純情ラビットパンチ

「転校するんだ」
 いつも隣り合わせで歩く道で、突然聞いた、一週間後の未来の話。
 ロクはその時、何も言葉を返すことができなかった。ただ驚いて、無理に平気でいようと努力している幼馴染を見返した。
 彼はロクよりも10センチ背が低い。だから実際に見えたのは、小さく渦巻いたつむじと、少し赤くなった鼻の頭だけだったのだけれど、その泣き出しそうな表情がありありと目に映るようだった。上等な日本人形のように慎ましく整ったイチヤの顔は、きっとこの瞬間弱くゆがんでいるのだ。思い描けば、腹の奥底から苦いものが込み上がってくるようでもあった。
 いっちゃん。呼びなれた名前が、喉に絡んでなかなか出てこない。そうしてロクが黙っている間に、何人もの学友たちに追い抜かれ、顔見知りには肩まで叩かれ、わけがわからないうちに予鈴の鳴る音まで聞こえた。
「……遅刻しちゃうよ」
 ふと、イチヤは言って、ロクの左手を取り、下駄箱までの短い距離を歩き始める。
「また放課後にね」
 結局ロクは一言も返せぬまま己の教室に入った。
 イチヤとは小学6年生の時まで6年連続一緒のクラスだった。しかし中学に入った途端離れてしまっていた。クラブも――それから成績の順位もずいぶん違う。加えて言えば、新しくできた友人の種類までもが違っているようだった。ロクが体育会系なら、イチヤは紛れもない文科系。おかげで、二人が幼馴染であることを知らない友人なんかは、ロクとイチヤが並んでいるのを見ると、あからさまに変な顔をしたりもした。
 それでもイチヤこそがロクにとっての一番の親友だ。何かあって話したいことがあれば、とにかく最初にイチヤを探す。イチヤにとっても、ロクは同じような存在だったはずだ。証拠に、お互いの家まで距離がないわけでもないのに、クラスが変わった今ですら、毎日一緒に登下校している。
 そんな彼が――一週間後にいなくなる、と、言うのだ。
 生まれてこのかた十四年。この日、ロクは、生涯初めて、目の前が真っ暗になる衝撃を経験した。

  その日の放課後のことである。
 休み時間になるたび、イチヤのいる3組の教室まで駆け込んでいたロクは、終業のホームルームが終わるや否や、やっぱり3組を強襲した。イチヤはいつものごとく、窓辺の一番日当たりの良い彼の席で、見るともなしに分厚い本を広げている。
「いっちゃん……っ」
 ロクは何とか彼の名前を呼んだが、その後はやっぱり続けられなかった。一日中こうなのだ。休み時間のたびに彼を捕まえ、何度も呼びかけてみるのに、それ以上の言葉が出てこない。昨日まではイチヤが話す間もないくらいに動いていたはずの口が、今日はちっとも音を発せないままである。
 心底困惑しているロクを見て、イチヤは小さく笑う。
「……帰ろっか、ロク」
 今日のイチヤは、ロクがどんなに口ごもっていても言葉を急かさなかったし、また、怒ったり悲しんだりもしなかった。その代わり、びっくりするくらい静かに笑ってロクの沈黙に付き合ってくれた。まるで言い出せない全ての言葉をわかっているようだった。
 彼があんまり儚く笑うから、ロクは更に何も言えなくなる。
 イチヤはいつからこんなに綺麗だっただろう。ずっと小さな頃から少しだけ大人びた様子で、他の友人たちに比べて物静かなところがあったのは確かだ。そのせいで一時期いじめられるようなこともあったから、ロクは一生懸命彼を守ったものだ。おかげで今でも自分は腕っ節ばかりが強い。そう言えばこの前、上級生に生意気だと呼び出されたが、あっさり返り討ちにしてしまったので、クラスの担任からは大目玉を食らった。
 強くなったのは、全部イチヤのためだった。
「いっちゃん……」
「行こ」
 促されて、とぼとぼと歩き始める。
 放課後の、うち騒ぐ生徒でにぎやかな廊下では、ロクは有名人だ。何度も声をかけられたけれど、今日は満足に返事ができない。そうこうする間に下駄箱に辿り着き、お互いクラスが別だから、当然別々のコーナーに向かうことになる。
 たったその数秒を、これほどもどかしく思ったことはなかった。ロクは乱暴にシューズを突っ込み、地に投げ出した靴を履き終わらぬうちにイチヤのいるコーナーへ走った。イチヤはまだシューズを手に下駄箱の蓋を開けている真っ最中で、つま先に靴を引っ掛けただけの状態で駆けつけたロクを見ると、やさしく息をつく。
「まだ……大丈夫だよ。いなくなるのは一週間後」
 彼の声で事実を聞くのはつらい。ロクは黙ったまま、その場所で靴を履き直す。
「……な、河原、寄って帰ろっか」
 イチヤは思い出したように言った。
「中学入ってからはあんまり一緒に行かなかったもんね」
「……ん」
