ダイナマイトベリー騒動

 軒先に掛けられた古木の看板が強い春風に揺れていた。それは何の変哲もない色褪せた看板である。ただし、褪せているのは塗装のみで、銅のビスを打ち付け連ねて描かれた屋号は、金細工の文字さながら、雨風吹きすさぶどんな日にもぴかぴかと輝いていた。
 DYNAMITEBERRY'S BAR ――
 通称、ダイナマイトベリーの店。
 イーストシティは東方司令部とその周辺を中心地として栄える街だが、この店は東方司令部から歩いて五分という大変好条件の位置にあった。
しかし昼間は、他店の繁盛とは無関係に閑古鳥が鳴いている。
 というのも、主であるダイナマイトベリーが元軍医で、暇を持て余した軍人たちが頻繁に出入りを繰り返しているせいだった。
 いくらイーストシティの復興に軍部が貢献しようとも、やはり軍人は敬遠される生き物である。必然的に一般の客はダイナマイトベリーの店に寄り付こうとはしない。
 ただ昼はそうでも、夜は立飲み客が出るほどの繁盛ぶりなのだ。もちろん客の大部分は軍服を着た人間だったが、ダイナマイトベリーは軍人たちのどんちゃん騒ぎを愛していたし、時には、現役の軍人を捕まえて皿洗いをさせたり、ボーイの代わりに銀製の盆を持たせたりと、酒場の主に必要な茶目っ気さと豪胆さも兼ね備えていた。
 とにかく、ダイナマイトベリーの店と言ったら、軍人たちの間では「昨夜何があったか知ってるか?」と言ったふうに、屋号を省いてすら通用する有名な店であったのだ。
 エドがこの店の名を知ったのは、だから、国家錬金術師の資格を取得し、軍属の肩書きを得てすぐのことである。
 最初に誘ってくれたのはハボックだった気がする。その時はホークアイもいたし、ヒューズもいた。そう――ロイに関係の深いほとんどの人物が顔をそろえていたが、ロイだけがいなかった。
 店に誘われるたびにそんなことが何度か続いて、エドは密かに疑問を持ち始めていた。
 ロイはダイナマイトベリーの店以外であればエドとの食事を歓迎しているようであったし、特にダイナマイトベリー本人を嫌っているような素振りもなかった。もちろん軍人同士のどんちゃん騒ぎが嫌いだということもないはずだ。口では静かに飲みたいなどと言いながら、いざ飲み会になれば率先して騒ぐような男なのである。
 にも関わらず、行き先がダイナマイトベリーの店という時は決まって遠慮する。
 偶然にも、エドがその理由を知る機会に出くわしたのは、店の常連に名を連ねて二年ほど経った春の日のことであった。
 
 昼間に唐突に時間が空いて、軍部に入り浸るのもつまらなかったので、ダイナマイトベリーの店に昼食を取りに行ったのだ。
 ダイナマイトベリーは、がっしりとした体格にスキンヘッドという、間違えても元医者には見えない男だった。いつも派手な柄の入った半そでのTシャツを着ていて、眉のない目の端と額に不機嫌そうな皺を寄せている。
 しかし、この強面の主、外見に似合わずかわいらしいものが好きで、彼の店の至るところには小さな花の鉢植えがあり、料理を載せてくる皿の一枚、グラスやカップのひとつにしても、リボン柄や星柄の模様の入ったものが多い。酒場であるから、主自身は最低限雰囲気を壊さないように気をつけているらしいが、台拭きの手ぬぐいがこっそりイチゴ柄だったりするのをエドは知っていた。 
 ダイナマイトベリーは更に子供好きだ。
 当然、その日もエドはアルフォンスと共に大歓迎を受けた。店には他の客はおらず、彼はまずオレンジジュースの入ったリボン柄のグラスをエドに差し出した。
「久しぶりじゃねぇか、エド坊。おう、アル坊はこっちに入れ。ちっとこの樽運ぶの手伝ってくれや」
 ダイナマイトベリーは気軽にアルフォンスに声をかける。
 彼はかつて一度だけ鎧姿の弟にも食事を勧めたことがある。けれども、それ以降は決してそういった話題を向けることはなかった。代わりに、アルフォンスの姿を見つけるとカウンターの中に呼び、煩わしくない程度の仕事を手伝わせる。
 ――多分気を遣ってくれてるんだよね。
