別の生き物のようだと、ある友人は新一に言った。
「だってさぁ、お前普通じゃねーもん。俺たちがいくら見ても気づかないようなもんから、すげぇ情報を一瞬で手に入れちまうって、やっぱこえぇよ」
 確かに一理はある。けれどだからと言って、視力が圧倒的に良いとか、脳が人の三倍あるとか、そんなバケモノじみた違いがあるわけでもない。
「工藤くんって……どうしてもトクベツだよね。神様に選ばれた人っぽい」
 神様なんてどこにいるのだ。
「新一? 新一は……やっぱりかっこいいよ。ちょっとだけ」
 そんなにいいものでもないだろう? ただ人の裏側が少し多めに見えてしまうだけではないか。
 ある日、新一は、不意に周囲の己に対する評価が疎ましくなった。全く突然のことだった。それまでは何を気にすることもなく、賞賛も陰口も、そんなものだと聞き流せていたのに。
 きっかけは、彼だった。
「お前に俺が捕まえられるか?」
 あの、清冽な眼差し。見据えられた瞬間に震えが走った。
 新一と同じ孤高でも、彼は選んでそこにいた。だが新一は違う。特に誰と違う能力を持っているわけでもないのに、周囲が勝手にこちらを「トクベツ」に分類した。
 新一は望む望まぬに関らず、いつも一人だった。
 そして──一人だった。その男も。
 彼は凛と頭を上げ、真っ直ぐにこちらをねめつける。
 一人ハツラクナイカ。一人ハ彼ヲ傷ツケルコトハナイノカ。
 そう、声のない疑問を叫ぶ新一の目を、ひたと見据え、あの男──怪盗KIDは淡く笑った。
「──俺は、特別なんだよ」
 己を唯一無二と宣言した彼の、その力強さに憧れる。
 
 君に会いたい。
 
 彼との出会いを果たした夜から、新一はずっと願っていた。彼の名の出る事件に、過剰な反応をしてしまうのも、ずっと会いたいと考えていたせいだ。
 どうすれば会える?
 どうすれば。
 考えて、考えて。何だか本当に自分でもおかしくなるくらいに、彼が現れると聞いた事件に飛びついて。
 そうして会って、あの眼差しを肌で感じると安心した。
 彼は幻ではない。
 新一が最も望んだ強さで、そこに存在している人物。幻ではないのだから、きっと努力すれば新一も彼のように強く立っていられるはずだ。実は、新一にとって、一人ということはあまり居心地の良いものではなかったが、彼と同じ条件でいれるのならそれもいいと思う──彼と同じ人種でいれるのなら。
 
