キラキラ光ルヲ空ノ星ヨ

X.ロイ

 他国からの珍木が軍属研究所に到着したという話を、ある女性所員から聞いたのはつい一昨日のことである。彼女によれば、その珍木は樹皮が薄赤く、春になると淡いピンク色をした小さな花を枝いっぱいに咲かせるのだそうだ。
 もうすぐ開花予定だから見にきませんか、下心付きの誘いに心を動かされたそぶりで、
「申し訳ないが仕事が忙しくてね、私自身がどこかへ行きたくともどこにも行けない。だが見てみたいものだな、その珍しいと言う木の花を」
 ロイは言葉がどういうふうに女に響くか知っていた。
 案の定、彼女は直接顔を会わせられぬことを残念そうにしながらも、ならば一枝だけでも自宅宛に運ばせようと言い出してくれる。もちろん喜んで受け入れた。少し聞き知っただけではあったが、その珍木には以前から興味を持っていたからだ。
 かの花は、満開と同時に潔く散り始めるらしい。まるで恋人の涙が地に落ちるかのようだ――ある詩人は散花を讃えてそう詠った。
 見せたいと思ったのだ。
 思えば発端は些細な欲求だった。ちょうど同時期に東方司令部に現れた相手にとってみれば、それだけのことで?、と、怒りたくなるような話だったかもしれない。
 けれどもロイに言わせてみれば充分だった。
 元々すぐにも溢れそうになっていた。ぎりぎりの表面張力でどうにか体裁を保っていたところに、最後の一滴が落とされたようなものである。そして溢れてしまえば日常は儚い。
 ロイの部屋には今、恋人が隠されている。
 隠されている、というのは、まさしく言葉の通りだ。彼がロイの部屋にあることを知る者はいない。彼の弟ですら知りえない。
 証拠に、今日は当の弟くんから連絡があった。
「大佐、アルフォンスくんから電話です」
「珍しいな」
「ええ。エドワードくんの話です」
 ホークアイはロイが取次ぎを受ける以前に話したらしい。おそらく彼が姿を消したと聞いたのだろう。硬い表情が彼女の心配を物語っている。
 ロイも大部屋の一角で電話を受けた。
「――私だよ。君から電話をもらうとは思わなかった」
 我ながら白々しい切り出し方だった。もちろん何も知らないアルフォンスは受話器の向こうでしきりに恐縮を繰り返す。
 アルフォンスについて、ロイが個人的に思うことは少ない。ただ常々羨ましいとは思っていた。エドが全霊を懸けて守ろうとするのが、いつでも弟だったためだ。
 エルリック兄弟の絆は、彼らが同じ罪を背負い続ける限り、強くなる一方である。それは他人が欲しても仕方がない領域の絆でもあった。
 しかしロイは欲してしまったのだ。そして思いは溢れた。
 嫉妬と呼ぶのか、独占欲と呼ぶのか、恋慕と呼ぶのか、感情の種類などわからない。とにかく溢れた。
 だからエドを閉じ込めた。
「軍部に行くって出て行ったっきり帰ってこないんです、もう二日になるんです。こんなこと今までになくって……さっきホークアイ中尉にも話を聞きました。軍部の用件で兄さんがそちらにいることはないんでしょうか?」
「私もそういう話は聞いていないよ。確かに二日前にはこちらへ来たが、そのあとは彼の姿を見ていない」
「そうですか……」
「君は今どこにいる? 宿屋かい?」
「あ、はい。今日でここを出ていくはずだったんですけど……」
「宿泊は延ばせそうか?」
「はい、それは大丈夫です」
「ではしばらくそこで待っていた方が良いな。彼が君を置いてよそへ行くとは思えない」
 ロイが言うと、アルフォンスはあからさまにほっとした。
「そうですよね……もう少しここで探してみます」
「私も軍部の人間に聞いてみるよ。何か情報が出たら君にも連絡を入れよう」
「はい。よろしくお願いします」
 電話はあっさりと切れた。
 やり取りを聞いていたホークアイが指示待ち顔で傍にいる。彼女には司令部内にある軍属施設にエドワード・エルリックの姿がないか確認するように言い、見当たらなければ最後に彼を見た者を探すよう追加の指示を出した。
 こうしてロイは平然と仕事を続ける。
