何だか不思議な男だとは、最初から思っていた。
陽気に笑う瞳の奥に、ちらと覗かせる決意じみた硬質な何か。
己の分析力に自信があった新一が、出会って三月を越えた今ですら、彼の次にとる行動を予測できない。黒羽快斗とは、まさしく謎が人の形を成したらこうなった、という相手であった。
だからかもしれない、夢中になる。
他人の都合に合わせることを知らなかった新一が、彼と会うためには無理にでも時間を作る。それは早朝であったり、真夜中だったり、または新一自身が探偵として動いている特別な日であったり──とにかく快斗は突然にしか現れなかったから、時間も強引にこじ空けるしかなかったわけだ。
けれど、それを特に悔しいとも思えない。
付き合えば付き合うほど、彼の謎めいた部分は広がっていく。できればもっと深く彼を知りたいと思う。
快斗に対する新一の興味は、尽きるところを知らない。
馬鹿馬鹿しいことに、彼が自分と同じ血肉でできた人間なのか疑ったりもするくらいである。
ただ、それでも近頃見えつつあることもあった。
新一の中にある探偵の部分が、いつからか快斗に犯罪の匂いを感じるようになっている。
いつまで無視していられるだろう。危うさを告げる警鐘は、日に日に強くなるばかりなのに。
でも、どうしても近くにいたかった。
「俺より学校の同じやつらの方がお前に近いんだから」
だからあんな心と裏腹な台詞さえ、すんなり口から滑り出たのだ。
クリスマスの夜だった。
ケンタッキーのクリスマス・バレルにシャンパン、ケーキ。超大作のSFムービーをBGMに、こんな夜に男二人で何やってんだかと笑い転げた。
快斗との関係を区分するのは難しい。
間違っても友人の範囲に入らないことだけは確かだ。
高校も違えば育った環境だって当たり前に違う。出会ったのもただの偶然でしかなかった。それがちょくちょく会うようになったのは、やっぱり偶然に偶然が重なった必然。時々兄弟みたいに騒いだり、親友みたいに面倒を共に解決したり、恋人みたいに軽いキスを交わす。
もちろん、お互いに対する独占欲もないわけじゃない。不意に快斗の携帯電話が鳴って、会話を中断されれば、当たり前に恨めしく思う。
そもそも、その時の電話の内容がいただけなかった。新一は席を外そうとしたのだが、こんな時に限って快斗は手を引っ張る。
結局離れるなと訴える視線に負けた。新一は、電話からもれるおもしろくもない話を、彼の隣で聞いているしかなかった。
「ふぅん……初詣、ね。いいんじゃねー? 正月なんざ暇にしてるやつらばっかだろ、女も来るって?」
大晦日にクラスで集まろうという誘いの電話だ。実はその日の予定は、既に快斗と新一の間でも出来上がっていたのだけれど、クラス単位の人間が相手の話になれば事情も多少変わってくる。
知らず溜め息をついた新一に、快斗が瞳で笑いかける。
「ああ。うん、三時から?」
つまらなくて、でも不機嫌になった自分に気づかれるのは嫌で、新一は一生懸命テレビに集中しようとした。
そんな時だった。
「うんうん。あ、いや、悪ぃ。俺、それ行けねーわ」
驚いた。
ついそちらを振り向くと、快斗は平然とジュースをすすっている。携帯電話を肩と耳の間に挟んで、相手の文句も冗談のように笑い飛ばした。
「えー? 知るかよ、そんなもん。いいじゃん、俺一人いなくったって何も変わんねーって」
単純に嬉しかった。
彼の一挙一動に浮き沈みする。ふと我に返って女のようだとは思っても、心の動きなんか自分で制御できるものじゃない。
新一にできるのは、せいぜい平静を装うことくらいだ。
ストーリーも知れぬ映画を見る。快斗の笑う声がする。何だかじっとしていられずに、冷めたビスケットに手を伸ばした。
しばらくすると、あっさり通話を切る音がする。新一が遅れてそちらを向けば、ずるそうに口許をゆるめた男前が一人。
「──俺の時間は俺のためにしか使わない」
つまんねぇもんに邪魔されてたまるかよ、そう言ってひどく強気な顔で笑うから、急に反発したくもなったのだ。元々新一の天邪鬼ぶりは、自他共に認めることではあったが、その時ばかりは勝手に滑り出た言葉を死ぬほど後悔した。
「……行ってやりゃいいじゃん」
全く勝手な言い分だった。
「へぇえ。お前との予定は?」
「時間ずらせばいいだけだろ。だってクラスで集まるんなら、一人でも欠けると絶対盛り下がる」
「知るかよ、んなもん」
「行ってこいよ」
「ヤだよ、何でお前との約束ずらしてまで」
「だって大事だろ」
