雪待ちポルノ 一幕

01
 どの駐屯地でも大抵一人はロイ・マスタングの名に過剰反応する相手がいる――
 エドが諸々の任務で旅先の軍属施設を訪問することは少なくなく、そういった場合、対応に立った相手の多くが「親しい人物は誰か」と訊いてくる。何度か他の名前も出したことはあるが、ロイの名前を出した時ほど興味津々に眺められることはない。
 あのイシュヴァールの英雄かと好意的に眺められることが半分。もう半分は、あの女好きで要領の良い男かと嫉妬と侮蔑交じりのものである。
 良くも悪くも目立つ男らしい。ロイの評判によっては、その名を出してしまったエドにもいくらか影響が出るのだが、現在滞在中の西部の駐屯地では、幸いにも好印象側の相手に遭遇することができた。
 ジャネット・サイモン少尉は三十代半ば、既に二児の母であるのだと、エドとアルフォンスに自己紹介した。
「内乱の時に少しだけ同じ隊で行動させてもらったことがあるの、それ以来尊敬してるわ」
 サイモンは眼鏡をかけたふくよかな女性だ。外見は本当に良き母親のそれであるのだが、ロイの話になると目の輝き方が違う。ウィンリィが機械鎧の話をしている時のようだと例えたのはアルフォンスで、エドも全くその通りだと思った。いくつになろうと勢いのついた女は怖い。こちらが内心で思うことを知っているのかいないのか、彼女はただエドたちがロイの知人だというだけで視察の任務に昼も夜も付き合ってくれた。
 そうして午後には東部へ戻ろうかという最後の日。ぜひ立ち寄るべきだと推されたのが、土産物の人形を販売している工房である。
「人形……って言われても……別に土産持っていくような相手はいないけど」
 さすがにエドも弟と二人で戸惑った。元々旅から旅への暮らしをしている兄弟である、誰かに土産を買うような習慣はなかったし、荷物が増えることも有難くはなかったのだ。
 しかしどういうわけか話を聞きつけた他の軍人にまで勧められる。しかも皆一様に笑いを噛み殺した顔をしていた。だから何かがあるとは薄々感じてもいたのだ。
 サイモンは笑って説明した。
「ただのお人形だったら私たちも勧めたりしないわ。見てくれたら一目瞭然なんだけど……外見的にはゼンマイ仕掛けで動く小さな木彫りの人形よ。厄避けの小物っていうのかしら、ゼンマイを巻いて歩かせれば歩かせるほど持ち主から不幸を遠ざけてくれるらしいわ」
 そんなおまじないグッズ尚更いらない。だが不平は無視され、サイモンは嬉々とした顔を隠さず、半ば引きずるようにエドとアルフォンスを件の工房へと案内する。
 軍人たちの思わせぶりな態度は、人形を一目見れば合点がいった。
「うわぁ……兄さんそっくり」
 思わずアルフォンスが声を上げた。
 弟の鎧の指でつまみ上げられた木彫りの人形は、確かに、赤いコートを羽織り金髪の髪を後ろで編んだエドの出で立ちにそっくりだった。
「でしょう! もう最初に会った時から絶対これをお土産にって思ってたの!」
「へぇ……。この兄さん人形が歩くたびに不幸を持ってってくれるってことですよね?」
「そうなの! かわいいでしょ!」
「かわいいって言うか何て言うか……これじゃ本当にマメっぽいって言うか」
「何だとぉ?」
「あ、いや、ホラ。本当にお土産にぴったりだって!」
 アルフォンスは早速いくつもの人形を手のひらに乗せている。工房に来る前はエドと同じく嫌々だったくせに、今ではすっかり買う気満々だ。
「コラ! お前それどこに配る気だ!」
「ウィンリィとかばっちゃんとか。そうだ、東方司令部の人たちにも配ろうよ、きっと喜んでくれるよ」
「冗談言うな、オレがからかわれるだけじゃねーか! 特に大佐なんか……っ」
「ええっ、なになに? マスタング大佐、エドワード君をからかうの? いーなーーーっ!」
 端で会話を聞いていたサイモンが、ロイの名前に突然過剰反応する。結局その場は彼女の勢いに押される形で、エドは弟の衝動買いを阻止することができなかった。

 思わぬ土産も購入しはしたが、兄弟は予定通りに午後の汽車で西部を旅立つことができた。
 いつもはのんびり過ごす車上でも、アルフォンスはゼンマイ仕掛けの人形をより分けることに余念がない。わざわざ個別包装用の箱までもらってきたらしく、エドの目の前で「これはウィンリィとばっちゃんに」などと言って楽しそうにしている。