 時々部下たちと話し、冗談を言って笑い合ったり、気に入らない上司の悪口を言ったり、ヒューズと電話したりする。テロ組織から送られてくる声明文に溜め息をついたり、馴染みのパン屋からの差し入れに舌鼓を打ったりする。ホークアイに怒られ、遅れている書類の製作をせっつかれ、ファルマンやハボックたちに助けを求めたりする。
 誰に弾劾も受けぬまま、安穏とした一日が暮れていく。
 ロイが幼い恋人を監禁して二日――
 最初は自分が壊れたか狂ったかで、一方で悪辣なことをしながらも普通に生活できるのだと思った。
 しかし違うのかもしれない、ロイは思う。
 監禁は一般的に犯罪行為に分類された。だがエドのことを自分しか知らないという、この幸福を何としよう。幸福である人間が、日常を笑って過ごせるのは当たり前のことではないか。
「あれ? 大佐、もう帰られるんですか?」
 通路ですれ違いざま、夜警組のフュリーが振り返った。
「ああ。早く帰らねばまた仕事が増やされそうだ」
「ですね。道中お気をつけて」
「ありがとう」
 おそらく自分は、自分を信じる者たちへの裏切りと引き換えに、世界一の幸福を手に入れたのだ。


 外気はこのところ少し肌寒い。今日も例に漏れず、夕焼けが見える時間帯であるのに、空は鈍色の雲で覆われている。
 エドは寒い思いをしていないか。ふと気になって家路を辿る足が速まった。ロイは、自宅近くの料理屋で注文していた惣菜を受け取り、入り組んだ道を歩きながら、もう眼前に見えているコンドミニアムの六階端を振り仰ぐ。
 そうして振り仰いではっとした――窓が開いている。
 ロイの暮らす建物の外観は、白い塗装の施された近代的な集合住宅であった。建物自体は、元々軍が後ろ盾となって建設されたものらしく、設備は万端で住み心地は良いが、家賃が割高で民間には敷居が高く、未だに三分の二以上が空室のままらしい。
 買い手があった部屋ですら実際に人が暮らしているのかは怪しいところである。と言うのも、ロイ自身ここに暮らしていて他の住人と顔を合わせたことがないからだ。外から建物を見ていても、カーテンがついていたり、洗濯物が干されていたりするような部屋は見当たらない。
 だから、窓が開いていることに視覚的な不自然さを感じずにはいられなかったのだ。
 当然開いたのはエドだろう。あそこはロイの部屋だ。換気のためでも、外の景色を見るためでも、理由ならいくらでも考えられた。ただ――
「…………」
 窓辺にエドの姿は見当たらない。
 ロイは知らず眉を寄せ、建物の中に急いだ。郵便受けを確認するのも忘れ、鉄柵のついたエレベーターに飛び乗る。
 のろのろと上へ進む昇降機の中、歯噛みする自分がいる。
 胸に広がったのは不安であった。
 エドは昨夜ロイの傍にいると言ってくれた。彼の戸惑いにつけ込んで引き出した言葉ではあったけれど、律儀な彼のことである、昨日の今日で反故にするようなことはしないはずだ――頭では思うのに、信じきることができない。
 最上階、自動でのろのろと開く鉄柵を押しのけ、ロイは自室の入り口に駆け寄った。
 鍵穴にキーを差し込む。
 ……扉は普通に閉じられた状態だった。
 まず心底ほっとした。気付かぬうちに心臓が早鐘のような勢いで鼓動していた。
 エドに会う前に深呼吸で胸をなだめ、改めて扉を開く。
 直線上に見えるのは、南西に面した部屋だ。
 その部屋は、普段はあんまり陽当たりが良いので、椅子一脚を除いて荷物を置かず、玄関口まで光が射し込むよう、仕切りのドアも常に開きっぱなしにしてある。ただし今日は曇り空だった。室内全体が薄暗く、窓から吹き込む風も冷たい。
 先ほど下から見上げた窓は、この部屋のものである。
 ロイは慎重に足を踏み入れた。泥のついたブーツのまま履き替えることもしなかった。
 予想に違わず、エドはそこにいる。
 陽の射さないがらんどうの部屋にぽつんとある、華奢な椅子に腰掛けた彼が、静かにこちらを振り返る。
「……ただいま」
「おかえり」
