少女ツバキ

「あがけばいい」

 それは言葉と呼ぶそうだ。
 ただの音だと思っていたものに、ある日突然意味が生まれた。その瞬間のツバキの驚きを、彼はいつか知るだろうか。
「あがけばいい、そんなに譲れないのなら」
 彼は人間の男性だった。
 ツバキは彼の足元でその声を聞いていた。
 彼の服に若い葉をこすりつける。ツバキには手足がなく、頭も胴体もない。だから葉を枝を震わせ存在を訴えた。
 彼は教師であるらしい。彼は化学の担当であるらしい。彼の上着は白衣と呼ぶらしい。
 彼の名を刀野(とうの)と言うらしい。
 もろもろの情報は、全て仲間のツバキから教わった。ツバキが育った場所は学校の敷地内だ。昇降口近くの、制服を着た子供たちが行き来するせわしない場所である。
 中でも、刀野の白衣はひときわ目立つ。ツバキにとっても、彼を他とわけて認識するのは容易かった。
 ツバキがまだ人の言葉を知らぬ頃、刀野は植え込み脇で立ち話をすることが多かった。
「あがいてみろよ」
 だからそれを言葉だと知った時、きっかけが刀野であったのは必然だったように思う。
 葉を震わせ、幹を震わせ、ツバキは彼に答えようとした。彼は決してこちらを振り返ることはなかったが ──
 ツバキには、白衣に葉の先端がこすれることさえ素晴らしい奇跡に思えた。
 春先だった。
 刀野の息が白く外気へほどけ、ああ彼は人として生きているのだと漠然と実感した。

 裏門へと続く小道は、校舎とグラウンドを分ける道である。この校舎の壁沿い、一列に並ぶ形で椿の植え込みがある。
 季節は夏を終えようとしていた。
 椿は春先の寒い時期に花を咲かせ、夏から秋にかけて実を結ぶ。植え込みの椿もまた結実の時期である。西日で青々と輝く葉に混じり、やわらかな実がちらほら顔を出し始めている。
 しかし今、この椿を眺める男たちの表情は苦々しい。
 一人は刀野。
 化学担当の教師で、今年は教師間で持ち回りする校内美化の当番に当たっている。
 刀野は若く、顔立ちも整っていたが、家から学校へ行き帰りするほかは四六時中化学室に引きこもっている類の男であるから、肌は青白く、体型は縦に細長い。また、跳ね回った髪はいくらかだらしのない印象を与えもした。
 一人は老教師である。彼は学校の教頭を務めていた。頭髪こそ禿げ上がっていたが、背筋は真っ直ぐで足取りもしっかりしている。
 そして最後の一人が、野球帽を被り、紺の作業服を着た中年の植木屋だった。
「もう無理でしょ」
 言い切ったのは植木屋だ。
「いくらか掘り起こしたが根がやられとりますな、どうやら下で全部からまっとる。このままだと椿以外にも移りますわ」
 老教師が眉間に皺を寄せて息をついた。
「そうですか……全部で、ええと……三十本でしたかな?」
 三十三本です、と、訂正を入れたのは刀野だった。老教師は特に気にするでもなく「そうか」とうなずく。
「ここの椿は卒業記念に生徒が植えていったものなんですよ。できればこのまま残してやりたかったが」
 仕方がない。逡巡は、口調の渋さとは逆に一瞬だった。
「作業は早い方が良いのでしょう? ちょうど土曜で、明日は半日授業です、明日中にお願いしますよ。土も新しいものを頼みたいが、これも明日中に何とかなるかなぁ?」
「はいはい、明日中に。土もね。それじゃ若いもんと一緒に改めて寄せてもらいます」
 刀野は黙ってこれを聞いていた。
 静かに立ち並ぶ三十三本の椿もまた、人知れず枝先を震わせただけだった。