 登校途中のことだ。何となく歩道橋を見上げたまま動けなくなった。
 朝の光が胸を突くほど眩かった。ゆっくりと向こう側へ歩いていく制服の群に、幼なじみの姿を見つけて息を詰める。クラスメイトと笑い合っている彼女。ひどく楽しそうな顔をしていた。彼女を囲む他の皆も。どうしてそんなにも楽しげに笑うことができるのだろう。
 新一はそっと溜め息をつく。
 それから、彼女たちには気づかれないように後戻りした。学校の方向ではなく、町の方向へ。
 学校へ行く気分ではなかった。さいわい普通の家庭とは違って、自宅には、新一が不登校だったからと言って叱るような肉親もいない。
 制服のまま町をぶらつく。宛もなくそうしていても仕方なかったので、結局、近くのファーストフード店に落ち着いた。
 店内にいる客は様々な服装をしている。新一と同じように、どこかの制服を着た者もいるし、大学生らしき人物や、サラリーマン、旅支度をした老人の姿などもあった。
 朝のファーストフード店は基本的に一人客がほとんどだ。何となくほっとして、買ったばかりのコーヒーを手に適当な席につく。
 ようやく息ができた感じだ。こんなふうに逃げ出してきても、何も解決はしないというのに、今は知人に囲まれることが苦痛でならないのだ。
 一人でいたかった──一人でいたくなかった。新一は、己が一体どちらを望んでいるのかわからなくなり始めていた。ただ、いつでもひどく会いたかった。
 その声が聞こえてきた時も──
「こんな時間から制服でどこ行くの?」
 考えていたのは、彼のことだけだった。常の己だったならば、しっかり無視していたかもしれない。
 けれど、新一は、本当に彼に会いたかったから。
 振り返った。かすかな可能性すら、確かめずに放っておくことができなかった。
 そうして振り返って見つけたのは、すぐ傍の公立高校の制服を着た相手だった。呼び掛けがずいぶん軽い印象だったから、もっと軽薄そうな男を予想したのに、実際見てみるとそうでもない。
 何より、明るい瞳が穏やかだった。
 新一は口の中で、ふぅん、と呟く。どこが、というわけではないが、どこかが妙に似ている気がした。
「学校は? サボり?」
 黙っているこちらに構わず、彼はどんどん話し掛けてくる。しかも、いつの間にやらちゃっかり横の席に腰掛けてもいた。普通なら感に障ってもおかしくない態度なのに、相手があまりにも悪びれない態度でいるから毒気が抜ける。
 結局、彼の問いに答えるよりも先に、新一は苦笑してしまっていた。
 すると質問ばかりだった男もそっと笑う。
 まるで「嬉しい」と言っているような笑い方だったからどきりとした。
 「楽しい」ではなく「嬉しい」。
 どうして?
「……男に声かけて楽しいか?」
 慌てて切り返してみたけれども、彼の笑い方は変わらない。
「ヒトの趣味にケチつけないでほしーな」
「いいけど」
「そーそー。キレイなものは男も女も関係なくキレイ」
 キレイ? 新一が訝しげにねめつけても、彼はやわらかく笑っている。
 そんなふてぶてしささえ似ている気がした。抑えるつもりでいた期待も、次第にはっきりしたものに形を変えていくようだった。
「……なんか」
 つい、口を突く。
 最後まで言えずに息を詰めたけれど、新一の意思を裏切って、心臓はさっさと鼓動を早くする。
 だってこんな場所で会うなんて出来すぎではないか。それに、己から声を掛けることはあっても、彼の方から声を掛けてくることがあるとは思えなかった。いくらあの怪盗が自信家だったとしても、正体を晒す危険を冒してまで新一に接触する無鉄砲はしないはずである。彼と己は、曲がりなりにも敵なのだ。
 新一の逡巡を、目の前の男はどんなふうに見ていたのだろう。
 不意に楽しげに瞬きしたと思ったら、
「……なんか、何?」
 ずるい訊き方をする。
「続きは?」
 本当に「彼」のような目をして言うから、新一は更に何も言えなくなった。
 どうしようと思う。言えばいいのかもしれない、言っても変ではない気もする。でも。
「……何でもない」
 困ってうめいた新一に、彼はまた楽しげに目を細めるのだ。
「そ。残念」
 何だかもう、絶対──
 さすがに確信した。天に誓って間違っていないとも思った。
 それでも新一は言うに言えないまま片手で口許を覆う。それからしつこくこちらを覗き込む男の視線から逃れ、そっぽを向いて浅い息をつく。顔が熱い。
 ところが彼ときたら、
「残念だなぁ。せっかく気づいてくれたと思ったのになぁ」
 芝居がかった口調で言うから、一気に頭に血が昇った。
「お前なぁっ!」
 ついつい気安く叫んでしまった新一を、男はしてやったりの顔で眺め、
「知らん振りするからじゃん。久しぶり、元気ないね」
 まるで旧知の友人にするように手を振って見せる。彼は、やっぱり、新一がずっと探しつづけていたその人であった。
 