 エドはロイのシャツを羽織っただけの格好だった。
 ロイが着ればちょうど良いものも、エドが着ると膝上まで隠れる長さだ。シャツの裾からは、生身の足と鋼の足が無防備に晒されている。襟口も、たった一つ釦を外しているだけなのに、鎖骨まで大きく開いてしまっていた。
「……寒そうだ」
 ロイが言うと、エドはぎこちなく笑った。手のひらが出るまで袖を捲くられた左手で、肩口から布が垂直に垂れ下がっている右袖を擦り、そうでもない、と呟く。
 やはり寒そうな仕草だと思った。
 ロイは惣菜の入った包みを下ろし、まず開かれたままの窓を閉じた。それから上着を脱いでエドをくるみ、更に上から己の身で彼を包んだ。
 腕一本足りない彼の身体は奇妙に細い。
「昼はちゃんと食べてくれたかい?」
「ああ、いや……なんか面倒くさくって」
「食べやすそうなものを出しておいただろう?」
「うん……」
 エドが口ごもる。ロイは重ねて問うことはせず、彼を抱え上げリビングへ向かった。
 リビングは隣と違って窓が開いていなかった分暖かい。
 エドをソファーに下ろし、再び取って返して、惣菜の包みを手に彼の脇へと腰掛ける。
「適当に見繕ってきたつもりだが……君が他に食べたいというものがあるのなら、もう一度探しに行くよ」
「いいよ。腹は減ってないし」
「昼も食べていないんだろう?」
「う、ん……」
 ロイは彼を覗き込み、真剣に言った。
「どうかワガママを言って困らせてくれ。そうでなければ、私は何をすれば良いのかわからない」
 エドが口を閉じ、次いで淡く赤面する。
 密かにその表情が嬉しかった。気だるげな彼も悪くはないが、やはり血の通った反応を返す彼の方が好きだ。
「……大佐ってさ」
「ああ」
「前から思ってたけど、意外とバカだよな?」
「私もそう思う」
 ロイが真面目に肯定すると、エドは諦めた様子で溜め息をついた。
「だったら、まずあんたは着替えてこい。軍服でメシ食う気か」
「わかった」
「あと、オレにも他に羽織るもの持ってきて。汚れても大丈夫なヤツな。片手じゃ上手く食べれないかもしれないし」
「すぐに持ってくる。でも君には私が食べさせるから平気だよ?」
「いーから持ってくる! それにちゃんとテーブルで食おう」
「言う通りに。他には?」
「えっと……あったかいスープが飲みたい」
 惣菜の中にスープはない。彼の口から出てきた要望らしきものに、ロイはそっと笑顔を浮かべる。
「缶詰でいいかい?」
「うん。コーンのやつ」
「わかった、すぐに温めよう。他には?」
「他には……えーと、えーと……」
 部屋を見回したエドの視線が止まったのは、朝にロイが用意して出て行った、パンが小山になった籠である。
「……バターとジャム、塗って欲しい」
 ロイは苦笑する。確かに片腕ではできない作業だ。
「いくつでも」
「そんなに食えねーよ」
「そう言いつつ君は食べるじゃないか」
「大佐が多めに出すからだろ。残すの勿体ねーし」
「食べてる時はしあわせそうだからね」
「オレのことか?」
「そうだ。君がしあわせそうだから、私も食事は好きだよ」
 言えば、また黙り込んだ。彼の頬も耳も赤い。ロイは軽く口付けし、早速告げられた注文の数々を叶えるべく動き始めた。
 まずは寝室へ行き、エドのためのカーディガンを引っ張り出す。
 エドには、この家のどこでも勝手に漁って良いのだと断った。しかし、見る限りでは、クローゼットも他の棚も、食器棚の中でさえ触ったあとがない。
 探さなければ、彼の右腕も見つからないのに。
 ロイは最初に言ったのだ。
「この家のどこかに君の腕を隠した」
 エドが聞き逃したとは思わなかった。万一聞き逃していたとしても、ロイが司令部にいる時間を使うなら、残った左腕で錬成陣を書くことも、鍵のかかった扉から逃げ出すことも可能だろう。
 元々ずっと閉じ込めておける相手ではない。エドが本当に終わりを望むのなら、受け入れるしかないのだということもわかっていた。
 それでも、ロイからは奪った義肢を返すつもりがないのだ。