 いつだったか、アルフォンス本人が嬉しそうに言っていた。確かに酒場では見知らぬ相手にも酒や食事を勧める輩は大勢いる。店主の手伝いをしているという名目があれば、断りも易い。
 きっとヒューズあたりから事情を聞いたのだろう。強面でも気の良い店主は、直接には何も言わないし、何も尋ねてはこない。エドの機械鎧の右手を見ても、分厚い瞼をそっと伏せただけだった。
 こういう経緯があって、エドはダイナマイトベリーを気に入っている。
 なので、その日、彼があるものを持ち出してきても、そう嫌な気持ちにはならなかったのだ。
「よぉ、エド坊。いつかお前にも頼もうと思ってたんだがよぉ……」
 店主はがっしりとした肩を心持ち小さくしながら言った。その頬は紅色に染まり、太く毛深い指がカウンターに「の」の字を何度も書いている。
 エドはぎょっとして目を逸らした。ダイナマイトベリーにすればおそらく恥らっているのだろうが、いかつい禿げ親父がそうしていてもかわいくない。できるだけそちらを視界に入れぬようにして、目の前のランチセットに集中していると、隣におずおず差し出されるものがあった。
 割れて、いくつもの欠片になったマグカップ。
 その緑色の破片を、更に白い皿の上に置いてある。何だか不思議な光景だ。
「……これ、なんだ?」
 エドが声にして問うと、ダイナマイトベリーはまたもじもじと身体を揺らした。
「おいおい、オヤジさん……視覚的にあんま楽しくねーよ」
「お……すまん。いやな、俺もよぉ、こればっかりは何度言っても緊張するんだがよぉ」
「あん?」
 赤い顔をした店主は、次に紙とペンを差し出す。
 ますますわからなくなって、そうするダイナマイトベリーを真面目に見上げた。彼は野太い咳払いをひとつ、神妙に告げる。
「俺はな、エド坊、昔から……その、魔法使いにあこがれててな」
「はぁ……?」
「いやいや、いくら俺でももちろん魔法使いが実際にいるとは思っちゃいねぇ! だが、似たようなことできる奴らはいるだろ」
「もしかして……錬金術師?」
「お、おう」
 ダイナマイトベリーは真剣に言っていた。エドはしばらく割れたマグカップを眺め、結論に達する。
「……これ、オレに直してほしいとか?」
 彼は身を乗り出してうなずいた。
「お前が錬成陣使わずに錬成するってのは、アル坊から聞いて知ってる。だが、俺はちょっとした趣味があって、お前にぜひとも錬成陣を書いてほしいんだ」
 熱心な様子で紙とペンを押し付けられる。
 エドが面食らっていると、カウンターの中から忍び笑いが聞こえてきた。アルフォンスだった。
「あのね、兄さん。ダイナマイトベリーさんは、錬金術師の錬成陣をサイン代わりに集めてるんだよ」
「錬成陣を集める?」
「そうなんだ。僕もこの前来た時に頼まれて、似たようなもの出されたよ?」
 アルフォンスが割れたマグカップを指差し言う。エドが説明を受けている間に、とうの店主は分厚いファイルを大切そうに持ってきた。
「これが俺の宝だ」
 厳かに言われてしまえば、こちらも雑な扱いができない。エドはひとまず食事で汚れた手を拭いてファイルを受け取った。
 古びた表紙を開くと、早速誰のものともつかぬ錬成陣があった。
「……そりゃ、コトー准将のもんだ」
 ダイナマイトベリーが懐かしげに口を挟む。ページを捲るたびに、円と様々な直線で描かれた幾何学模様の数々があらわれた。
 誰かに師事を仰ごうとも、基本的に錬成陣そのものは個人で創作するものだ。同じように見えるものにも必ずオリジナルの部分がひそんでいる。
 ダイナマイトベリーのファイルは、ざっと見てもそのことが窺えるような代物だった。同じ形のものがひとつもない。
「ふぅん……おもしろいな」
 エドも知らず熱心に眺めてしまった。
 ファイルの最後には、紙色の真新しい、アルフォンスの錬成陣もあった。
「錬成陣は書いた本人にしか扱えねぇ。俺がこうして持っててもクソの役にも立たねぇもんだってことは、よぉくわかってる。だが、まぁ……あこがれだ。俺は、見てその錬成陣に触るだけで満足なんだ」