 それ変装か?
 上手く話せなくて押し出した問いに、どっちがいいと尋ね返してくる。新一は答えられないまま、彼の後に続いていた。
 まるで雲の上を歩いているようだった。しっかり地面の上に立っているはずなのに、どうにも歩みが一定しない。
 ファーストフード店から出て通りを渡り、二人は何となく歩道橋の上で立ち止まる。眼下には、せわしなく車の行き交う車道が見えていた。
「……いつだったかさぁ」
 ふと彼が言った。
「そこの交差点で、ぼーっと突っ立ってるお前を見たよ」
 彼がそこと言った場所は、駅前で一番混雑の激しい場所だ。あんまり人が多いので、この中の誰か一人くらいは、と、いつも新一が彼を探していた場所。
「何してんだろうって思って見てた」
「……ああ」
「俺は普段のお前のことなんか知らないし……あんまり良くわかんねーんだけど。ガラス玉みたいな目してたよ。どこ見てるかわかんねー感じの」
「うん……」
 そんな台詞はどこかで聞いた。あれはクラスメイトが言った言葉だっただろうか。台詞の続きはこうだった。
 マルデ私タチトハ別ノモノガ見エテイルミタイ。
 ところが彼の続きは違う。
「だから、こっち見ればいいのにって思った」
 新一が思わずそちらを向く。
「──そんなふうに」
 男は、やっぱり嬉しそうに笑って言った。
 胸を突かれた気がした。すぐにはどんなふうに言葉を返せばいいのかわからなくて、新一はもどかしく唇を噛む。
 と、不意に彼の手が鮮やかに閃いた。
 ぽん、と、軽い音を立ててその手の中から飛び出た花を、声もなく見つめる。その花が、一瞬後に小さく発光して姿を消したと思ったら、後には二枚の切符が残っていた。
 地下鉄の切符だ。
「……どっか遊びに行く?」
 それとも映画とかのがいい?、言いざま、またまた切符がチケットに早変わりする。
 どきどきした。
「……普通に出せばいいだろ」
 わざとひねくれて言ったけれど、彼の切り替えしは更に鮮やかなのだ。
「普通? 普通って楽しい?」
 絶句する。
「普通って言葉で安心できんのは、普通しか知らない奴だけだと思うよ。でも、お前はそうじゃないじゃん」
 俺もそうじゃない、そう言ってあっけらかんと笑う。その瞬間、まるっきり普通の少年の素振りをしていたくせに、瞳だけが、新一の良く知る「彼」のものに変わっていて──
 何だか唐突に力が抜けた。やっぱり緊張していたのだろう。新一にとって目の前の彼は、確かに「怪盗KID」ではあったけれど、見慣れた「彼」とはあまりにも雰囲気が違いすぎていたから、ずっと馴染めなかったのだ。
 やっと彼と「彼」が重なった感じだった。こんなふうに話せる日があるなんて思ってもみなかったのに、改めて彼と己の距離を測っても、そう不自然には思えない。
「俺……」
 新一は思わず呟いていた。
「ずっとお前を探してたんだ」
 彼が、さすがに驚いたように笑顔を引っ込める。新一は更に続けた。
「お前が見たって言ってた交差点でも……お前のこと探してた。それだけじゃなく、学校の中とか、スーパーの中とか、新聞の中とか、駅のホームとか……ずっとどこでも探した。絶対どっかにいるはずだからって……結局全然見つけられなかったけど」
 彼が、それまでとはうって変わって、困ったような居心地の悪そうな顔になる。
 そんな顔は初めて見た。新一は思わず笑ってしまった。
「……会いたかった」
 付け足すと、横顔が薄紅く染まっていくのだ。気づけば、さっきとはまるで立場が逆転していた。
 そして乱暴に突き出されるチケット二枚。
「俺が見たいからコッチ。付き合って」
 ぶっきらぼうに言うからまたおかしくなる。
 あの白い衣装を着けた途端、世の誰よりも不敵に微笑む彼は、実際はこんなふうに照れたり拗ねたりする男なのだろう。
 新一はずっと彼の強さに憧れていたはずで、新たに見つけたその一面に、幻滅するのが当然だったのかもしれないが──
「……クソ、質悪ぃな、お前」
 彼の呟きで納得する。
「ネツレツな告白聞いてる気分だ」
 
 何だ俺。
 ただスキだったんじゃん。
 
 その日、新一は彼の「仮の名前」とやらを聞いた。
 だが命を懸けてもいい。あれは本名だったに違いない。
「……それも素顔だろ」
「さぁね」
 言葉だけで誤魔化して、簡単には認めてやるものかと男が笑う。
 そうして、名前も顔も不確かな相手と一日中遊び回った。次の約束まで交わし、最後には電話番号まで交換する。
 明日はまた、己も──きっと彼も、繰り返す日常や、クラスメイトたちの連れてくる幾多の「普通」に埋もれてしまうのだろう。でも、今度はそれが憂鬱になる前にお互いに会いに来ることができる。
 別れ際、彼がのんびりと言っていた。
「ずっとさぁ……俺もお前と話したくって仕方なかった。敵のままじゃ勿体ねーって、ずっと思ってたんだ」
 良かったな、俺たち両思い。
 続いた言葉に、ばぁか、新一は笑った。