零にて君を待つ

【終章】

 柱本家に帰ったせつかを、玄関先で迎えてくれたのは季和子だった。
 しかし、彼女は、せつかを見た瞬間、真っ青になって立ち竦む。
 山中を走り回ったせつかの出で立ちは、ひどかった。泥や木の汁で汚れたばかりか、服の端を裂いていたり、靴も失って、爪先からは血を滲ませていたりもした。
 そんな出で立ちであったから、大丈夫だと訴えても季和子はなかなか納得してくれず、
「どこが大丈夫よ、どうしてこんなになっても連絡しないの! 柱本くんも何しに行ったのよ、せつかケガしてるじゃない!」
 怒りながら泣き出して、あとから来た守也をげんなりさせた。
 以前のせつかであったなら、彼女の感情の発散にただ戸惑うばかりだったかもしれない。しかし今はわかる気がした。
 彼女は本当に心配してくれたのだ。
「ごめんなさい……それと、ありがとう、季和子さん」
 言いながら、季和子につられて泣きそうになる。
 季和子も、せつかの声の揺れに本気を感じたらしく、結局怒りをおさめて泣き笑った。
「……せつか、何だか前と違う?」
「そうかもしれない……いろんなこと、見て来ました。あとで聞いてくれますか?」
「聞くよ! 聞く。いっぱい話して……!」
 せつかと季和子が再会を喜び合っていると、屋敷の奥から片名までが玄関先にやって来る。
 これには、せつかも守也も、多分その後ろに控えていた唐洲でさえも驚いた。通常、人の出迎えは奉公人の仕事であって、片名の仕事ではないからだ。
「朝から騒々しいですよ」
 片名は淡々と言い、まず唐洲と目を合わせる。
「あなたがついているのに何をしているのです、友則」
 唐洲は従順に頭を下げた。
 継いで、彼女の視線はせつかをとらえる。
 せつかは慌てた。柱本家に帰る道すがら、唐洲の車の中で、天日子たちとのやり取りを守也に告白した。守也は同じ話を片名にもすべきだと言い、せつかもそうしようと思った。けれど、いざ片名を前にすると上手く声が出てこない。
 どうしようどうしようとそればかりが頭を回る。しかも、ほとんど目を合わせてくれないはずの片名が、今日に限ってじっとせつかを見つめているのだ。
「〈ゆきはな〉に、雪代と同じ奇跡は起こせないそうです」
 出し抜けに言ったのは唐洲だった。せつかは心底びっくりして彼を振り返ったが、振り返った後ろで、更に片名が平然と、
「知っています。それだけは決してせつかに残したくないと、雪代が言いました」
 ──雪代が不要としたものに未練はありません。
 続いた言葉に声が出ない。
「……それで、喉は無事ですか」
 せつかへの問いなのだろう。良くわからないままうなずいた。片名がそっと目尻を下げるのを初めて見た。
「雪代の願いを叶えるために、最初に封印の珠を使いました。確認は天日子に任せましたが……あなたがその格好でいるのを見ると、彼は相当無理を強いたのではないのですか」
 せつかは、突然すべての感覚が開いたようになって、片名の眼差しに釘付けになった。
 では、せつかを守ったのは片名なのだ。
 彼女があんなに厳しく声を出すなと言ったのは、せつかを心配してのことだった。
 ……言葉が、出てこない。
 抑えようもなく内から込み上がる衝動に、茫然とする。気付くと、声の代わりに涙が溢れていた。
 何もかもが、嘘のようにやさしかった。
 鳴村を思う。そして天日子を思う。
 二人がいた夜は真っ暗で恐ろしかった。彼らの覚悟も言葉も思いも、せつかには悲しくて苦しくてどうしようもなかったのに──
 あの夜から生まれた朝は、胸が痛むほどの光に満ちている。
「せつか、せつかっ?」
 季和子が触れることのできない手を困ったように上下させる。守也が心配そうに、せつかを下からのぞき込む。片名は何も言わずにじっとしていたし、唐洲はそっぽを向いている。
 誰も特別なことなどしていない。
 それでも今、自分を取り巻く彼らが、奇跡のように思えて仕方がなかった。
 せつかはひそかに決意する。
 この場所に彼らといること。
 不安はつきない、苦痛も多分すぐにはなくならない。きっとまた怖くなって迷ったりもするのだろう。けれど、もう二度と彼らの前から黙って逃げ出すことはない。
 これは、雪代が残してくれたものだ。
 せつかの味方をしてくれる人たち――
 これからはここにいて、悩み、奮い立つことこが、せつかの生きる証になるのだ。

 精神的にも疲労困憊だったせつかは、その日から高熱を出して丸二日寝込んだ。
 回復して、真っ先にしたのは、片名に高校を卒業したいと言いに行くことだった。
 もちろん、片名は渋ったが、最後には〈ゆきはな〉の務めを少しずつこなしていくことを条件に、うなずいてくれた。
 久しぶりの登校では、松葉と会った。
 彼の携帯電話は先に守也に返してもらっていたから、せつかの状態もそれなりに聞き知ってくれていたのかもしれない。
 彼は、せつかに改めて何かを尋ねることはなかったし、山荘でのことを話題にすることもなかった。今度は全然別の場所で、守也同伴でも良いから遊ぼうと誘われた。
 雪代がいなくなって目まぐるしく変化を続けた日々は、こうして徐々に穏やかさを取り戻していった。

 ただ──
 せつかの心は、時に闇をふり返る。
 暗い風穴の奥に住む紅緒を、真っ黒な湖に弱く笑った鳴村を。
 夜に独りたたずむ天日子をふり返る。
 彼らがせつかに垣間見せたものは、長い時間の行き着く先であり、また絶望から生まれる始まりでもあった。今のせつかにとっては、どちらも苦く、いつか自分がその選択の前に立つことすら、想像がつかないままだ。
 それでも、遠い星のように彼らを思う。
 彼らと再会する時が、決して悲しいだけのものではないことを、信じている。