オニゴッコ協奏曲

 時々ふと遠くを見るのだ、と。最近の彼に対する噂を、エドがアームストロングから聞いたのはつい昨日のことだった。
 同僚であったヒューズが殉職したことが原因なのかもしれない。それとも中央へ異動になったことで心労がかさんでいるのか。考えてみれば彼は軍人である、何か意にそぐわぬ任務にあたっていてもおかしくはなかった。
 確かに、今こうして眺めてみても、ロイの様子は常と違うように見えた。
 軍の建物とちょうど通りを挟んだ位置にある、小奇麗なナチュラルフードの店だ。いろんな惣菜をバイキング形式で販売していて、軒先には、簡単な食事もできるよう小さなオープンカフェがあった。ロイはそのカフェの一角で、あまり腹の足しにならないサラダやパスタの類をのろのろと口に運んでいる。たまに見知った顔に声をかけられ、愛想良く笑って見せるのだが、次の瞬間には憂鬱そうに溜め息をつく。
 通りから男の様子を窺ったエドは、思わず隣にいたアルフォンスと顔を見合わせた。
「……本当に落ち込んで見えるな」
「大佐があんなふうにしてるの珍しいよね」
 アルフォンスの口調まで驚き気味だ。
 さてどうしようか、エドはしばらく立ち往生してしまった。実は、そんなに深刻なこととは思っていなかったから、適当にちょっかいを出すつもりで来たのだ。元々機会があるごとにロイに遊ばれていたのはエドの方で、ロイが調子を狂わせている時期なら勝てるチャンスもあると思った。
 だからわざわざ休憩時間を狙って襲撃に来たというのに。
 敵の、あの覇気のなさを何とするべきか。
 知らずむぅっと眉をひそめるエドに、アルフォンスが軽く苦笑する。
「行ってくれば。そうじゃなくても、まだお昼食べてないでしょ、兄さん」
「んー……」
 睨んでみる。いくら距離があると言っても、常なら充分気付いていそうな位置である。しかしロイはこちらを見ない。
 だんだん不機嫌顔になっていくエドをどう見たのか。アルフォンスは答えを待たずに話を進めた。
「ボク、あっちの噴水のところにいるよ」
「ああ……て、一緒に行かないのか?」
「ボクがいると気を遣うだろうから」
「誰が?」
「大佐」
 そんな話は初耳だった。今度はアルフォンスの言葉に驚いてそちらを振り返る。表情がないはずの鋼の甲冑姿の弟が、小さく首を傾けおかしそうに笑うのがわかった。
「知らなかった? 兄さんと話すのは楽そうなんだけどね?」
 結局アルフォンスを引き止めるタイミングは逃してしまった。そのまま大通りへ向かう鎧の背中を見送って、エドは改めてカフェに居座るロイを眺める。
 ロイが憂鬱そうにする原因なんて全く特定できない。彼とは頻繁に顔を合わせるわけでもないし、何か悩みがあったとしても打ち明けあうような間柄でもない。一番ありそうなところでは、たとえ話を切り出してみたところで、子供(エド)には関係ないことだと言われて終わりになるかもしれない――
 頭では思案しつつ、エドの足は既に件のナチュラルフーズ店に向かっている。
 特に励ましてやろうと思ったわけではなかった。ただ放っておけなかったのだ。
 とは言うものの――エドは極々普通に店に入った。ロイは気付かない。極々普通にソフトドリンクを頼んだ。ロイは気付かない。極々普通に会計を済ませた。ロイは気付かない。極々普通に脇を通り過ぎた。ロイは気付かない。
 一瞬新手の嫌がらせかと疑う。それでけっこうな至近距離から殺気を込めた目で睨みつけてやったのだが――やっぱりロイは気付かない。どこを見ているのかもわからないような顔で、ぼうっとしている。ちなみに彼の手元のパスタも全然減ってはいないのだ。
「…………」
 こちらの気が抜けた。
 エドは黙って彼の向かいの席に腰掛けた。
「……おや?」
 そうまでして、やっとこちらに気付いた男に、何と声をかけたものか。
「奇遇じゃないか、鋼の。相変わらず旅の途中かい?」