 ダイナマイトベリーは夢見るように言う。
 エドにしても、錬金術と魔法を混合するような店主の言い分に引っかかるものがないわけでもなかった。しかし、わざわざ訂正して夢を壊すのも忍びない。結局断りきれず錬成陣を描き出すと、アルフォンスもほっとしたように笑ってうなずく。
「――ハイヨ、オヤジさん」
「おおっ、すまねぇすまねぇ! へー……これがエド坊の錬成陣か。アル坊のと似てる気はするが、比べてみると違うもんだなぁ」
「まぁね」
 店主は嬉しげに早速紙をファイルに入れている。
 その頃になって、エドはふと彼のコレクションの中にロイの錬成陣が見当たらなかったことに気がついた。
「そう言えば……」
 声にして呟いて、いやもしかしたら指摘するべきことではないのかも、と、口を閉じる。だが半端に言ってしまったのはまずかった。自然とアルフォンスがこちらを見、ダイナマイトベリーも振り返っていた。
「……えーと、さ」
 エドは苦笑う。
「どうしたの、兄さん?」
「なんだ、何かまずかったか?」
 店主がおたついて再びファイルを取り出そうとしている。
 誤魔化せそうもなかった。エドは腹を括って口火を切った。
「いや、オレの錬成陣のことじゃなくって――その中に、大佐のやつがなかったなぁって」
 ダイナマイトベリーが動きを止めた。
「に、に、兄さん!」
 アルフォンスが焦って鎧の口に人差し指を立てる。
「え? なんだ、やっぱまずかったのか?」
「まずいって言うか……兄さん、誰からも聞かなかったの?」
 何の話だと慌てるのはエドの方だ。
 元々気になってはいた。ロイの周囲の人間はこの店に集まるのに、ロイ本人はなかなか足を踏み入れない。微妙にダイナマイトベリーの話をしたがらないロイの様子。そう言えば、ダイナマイトベリーにしてもロイの話題は笑って聞いているだけで、自ら話に加わろうとはしなかった……かもしれない。
 エドは、目に見えて気落ちしてしまった店主を、申し訳なく見た。
「ええと……ゴメン。なんか悪いこと訊いちゃったらしいな、オレ」
「いやぁ、気にすんな。エド坊の疑問はもっともだ。ロ……いや、マスタング大佐は、この辺じゃ一番の錬金術師だからな。大佐が軍部に入隊してきた時には俺もまだ軍医を勤めていた。古い付き合いだ、頼みはしたんだがなぁ……」
「でも……断られたのか?」
 ダイナマイトベリーは声もなくうなずいた。
「なんで断るんだ?」
「さぁなぁ……ロ――あ、いや、マスタング大佐には嫌われちまったのかもしれねぇなぁ」
 禿げ頭を撫でながら笑う店主はいじらしかった。
 秘密の匂いがしている。
 エドは己の好奇心がむくむくと頭をもたげるのを感じていた。
 何より、ロイに関することには格別の興味もある。あの男の弱点などと言ったら地の果てまで探しに出かけても良いくらいだ。嫌いな相手ではないけれども、常にからかわれまくるから、こっちもからかってやるのだと野望に燃えている。そんなロイの――本人が口にしたがらず周りは知っていて、しかしあまり話が広がらないよう謀られていたエピソード、となれば――
 オモシロイ(弱点だったら泣くまで突付いてやろう)。
 エドの決断は早かった。
「オレ、頼んでやろうか?」
 ダイナマイトベリーが顔を上げる。
「大佐からはそんなに嫌われてないと思うしさ」
「ほ、本当か、エド坊……?」
「ああ!」
 うなずくと、店主の感極まった雄たけびが店中に木霊した。
「エド坊! おまえはこんなにちっさいのに……いいやつだなぁ……!」
「ちっさいは余計だっつーの! 待ってろ、今大佐連れてきてやるから!」
 何やら言いたげなアルフォンスの素振りが見えなくもなかったが、エドは残った料理を掻き込み、すぐに戻ってくるからと言い置いて、ダイナマイトベリーの店を飛び出した。
 
 
 ところが。
「……で、私に何の用だい?」
 エドが勢い込んで店主の落ち込みようを説明したあとの、ロイの第一声はそれだった。
 思わず二の句を忘れ、まじまじと相手を窺った。いつものように取り澄ました顔で笑っている男は、いつもと同じに見せかけて、いつもでは絶対聞かせないような冷えた声音でそう言ったのだ。