「何が」
自分よりクラスメイトと一緒にとは、心にも思っていなかったくせに、どうして躍起になって説得しようとしたのだろう。
「大事なんだよ、そういうのは。俺より学校のやつらの方がお前に近いんだから」
おまけに、自分で言った言葉に傷ついていたら世話はない。
そして快斗も。
見事に虚をつかれた顔をしていた。
「お前より近いって……」
呟いて、ふと黙り込む。束の間噛まれた唇が、少しだけもどかしそうに浅い溜め息をついた。
「……いーけど。お前がそこまで言うんなら、行く」
笑わなかった快斗。
大晦日の待ち合わせは、午後一時から八時に変更になった。
馬鹿だった。絶対にあれは新一の自業自得だ。
快斗はいつも真っ直ぐに手を差し出してくれるのに、なかなか素直にその手を取ることができない。確かに新一は天邪鬼なところがあったが、根本的な原因は、意地や負けん気ばかりではなかった。
快斗は寄りかかれば寄りかかる分だけ新一を甘やかす。時には叱り付けもするけれど、決して突き放しはしない。だから怖い。
不安になる。
新一は、快斗のことを何も知らないのだ。
彼がどこに住んでいるかとか、自宅の電話番号とか。
知っているのは、彼自身の名前と、幼なじみだという少女の名と、突然不通になったりする携帯電話の番号と。要するに、当り障りのないものばかりである。
だからと言って、快斗の口から確かなことを聞きたいと望んでいるわけでもなく──
犯罪の匂いをかすかに漂わせる彼。もしかしたら、それこそ新一に気づいてほしいと、画策してのことなのかもしれなかった。
いつか急に目の前からいなくなる。
もうずっとそんな予感がしている。
* *
大晦日。サラリーマンは仕事休みに入っても、警察官に休みはない。
新一は朝早くに目暮の来訪で起こされた。こんな日にまで仕事ですかと問うと、こんな日こそ仕事なのだと返される。目暮は手抜きを嫌う男だ。刑事を天職と定めてからは、事件の捜査に明け暮れ、まだ数えられる程度しか休日を過ごしたことがないと聞く。
「いや、なに、困ったことがあってな」
わざわざ工藤家まで足を運んできたわりに、目暮の歯切れは悪かった。
「君の専門ではないとは思ったんだが、他に頼れる人間が思い出せなかったんだ」
トレードマークの山高帽で顔を隠すようにしながら、彼は言う。
「……ある泥棒を、捕まえたくてね」
話はこうだった。
二週間ほど前になるが、都内の博物館で殺人事件があった。既に犯人とおぼしき人物は検挙され、証拠物件もぼちぼち挙がっている。ただ一番肝心な、殺人の動機になったはずのそれを、盗み出した輩がいたのだ。
それも白昼堂々と、警察の保管庫から。
「王冠……、ですか」
「そうだ。確かに盗みたくなるほど、見事な宝石のついた冠だったかもしれない」
「はぁ……」
「相手が普通の泥棒なら、もっと手の打ちようもあったんだが……」
丸い肩を情なく落とし、彼はやっと敵の名前を告げた。
「怪盗KID、というんだがね」
「はい……」
「名前くらいは聞いたことがあるかね?」
「……あるようなないような……」
実を言えば、全く聞き覚えはなかった。新一の興味は、専ら物事の推理につぎ込まれていて、犯人の人物像や、その動機などは二の次になるのが常だ。目暮は懇切丁寧に怪盗KIDがどういう泥棒であるのかを教えてくれたが、所詮、警察をからかうのが得意な泥棒、くらいの感想しか持てない。
「──とにかくだ、やつは頭が切れる。専属の刑事もいるにはいるんだが、どうもあいつはKIDのことになると頭に血が昇ってなぁ……協力すると言っているのに、信用できないと突っぱねる。これは、私が担当した事件にも関らず、だ。全く……」
「はぁ……」
「あんまり腹が立ったんで、何とかやつを捕まえて王冠を取り戻してやろうと思ってね」
「はぁ……」
「君なら対抗できる手段を考えてくれるんじゃないかと思ったんだよ」
気の抜けた新一の返事を、目暮は果たして聞いているのだろうか。
呆気にとられているうちに、どんどん彼の話は進んでいく。警察はマスコミを使ってKIDに挑戦状を叩きつけたらしく、今夜がその決戦の日だということだった。
「私は外の警備にしか口が出せない。そこで、これを君に──」
見てもらいたくてな、続けて目暮が取り出したのは、何と警視庁内部の見取り図である。
ぼうっとしていた新一もさすがに焦った。こんなものは、普通本庁の人間だって簡単に目にできるものではない。
「警部、俺はただの一般市民ですよ!」