 己の着替えを済ませ、リビングへ戻る。
 エドは手持ち無沙汰な様子で、先ほどロイが運んでやったソファーの上にじっとしている。
 動かずにいる彼がひどく愛しかった。軍服の上着を受け取って、代わりにカーディガンを羽織らせる。
「寒くはないかい?」
「平気だって。過保護だぞ」
「知っている。だが甘やかしたいんだ」
 彼の手のひらが咄嗟にロイの口元を覆った。
「もうしゃべんな!」
 不機嫌そうなくせに、やっぱり頬と耳が赤い。
 彼より年上で良かったと思うのはこんな時だ。押さえてくる手に故意に唇をつけ、ロイは笑う。
「話さなくても甘やかすことはできるよ?」
 言いざま早速エドを抱え上げた。わぁわぁ騒ぐ声は無視して、キッチン脇にあるダイニングテーブルの椅子に下ろす。
「大佐! オレにはちゃんと両足があるんだ!」
「見ればわかる」
「わかってねぇだろ!」
「そんなことはない。ただ私が君に触っていたいからさ」
「っ……」
「触れる機会があるのに、みすみす逃すのは勿体ないと思うだろう?」
 エドは再び真っ赤になって黙り込んだ。
 口で敵わなかった腹いせか、背中をばんばん叩かれ、早々にキッチンへと追いやられる。ロイはと言えば、気分良くスープの缶詰を出し、中身を鍋に空けるのだ。
 未だ背後からは恨めしげな視線が飛んでくる。
 これ以上彼の機嫌を損ねぬよう笑いを消して話しかけた。
「――今日の日中は何を?」
「別に。窓の外見てたくらい。大佐は?」
「電話でヒューズと話したな」
「また? 昨日もそう言ってなかったか?」
「毎日かかってくるんだ。大半はくだらない話だが、あれだけ連日話していれば、いざという時も怪しまれずに情報交換できるだろう」
「ふぅん……頭使ってんだな」
「戦ってるのさ、何しろ遠い道のりだ」
「それなのにオレに構ってて大丈夫なのかよ」
 特に気にせず言ったのだが、答えたエドの声音は一段低いものになっていた。
 ロイはこっそり振り返る。エドは何だか後ろめたげな表情でうつむいている。
 野望の達成を応援してくれていた彼だから、今の状況を危ぶんでくれたのかもしれない。思わず苦笑った。ロイがやさしい感情を向けてもらえるほど善人ではないことに、エドはまだ気付いていないのか。
「今日、弟くんから電話があったよ」
 唐突に言えば、即座に跳ね上げられる肩。
「……なんて……?」
 ロイは小さく微笑んだ。
「宿泊を延ばすそうだ。弟くんは君を待つだろう」
「…………」
「私は彼に嘘をついた。彼だけにではなく、部下たちにも。心は少しも痛まなかった。君のことを私しか知らないということが嬉しかった。この先、誰が君を探そうが、おそらく私は隠し通すはずだ。――鋼の? 私に同情する必要はないんだよ」
 エドが何かを言いたげに顔を上げる。それを待たず、ロイはコンロに向き直り、コトコトと音をさせ始めた鍋の火を止める。
「――さて、スープは温まった」
 食べよう?、再び目を合わせた時には、エドももう何も言おうとはしなかった。
 
 
 
 Y.エド
 
「この家のどこかに君の腕を隠した」
 目が覚めたら右腕は既になく、どこか現実味のない表情をしたロイが寂しそうな顔で笑っていた。
 不思議と怒りはなかった。ただ驚いた。彼がそれほどエドを欲しているとは思ってもみなかったからだ。
 ロイとは、これまでに何度かキスを交わしたり肌を重ねたりもしたけれど、彼の中でのエドの存在は決して一番にはならないものだと思っていた。
 だが、その認識は間違いだったらしい。
 最初の晩、ロイはそれこそエドが疲れて動けなくなるまで求め続けた。終いには声すら出なかった。体内深く彼を埋め込まれ、互いの唾液で喉までべたべたになるようなキスをした。
 その夜ほど強く手を握られたことはなかった。愛しげに髪を梳かれたことはなかった。ロイの愛撫は恭しく感じるくらいで、エドは、己の肩と足の鋼の接合部分に、まるで感覚を持つ箇所のように何度も口付けられ、気が触れそうな思いをした。
 ソンナニ好キ? オレノ何ヲ?
