手な男だった。筋の通っているような通っていないような言い分を、さも真実のように話して聞かせる手際は世界一である。
 新一は少しだけ泣き笑いになって、そんな彼の額に冷たいタオルを置いてやった。