 そもそも椿は三十二本だった。
 植物は人の感情に感応するという。この椿も例外ではない。絶えず人の行き来のある場所で、感情の起伏が激しい時期の子供たちと過ごすうち、葉で、幹で、樹皮の凹凸のひとつひとつで、人の言葉を感じるようになり、人の生活や考え方を知るようになった。
 しかしこれが不幸の発端でもあった。
 ある時、一本の椿が根の病にかかる。
 それは人で言うところの奇病であり、死病である。発見されれば土ごと浚いおこされることは明らかだ。三十二本の椿は人の考え方にならい、病を隠すことにした。一本なら即座に根から全体を侵しつくす猛毒も、三十二本で分ければ進みが遅れるはずだった。
 椿たちは土の中で互いの根を絡め合い一つになる。
 数年をかけ、病は三十二本分の根をゆっくりと蝕んだ。毒は決して薄れることはなく、腐った根からは更に毒が生まれ、もはや病は根から幹へと侵食を移そうとしている。
 珍事が起こったのはそんな折だ。
 新しい芽が同じ土から顔を出したのだ。植え込みの端、まだ病に汚されていない場所からの発芽である。
 芽はぐんぐん根を張り、幹を伸ばし、若く瑞々しい葉を茂らせた。
 老いた椿は若いツバキに望みをかけるようになった。たとえ三十二本が取り除かれようと、一本が残るのなら完全な滅びではないと考えたためだ。
 だが、人にしてみれば植物の命は軽い。
 地中で絡み合った三十二本分の根は、分かたれた一本の若い根すら巻き込んでいるものと人に判断させた。
 明日には土ごと全てが取り除かれる。
 老いた椿は若いツバキが憐れでならなかった。若いツバキは生気に溢れていながら、一度も実を結ぶことなく枯れてしまうのだ。
「おまえだけでも、どうにか……」
 三十二本のうちの一本が言った。老いたもの全ての気持ちは同じだった。
 若いツバキは黙っていたが、ついに小さく心をこぼす。
「もう一冬、生きてみたかった」
 若いツバキは蕾もつけたことがなかったのである。
 三十二本の椿は決意した。
「おまえに全てを贈ろう」
 一本は熱をほとばしらせ、一本は全ての色素を犠牲にし、また別の一本は全ての水分をしぼり、一本は蓄えた養分を己から削り取った。
 三十二本分の生気は、若いツバキに奇跡をまとわせ、毒に染まった土からおくり出す。
 ツバキは今や人の姿で立っていた。
 少女の姿である。
 少女はセーラーカラーの制服を身につけている。ハイソックスに革靴の組み合わせも、今現在学校で流行っているものである。
 少女は人として見るなら美しい。
 肩にかかる黒髪は薄く緑を刷いた艶やかさ、瞳は鉱石のきらめきを持っている。彼女の肌は白くまろやかあり、頬や唇、襟足、喉もと、胸に腰、手先足先に至るまで華奢で甘い 。例えるなら、ちょうど葉の上で淡く震える夜露のようである。
 自らの変化を声なく見下ろすツバキに対し、全てを失った椿の木々はすっかり弱々しく、一粒だけ残った青い実を差し出す。
「この実を……」
 私たちの種を。
 お前が生きたいと思う場所へ、一緒に連れていっておくれ ──
 最後だった。三十二本の椿は沈黙した。
 少女は両手で実を抱くと、人の姿で歩く最初の一歩を踏み出した。