 問いかけたなら、あの時の彼は何と答えたのだろう。本当はエドには少しもわからないのだ。彼がどうして自分を好きでいてくれるのか――やさしくしてくれるのか。
 相手を理解しないまま離れられるほどエドの中のロイも軽い存在ではなかった。彼が何を求めているのかを知りたくて、彼に従いこの家にいる。
 家は檻なのだとロイは言う。しかし、逃げ出す道が予め用意された檻がどこにあるのか。
 隠された右腕はエドが探し出せば返すと言うし、彼が司令部にいる間は部屋を勝手に行き来して良いとも言われた。つまり逃げたい時に逃げろ、と。わざと脆くした檻で彼はエドを拘束したのだ。
 おかげでエドは苦しくてたまらない。部屋のどこで義肢を見つけ、ここにいる理由を失ってしまうかわからず、迂闊に歩き回れもしない。
 決して外に出たくないわけではないのだ。アルフォンスに連絡を取りたいとも思う。
だが、もしもエドが自分から檻を出てしまったなら、ロイとは二度と一緒に過ごせなくなる予感があった。
 ロイはずるい。ロイだけがエドのことを好きみたいに言うから、ずるい。エドだってこんな状況でいても真剣に怒ることができないのだから、決別など選ぶはずがないではないか。
 何をしたら良いのか、何を望まれているのか。
 結局わからないまま今夜もただ傍にいる。
「今日は星が見えないな」
 殺風景な空を仰ぎ、かすかに表情を曇らせる彼。
「……星が見えたら、大佐でも願いかけたりするの?」
 さり気なく問いかけてみても、やさしく抱き寄せられただけで、答えは返って来なかった。

 生身同士の手のひらが重なる。指を一本ずつ絡める重ね方。
 シーツにくるまって儀式のように行われるそれを、何とも言えない気分で見つめる。
 身体の奥底にはロイがいる。
 ゆるゆると身体を揺すられたせいで、開かれた痛みは瞬く間に忘れてしまった。
「……指の先まで熱い」
 ロイの声は少し笑っているように聞こえた。
 繋がったまま会話を始めるのは気恥ずかしかったが、からかわれていると思うと黙っていられない。
「大佐だってそうだろ……」
 どうにか苦く言ったのに、
「そのようだ。こうしていると、体温まで同じになるものだな」
 甘く突かれ、すかさず濡れた声が出る。ロイはまた笑ったらしい。エドは悔しくて彼を睨んだ。
「……こーゆー、ときまで……っ」
「ん?」
「なんであんただけ余裕なんだよ……っ!」
 強く言おうとすると、中にいる彼を食い締める形になってつらい。しかし、息を上げたこちらに、当の男は心外だと目を瞬かせた。
「余裕? 君にはそう見えるのか?」
「そうだ、ろ?」
「余裕などないよ。何しろ――」
 言いながら、元々奥にあったものを更に押し込まれ息が詰まった。まるで喉元まで彼に犯されている気分で、エドはついに目を開けていられなくなる。
 涙を溜めた瞼の上に、ロイが小さく口付けした。
「……溺れているのは私の方だ」
 そのまま深くを捏ねられた。エドは何度も悲鳴を上げ、彼の下から逃げようとしたが無駄だった。動く片手は捕まったままであったし、ロイの空いた手は、エドの腰をきつく掴んで離してはくれない。
 叫び疲れて逃げることも忘れた頃、今度は身体をうつ伏せにされ、背後からじっくりと貫かれる。
「ん、んん……ぁ……」
 そうしながら、彼は蜜で濡れそぼっていたエドの前を探るのだ。
「や、ぁ……っ」
 過敏な先端で遊ばれ、幼い子供のように泣きじゃくる。
 ロイの手はやさしいくせに意地悪だった。昂ぶらせるだけ昂ぶらせ、最後の刺激はなかなか与えてくれない。
 まるで少しでも長くエドの中に熱を留めていたいかのようである。経験のないエドにとっては無体に近い愛撫だった。
「アッ……ア、ん、は、ぁ……ァ」
 何度も抜き差しされ、ようやく奥に熱を吐かれる感触がある。
「んふ、んぅぅ……」
 固く抱きかかえられたのも束の間、彼はずるりと身を引き、エドの腰だけを抱え上げ、たった今まで彼に埋められていた箇所を露にさせる。
