幅がほんの〇、五ミリにも満たない銀板の爪を、尖ったピンセットの先で丁寧に折り曲げていく。とにかく華奢なそれが妙な変形を起こさぬよう、彼女の片手は細心の注意を払って小さな模型を包んでいた。
「……折るなよ」
最後の最後で無残なことになりそうで、気がついた時には横から口を出している。我ながら余計な一言だ。案の定、源内(げんない)の言葉に彼女の眉尻が吊り上がった。
「うるさい。ここで間違うなら私のせいじゃない、気を逸らさせた源内のせいだ」
「心配なんだって」
「うるさいっ」
「だから――手、こっちじゃなくって手元見ろよ。本当にダメにするぞ」
苛立った視線がこちらを突き刺す。仕方がないので小言は最小限で終わらせてやった。源内が黙れば彼女も黙り、未だ不服そう様子ではあったものの作業も再開する。
そもそも今、彼女――揚巻(あげまき)が、おそらく生涯初めてであるだろう戦闘機の模型作りに孤軍奮闘しているのは、源内のためだった。
揚巻とは高校に入学してからの付き合いだ。一年間同じ教室で過ごし、二年でもクラスメイトになった。だが夏もまだ訪れぬこの時期に、彼女は一人異国へ旅立つ。両親の都合だと聞いている。詳しい事情を源内は知らない、敢えて問うことをしなかったというのが真相だ。
揚巻は源内が尊敬する女だった。
揚巻にしても源内は他と一線を画する相手である。だからこそ、彼女が制服で校内を歩くことのできる最後のこの日、この放課後を、二人きりで過ごしている。
特別教室の窓際だった。ひとつの机を挟み前と後ろ、額を突き合わせ、小さな銀製の模型を囲んでいる。
源内が選んだそれはフォッカーという名の航空機だ。三枚の主翼が縦に重なった、独特の形状を持った旧式の戦闘機である。
揚巻が別れの記念品は鉛筆が良いかと冗談を言った時に、どうせならもっと趣味の良いものにしろと文句をつけ、半ば無理やり模型の完成を押し付けた。模型は全長でも五センチそこそこの大きさしかなかったが、全ての部品が洋銀と呼ばれる薄い金属でできた特殊なもので、見るからに初心者向けではないものだった。
こういった経緯で、源内は数日に渡って彼女の模型作りの教師役をしている。
当然のことながら模型は源内用の一機だけ。他のクラスメイトには今朝、愛想のない無地のハンカチが記念品として配られていた。
「……源内。これ以上曲げていいのか」
彼女は未だに作業に慣れない。薄手の金属板をうっかり折り切ることが怖いらしく、完成も間近だと言うのに途方に暮れた様子でこちらを見上げた。
「平気だろ、気合だ」
両腕を組むことで手は貸さないぞと意思表示する。揚巻はますます困惑顔で言い募るのだ。
「気合を入れたら折れそうなんだ」
「じゃあ根気だ。それ曲げりゃ完成だろ、今更怖がるな」
「曲げたら折れるぞ。折れたら未完成品でもなくなる、不良品だ」
「いいから根気だ、行け」
とはいえ、本当に彼女の持つピンセットは緊張で震えている。源内は苦笑って眼鏡をかけ直し、手の代わりに激励を付け足した。
「まぁ……不良品になったら不良品のまま記念にするさ、楽にやれよ」
嫌味を言ったつもりはなかったが、途端に不機嫌そうにする彼女。
「そうか……そうだな、所詮源内のものだ、私には関係ないな」
言いざま模型を厳しく睨み、揚巻は思い切りよく最後の一仕事を全うした。
金属の爪はおさまるべき場所へ綺麗におさまった。小さな銀色の戦闘機が、完全な形でようやく生まれ落ちたのだ。
最後はほとんど八つ当たりだったくせに、全てが上手くいくや否や、揚巻は声を忘れ模型に見入っている。源内もそうする彼女を黙って眺めていた。
彼女の口許にずいぶん遅れた微笑みが浮かぶ。
「おつかれさん」
次にこちらを向いたのは屈託のない笑顔である。
「見ろ、源内。私はやったぞ」
「さすが揚巻だ」