 歩き始めて間もなく、ツバキは植物で言うところの根の部分、人の身体で言う足の爪先から土踏まず、かかとまでの直接地面に触れる部分が、じくじくと痛み始めたことに気がついた。
 最初は我慢できる痛みだった。
 だが植え込みを進み切らぬうちに痛みは増し、ついには百万の針で足うらを貫かれていると感じるまでになる。
 もう立っていること自体がつらい。
 ツバキは校舎を越え、仲間から自分の姿が隠れたことを確かめると、ようやく立ち止まり腰を下ろした。まず実を傷つけぬようポケットにしまい、自由になった両手で革靴を剥いでいく。
 異常はすぐに知れた。
 靴の内側は粘液でぬめり始めており、足のはらからにじみ出る膿でソックスまでもが貼り付いている。
 毒だった。
 仲間を苦しめていた死病が、彼女の身にも触手を伸ばしていたのだ。
 ツバキは両足の有様に震え上がった。彼女は今の今まで痛みなど感じたことがなかった。だから病魔は自分の中にはないのだと思い込んでいた。
 しかし実際はそうではなく、土の中に広がっていた毒を仲間と同じように取り込んでいたのだった。……あるいは、姿を人に変えておくり出される過程で、生気と一緒に病も受け取ってしまったのかもしれない。
 だとするなら仲間から預かった実も、また?
「いいえ」
 ツバキは頭を振って恐ろしい予感を払った。
 膿んだ足に靴をかぶせ立ち上がる。
 病に侵されているとわかったのなら、なおさら休んではいられない。
 ツバキは元々仲間の力添えがあって人の姿を得た。ツバキにとって奇跡が希望であったように、枯れていく仲間にとっては願いだったはずだ。
 もし今ツバキが病に倒れ、何も成し遂げることができなかったなら「希望」にも「願い」にも意味がなくなる。それは、つまり椿たち全員の生きた証を失うことでもあった。
 ツバキは足を引きずりながら校庭をさまよった。
 既に夕暮れである。
 普段は学生の声で賑やかな道も静かだった。教室の明かりは消え、建物や樹木の影は墨色になり、ツバキの視界をいよいよ暗くする。
 とにかく歩いたつもりであったが、目ぼしい場所は見つからず、気付くと元の位置へと戻ってきている。
 遠くを探す決心はつかなかった。
 どこへ行けば良いのか、どこへ行きたいのか。
 足先は炎を踏んだように熱く、身体は冷や汗に濡れ、芯まで凍えきっている。
 動けなくなるのも時間の問題かもしれない。
 ツバキが絶望しそうになった。
 その時だった。誰かの砂を踏む音が聞こえた。
 人が ── いる。
「……っ……」
 足音は極近くに思えた。校内は無人であると信じていたため、人間と鉢会うことそのものを予期していなかった。
 隠れるべきか ── 音の出所を探す。ちょうど植え込みのあたりを歩いているらしい、ツバキは塀の影から覗いてみた。
 そこにいた人物に息を飲む。
 刀野だ。
 外跳ねした髪型には覚えがあった。ひょろりと縦に長い体型も見間違えようがない。
 彼はいつもの白衣を着ておらず、半袖のシャツにズボンという一般的な教師の出で立ちだった。普段から機敏に動く男ではなかったが、今もずいぶんと気だるい様子で歩いていた。
 彼は椿の並木を見ているようだった。しかも、一度通りすぎては方向転換し、また長く続く植え込みの前を歩きなおしている。
 彼の指が小さく動く。
 ……椿の数を? かぞえている?
 ツバキの奥で芽吹くものがあった。
 今は三十二本の椿。彼が本数に納得せず確認しているというのなら、今ここにいる三十三本目のツバキを探しているのと同じことである。
 衝動がツバキの足を押す。痛みで我に返るまでたったの一歩。しかし静まり返った校庭に、その一歩分の足音は高く響いた。
「── 誰かいるのか?」
 刀野の声。
 身を硬くしてももう遅い。端正な顔立ちの男が目の前に立つまではあっという間だ。
「まだ残っているのか、早く帰れ」
 彼はツバキを学生と勘違いしたらしい。
 今ならどうとでも誤魔化せる。だが焦っていたツバキは、うっかり刀野と正面から目を合わせてしまうのだ。
 途端に記憶が蘇る。彼の白衣に葉をこすりつけた。何度も。彼は決してツバキの悪戯に気付いたりはしなかった。彼の目も、ツバキをツバキと知って見つめたことはない。
 それが今はこれほど簡単に手に入る。
「……先生は、何をしていたのですか?」
 気付けば口が勝手に動いていた。
「椿の数を……かぞえているように見えました」
 緊張しきっているツバキを全く気に留めず、刀野は小さく肩をすくめた。
「ちょっとな。数が合わなくて引っかかっただけだ」
「椿の数が?」
「ああ」
「何本だったんですか?」
「……いや、俺のかぞえ間違いだろう」
「どうして?」
「どうしてって……」
「先生は、何本だったと思うんですか?」
 ツバキはわざと繰り返し尋ねた。
 刀野は不思議そうに目をまたたかせ、ツバキを見つめる。こんな生徒がいただろうかと、彼の心情が手に取るようにわかる見つめ方だった。
 不審に思われて困るのはツバキ自身である。それでも挑む気持ちは止まらない。
 三十三本目の椿はここにいると叫びたい気分だったのだ。
「先生」
 気付いてほしいと、特別に思っていてほしいと、ツバキはその時他の何もかもを忘れて祈った。
 果たして、刀野は。
「……どうでもいいだろう? どうせ明日には全部なくなる」
 冷淡な言葉に、すっと熱が引いた。
 腹の底が重くなる。足の痛みが蘇る。
 ツバキは思わず自分を嗤う。
 何を期待していたのか。
「それよりも、君は何をしている?」
 学年とクラスは?
 あれほどツバキを舞い上がらせた彼の声が、まるで色を失って聞こえた。
 彼の問いに答えなければならないのだろうが、話す機能を失ったかのように舌が動かない。
 刀野からじわりと離れながら、ツバキはポケットに入れた実を探している。
 指先が硬いものに当たってほっとした。これさえあれば、ここにいる自分を間違いではないと信じることができる。ただ枯れていく身でも新しい芽の糧にはなるのだから。
「さようなら、先生」
 ツバキは掠れた声を押し出し、痛む足を無理やり動かした。だが数歩もいかぬうちに今度は刀野がツバキを呼び止める。
「……なぁ、足をどうした?」
 ツバキは泣きたくなった。
「どうもしていません」
 頑なに言って先を急ぐ。目当ての場所があるわけでもなかったし、途中で動けなくなるかもしれなかったが、どこにいても刀野の傍にいるよりはましだと思えた。
「待て──待ちなさい」
 にもかかわらず、肩を押さえられ、手首を取られる。
 反射的に怒りが湧き上がった。ほとんど目で切りつけるように振り仰いだツバキを、刀野は全くわけのわかっていない様子で見返した。
「無理するな、車で送ろう」
 ツバキは彼の手を振り払う。
「やることがあるんです」
「もう下校時間も過ぎてる、用なら明日にしろ」
「明日じゃ間に合いません……っ」
 刀野は束の間沈黙し、すぐに言葉を足した。きっとツバキを怪しんでいたのだろう。
「なら、俺も付き合う」
「い ── いりません」
「どうして? 見られてまずいことでもする気か?」
「違う……っ」
「だったらいいじゃないか」
 良くはない。
「何をするって? 早く済ませて帰るぞ」
 押し切られたのは結局ツバキの方だった。そもそも長話しできるほど言葉は知らないし、時間もない。いつまで足の痛みを我慢できるかもわからない。言い争う間は惜しいし、奇跡だって ── 長く続くはずもない。
「……じゃあ、やわらかい土のあるところを知ってますか?」
「土? 何のために?」
 ツバキは青い実を取り出した。刀野は椿の実だとすぐに悟ったようだ。
「これを埋める気か?」
「いけませんか」
「いや……」
 まじまじとツバキを見た彼は、いくらか気を取りなおし、「図書館前の花壇はどうだ」と提案する。
「あそこなら場所も余っていた」
「わかりました。連れて行ってください」
「連れて行く?」
「駄目ですか……?」
「……いいや」
 歩き出したは良いが、一歩行くごとに転びそうになる。先を歩く刀野も気がかりな様子で何度もツバキを振り返った。
 大丈夫かと問う彼に大丈夫ですと言葉で返す、そんなやり取りが数度続いたあとである。
「……君はこの学校の生徒じゃないな」
 刀野は答える隙を与えず言った。
「別に怒りはしない。ただ、これが終わったら本当に早く帰れ」
 ツバキは知らず微笑んでいた。
 彼は案外やさしい男なのだ。
 そう言えば、あの言葉も誰かの相談を受けてのものだっただろうか。刀野が放った言葉ばかりが鮮烈で、他のことは覚えがない。
「……先生、訊いてもいいですか」
「なんだ?」
「あがくって、どうしたらいいですか」
「何だって?」
「あがけばいいって言ったじゃないですか、譲れないならって」
 刀野が思わずといったふうに黙り込んだ。
「どうしても変えたいことがあって、でも何も変えることができない。あがくって、何をすればいいんでしょうか?」
 ツバキの問いに刀野は長く返事をしなかった。
 真っ先に聞こえたのは舌打ちだ。彼は突然こちらに背を見せ座り込む。
「乗れ」
 戸惑って動けずにいると、
「その足じゃいつまで経っても図書館まで着かない、早く乗れ」
 叱り飛ばされ、早くしろとせっつかれる。
 なぜ怒られるのだろうかと思いながらも従った。ツバキが負ぶさると、彼は地面に八つ当たりするかのごとく大股で先を急いだ。
 周囲の光景がぐんぐん変わっていく。
「……俺だって何をすればいいかわからない」
 刀野の声が背中越しに聞こえた。
「ただ前だと思う方向へ進むだけだ」
 それなら、まず前を探さなければ。
 どこへ行きたいのか、どこへ行けば良いのか。
 彼の背に額を押し当て、ツバキは一心に己を探っていた。