「……本当にそんなもん配る気かよ」
 エドが苦く言っても知らん顔だ。
「いいじゃないか、これ良く似てたよ。村の誰に配っても喜んでくれそうだし、数はいくつあっても足りないくらいだ。兄さん、機械鎧の整備もしたいって言ってたじゃないか。長くなるんだったら知ってる人にもいっぱい会う、たまにはお土産くらい配った方がいい」
「うん、まぁ……」
 故郷の知人たちに不義理をしている自覚はあるから、正論を言われてしまえばエドも弱い。
「仕方ねぇなぁ……ウィンリィにはくれぐれも丁重に扱えって言っておけよ? 一応ご利益ありそうなもんなんだからさ」
 こちらの言い方にアルフォンスが笑った。
「了解。それで? 東方司令部にはいくつ持ってくの?」
「バーカ。村でいくら配ろうとお前の勝手だけど、軍部には一個も持ち込ませねぇ」
「勿体ないなぁ」
「嫌なもんは嫌だ、絶対ダメ。――大体ちょっと報告に寄るだけだし、もし何だったらアルだけ先に村に帰っててもいいぞ。この汽車リゼンブールまで直通だろ?」
「ひどいよ兄さん、僕ってそんなに信用ない?」
「信用はしてるけど、それとこれとは話が別。お前はけっこう意地悪いよ?」
 アルフォンスは聞こえないふりをした。それを見てエドは、やはり弟は兄の見ていない場所で馴染みの軍人たちに人形を配る気だったと確信する。
「……アル、お前本当に先に帰るか?」
 溜め息混じりに言うと弟はまた笑った。
「別にそれでもいいけどね」
 でも――、と、アルフォンスは続けながら、人形の小箱をひとつエドに手渡すのだ。
「とりあえず一個だけは兄さんに渡しとく」
 なぜ自分がもらわなければならないかわからず、しばらく小箱をじっと睨んでしまった。
「これ……オレにどうしろって?」
「うん? あげたら?」
「誰に?」
「大佐」
 エドは思わず沈黙した。
「たまにはそういうことしてもいいんじゃない? 兄さんわりと邪険にしてるけど、あんまり嫌なふりばっかりだと本当にそうだって勘違いされるよ」
 何だか胸にくる言葉だった。日頃の己は確かにロイが相手になると素直ではない。とはいえ、こちらがどんなに捻くれようが大人はまるっきりお見通しらしく、余裕たっぷりにかまい倒されるのが常だ。
「……大佐は気にしてねぇと思うけど」
 エドの反論にはアルフォンスも否定を唱えなかった。
「そうかもね。ただ時々はいつもと違ってもいいんじゃないかって、そういう話」
 軽く言われるとかえって深く響くではないか。
 エドは小箱を手にしたままロイを思った。決して嫌いな相手ではない。それどころか、もしも軍部に彼がいなければ、軍から下る任務をもっと疎ましく思ったに違いないのだ。エドが軍部に馴染む糸口を作ったのは終始ロイであったし、彼を通して多くの知人を得、彼のいる東方司令部では家族さながらの歓迎を受けるまでにもなった。
 感謝していないと言えば嘘になる。ましてやエドの中にある彼への感情は感謝だけのものではないのだから。
「――大体、兄さんってさ」
 エドが黙り続ける中、アルフォンスは世間話のようにそれを言った。
「大佐のこと好きでしょ?」
 まず耳を疑い、それからアルフォンスをまじまじと見返す。鎧の顔形からは表情は窺えない。エドは、前髪を掻くことで頬に血の上りそうな気配をやり過ごした。
「……あのさ、アル」
「うん」
「いや……その、好きっていうのはさ?」
「違った? そう見えるから言ったんだけど」
「……そりゃ嫌いじゃねぇよ」
 誤魔化したくて曖昧にした言葉も、長年共に過ごした弟には通用しない。
「そういう好きじゃなくってもっと違った好きだよ、心当たりくらいあるだろ?」
 今度こそ動揺は隠せなかった。エドは顔を覆い、喉で詰まりそうな息を吐き出した。
「ウソだろー……何でお前が知ってんの? オレってそんなにわかりやすい?」
 アルフォンスがからからと笑った。
「どうかな。兄さんとは四六時中一緒にいるからね、僕にはわかったけど」
 ではロイ本人にはどうなのか。あの、人より先回りすることが得意な男が、傍に寄ってくる子供の心がわからないなどということがあるのか。
 ふと先日の会話がよみがえる。
 ――恩だろう?