「いや、いいんだ。私は君のことは全面的に信頼している」
冷静に見えていただけで、目暮は充分熱くなっていた。めらめらと燃え上がりそうな対抗意識は、おそらくKID専属の刑事に向けられたものだろう。
「頼む、工藤くん。KIDの使いそうな逃走ルートを割り出してくれ」
そこまで意地にならなくても……、新一は出そうになった言葉を飲み込みつつ、仕方なしに見取り図へと視線を落とす。
泥棒をおびき出すために用意した宝石は、本庁最北の取り調べ室に保管されている。
こんな馬鹿馬鹿しい勝負に乗っても、KIDには全くメリットはない。もしかしたら、目暮の努力も全てが無駄に終わってしまうのではないか。新一は何とはなしに考えていた。
ああ、でもたった一人だけ──
こんな勝負を喜びそうな男を知っている。
* *
街のイルミネーションがなければ真っ暗な一夜だ。
新月。暗闇の中で新しい月が生まれる夜。
新一は、肌に突き刺さるような冷気に首を竦め、にび色の空を眺めていた。雪でも降りそうな気配だった。すれ違う人波からも、そんなふうな会話が聞こえてきていた。一年の終わりと一年の始まり。同時にやってくる今夜のその時は、清らかでやさしい純白に祝福されるに相応しい瞬間に違いない。
午後八時。
待ち合わせ場所として有名なここは、やはり混雑を極めている。
新一は快斗を待っていた。見かけによらず時間に几帳面な快斗が、今夜に限って待ち合わせの時間に間に合わない。先日、最後に交わした言葉のせいか、それともただ単にクラスメイトとの忘年会に時を忘れているのか。どちらが理由でも気が滅入ってしまいそうで、新一は深く考えることを避けていた。
ふと、肩を叩かれる。
振り返ると、見知らぬ男が立っていた。その後ろには女が二人。誰も十七、八くらいの若い服装をしている。
「何か……?」
新一が問えば、男は軽く眉をひそめた。
「……工藤、新一さん?」
すぐに応えることはしなかった。こちらの警戒した様子に気づいたのか、男が慌てて言葉を継ぐ。
「あ、俺、黒羽のクラスメイトで川本っていうんだけど。あいつちょっと事情あって、待ち合わせに遅れるから、あんたに伝言頼むって言われて、それで、俺」
すぐに緊張は解けた。新一は川本と名乗った男に軽く微笑む。
「……ありがとう。そしたら、もう少しここで待ってみるよ」
「あ、いや、そうじゃなくて」
川本は口早に続ける。
「そうじゃなくて、場所変えてほしいって話なんだ。実はさ、黒羽、今、俺らとの罰ゲームやってる最中で、リオガーデンに向かっててさ。できれば、工藤さんにそっちに行ってもらえたら、早くに会えるからって……」
リオガーデンというのは、派手な噴水の演出のお陰でデートスポットになっている公園であった。そう遠くはないので、新一は快くうなずく。
「わかった。わざわざありがとう」
ほっと息をついた川本の後ろ、二人の女がこそこそと耳打ちした。何だか気になって首をかしげると、彼女たちは悪乗りしたように笑い転げる。すかさず川本がフォローに入った。新一の方を申し訳なく仰ぎ、溜め息をつく。
「……こいつら酔ってんだ、悪い」
「なぁによぉ、川本のイイコブリッコー。あんただってさっきまで、工藤ってどんなやつだろうって言ってたじゃないのぉ」
「バッカ、お前……っ!」
「いいじゃん、この際聞いちゃおうって! ねぇねぇ工藤くん、黒羽とはどんな関係ですかぁ?」
「バカ、サエっ、安木っ!」
何を訊かれているのかわからない。戸惑って川本を見ると、彼は困りきった表情で頭を掻いた。
「ああっと……実は今日、黒羽、あんまり機嫌良くなくってさ。普段笑ってばかりのやつがふてくされてたから、女たちが騒いじまって……」
場を穏便にと必死な川本を押しのけ、女たちは新一に食ってかかる。
「訊いたら、誰かとケンカしたって言うじゃない。落ち込んでたから罰ゲームにかこつけて、たたき出してやったのよ!」
「あのねぇ、工藤くん? 今日はあたしらのトモダチが、黒羽に告白しようって朝からすごい緊張してたのよ! 人の恋路を邪魔するやつは……って良く言うじゃないの。こんな時に黒羽とケンカすんの、やめてよね!」
彼女たちの言い分など滅茶苦茶なものだ。
でも、どうしてだか新一は言い返すことができなかった。見知らぬ彼らから出る黒羽という名前そのものが、新一の勢いを削いでいる。
まるで赤の他人みたいに聞こえる。
新一の知ってる快斗は、本当に彼らの言う「黒羽」と同一人物なのだろうか?