「そう思うか? やっぱりそうか?」
笑う彼女。ひとしきり褒め言葉を聞き終えると、華奢な模型をそうっと掲げ持ち、源内へと差し出すのだ。
「ほんとはやるのが惜しくなったんだが……約束だものな」
源内も笑った。
「受け取りましょう」
「家宝にしてもいいぞ?」
「家宝は無理だな、親父とお袋、姉貴にばあちゃんはこの価値を知らない。仕方がないから俺が毎日拝んでやるよ」
「ちゃんと両手合わせろよ?」
「揚巻に誓って」
満足そうにうなずいて見せる、気取った仕草がいかにも揚巻らしかった。
彼女が某代議士を祖父に持っていることは校内でも有名な話で、その祖父の影響なのか単に育ってきた環境の違いか、彼女自身にも自然と人をかしずかせるようなところがあった。
「疲れた! でもこれで源内への義理立ても済んだな」
「義理か。せめて友情とか言えよ」
「義理だ。間違っても友情とは言わない。見損なうな」
さらりと言い返した揚巻は立ち上がり、作業のために束ねていた髪を解く。
夕暮れ間近のやわらかい陽光の中で、ぴんと延ばした背にかかる上質な絹糸さながらのそれは美しかった。源内はひそかに息を飲み、彼女に悟られぬよう視線をはずす。
時々自分の目が見るものに動揺する。揚巻といると頻繁に起こる衝撃だ。視力自体は良くない方ではあったから、おそらくいくらかは見過ごして助かることも多いのだろう。しかし不意を突かれれば、なけなしの視力を補う眼鏡まで毟り取って捨てたくなるのだ。
なぜこの目は彼女を特別なもののように映すのか。それすらなければただの女として扱えた。
「……お前はかっこいいよ」
賛辞に似せた源内の自嘲に、過剰反応したのは彼女の方である。
「何度か聞いた気がする言葉だな、いつも褒められている気はしない。本気で言ってるんなら、源内の目は近視で遠視で乱視な上に色盲なんだろう。私は少しもかっこよくないし、第一――」
言いかけながら口を閉じた。彼女は束の間源内を睨み、苛立ちを抑え込むようにそっぽを向く。
沈黙が重かった。窓も開けていない教室ではお互いの呼吸する音まで耳障りなのだ。
源内は早々に席を立ち、模型を固定して箱に入れ、揚巻を無視することになるのを承知の上で帰り支度を整えた。
「……送ってく。そういう約束だったろ?」
多分揚巻は傷ついた。わかっているから正面から向き合えもしない。
それでも背後では身動く気配がある。
ようやくこの気詰まりな空気から抜け出せる――源内が内心で胸を撫で下ろした時だ。
「予定は変更だ」
断固とした声が聞こえた。
「送らなくてもいい。その代わり外の水飲み場まで付き合ってくれ」
源内は驚いて振り返る。振り返って後悔した。揚巻は気丈に顔を上げてはいたものの、少しの刺激でたちまち破裂しそうな形相ではないか。
「不平は聞かない。私は源内の言う通りに模型を作った、源内も私が指定した餞別を贈ると約束した。だから餞別を変更することだって私の権利のはずだ」
常と同じく冷めた素振りで誤魔化そうにも今度ばかりは無駄なのだ。
「……今更必死になることないだろ?」
「今必死にならなくっていつなるんだっ」
声は矢のように源内を貫く。
「もう今日しかない! 今日を逃せば私は一生源内の本音なんか聞けはしない!」
聞けばがっかりするだけなのにと悲しくなる。だが源内が思い直すのは早かった。
元々揚巻を悩ませる権利は己にはないと知っている。できれば笑って別れてしまいたかったけれども、いっそ派手に幻滅してもらうことこそ互いのためであるのかもしれなかった。
「……わかった」
仕方なくうなずいたなら、彼女はぱっと表情を明るくする。
何が原因でも揚巻が幸せそうにしていると安心した。彼女の荷物が整うのを待って、源内は先に立ち歩き出すのだ。
外が夕焼けで赤く染まる時間帯、学校内を行き来しているのはクラブ生ばかりである。