「うわぁ……」
 今更のようにあんなことを口にした男の意図に気付いてしまった。エドは頭を抱えて己の膝に突っ伏した。
 ロイは多分知っているのだ。だからあんな言い方をした。
 しかしそうだとするならその後の台詞はひどくないか。彼はまるで酒場女相手のような誘い方をしてエドをからかったではないか。いくら酒の席だったと言ってもこちらは傷ついた。ロイにとっては馬鹿を言い合うだけの相手なのだろうと、柄にもなく落ち込んだりもしたのだ。
「……でも……あれ? 待てよ?」
 エドは伏せた頭を、今度は別の疑問で傾ける。
 考えてみれば相手はロイなのだ、酔った勢いでも不用意な言葉を使うとは思えない。わざわざ口にしたとするなら、明確に傷つける意図があったのか、反応を見極めるためかのどちらかが目的ではないのか。
 そうだとすれば、傷つけたいほど嫌われていたのか――いや、気付かれるまでには至っていない可能性も捨ててはいけないし――違う、気付かれている――それでエドを遠ざけようとしたのだから結局嫌われているのか――しかし、嫌って傷つけたいのが目的にしては「恩」という言い回しは曖昧すぎないか。
「あれぇ? 納得いかねぇ……?」
「兄さん、兄さん」
 座ったまま身を二つ折りにして呻く兄を見かねたらしく、アルフォンスが苦笑交じりに声をかけてくる。エドは我に返って頭を起こした。変な体勢でいたせいで目の前がくらくらした。
「うわ、何か落ち込んだ?」
 そう訊かれるくらいには情けない顔を晒しているのだろう。
 どうしようもなくて溜め息が出る。
「落ち込んだわけじゃねぇけど……ちょっと混乱した」
「相談相手いる?」
 それは魅力的な申し出だった。この時ばかりはエドも素直にうなずいた。他人に打ち明けるのには躊躇があっても、兄弟になら恥じる気持ちは薄い。エドの覚悟を知ったアルフォンスも人形入りの紙袋を脇にやり、こちらの真向かいの席に座り直して、どうぞ、と、いつになく緊張した口調で話を促す。エドはそろりと口を開いた。
「だから、さ……お前が気付くくらいなら大佐だって知ってたっておかしくないとか思うわけだ」
「うんうん」
「そう言えばこの前変な話された気がするし……もしかしてオレの反応見てたのかもしれない」
「うん」
「わかったところで知らんぷりしてそうだとは思うんだけど。でもオレ大佐から無視されたことないし」
「あー……かまい倒されてるよね」
「だよな? それでその時もかまい倒された上できつい冗談言われてさ。一応近づくなって意味だと思うんだけど……良く考えるとしっくり来ない」
 何て言われたのさ?、アルフォンスからは当然疑問が飛び出した。エドはどこまで会話を再現すべきか悩み、二度、三度と口ごもった挙句に「誘われた」と言葉足らずの説明をする。
「冗談だっていうのは言い方からわかったんだ。でも自分のこと好きだって知ってる相手に冗談でそんなこと言うか? 嫌がらせにしても……なんか方向性違わねぇ? アルが気付くくらいならやっぱ大佐も知らないとは思えないし、知ってて言ったんなら、わざわざオレが嫌がりそうなことを選んで言ったってことで、そんなのまるで――」
 考えのままに話し続け、エドはそこで咄嗟に口を閉じた。自分が今言おうとしていたことを反芻し驚く。
 ――まるで嫌われたいみたいだ?