とても嫌だった。堪らなくなって、そのまま背を向けようとしたら、慌てて叫ぶ川本の声がした。
「ごめんな! でも、あいつ何があっても誰とケンカしても、いつだって笑ってるような男だったから、みんなあんたのことに驚いたんだよ」
振り向けば、何と言っていいか迷った男の顔。
「……黒羽、全然楽しそうじゃなかった」
吐き出される息が、彼の顔を白くかすれさせる。
「今日の約束、あんたとが先だったんだろ?」
ずっと不安があった。自分が快斗を知らないことに対してではなく、知っていくことに対しての恐怖──知れば知るほど近くなる存在。快斗は遠慮なしに新一の領分に足を踏み込む。そして新一に対しても、同じようにすることを望んでいる。
いつだったか快斗と交わした言葉を、今でも良く覚えている。
探してたんだ、と、彼は珍しく照れたような素振りを見せた。
「窮屈じゃないやつ……笑ったり怒ったり泣いたり、そういうところを普通に見せられる……友達でも恋人でも、難しい区別はどうでもいいんだけど、とにかく一緒にいて楽に息できる相手」
真剣に探してたんだぜ?、笑った彼はひどく楽しげだった。
快斗は不安じゃなかったのだろうか。
新一に全てを見せ、全ての謎を解かせてしまったら、一緒にいれなくなるとは思わなかったのだろうか。
本当は、彼の自宅の住所も電話番号も、何も教えてもらわなくともかまわない。信用してくれなくてもいい。
少しでも長く彼といるためなら、新一は決して彼の領分に踏み込んだりはしない。
たとえ、彼が望んでいるのだとしても。
人混みの中を行く。
もういい時間になっているのに、今夜ばかりは人の足も途絶えない。大通りにできた車の列も大した長さだ。横断歩道を渡ってリオガーデンに向かうかたわら、新一は彼方を振り仰ぐ。
ちらちらと赤い点滅が見えた。きっと検問だろう、KID対策でそんなこともやると目暮がぼやいていた。
大晦日だというのにご苦労なことだ、新一はひとりごち、細かいタイルで敷き詰められた階段を昇った。
かわいらしい噴水が両脇に並んだ遊歩道である。高台にあるためか、それとも水気のせいなのか、空気が一段と冷たい気がする。思ったよりカップルも少なく、空のベンチがあちこちで目についた。
快斗はいない。まだ罰ゲームの最中らしい。中央の一番大きな噴水の縁に腰掛け、新一は浅い溜め息をもらす。
サイレンが聞こえる。
目暮たちは派手にやっている。ばらばらと雷のような音を立て、頭上をヘリコプターが旋回した。現場はわりに近くのようだった。パトカーが唸りを上げて走り去っていく。
と、奥の茂みが揺れた。
白い何かが低木の陰でうごめいている。
新一、そう呼ぶ声が聞こえる。慌てて立ち上がった。声は快斗のものだった。
「快斗……? 何してんだよ、そんなところで……?」
気配が違う気がしたのはどうしてだったのか。傍まで近づいても、だから低木を掻き分けて中に入ることができなかった。
「快斗……?」
足は、勝手に竦んでいた。
こんな時がいつかやって来ることを、知らなかったわけではなかったのに。
瞬間、ごうと生暖かい風が吹いた。
低木が激しくしなる。噴水の水が不自然に跳ねる。新一の頭上には、警察のヘリが迫っていた。低いサイレンがけたたましく鳴り響く。車の急ブレーキ音がした。そして大勢の人間の靴音。タイルを蹴るかたい音。
ベンチに腰掛けていたカップルたちが、おののいたように立ち上がった。
ジュラルミンを持った警官が一気に駆けつけてくる。先頭を切るのは目暮。トレードマークの山高帽を飛ばないように片手で押さえ、彼は真っ直ぐにこちらへ向かってきた。
「君は……工藤くんじゃないか!」
まるで思わぬ場所でたった一人の見方に出会ったみたいな声だった。息を切らせた目暮は、それでもひどく嬉しそうに笑って言った。
「いいところで会った。君の協力には感謝してもし足りない。とうとうやつを追い詰めた。さぁ、素晴らしい結末を見ていてくれたまえ」
やつ、とは、誰だっただろう。
すぐには頭が働かない。新一は警官の一人に肩を押され、脇へと連れ出される。
白い影は相変わらず低木の中にある。あれは「彼」ではなかったのか?