 図書館脇。煉瓦で囲われた一画には、確かにやわらかな土があった。
 刀野の背から降り立ったツバキは、足を引きずることももどかしく、ほとんど倒れこむようにして花壇に辿り着く。
 全身が土に汚れるのもかまわなかった。さすがに尋常でないものを感じたのか刀野が咄嗟に手を伸ばしたが、これも押しやる。
「おい、一体何を……!」
 動揺する彼をよそに夢中で土を掬った。
 やわらかい。あたたかい。
 そして清潔な土だった。
「……良かった」
 片手で土をならし、改めて窪みを作って、そこへ青い実を丁重に横たえる。
 あとは少しの水分が必要だった。
 もう一度立たねばならない。ツバキは土まみれになりながら這い上がる。
「おい! 今度は何だ!」
 刀野が怪しむのももっともなのだ。
 だが今は時間が惜しい。
「水を……あげなきゃ」
「水? 水だな、俺が持ってくる」
「でも」
「言うことを聞け、お前はもう動くな。それで、水をやり終えたら送るから、帰れ!」
 ツバキが返事をする暇はなかった。刀野は言い置くや否や身をひるがえし駆けていく。
 一人きりになると気が抜けた。
 奇妙な気分だった。
「送るって、どこへ?」
 苦笑う。
 刀野はツバキのことなどどうでも良かったのではなかったか。明日になればなくなるものだと、無感動に言い放ったのは彼だった。あれではまるでツバキを心配しているように聞こえる。
 それにしても、全身が重い。
 身を起こしているのも限界である。ツバキは重力の導くままに地へと伏す。
 奇跡が終わろうとしていた。
 ツバキは木へと戻るのだ。
 