 間もなくトロ、と、溢れ出るものを、ロイの指が掬ってまた内に飲み込ませた。
「ふ、ぇ……っ」
 エドは泣きながらシーツに噛み付く。
 彼はすぐに出ていってはくれなかった。濡れて充血した内部を辿り、かすかにしこった箇所を見つけると、指の腹でそろと押した。
「ッ!」
 シーツのおかげで声は漏れなかったが、全身は途端にわななき震え出す。
「う、くぅ……っ、う、んん」
 自分でも一体どうしてそんなところで泣くほど感じることができるのかわからない。初めてロイが見つけた時、エドは恐慌した。自分の身体は狂ったのかとすら思った。
 けれど何度されてもそこは同じだった。むしろ触れられるたびに敏感になり、強欲になった。痛みしか受け取れなかった交わりに、甘さやもどかしさが加わったのはそれからである。
 ゆっくりと内を擦られると肌が泡立つ。ロイの指に物欲しげに粘膜が絡むのが自分でもわかるのだ。
「……鋼の?」
 ひどく甘い声で囁かれた。
「シーツを噛むのはやめなさい」
 言われるままにそうした。くちゅくちゅと音を立てて捏ねられる場所は相変わらずで、エドはもう彼が飽きるまで身悶えるばかりになる。
「あ、あぁ……っ、やぁぁ、ん、ヤ、ぁ……っ」
 ロイは、エドが内からの刺激だけで蜜を滴らせる頃、ようやく中へと戻ってきてくれた。
 
 
 
 Z.ロイ
 
 陽光で目が覚めた。いつもの朝だった。
 長年の習慣というのは侮れぬもので、前夜にどれだけ疲れ果てようと時間になれば目が覚める。ロイは目覚まし時計が静かなうちにスイッチを切り替え、隣で眠るエドを見つめた。
 昨夜はずいぶん泣かせてしまったらしい。彼の目元には涙のあとができている。
 相手が成長を終えぬ子供であると知ってはいるが、実際に抱きしめるとつい限度を失う。家に閉じ込めてからはなお悪い。これが最後の夜かもしれないと思うから、情交は執拗になる一方だった。
 エドは何とも言わないが、きっと逃げ出したいと思っているに違いない。ロイ自身ですら欲の深さに怯えている。
 夢のような願いはいつまで持ち続けていられるものなのか。
 エドの金髪を梳いてみた。
 やわらかく暖かい感触に、図らずも胸が詰まる。
「……鋼の」
 もう彼が聞いていない間にしか願いを口にできないだろう。
「ずっと一緒にいたいよ……?」
 名残惜しく髪先に口付け、眠る彼を起こさぬよう、注意しながらベッドを抜け出る。
 一日中家にいたいというのが本音だが、そうすると今度はエドに逃げ出す機会がなくなる。ロイは努めて身支度を整え、最後にエドが片手でも食べられそうなものをテーブルに用意した。
 もう司令部に出向く時間だった。
 帰った時には無人になっていてもおかしくない部屋を見渡す。そうしてひとつ息をつき、気持ちを切り替え、外へと足を踏み出した。
 ところが扉に鍵をかけている時だ。朝早くから珍しくエレベーターの動いている音を聞いた。
 ロイ以外の住人の出入りなどほとんどないような建物だ。不思議に思って眺めていると、あの鉄柵のついた昇降機が最上階まで上がってくるではないか。
 最上階、つまりロイのいる六階である。
 間もなくエレベーターから顔を出したのは、細長いダンボール箱を抱えた若い青年だった。
「……君は?」
 あんまり珍しいことだったので自然と話しかけていた。青年は明らかに人の声に安心したように表情を緩める。
「良かった、無事に着いた……! エレベーターなんか使ったことがなかったもんで、焦っちゃいましたよ」
 彼は箱の宛名書きを確認し、
「ええと……ロイ・マスタングさんでしょうか?」
「いかにも」
「届け物です。中身が大変壊れやすいものだそうで、必ずこちらを上にしてくださいとのことでした」
 箱を受け取り、伝票にサインを書く。
 差出人を見れば合点がいった。
 某研究所の女性所員からの届け物である。ならば中身は、約束の異国の花だろう。
「ありがとう、ご苦労だった」