晴天の今日などは、校内よりもグラウンドの方がよっぽど人口密度が高い。靴箱のある昇降口まで二階分の階段を下りたが、顔見知りには一人も出くわさず、どこまで行っても無人の廊下が続くばかりである。
源内は揚巻の指定した場所を思い、こっそりと溜め息をついた。
外の水飲み場。
校庭にはいくらかそう呼ばれる場所があるが、揚巻が言うのは、昇降口を出てすぐの古い流し場に違いなかった。
源内がすぐにそこに思い当たったのには理由がある。あれは去年の夏の話だ、恋の告白を受けたのだ。好きだから付き合ってくれないかと、極シンプルな言い回しだった。告白劇自体も事件ではあったが、何よりも晴天の霹靂だったのはそれを言ったのが揚巻だったということである。
正直、何を馬鹿なと思った。特別に思っていた相手から告白を受けて腹が立つなど、あれが最初で最後だろう。
上手く言えないが、源内は女という枠組みの中に揚巻を入れることができなかったのだ。自分が彼女に触れること自体恐ろしい暴挙の気がした。
さすがにあの時ばかりは変な病気にかかったのではないかとおののいた。当時の源内がどれだけ恐慌したか揚巻は想像もしないだろう。原因を確かめる目的で、あまり知らない相手と立て続けに付き合いもした。そこまでしても、わかったのは、自分にとってただ揚巻が特別なのだということだけである。
あの流し場へ彼女と行く。
そこでなされる会話は嫌でも知れた。
全く揚巻という女は心臓が強い。良い思い出のない場所へ、わざわざ足を運ぼうと言うのだから。
とうとう全校生徒分の靴箱が並ぶ昇降口が見えると、源内の方こそ尻込みせずにはいられなかった。歩調にも躊躇が表れてしまったらしく、せっつくように背中を小突かれる。
「今度こそ逃がさないぞ」
「怖ぇよ」
「何も取って食おうと言ってるわけじゃない。それに源内には義務がある。いいか、私が告白したのは夏の話だぞ? にも関わらず、私への答えをほっぽり出したまま何人の女に手を出した?」
「そんなに多くなかったさ、大体全部続かなかった」
「いいかげんなやつだ」
「全くだ。俺はこんな相手にお前が拘る必要はないと思う」
「大きなお世話だ。―― 靴を履け」
揚巻の行動はのろのろと動く源内よりも三倍は早かった。源内が上履きをしまう頃にはすっかり靴を履き終え、真剣な顔つきでこちらの一挙手一投足を監視している。
「……別に逃げねぇよ」
「信用できない」
靴を履いた途端に袖を取られ、外へと引っ張られた。
グラウンドでは複数の運動部が活動していた。しかし目につく場所ではやはり知人の姿を見ないのだ。
天は我を見放し給ふ。
「俺って運ないなぁ……」
「日頃の行いが祟ってるんだ」
彼女は容赦なしに源内の背を押した。
件の場所は、裸のコンクリートで作られた味も素っ気もない水飲み場である。水道の蛇口が四つ並んではいるものの、端のひとつはコックが外れており、実質三つの蛇口しか機能していない。
屋根はないが、ちょうど頭上を覆う形でアカシアの木が枝を張っていて、花の咲く今の時期は、風が吹けば小さな花弁がぽろぽろと落ちてきた。
源内は遂にこの水飲み場に立った。
アカシアの花は咲いているし、気温もあの夏の日とは全く違う。だが地面に映る木陰のまだらを見た途端、その日のことをまざまざと思い出した。
そして振り返れば記憶と同じ、唇を真一文字に結び、こちらを仰ぐ揚巻がいる。
まるで勝負を挑まれているようだ。
「……それで? 何から話せばいい?」
源内が言うと、揚巻は緊張した様子でうなずいた。
「聞きたいのは理由だ。好きでもないような女と付き合っておいて、なぜ私では駄目だったのか。駄目なら駄目で、なぜさっさと断わってくれなかったのかが知りたい」
敢然と顔を上げる彼女。どうしてそこまで立ち向かえる?