 こちらが黙ればアルフォンスも黙るしかない。しばらくは、機関車の蒸気を吹き上げる音と、線路の上を走る車輪の軋みだけが場を満たした。
 エドの中ではロイが語った言葉が渦を巻いていた。
 あの夜、ロイはエドが彼の傍にいる理由を恩という言い方で片付けた。納得できなかったのは当然だ、そんな義務感めいたものは少しもなかったのだから。しかしあの男は考えるなと言い、納得できなくてもそれで納得してしまえと言った。
 そうだ――エドの気持ちを正確に理解した上で。
 冗談に見せかけながら。
 彼を嫌うように仕向けたのだ。
「……っ……!」
 いつの間にか握り締めていた拳が怒りに震えた。
 エドは喉元に突き上げてくるものを堪えることができず、雷鳴のごとく咆哮する。
「――アッタマきた!」
 突然立ち上がり叫んだこちらに、弟が泡を食って手を伸ばすのが目の端に見えた。
「に、兄さん! 他にお客さんもいるから……っ」
「知るか! ああ、ああ、久しぶりにブチ切れたぞオレは! あんな男……っ、あんな姑息な馬鹿、さっさとコクって振られてやる!」
「に、兄さん、何か言い方変だよ?」
「いーんだよ! あの馬鹿こっちのこと知ってるくせになかったことにさせようとしやがった! 迷惑ならさっさと振りゃあいいだろ? 別にオレもしつこく付きまとわねぇよ!」
「あ、あの……兄さんってば!」
 同じ車両にいた乗客は多くはなかったのだが、さすがに話題の奇天烈さに注目が集まっている。必死で宥めるアルフォンスも可哀想だったので、エドも身体だけは再び座席に落ち着けた。
 それでも怒りは堪えようがない。
 ロイへの罵りは続く。
「人を馬鹿にするにもほどがある! 嫌いにさせればオレが傷つかないと思ったのかもしんねぇけど、そういう気遣い違うだろ? っていうか、正面衝突避けてんじゃねぇっつの! そんな面倒くさいかよオレって! 何もわかってねぇガキだから? あーあー、どぉせ猪突猛進のガキだよ、悪かったな!」
 エドが息切れを起こしたのをきっかけに、アルフォンスがここぞと口を割り込ませた。
「良くわからないんだけど。とにかく大佐がまずいことしたわけだよね」
「そーだ!」
 また言い募ろうとしたこちらを制し、弟はさとす。
「でもさ、これは僕が勝手に思ってたことなんだけど。兄さんって明らかに気に入られてるよ。兄さんと一緒にいると大佐すごく笑ってるもん、他と対応が違う」
「どーだかな。笑ってるふりぐらいいくらでもするぞ、あの男」
「あー……あの、でもね?」
「いい――もういい、わかった」
 エドは決意した。
「大体ああいう相手にうだうだしてんのが間違いなんだ。この際、当たって砕けてくる。なかったことにさせてなんかやんねぇ、きっちり振ってもらおうじゃねぇか」
「や、あの……そんなに急いで振られなくても……」
「思い立ったが吉日って言うだろ。アル、先に帰ってていいぞ。ちゃっと済ましてくるつもりだけど、大佐も悪あがきするかもしんねぇし」
 例の厄除けの人形もポケットにねじ込んだ。もしかしたら何かの小細工で役立つかもしれないと思ったのだ。
 備えあれば憂いなし。エドは呪いの呪文のように呟く。
「クソ、早く着かねぇかな……」
 苛々と眺めた窓の外では、偶然にも軍人たちの集まりが見えた。
 彼らの肩には喪章らしきものがあり、埋葬儀礼の真最中らしいことも窺えたが、そういった物寂しい風景も、沸騰したエドの頭を冷やすまでには至らなかった。

 

02
「あ……今日はお一人ですか?」
 敬礼をくれた憲兵に気持ちだけ手を掲げ、エドは東方司令部のエントランスを一息に駆け抜けた。
 階段を一段飛ばしで昇る。昇ってすぐの通路を左へ折れ、あとはひたすら真っ直ぐ。ロイ直属の軍人たちが集う大部屋への最短距離である。