「いいえ、どうもありがとうございました!」
 青年を見送ると、ロイは懐中時計で時刻を確かめた。頭の中で遅刻の理由を捏造しながら、出てきたばかりの自宅へ戻る。
 寝室へ直行すれば、エドはまだ眠りの中である。
 ロイは静かに彼へと覆いかぶさり、柔らかな頬にキスを落とした。涙のあとを舌で辿り、軽く睫毛に口付ける。
「う……ん……?」
 気だるく呻く声が聞こえて苦笑が出た。そんなつもりはなかったのに、ひどく誘惑された気分になった。朝っぱらから何をしているんだと自分に呆れつつ、薄く開いた彼の唇へ己の唇を重ね合わせる。
「ん、ん……っ?」
 エドの目覚めは早かった。
 すぐに驚いたように胸を叩かれ、片手で突っ張られたが、ロイはキスをやめなかった。彼の頭ごと懐へ抱え込み、深く舌を絡めとった。
「……バ……カ!」
 それでもさすがに長くは続かない。
 足をばたつかせる彼に従い、大人しく唇を離す。
「バカっ! 朝から何サカってんだ、仕事行け!」
「そうするつもりだったんだが、届け物があってね」
 脇に置いていた箱を示す。
「届け物? オレに関係あるものか?」
「直接はない。私が君に見せたいと思っただけだ」
「見せたい?」
 エドが片腕で起き上がるのを助け、ロイはベッド端に腰を落ち着けると、包装を丁寧に解いた。
 少し開けば、花が内板に触らぬよう梱包材で根元を固定された様が窺える。中に入っていたのは、薄ピンクの花を鈴なりにつけた、樹皮の滑らかな一枝だ。
 ロイも振動を与えぬよう努力していたのだが途中で失敗し、箱から取り出すと同時に、いくつかを散らしてしまった。
「あ……っ」
 エドが思わずといった具合に声を出した。
 シーツの上に、さらさらと花弁がこぼれる。
「……その花……?」
「サクラと呼ぶらしいよ、異国のものだ」
 エドは枝を膝に乗せ、おっかなびっくりの様子で小さな花のひとつに指を伸ばした。と、指が触れるや否や、花びらはまた音もなく散花する。
 彼は瞳を丸くして呟いた。
「なんか……泣いてるみたいに散る花だな……」
 ロイはその評価に淡く微笑を浮かべた。
「君の興味を惹けて良かったよ。これは何かに活けておこう。私はそろそろ行かなければ」
 言うと、エドは今初めて知ったようにこちらを仰ぐ。
「そっか……もう出る時間なんだ?」
「ああ」
「そっか……」
 意外にも心細そうに目を伏せられて驚いた。おかげで、出掛けるタイミングをうっかり取り逃してしまう。
 束の間、互いに予期していなかった沈黙が落ちた。
 ロイは動かずにいたが、エドは手慰みに花の枝を弄ぶ。自然とシーツには新しい花弁が積もった。
「……あんまり泣かせてはいけない」
 先ほどの例えに被せて軽口を叩くと、恨めしげに睨まれた。
「大佐のせいだろ」
「私は何もしていないよ」
「オレが変な気分になるのがあんたのせいだって言ってんの!」
「それは光栄だ、私も捨てたものではないな」
 冗談に冗談を返したつもりが、こちらを見ていた瞳は不意に傷ついた様子で揺れるのだ。
「バカ、ほんとにあんたのせいだろ……?」
「鋼の……?」
 見る間に彼の瞼が涙を溜める。ロイはわけがわからず言葉を飲んだ。
 エドは堪りかねたかのように続けた。
「なぁ、大佐はオレに腕探してもいいって言ったよな。でも、もし本当に見つけて、オレがここから出てったらどうなるんだ?」
「別に……どうにもならないさ、私も無理に追うようなことはしないと、約束――」
「だから!」
 言いかけた声を遮り、彼はもどかしげに叫んだ。
「だから、それがヤだから出て行けないって言ってんのがわかんねーのかよ!」
 ロイは答えに迷ってエドを見た。
 エドが多少ロイのことを思ってくれているのは知っている。だが、それでは足りなかったから無理やり奪うことにしたのだ。家に閉じ込め、義肢を奪い、アルフォンスや錬金術を始め、彼を取り巻く様々なものから彼だけを隔離した。
 ロイのことだけを考えていて欲しかった。