 刀野が帰ってきたのは間もなくだった。
 彼は約束した通り充分な量の水を持ってきてくれたが、離れていた間で明らかに生気を失ったツバキに肝を冷やしたようだ。
 水を投げ出す勢いで抱き起こされるので、ツバキが「こぼれる」とつぶやいたなら「水の心配してる場合か」と怒鳴り返された。
 全身の土を払われ、砂も土もないコンクリートの場所へ連れていかれる。
「水は俺がやる」
 今や痛みは麻痺していた。その代わり、膝までの皮膚がどす黒く変色している。身体は石のように重く、手指の一本すら曲がらない。関節はかろうじて動いたが、それ以上はどうしようもなかった。
 ツバキは刀野を思った。
 きっと刀野は椿の木々を覚えていてくれる。
 あの実が芽を出せば、今晩ツバキと会ったことも思い出してくれる。どれもが最良の形で終わるのだ、満足すべきことである。
 満足なのだと、ツバキは思い込もうとする。
 でも──
 ツバキは刀野を見た。花壇に向かう彼の背中を。
 もう少しすれば彼はこちらを振り向く。ツバキの黒ずんだ無様な姿を見て、何かを感じてくれるかもしれない。奇跡がほどけたあとに枯れた幹や葉が残るのなら、ツバキの真実にも気付いてくれるかもしれない。
 しかし、ツバキには何も残らない。
 これで満足か。本当に。
 本当に?

 嘘だ。

 その瞬間、全身を激情が駆け巡った。
 最後の力を振り絞って両手を揃える。
 残った力の全てを手のひらに集中させた。
 人の形を保っていた足が縮む。
 爪先から足首、ふくらはぎ──毒で黒くまだらになった幹の姿が次々に現れていく。
 瑞々しかった皮膚はしわがれた樹皮へ。細い枝葉は木の形を取り戻した途端、乾燥しきった塵のように風に解けた。
 既に人の名残をとどめているのは、頭と両手だけであった。
 両手の中、かすかな質量を感じ、ツバキは淡く微笑む。
 ありったけの熱をそそいでも、たった一輪にしかならなかった。
 色素の抜けた白い花びらの姿である。
 けれども、それは誇らしげに咲いていた。
 ツバキの希望だった。

 何もかもが正常を取り戻すまぎわ、ツバキは声にならぬ声で刀野を呼ぶ。
 もう見なくとも、夜目にも白い花が刀野の気を惹くのが想像できた。きっと彼は知ってくれるだろう、少女が何であったのか。
 何をあがいたのか。
 
 ふわとこぼれた花には、ひとしずく、星にも似た夜露が輝いた。