「おや。これは……」
 途中でファルマンとすれ違った。
 やっぱり声を交わすことなく、手で挨拶しただけだ。不思議そうな視線が背を追ってくることはわかっていたが、止まってなどいられない。
 エドは唇を噛み締める。ようやく大部屋の入り口が見え、険しかったはずの己の顔が更に引き締まるのを感じた。だがこの顔では作戦には不適当なのだ。どれだけはらわたが煮えくり返っていようと今だけは――
 最後の一呼吸で笑顔を作った。
「――こんにちは〜」
 戸口では明るい声を張り上げた。すぐにいくつもの見知った顔がこちらを向く。
「元気そうだな」
 まずブレダに捕まった。一言二言適当に声を交わし、じりじりする思いを隠しながらエドは軽く尋ねるのだ。
「ところで――大佐は? 急ぎの用があるんだけど」
「ああ……もうそろそろここに来るんじゃないか?」
「ちょうど良かった。じゃここで待ってようかな」
 思った通りの展開だ。
「急ぎなら行き違いにならなくて良かったな。今晩から数日、大佐は特別任務で北部へ移動することになってる」
「……へぇ」
「ブリッグズ山近辺まで行くそうだ。今夜の夜行で出発するという話だし、長話はできねぇかもしれねぇが――」
「大丈夫、すぐ終わる」
 エドは普通に言ったつもりだ。それでも違う調子になってしまったのか、ブレダがふと話を切った。
「……おい?」
 彼が言いかけた時だった。にわかに通路が騒がしくなり、指示を確認し合う会話が聞こえてくる。大勢の足音と声。それらに混じって――エドの気持ちを目一杯まで張り詰めさせる男の声も。
 笑え、エドは己に命令した。
 いつもロイに会う時は嫌そうにしていた。格好だけでもそうしておかなければ、会っただけで馬鹿みたいにはしゃぐ子供に見られそうで怖かったのだ。
 笑え。エドはもう一度自己暗示をかけ、ロイが大部屋に足を踏み入れるタイミングを計って駆け出す。
「あ……っ、おい!」
 ブレダの呼び止める声も既に遠い。
 ロイがこちらを向く。エドが近づくのを知って、彼を取り巻いていた大勢の軍人たちと一緒に足を止める。
「……鋼の?」
 道を譲る人波を裂いてエドは走った。
 ロイの驚きに満ちた顔が見える。笑え、笑え、笑え。何度も唱えながら上機嫌な笑顔を作り、走った勢いも殺さぬまま男の胸に抱きついた。
「会いたかった、ロイ!」
 一瞬、見事に大部屋中が静まり返った。
 エドはいかにも甘えた声を作り続けざまに言ってやった。
「ずっと離れてて寂しかった! 忙しそうなのにごめん、でもちょっとでも会えたらやっぱり嬉しい!」
 せいぜい焦って慌てろ。それで嫌そうに身を引き離してくれればいい。あわよくば変な噂になって、軍部中にロイの醜聞が広まればいい。その時のエドは真剣にそう願っていた。
 計略は成功したかに見えた。
 ロイの周囲にいた軍人たちが恐ろしいものを見るようにエドを凝視し、未だ不動でいる指揮官を疑いの眼差しで仰ぐ。
 エドは変わらず満面の笑みでいた。抱きついた腕も放さなかった。甘えた様子も絶やさなかった。
 演技は完璧だったはずだ。けれども渦中のロイは、結果としてエドが考えていたどの反応も返さない。
 ただ、小さく息をつき、
「……これは何の褒美だろう」
 困ったように笑った。笑ったのだ、彼は。
 ――腹が、立った。
 せっかく作っていた笑顔ももうもたない。エドは抱きついていた男の胸を拳で叩き、自分から距離を取ってしまった。
「褒美……? 報復の間違いだろ!」
「君が私に良い顔を見せてくれるのは褒美だと思うが」
「ふざけんな! これのどこが良い顔だ!」
 険悪になるのが止められない。これではいつもとちっとも変わらない。頭ではわかっているのに、一度噴き出した感情はもう二度と内に籠もりはしないのだ。