 決して傷つける目的でしたことではなかったが、完全にエドの意志を無視した暴挙であることには変わりなく、事を起こした当初からエドに疎まれるのは覚悟していた。
 ――困った、と、思った。
 ロイは、己の鼓動が少しずつ早くなるのを感じていた。
 不安や恐怖や悲しさでそうなるのではなかった。
 期待である。
「腕なんか見つからなくったって、出たけりゃとっくに出てってる! でも、こんなでもあんたといるのは嬉しいし……スキなんだから、ダメになるってわかってて出ていけるわけないだろ!」
 必死に言い募る彼を、じっと見つめる。
 だって、まさかこれだけのことをして――決別を言い渡されることはあっても、許されるなんて考えてもみなかった。
 いつまでも反応の鈍いロイに焦れ、エドは拳でこちらの胸を叩いてまで訴えた。
「大佐、聞いてるのか! オレが自分で腕見つける前に何して欲しいのか教えろよ! 少しくらいのワガママなら叶えてやるから、叶ったらちゃんとあんたから腕を返せ! じゃないと……っ」
「……じゃないと?」
 本当に彼は許すつもりなのか。自分は彼にそれほど優遇される存在だったのか。
 眼で切実に問いかけるロイに気付いているのかいないのか、彼は悔しげにうつむくのである。
「いつまでも……怖くてこの部屋歩けもしない……」
 自然と顔が笑ってしまうのが止められなかった。世の中のありとあらゆるものに礼を言いたいとすら思った。
 ロイはその顔のままエドを下から覗き込んだ。視線の合ったエドは、ひどく驚いた様子で瞬きした。
「鋼の?」
「なん、だよ……?」
「お願いがあるんだ」
「う、うん……」
「アルフォンスくんより私を好きになってくれ」
「え? え……、いや、アルと大佐とは……」
「君が言いたいことはわかる。でもとにかく私を一番好きになってくれ」
「……?」
「今すぐになれとは言わないから、未来はそうなると約束してくれ」
 エドは鳩が豆鉄砲を食らったような面持ちで首をかしげた。
「……て、だってそんなことが……?」
「うん。そんなことが望みだ」
 しばらく呆気にとられていた表情が、一瞬だけほっとした表情になり、次第に怒りの滲んだものに変わっていく。
「……大佐?」
 地を這うような彼の声を、久々に心底楽しんで聞いた。
「たったそれだけのためにオレを監禁したのか……?」
 言うや否や、顔面目掛けて飛んでくる拳を、間一髪でよける。
 エドの怒りは凄まじかった。ロイが器用に逃げ回れば、とうとう癇癪を起こして辺りの物を投げ出すのだ。
「あんたは――一体どこのガキだ! どーしてそんな理由で腕隠して、部屋に閉じ込めて――いろんなヤツ騙す必要があったんだよ、バカッ!」
「待ってくれ鋼の。話せばわかる」
「わかるかぁ!」
 シーツが投げられ目隠しをされ、ロイはついに捕まってしまった。けれども殴りつけてくるエドの手に力は入っておらず、ロイはと言えば、むしろ甘えられている心地になってしまって、布越しに彼を抱え込まずにはいられない。
「……すまない」
 決して重くしてしまわないよう言った。
「私は意外と独占欲が強かったらしいよ……迷惑をかけた」
 直接の答えはなく、ぽかりと後頭部を叩かれる。
 エドはやさしかった。
 すまない、ロイはもう一度心から謝り、自分より小さな恋人に愛しく額を擦り付けた。
 
 
 * *
 
「言っとくけど、オレが大佐を一番好きになるかどうかっていうのは、大佐の努力次第なんだからな!」
「努力にも限界があるだろう?」
「知るか。ちょっとは堪えろ。死ぬまで努力しろ」
「……君に捨てられたら泣くよ私は」
「知るかっつーの」
「つれないなぁ……。どこかに君を夢中にさせる妙薬でも落ちていないかな」
「そんなの使ったらその場で絶交」
「ならば星にでも祈るしかないじゃないか」
 ロイの言い方に彼は笑った。
「バーカ。運任せなんて――あんた一番嫌いだろ?」
 全くだ。そんなことすら忘れていた自分が滑稽で、ロイは腹から溜め息をついた。