 エドは答えなかった。代わりに男の手の中にあったフォークを奪い、トマトソースの絡まったパスタを一口口に運ぶ。別に不味い味でもない。冷めてはいても、普通に食べられる程度のものである。
 つまり、食欲までないと。
 男の不調はエドの気分まで重くさせる。
「……気付くのが遅い。オレが刺客だったら、大佐もう殺されてたよ」
「そうだったかい? ……それ、食べかけでいいなら君にやろうか」
「いらない。これは大佐の昼飯。別にまずそうじゃないのに放ってあるから、どんな味なのかと思っただけ」
 エドがつっけんどんにフォークを返すと、ロイが苦笑いをした。
「……いつから見てたんだい?」
「そんなに長くなかったさ。いーから食えよ。誰かが言わないと、それ残飯になりそうだ」
 男は小さく笑って、言われるままに食事を片付け始めた。
「……大佐、訊いてもいい?」
「うん?」
「疲れてんの?」
「…………」
 あっと言う間にキレイになった皿にフォークを置き、ロイはそっと笑うような溜め息をついた。
「何だかねぇ……力が抜けてしまう瞬間があってね」
「……うん」
「田舎に行って一人で暮らそうか、なんて考えることもあるわけだよ」
 尋ねると答えはするが、それはきっと今彼が憂鬱そうにしている直接の原因ではないのだろう。エドにしても、原因を聞き出したところで自分に何ができるとも思わなかった。
 ただ、やっぱり少しだけ悔しい。
 エドが落ち込んでいる時、ロイはやさしい言葉をかけてくれるわけではない。最近では傷口に塩を塗りこむようなことしか聞いていない気がする。にも関わらず、そんな時に聞く彼の言葉は、エドを次の目標へ向かわせるきっかけになることが多かった。
 あれは、ロイがエドの事情を知っているからこそのことだったのか。
 それとも、詳しい事情など知らなくともきっかけを作ることはできるのか。
「大佐」
 呼びかけにこちらを向く男をじっと見つめながら考える。
 落ち込んだ時にすること。自分が落ち込んだ時に弟たちからしてもらったこと。
「――……遊びに行く?」
「え?」
 束の間、異国の言葉でも聞いたように、ロイが茫然とした。彼の表情はなかなか楽しめるものだった。エドは己の機転が悪くないものであったことを直感する。
「そうと決まれば――大佐、休みってあとどれくらい?」
「休、み? あ、ああ……もう30分もないと思うな」
「そっか。じゃあこっち」
「こ、コラ、鋼の……っ」
 何が何やらわからない様子の彼の手を引っ張り、エドはまっしぐらにアルフォンスの待つ大通りの広場へ向かった。そこには立派な意匠を施した噴水があって、周りにはいくつかの露店が並び、派手な服を着た大道芸人たちがたむろしている。当然人通りも多く、噴水を囲った煉瓦をベンチ代わりに、憩いを楽しむ市民も少なくはない。
「アルーーーっ」
 遠くから大声で呼んだので、そこにいたほとんどの人間がこちらへ注目した。ロイの顔を見知っている者もいたようで、何人かが慌ててお辞儀をするのが目の端に映る。
 しかし、名も知らぬ彼らに、残り少ないロイの休み時間をくれてやるわけにいかなかった。気を抜くとすぐに話しかけられそうな彼をどやしつつ、エドは、驚いた様子で立ち上がっていたアルフォンスと合流した。
「どうしたの、そんなに慌てて?」
 大佐、こんにちは。などと律儀に頭を下げる弟の首根を掴み、エドは言うのだ。
「遊ぶぞ、アルっ」
「ええっ?」
「手短に――そうだな、オニゴッコ!」
「う……うん?」
「いーな!」
「は、ハイ!」
 ロイはまだ脇で茫然としている。説明するのも面倒だったので、エドは手っ取り早く彼の上着のポケットから発火布である手袋を抜き取った。
「――大佐、これなーんだ?」
 ぼうっとしていた目が、途端にはっと正気を取り戻す。泡を食って伸ばされた手をいち早く掻い潜って、エドは手袋の一方をアルフォンスに放り投げた。
「走れ、アルっ!」
「は、ハイっ!」
 ガシャガシャと破壊的な足音を響かせ、アルフォンスは広場を横切っていく。鋼の鎧は重い。おそらくすぐに捕まってしまうだろうが、そんなことは問題ではない。