 結局、場を見守っていた軍人たちまでもが緊張を解く。何だ演技だったのかと安心したように笑う声まで聞こえてきて、エドは悔しいやら情けないやらで、ロイに言葉で食ってかかることすらままならなくなる。
 噛み合わせた奥歯がぎりぎりと音を立てそうだった。苦いものが胸を染め、喉を凍らせ、今にも瞼まで痛みを押し上げようとしていた。
 エドは震える己の左拳を見る。力を入れたせいで震えているわけじゃない、この手は最初から震えていた。多分生身の右足もそうだ。
 演技でもロイに抱きつくのには勇気がいった。嫌な顔で押し退けられる覚悟も必要だった。触れたら触れたでどきどきして、年が違うだけでこんなに身体の厚みが違うのだろうかとか、妙な感動にまで振り回された。
 計略とはいえエドは精一杯だった。
 ロイに突きつけたはずの切っ先は自分自身を手酷く傷つけたらしい。今や心は恥も外聞もなく悲鳴を上げている。
 と――、震えるエドの手を覆う、別の手がある。
 一度、二度。目立たぬように軽く触れ、すぐ離れていくそれ。エドは今度こそ泣きそうになった。
「積もる話があるのだろう? 向こうで聞こうか」
 彼の声はいつも通りだった。
 もう困らせようという気概もない。ロイの背中に導かれるまま、エドは人の多い大部屋からとぼとぼと離れた。

 

03
 私室に入り扉が閉ざされ、完全に二人きりになってからようやくこちらを振り返ったロイは、まずエドの表情に瞠目した。
 最後の最後で逃げるのも無様だったので、エドはしっかりと相手を睨んでいた。それでも所詮泣くのを堪えている顔だ。どれだけ子供っぽく見えているかと思うと吐き気がする。
「……そんな顔で怒るのはやめてくれないか。私まで堪らない気持ちになる」
 彼の声は大丈夫だよと簡単に許しを与える声だ。質が悪いと言ったらない。エドは必死でそれを聞かなかったことにし、足を踏み鳴らした。
「告白しにきた!」
「鋼の?」
「聞けよ! ちゃんと振られにきたんだから!」
 ロイが何かを言う前にわめくのだ。
「あんたこの前オレに嫌わせようとしただろ! 大きなお世話だ、あんたを悪者にしてまで平穏無事にしていたいわけじゃねぇんだから! 言っとくけどオレは振られりゃさっさと諦めるし、あんたが気まずくて顔見たくねぇって言うんだったら永遠にでもここには来ねぇよ!」
「鋼の、待ちなさい」
 自分へと伸びてくる手を振り払った。
 触った途端に胸が熱くなるのがわかった。ロイの手はやっぱりあからさまにやさしい。やさしいとわかっている手を振り払うから心も痛いのだ。
「も……っ、嫌ってほしけりゃ真っ向から拒否くらいしろ!」
 剣幕に押されてかロイが黙る。
 今しかない、エドは小さく息を吸った。
「……好きだよ、大佐」
 ぽつりと零れた言葉は呆れるほど幼く響いた。
 ロイは長く無反応だった。涙でいっぱいになったエドの目をじっと見つめたまま、困った素振りも嫌そうな素振りもせず、ただその場に立っていた。
「……それで」
 そしてあまり色のない声で彼は言う。
「君は私が答えるまでそうしているつもりか?」
「当たり前だ。さっきブレダ少尉にも聞いた、大佐このあと仕事だろ。どうせ最初っから時間はない」
「確かに時間はない。だが拒否など待っても無駄だ」
「またそうやって……っ!」
 憤りかけたエドに、ロイは今度こそ不機嫌な顔をして言い切った。
「これだから子供は嫌なんだ」
 覚悟していた言葉であったにも関わらず、エドは心臓が止まるかと思った。
 ロイは冷たく続けた。