 ロイの私室であったから他に人はおらず、エドは広々とした彼の執務机の前に立たされていた。対するロイは、革の椅子に腰掛け足を組んで、表向きは穏やかな様子だ。
「えーっと……だから、さ」
 一応、果敢に切り込んでみようとはした。
「だから?」
 すかさず全然笑ってない声が訊き返してくる。
「だからその……オヤジさんの店に一緒に行かないかって話をだ」
「ああ」
「い……行く?」
「私が?」
「うん」
「なぜ」
 なぜって訊かれても……。エドはロイの態度に対応を決めかね、引きつった笑いを浮かべることしかできない。
 ロイは冷淡に言う。
「私は錬金術師を魔法使いと勘違いするような相手が好きではないだけだ。誰がどういう感情を持って私を見ようがかまわないが、それを私に押し付けないでくれ」
「でっ……でもさ、オヤジさんは、大佐にとっても古い知り合いなんだろ?」
「そうだ」
「じゃあ、錬成陣の一個や二個にそんな怒らなくっても、さ?」
「私の勝手だろう」
 取り付く島がないとはこのことだった。
 エドは溜め息をついて己の頭を掻いた。
「……そんなに嫌なのか」
「そんなに嫌だよ」
 呟きにまでしつこく答えを返し、幾分気を取り直した様子でロイは続ける。
「君の用件はそれだけか?」
「あーまぁ……これだけ、だったかな」
「私の考えは理解してもらえたかい?」
「まぁ……」
 わからなくもない。よくよく考えてみれば、彼は人間兵器としてイシュヴァールの内乱にまで借り出された錬金術師である。幾多の殺戮を悔いていれば、ダイナマイトベリーの持っている純粋なあこがれは虫唾の走るものでしかないのだろう。
 エド自身にしても、魔法使いと評してもらえるほど美しいものを錬成できた試しはないのだ。あこがれを向けられたところで――困るだけかもしれない。
 こちらが反発しないのを良いことに、ロイは晴れやかに言った。
「君に理解してもらえて良かったよ。なに、心配しなくとも時期が来れば、私もダイナマイトベリーの店に寄らせてもらう」
 どうも言い負かされた気分が抜けなかったが、エドは大人しく彼の私室を退出した。
 
 しかし、憲兵の行きかう通路をとぼとぼと歩く帰り道、偶然ホークアイに呼び止められる。
「あら、もう帰るの?」
「うん。なんかタイミング悪かったみたいで」
「タイミング?」
「オレ、ダイナマイトベリーの店に行かないかって、大佐を誘いに来たんだよ」
「そうだったの」
 ホークアイが思わずといった具合に笑った。
「断られたでしょう、大佐は大人げないから」
 大人げない?
 あまり関係のない単語に首を傾げると、ホークアイがおかしそうに言葉を付け足した。
「ロイ坊って呼ばれるのが嫌な腹いせだなんて……笑って許してあげても良いのにね」
「――はぁぁ?」
 エドは茫然となった。継いで呆れる。
「……中尉、それ本当?」
「ええ。エドワード君もそう聞いてきたんじゃなかったの?」
 ホークアイに言われて思い出した。確かにダイナマイトベリーはロイのことを呼びづらそうにしていた。あれは呼び慣れた呼び名が使えなかったせいなのだろう。
 ようやく事態を飲み込んだエドは報復に燃えた。
 すぐさま来た道を引き返す。最初急ぎ足だったものは、途中で楽しさを堪えきれずに駆け足になった。
 ロイの私室の扉が見えた。第一声はもう決めている。
 ノックはしない。開け放った扉のその場所から、エドは満面の笑みで言ってやった。
「よくも騙したな、ロイ坊!」
 沈黙。
 執務机の向こうのロイが、本当に嫌そうな顔でこちらを見た。
「……もうバレたのかい」
「当ったり前だ、ロイ坊! 大人げないって中尉も言ってたぞ、ロイ坊! いいじゃんロイ坊って呼ばれるくらい、ロイ坊! オレはかわいいと思うぜ、ロイ坊!」
 扉を開け放ったまま大声で連呼してやったので、辺りを歩いていた憲兵たちが呆気に取られ立ち止まっている。
 ロイは盛大な溜め息をつくと立ち上がり、エドが全く閉める気のなかった扉を自分で閉めた。