「──怪盗KID!」
目暮の声が朗々と響き渡った。
促されるまま、影が動く。
そうして、白い白い──まるで神の御遣いのような清廉な出で立ちで、彼は静かに進み出た。
目深にかぶったシルクハットとモノクルで顔を隠していてもわかる。自信に満ちた微笑と、決意を秘めた強い眼差し。
知らず、新一は息を詰めている。
謎だと思っていた彼の全てが、今そこに存在していた。
「捜査一課の目暮警部とお見受けしますが──」
彼は告げる。落ち着き払ったその態度に、目暮以下多くの警官が調子を狂わされた。
「今晩はお付き合いありがとうございました。あなたのおかげで、ほしかったものが手に入りそうです」
「何を今更──観念してもらうぞ、大泥棒くん。王冠はどこだ?」
「王冠? それは私が今晩、警視庁の保管庫に返してきたもののことですか?」
目暮は目に見えて動揺した。
「か、返した?」
「ええ。帰ったらお探しになってください。きっと見つかると思います」
どこからかまた別のパトカー群が到着する。階段を駆け昇ってくる足音に、KIDがゆるく笑った。
「中森警部もいらっしゃったようですね……そろそろお暇します」
「な、何を……! そう簡単に逃げられるわけがない!」
「でも、もうここには何の目的もない」
KIDが動く。白いマントが鮮やかにはためいた。
「一緒に来てくれるんだろう?」
一瞬後、唐突に、目の前へと差し出されたその手を、新一はどうすれば良かったのだろう。
目暮の慌てた声が聞こえていた。それから、KIDが中森と呼んだ男の声も、新一の耳には届いていた。けれども何もかもが目の前のその人物には敵わなかった。己の中にあるはずの倫理や道徳も、すっかり力を失っていた。
気づいた時には彼の腕の中にいる。
束の間、自分の体重がゼロになったように浮き上がり、次には切りつけるような空気が無理やり身体を押し上げた。
見れば、地上はあっと言う間に眼下だ。
「……もう逃げられないからな」
新一を抱えたまま、巧みにハンググライダーを操る彼が低く呟く。
「逃げたくても逃がしてやれねー……」
目暮たちと対峙していた時とは全く違った、余裕のない声だった。
新一は小さく笑った。結局彼は、どんな姿をしていても快斗なのだ。
「……一緒にいられなくなるとかって、思わなかったのか?」
「思ったさ。だから一番卑怯な手使ったんじゃねーか」
「知能犯かよ、サイテー」
「いいんだ、サイテーでも。お前さえそこにいるんなら」
彼が少しだけつらそうに目を眇める。
「──お前が一番、誰より近くにいてくれるんなら、他はいらない」
そう言いきってしまう快斗を見上げる。望めば何でも手に入れられそうな男が、子供のように必死な目をして眼前を睨みつけていた。
いつか、と、新一は思う。
社会の中で生きていくための正しさよりも、犯罪を咎める秩序よりも、快斗を選んだことを後悔する日がきっと来る。
けれど何度この夜をやり直ししたって、新一は絶対に快斗を選ぶだろう。
そうして月の生まれる夜に、彼と行く。