 ロイがどういう顔をしたら良いのかわからない、というふうに、こちらを見た。エドは彼に向かって力いっぱい笑ってやった。ついでにアッカンベーも付けてやる。
「欲しけりゃさっさと捕まえな」
 次の瞬間、脱兎のごとく駆け出した。
「ま、待ちたまえ……っ」
「ヤーーーだヨ!」
 言い捨てて、振り返る。
 3メートル、5メートル。およそ10メートル遠ざかった頃、とうとうロイも走り出す。彼はまず動きやすいよう、きっちりと着こんでいた軍服の詰襟を開き、どうにか他の迷いを脇へ置いた様子で真っ直ぐにエドを射抜いてきた。
「――待つんだ!」
 今日初めての、その視線は気持ち良かった。
 エドは笑いながら駆け回る。
 何しろスタートでいくらかのタイムラグがあったから、普通に追いかけようとしてもまず捕まらない。ロイもすぐにそのことには気付いたらしい。ある時急に方向転換すると、先を走るエドを放って、まだ大通りの端にいたアルフォンスへと目標転換した。
「アルっ、気をつけろ!」
 そう声をかける間にも、彼らの距離は急接近していく。
 アルフォンスもしばらくは人込みを利用して逃げたようだったが、間もなく捕まって組み手争いになっていた。接近戦になればこちらに勝機はあると思えたが、ロイも伊達に大佐の地位まで昇ってはいない。手際よく大柄な相手を押さえ込み、発火布のひとつを取り戻す。
 いつしか集まっていたギャラリーからわっと歓声が沸き起こった。ロイは愛想良く手を上げて見せ、さっきまでの憂鬱な様子が嘘のようなふてぶてしさでエドを振り仰ぐのだ。
「やってくれるじゃないか、鋼の?」
 ふふん、と、余裕たっぷりに笑う彼。
 見れば腹も立つけれど、こういうロイの方が百倍いい。
「1個取り戻しただけで得意そーだね、大佐。こっちにもう1個あるんだぜ?」
 エドが笑うと、彼も深く笑うのだ。
「なに、そんなに時間はかからないさ」
「へー、やってみろよ」
「もちろんだとも」
 言うや否や、彼が例の発火布をつけるからたじろいだ。
 まさかと二の足を踏んだこちらに性格の悪そうな顔で微笑み、ロイが手をかざす。
「私に挑むとは良い度胸だ」
 コラバカ遊びだろー!なんて叫びを聞く暇もなく、その指が軽い音と共に弾かれる。
 エドは慌てた。炎の障害物になりそうなものは人しかない。もちろん、やたらに動いて無関係の市民を巻き込むわけにもいかず、衝撃を覚悟して目をつぶる。
 しかし。
 いくら待っても爆風は来ないのだ。
 騙された。気付いた時には遅かった。目を開けばもうすぐそこまでロイが駆けつけてくるところだった。エドは咄嗟に身を反転させ、彼の手から逃れる。
「ひ、卑怯だぞ!」
「こんな人通りの多いところで見境なく炎を錬成する私だと思うか」
「だって指鳴らしただろー!」
「鳴らしただけで錬成にはならん」
 ああだこうだ言い合いながら追いかけっこをした。噴水の周りをぐるぐる回って、アルフォンスの身体越しに睨み合い、露店にいた若い女性たちに「頑張ってください」なんて笑われながら、通りの端から端まで駆け回る。
 ロイは見かけによらず身軽だった。エドが路地にあった酒樽を転がした時も、苦もなく飛んでかわしたり、通行人にぶつかりそうなタイミングに誘い込んでも、決してこちらの思い通りにはならなかった。
 こうなると、歩幅が違う分エドは苦しくなってくる。
 アルフォンスはと言えば、戦線離脱をして以来、兄を助ける様子もない。
「……そろそろ観念したらどうかね?」
 如実に疲れの見え始めたこちらに、半歩後ろから駆けてくるロイが言う。
 エドは息も絶え絶えに、最後の意地でもう一度彼に舌を出し、ちょうど見つけた木箱の山に駆け上がった。
 上手く行けば、木箱で入口を塞がれていた別の路地へと降り立てるはずだった。
 ところが頂上へ行くや否や、ぐらりと足場が傾くではないか。
「――わ、わっ!」
 落ちる!