「俺、あそこ行くの久しぶり。ロクは?」
 問われて、突っかかりそうになる声を何とか押し出す。
「……俺は……この前行ったばっかり、で。……あそこ広いし、サッカーできるし」
「そっか」
 特に意味のある会話ではない。ただ今日だけはどうしても苦しい気分になるのを止められない。
 行かなければ良かった、と、ロクは、靴を履くために身を屈めたイチヤのつむじを見ながら思う。件の河原は、二人が昔から良く一緒に転げまわって遊んだ場所だった。秘密基地なんて約束はしていなかったけれど、それでもイチヤ以外の誰かと行くのはよせば良かった。
「――ごめん」
 唐突に謝ったこちらを、一瞬後驚いたように振り仰いだ彼は、また笑った。
「なに? ロク、俺に悪いことやったの?」
「うん。……違うかも……でも、うん」
「意味わかんないって、それ」
「うん」
「わかんないって言ってんのに、説明はナシ?」
「ナシ。俺、いっちゃんに怒られたら泣くし」
「泣く? ロクがー?」
「泣く。あと、無視されたらさみしくって死ぬかも」
「ウサギみたいなこと言ってるよ、この人」
「ウサギってそーか?」
「らしいけどね。詳しくは知らないよ?」
「ふぅん。じゃ、俺ウサギ」
「ウサギって顔じゃないよ、ロク」
「それは、俺がいっちゃん限定ウサギだから。普段はもっとかっこいいヤツ」
「ふぅん。イノシシとか?」
「かっこよくない……」
 笑うイチヤ。
 ――どうかそんなにキレイに笑わないで。
 突然訪れる涙の気配を、ロクは何度もやり過ごしながら、一緒に笑っている振りをする。

 その河原は、ロクの家から五分も歩かぬ距離にある。
 彼方には、数十メートルもある立派な橋が架かるほど幅広の川だ。整備も整っていて、道路から一段下った河川敷には、遊歩道があったり公園があったり、またミニサッカー場や、打ちっぱなしのゴルフ場があったりもする。もちろん人通りも多かった。特にミニサッカー場にはロクの顔なじみが多い。ただし、今日はどこかの大学生がフットサルの試合をやっているらしく、前もって貼り紙が出されていたのを覚えている。
 日ごろ、一緒にサッカーをしている友人たちが、その試合を見に行く計画を立てていた。ロクも誘われていたが、結局すっぽかしてしまったことになる。実際、この場所に来るまで、そんな約束はすっかり忘れていたのだ。イチヤとその場を歩いている途中で見知った顔を見つけたので、慌ててそこらのベンチ脇にしゃがみこんだ。
 ついでにイチヤの手を取って、一緒にベンチの背に回る。
「……どうかした?」
 不思議そうに問われるのを、人差し指を口の前に立ててさえぎった。
 間もなく、同じ制服姿の一群がベンチ脇を通り過ぎて行った。  座り込んだまま、こっそりそちらを振り返っていたイチヤが、何とも言えない顔でロクを見た。
「……もしかして、先に約束があった?」
「…………」
「……いーの、行かなくて。今だったら間に合うけど」
 ロクは答えなかった。黙っている間に、背後のベンチには、傍の広場でゲートボールの試合中の、老人チームが腰掛ける気配があった。
 聞こえてくるのは、噛み合っているのか噛み合っていないのかさえわからない、しゃがれた声の楽しげな会話。
「……ほんとにいなくなんの?」
 不意に、自分でも知らない硬さの声がこぼれた。今度はイチヤが黙り込む番だった。
 困らせているな、と思う。きっと朝の時だって昼間の休み時間の時だって、イチヤは無理に笑ってくれていた。彼にだって突然の転校が嫌でないわけがない。ロクのことを置いておくにしても、溶け込んでいた場所から抜けて、全く知らない場所に飛び込まなければならないのだ。不安だと思う。それにさみしいと思う。
 それでも転校は決定事項だろう。大人の都合に子供の都合は勝てない。ロクにもそれくらいはわかっていた。
 わかっていたけれど。
「……ヤだな」
 ぽつんと呟く声が聞こえた。ロクははっとして隣を見た。
 イチヤの黒々とした瞳が大きく揺らめいていた。その眦から、透明な、ガラスのかけらのような涙が――
「いっちゃん」
 思わず手を受け皿にしていた。涙は、寸分違わず、ロクの手のひらの中央に落ちる。同時に、胸の中にも塩辛い液体が溜まっていく感じがした。じっと堪えていると自分までもが泣いてしまいそうだ。
「……いっちゃん。立てる?」
 彼の荷物と、自分の荷物を抱え、ロクは真っ直ぐに立ち上がる。差し出した手に、涙を堪えたイチヤが掴まるのを待ち、掴まったあとは一生懸命、彼方に架かった橋の下を目指した。
 空が夕暮れに近づき始めている。
 涙の膜のかかった目で見る景色は、どこもかしこもが光の粒子で溢れるようで、せつなかった。