「かっこいいな、お前」
先と同じ賛辞に彼女が機嫌を損ねる前に、源内は足りなかったもう一言を補うのだ。
「そういうとこすげぇ尊敬する」
揚巻はゆっくりと瞬きした。
「尊敬?」
「ああ。言ったことなかっただろ?」
「確かに初耳だ……」
尊敬?、繰り返しながら首をかしげる。彼女の全く合点のいかない様子が微笑ましかった。源内は苦く続けた。
「多分これを最初に言っとくべきだったんだ。俺が何も答えなかったのはお前が嫌いだったからじゃない。他と試してみたけど、付き合うっていうのは結果的にセックスに結びつくもんらしいし、俺はそういう意味でお前に触りたくないと思った。だから揚巻とは付き合わなかった」
源内のあけすけな物言いに彼女は唖然とするばかりだった。それでも次第に意味が飲み込めてきたらしく、難しげな顔つきで改めてこちらを見上げる。
「ということは、私は源内に女と思われていないということか?」
「いや全然逆」
「逆? 私と付き合いたくはなかったんだろう?」
「ああ」
「それで他の女と付き合った」
「ああ」
沈黙が落ちた。
源内は腹から溜め息をついた。
「だから。俺が根性なしなんだ。お前はせっかく離れられるんだから、さっさと忘れろ。もう会えないんなら俺も諦めつくし、変な嫉妬とか劣等感とか独占欲で吐きそうになることもなくなる。フォッカー作ってくれてサンキュ、俺はあれだけで充分。毎日拝む、本当だ」
揚巻が動いたのはその瞬間だった。
パン、と、乾いた音が源内の左頬で響く。
「来るとは思ったけど……お前、案外力あるな」
冷静を装う源内を、しかし揚巻はもう許さなかった。平手打ちした勢いのまま、こちらの襟首を両手で掴み寄せた。
「いいかげんにしろ! 屁理屈ばかり捏ねて――私には全然納得できない理由ばかりじゃないか! 今日という今日は悟ったぞ、ああだこうだ言いながら源内は結局言いたくないだけなんだ!」
揚巻に見入る源内を知ってか知らずか、こちらの胸を拳で叩きながら彼女は強く言い切った。
「私が好きなら好きだと! 最後くらいその口で言ったらどうなんだ!」
思わず笑う。
「……なんだ。ちゃんと知ってるんじゃないか」
「知ってたさ! だから答えなどもらわなくとも放っておいたんだ! 他の女と付き合おうと源内が優先するのはいつも私だった、気が付かないわけがない!」
「知ってたんならいいだろ。今頃になって訊くなよ」
「馬鹿! 今だから訊いてるんだ!」
揚巻は足を踏み鳴らして訴える。
「私は友人ごっこがしたいわけじゃない! 他の女に源内をくれてやるつもりはないし、いやだと言われても嫌われていない限りは諦めるつもりもない! 嫉妬に劣等感に独占欲? そんなもの感じるくらいなら、あちこちふらふらせず私を一番に源内のものにしたらいい!」
どうしてこんなに真っ直ぐなんだろう。源内は改めて目の前の彼女に感動した。
揚巻を好きだと気付いてから、彼女に比べ自分がひどくいびつな人間に思えてならなかった。
揚巻に好きだと言われてからは尚更自分のどこをと疑いもした。彼女の告白はすっきりと潔く、源内の中にあるどろどろとした欲とは全く違うものに見えたのだ。源内は彼女が他の男と話すたび相手の喉笛を噛み砕きたいと思う、彼女の髪を自分の腕に括り付けたいと思う ── これを恋情と呼ぶには醜悪すぎる。
できれば著名人を慕う一ファンみたいに、決して互いに踏み込めない位置で憧れることが至上に思えた。
「……触ったら後悔すると思った」
「何?」
「お前せっかく綺麗なのに。綺麗でないもん近づけるのが嫌だ」
「綺麗でないものって何だ」
「……俺」
揚巻はひどく傷ついた様子だった。
「源内はひどい」
震える声。あ、と、息を詰めた時には、彼女の瞼から最初の涙がこぼれていた。