 身構えた時だった。下から、力強く掴み寄せる腕にさらわれる。
 がらがらともの凄い音がした。木箱の山が雪崩を起こした音だった。それが落ち着くと、次第にどきどきと世話しなく血をめぐらせている、己の心臓の音に気がついた。そして同じように早い鼓動を叩く、別の心音がすぐ耳元から。
「……全く危なっかしい」
 声は触れた場所から直接響く。
 エドはおずおずと上を振り仰いだ。気付けば、すっかり庇われるような姿勢で、ロイに抱きとめられていた。
「わ、わぁぁぁっ!」
 何だかわからないが、その近さにびっくりした。恥ずかしくて血が逆流するかとも思った。一刻も早く離れてしまいたくて暴れるのだが、ロイはこちらの身を拘束したまま、ごそごそとエドのコートを探り、いたって平然と手袋の片割れを取り戻す。
「――さて。どうしてこんなことをしたのだ鋼の?」
 そして本当に楽しげな口調で彼は言うのだ。しかも答えるまで離さないというふうに、エドの腰から腕を離してくれない。
 エドが根を上げるのも早かった。これ以上この男の近くにいたら死ぬとまで思う。
「き――気分転換だろ!」
「ほう」
「大佐が落ち込んでたから、ちょっとくらい刺激あった方がいいと思って、それで……っ」
「ナルホド」
「納得したら離せーーーっ!」
 叫ぶのとほぼ同時、ロイの忍び笑いを聞いた気がした。
 それから――額にふわりと触れるもの。
 咄嗟に声が出ない。目を瞠ることしかできなかった。己の額から離れたそれが、エドの瞳を釘付けにしたまま、また笑みの形に綺麗な弧を描く。
 ロイの唇。
「た、た、た……っ!!!!」
 エドはそれこそ頭のてっぺんから足の爪先まで真っ赤になった。
「大佐ーーー!! ナニした今? ナニ考えてんだアンタ!!」
 泣きそうに慌てるこちらをよそに、ロイは晴れ晴れとした様子で声を上げて笑った。
「親愛の情だろう? すまないな、急にいとしくなったものでね」
「い、い、いとしーとか言うなーーーっ!!!」
「ああすっきりした。君のおかげで午後からの仕事は楽しくやれそうだ」
「人の話を聞け!」
「いや聞いているとも。ちょうど休憩も終わりの時間だ。積もる話は今晩夕食でも食べながらどうだい?」
「聞けよ! 誰もそんなこと言ってねーよ!」
「私が言ってるんだ。なに、定時には仕事も終わる。その頃にさっきの広場で待っていてくれたまえ」
 話が噛み合っていないことすら計算済みの顔で、ロイは悠々と背を向けるのだ。
 結局一人で地団駄を踏み、エドは辺りに散らばった木箱を蹴って憂さ晴らしをするしかなくなる。あとから来たアルフォンスがしみじみと言った。
「本当に……兄さんと話してる大佐って気兼ねしないよね」
 そんなことちっとも嬉しくない。今度はエドがたそがれる番であった。