 ベンチひとつない高架下には、思った通り人もいなかった。
 半分息を切らせながら橋足のひとつに辿り着き、ロクはそこに己の荷物の中身をぶちまける。ノート類が砂にまみれるのもかまってはいられなかった。そうするこちらを、まだ涙の乾ききらないイチヤがぼんやり見ている。
 今日授業のあった教科は、国語と社会と英語と数学、それから音楽だ。教科書の類はほとんど教室に置きっぱなしなので、カバンの中には宿題の出た数学と英語の教科に関するものしか入ってはいない。あとは草臥れたペンケースと、端の割れた下敷きと。
「……いっちゃん、今日、英語と数学あった?」
 ロクが言うと、イチヤもその場に腰を下ろし、荷物の中を探り始める。間もなく彼の手で差し出された二冊の教科書は、落書きの跡や消しゴムの跡が残るロクのものと比べると、驚くほどキレイだ。さすがにこの違いようを見れば躊躇しないでもなかったが、ロクは心を決めて言うのだ。
「交換しよ」
「…………」
「交換できそうなもの全部。教科書とか、シャーペンとか、辞書とか、ハチマキとか、いろいろ。俺のもの全部、いっちゃんのものにしたらいい。だから、いっちゃんの、俺にくれ」
 イチヤはしばらく何も言わずに二冊の教科書に視線を落としていた。ロクも己のものを見る。しかし見ているうちに不安になった。ロクの教科書は、やっぱりきたなかった。
「き……きたないとヤ?」
 結局沈黙に耐えられず言ってみる。イチヤが久しぶりに目を上げた。
「ヤかも」
「や、やっぱり?」
「うん。でも、いいよ」
 その答えを言った途端、彼の泣き濡れた目が、今日一番楽しげに和んだ。
「いいよ。ロクのもの、俺にちょーだい」
 ロクは嬉しくなって、カバンに入っていた少ないものの中から、交換できる全てのものを取り出した。間もなく、イチヤの大切に使っていただろう品々もまた、ロクの手に渡る。
「なんか他にほしいものある?」
 浮き立った気分のまま言ってみた。イチヤは最初、考える素振りを見せた。
「何でもいい。俺が持ってるものなら、何でもいっちゃんにやる」
 ロクが重ねて言うと、迷うように目を上げる。
「なに? 何がいい?」
「……何でもいいの?」
「いいよ。いっちゃんにやるよ」
 急かすロクに、何度も逡巡しながらイチヤが指差したものは。
「これ」
 これがいい。
 ロクの左手だった。
 さすがに驚いた。びっくりして答えられずにいると、イチヤは真っ赤になってうつむくのだ。
「だって。ロク、右利きだし、左手だったら大丈夫かなって。あ、別に切ってほしいとかそういうんじゃないぞ! そうじゃなくって、ただ気分的に……だから、えっと……ロクの左手、俺のだったら嬉しいなぁって」
「でも、身体から切り離さないんじゃ、やったことにならない……」
「いいんだって! ただ、俺のものってロクが思ってくれれば……それで」
 イチヤのつむじが見えた。真っ赤な鼻の頭も。
 ああ――
 どうしようもなく彼を好きだと思う。
 ロクは笑った。
「うん。じゃあ、これ。いっちゃんにやる」
 左手を差し出す。イチヤはおずおずと顔を上げ、ロクが笑っているのを見つけると、次にはおっかなびっくりの様子でその左手を持つのだ。
「……俺の?」
「うん」
「ほんとにくれんの?」
「うん」
 迷いなくうなずいたロクに、イチヤが声を詰まらせる。
 大きな瞳は見る間に潤んだ。彼がこれ以上泣かないように、ロクはわざと冗談めかして言葉を続けた。
「でも、こんなの持ってってどうするんだ? 何の役にも立たないぞ?」
「でも、ロクのだもん」
「俺のだけど。もしいっちゃんが困った時にも使えない手だ」
 俺でも殴る?、左手で自分の頬を殴る振りをしようとしたならば、イチヤは慌ててその手を大切そうに引き寄せる。
「そんなことさせない! 勝手に俺の使わないでよ!」
 二人で笑った。もう半分意地で笑い続けていた。
 暮れていく陽は妙に悲しくなる色をしていて、橋の上を行き来する車の音も、川の水が流れる音も、何だか本当に苦しかった。泣け泣けと背中をせっ突くそれらに負けないように、ロクはイチヤといて楽しかったことや嬉しかったことを、思いつくまま話し出す。
 ところがある時、全く予期しないタイミングでイチヤが言うのである。
 スキだよ、ロク。  ひどく震えた声だった。
 それを聞いてしまうと、もうロクにも強がりが続けられない。
 あと一週間。真実は、そう考えるだけで寂しくて死にそうだった。
 茜色に染まった夕陽をにらみつけ、ロクは必死に彼の手をつなぎ留める。
 何もできないこの左手が、せめてイチヤの寂しさを殴り飛ばせればいいのにと、強く祈った。