「……だから君には言いたくなかったんだ」
「もっともらしいウソつきやがって。よく考えたら、大佐がそんな繊細なわけねーよな」
「別に全部嘘だったわけじゃないよ」
「あーそーかい」
 エドが取り合わずにいると、ロイは扉に片手をついたまま肩を落とす。
「わかった、私が悪かった。それでだな、鋼の。できればさっきの……」
「ロイ坊?」
「それだ、それを口にするのは遠慮して欲しいのだが」
「ヤだ」
 嫌味なくらい笑顔で答えてやったなら、彼は頭痛でも起こしたように額を押さえた。
「いーだろ別に。かわいい呼び名じゃねーか」
「君は本気でそう思うのか」
「思う思う。かわいいって絶対」
「そりゃ君くらいの年齢だったらそれでも許されるだろうが、私はもう良い大人だ。しかも佐官だよ、いくらなんでもその呼び名は許されまい」
「そうかなぁ」
 ロイは恨めしげにエドを睨む。
「君もあと数年すれば私の気持ちがわかる」
「今はわかんねーもん」
 彼の反応がおもしろくて、わざとそっぽを向いた。
 多分ロイはそれで下手に出るのを諦めたのだ。
「そうか」
 短い一言。不穏な気配が漂ったと思ったら、突然こちらの顔すれすれの場所に音を立てて手をついて、
「では、わかってもらえる努力をするよ」
 見上げれば、何だか凄絶な微笑みを浮かべるロイがいた。
 ――しまったかも。
 危険を察知して、エドが口を開こうとした、その時である。
 さら、と。思ってもみないやさしさで彼の指がエドの前髪を梳いた。彼は更にこちらに合わせて背を折り、片手でエドの頬を支える。
 そうして呼吸がかかる距離で目の奥を覗き、ロイはゆるく笑った。いつもの取り澄ました表情ではなく、ただ静かな笑い方だった。
 エドは声もなかったが、内心で大慌てしたのは言うまでもない。
 端正な顔を目の前に、図らずも鼓動が跳ね上がる。一瞬で頬に朱を昇らせた己をどういうふうに見ていたのか、男は余った片腕でエドを身体ごと浚うように抱き寄せた。
 額と額が触れ合って、そんな状態でまた笑われて息すら飲まずにはいられない。頬から滑り落ちる男の指は、まるであちこちにキスでもするかのごとく恭しく触れていく。
「……た、いさ?」
 どうにか名を呼んだなら、その指はエドの唇にたどり着き――
 指で言葉を封じたまま、彼はゆっくりと耳元に口を寄せた。
 そして。
 
「……エド坊」
 
 それは甘い声だったかもしれない。
 ひそかに本当に外耳にキスされたりもした。
 しかしエドの緊張は一息に果てた。果てたどころか、怒りまで再燃する。
「……こ、の……っ、クソ大佐!」
 力いっぱい突き飛ばした。ロイはこちらの勢いにされるがまま床に尻餅をつき、しかし既に肩を震わせて笑っている。
「今のはなんだ、バカヤロー! ふざけたことすんな!」
「今のは色仕掛けと言う。戦略のひとつだよ」
「うるさい! クソ……っ、覚えてろよ! 今度からあんたのことずっとロイ坊って呼んでやる!」
 必死に啖呵を切ったエドを、ロイは不敵な様子で見上げた。
「そうか。では私も君をエド坊と呼ぼう」
 爆弾発言だった。ダイナマイトベリーに呼ばれるのはかまわなくとも、ロイにそう呼ばれるのは絶対嫌だ。
 エドは自分が真っ赤になっているのか真っ青になっているのかわからなかった。ただ怒りと羞恥に言葉を失っていると、更にもうひとつ、効果的な爆弾が投下される。
「それに……次は噛みつくから。気をつけなさい」
 ――やにわに耳にされたキスなんかが思い出されたりして。
 今度こそ間違いなく身体中が茹で上がった。
 これ以上恥ずかしい台詞を吐く男に遊ばれたくはない。エドは意地で一睨みを効かし、あとはもう脱兎の勢いで彼の部屋から逃げ出していた。
 だから、結局、彼が最後に自嘲した言葉を知らない。
「まいったな……うっかり本気を隠しそびれた」
 
 こうして手ぶらで戻ると、ダイナマイトベリーはさすがに残念そうな顔をしたが、また次があるさと笑ってくれた。
 エドがロイをこの店に引っ張ってくるのは当分先のことになりそうだった。