「ひどすぎる……何なんだ、その鉄壁の守りは。いくら私が叫んだってびくともしないじゃないか。いっそ嫌っていると言われた方が納得いくぞ」
ちょうど風が吹いて二人の上のアカシアを揺らす。小さな花は盛大に降りそそぎ、源内の肩や揚巻の髪を転がって地に落ちていく。
まるでアカシアの花まで揚巻の涙のようだった。綺麗で綺麗で、決して汚れを近づけたくない。
「……泣くなよ」
「うるさい。どうせ泣いたって何も変わらないんだ、泣くぐらいさせろ」
「泣くな。かっこよくいてくれよ」
「無理だ。私は元々かっこ悪い」
「そんなことない」
「そんなことある」
会話は平行線を辿る一方で、話せば話すだけすれ違う。源内にとってもつらい時間だった。結局泣き顔を見ていられずにうつむいた。
と、目を逸らす様が癇に障ったのか、揚巻の拳が胸を突く。
「痛ぇ……」
「痛くしてる、当然だ……っ! 大体かっこよくいろなんて女相手に言うな。源内がそう言うから努力したが、何にも役立ちはしなかった。元々私はかっこよくなんかないし、かっこよく見えるんなら源内の目が悪いんだ……!」
「目って、お前……」
「そうだ、その目が悪い!」
泣きながら怒り、源内の眉間を指差す揚巻。
それは完全なこじ付けだったのだろうが、かつて源内自身も己の目を恨んだ経緯が笑いを誘った。
緊張のほころびは、その瞬間どう作用したのか。
彼女はおまけの一撃を打ち込みこちらの注意を逸らしておいて、もう片方の手で源内の眼鏡を奪い取る。
文句をつける暇さえなかった。
あっと言う間に視界はぼやけ、間近の揚巻の顔も判別できなくなる。
「……おい」
「度数の合わない眼鏡はいらない。これは私がもらってやろう、良い餞別だ」
揚巻の宣言は力強かった。今も泣いているはずであるのに、そんなことは全く匂わない。
おかげで勝手なはずの言い分が耳に気持ち良かった。それは源内が最も気に入っている揚巻の強さである。
「次に会う時までにちゃんと度数の合うものを探しておけ。一年後でも三年後でも十年後でも、会いたいと思った時に私から会いに行く」
「……まだ愛想を尽かされないのか、俺は」
おもしろがる状況ではないのに心が弾んでならなかった。
「教えてやろう、源内――」
揚巻も笑っている気配がある。源内は彼女のいるだろう、様々な色と光が滲みあった場所を眩しく眺めた。
「逃げられれば追いたくなる、鉄壁の守りは崩したくなるんだ」
ぐすりと鼻を鳴らし、涙を拭い、彼女は尊大に未来を予言した。
「次に会う時の私は、源内が無意識にでも飛びつくような女になってる」
最後の言葉のあとには、すぐに遠くへと駆けていく足音が聞こえた。
上手く物が見えない目では、彼女の後姿さえ探せない――
風が吹く。小さな花が降りこぼれる。グラウンドからは誰のものとも知れぬ掛け声が聞こえ、陽は音もなく傾いていく。
源内はずるずると座り込んだ。
実際、途方に暮れるべき状況だった。眼鏡なしでは横断歩道ひとつ渡れないだろうし、学校内もまともに歩くことができないかもしれない。家に電話をかけるか職員室まで行って助けを乞うか、差し当たって考えなければならないことは山ほどある。
しかし、それらの問題を抱えても今は。
くつくつと堪えきれない笑いが漏れた。
「……どっちが鉄壁なんだよ」
正面衝突で打ち砕かれたのは源内の方らしい。欲まみれだった恋情が飛び散って、違う思いを芽吹かせようとしているのがわかる。
不思議に嬉しくてならなかった。
図らずも、壊したつもりの恋はいつかの未来へと繋がれた。揚巻のそれが薄れるのが先か、源内のそれが薄れるのが先か、離れ離れでの一歩を踏み出したばかりの今に見通しは立たない。
ただ、はっきりしたこともあるのだ。
「負けたよ揚巻、お前の勝ちだ」
源内はきっとこれから何度も彼女を夢見る。
彼女に続く恋をする。