「確かに先日、私は君が言う通りのことをした。自分が碌な人間ではないことは私自身が一番良く知っていたからだ。本当はね、先日に限ったことではなくどんな時も、君を傷つけることなど私には簡単すぎて、傍にいても刃を振り立てないようにするだけで精一杯だった。穏便に嫌われる方法があんなものしかなかったんだよ」
 エドはもう声も出せなかった。今や彼の眼差しも氷のようだ。瞳の奥でかすかに揺らめくのは怒りか蔑みか。さっきまではあれほど穏やかだった何もかもが、彼の言葉通り簡単にエドを傷つけた。
「聞いているか、鋼の。こんな相手に無防備に心をぶつけて、馬鹿らしいとは思わないか?」
 ロイの手がエドの肩へと伸びる。
 びくりと身を竦めたこちらへ皮肉げな微笑みを寄越し、彼は一言一言を区切るように、嫌にはっきりとそれを告げた。
「私はね、君が私にしてくれたほど、真っ直ぐには、君と向かい合ってはいなかった」
 彼の手で引き寄せられるに任せていたら、なぜだか抱き寄せられてしまう。エドは混乱した。相手の意図がわからず、また傷つけられるのだろうかと身構えた。
 ところがロイは言うのだ。
「嫌ってほしかった。だが、嫌わせたいというのは嫌いとイコールではないよ」
 え?、と、喉が勝手に震えて音を出す。
「拒否など待っても無駄だと言っただろう?」
「え……?」
「誰が君を嫌いだって?」
 慌てて男の胸を押し、その表情を振り仰ぐ。
 ロイはまだ不機嫌そうにしていたが、エドの驚きに満ちた顔を目に入れると小さく口角を上げた。
「君が好きでどうしようもない人間に、よくもこんな捨て身の告白を仕掛けた。あんまり捨て身で腹が立つ」
「え……っ」
 えぇぇぇぇぇっ?
 つい力加減も忘れて突き飛ばす。我に返ったのはロイが胸を押さえて息をつく姿を見てからだ。
「さすがに……機械鎧はきく」
「あ……っ、あっ、ご、ゴメン!」
 今度は慌てて駆け寄った。
 エドが軍服の裾を掴むと、ロイはどこかが痛くてたまらないような面持ちでこちらの手を見下ろした。
 生身の左手はさっきまで極度の緊張に震えていた方の手だ。彼がその手を見て何を思ったのかは知らない。けれども次の言葉は苦渋に満ちている。
「……どうかあまり思いつめないでくれ」
「え……?」
「好きになってくれるのならほんの少しだけでいい」
 ロイは丁寧にこちらの手を掬い上げた。彼の左手が日常では珍しくも発火布に包まれていたことに、エドはその時初めて気がつくのだ。
「君が私を嫌ったとしても私は君が好きだろう。だから私のことで君が必死になる必要はない」
 彼はそう言って苦笑った。それだけだった。

 結局出発の準備があるとかで互いの告白は早々に切り上げられてしまった。好きだと伝えて好きだと返されたわりには何が変わったようにも思えない。
 エドは執務机に寄りかかったまま、忙しく書類の整理をしたりバッグに私物を詰め込んだりするロイを見ていた。
「……もしかして危険な任務だったりする?」
「向こうへ行ってまでの仕事はないよ」
「でもブレダ少尉が……」
「部下たちには任務だと言ってあるのさ。一応上からの命令だからね」
 ロイは言うが、ではなぜ左手は発火布で覆われているのか。いつでも臨戦態勢に入れるようにではないのか。
 エドの物問いたげな様子を察したらしく、彼は手を休めてこちらを振り返った。
「発火布のことかい?」
「うん」
「これも気にしなくていい、格好だけだ。つけているだけで特別任務っぽいだろう?」
「……なんかズルイ」
「そうだよ、私はズルイ。君も知っての通りだ」
 悪びれずに言うところがまた悔しい。消化不良の告白劇に戸惑っているのはこちらだけなのか――離れがたく思っているのはエドだけなのか。
「……なぁ、本当に向こうでの仕事はないんだな? 別に危険もなくって、強制的な休暇命令みたいなもんだって考えてもいい?」
「いい表現だ、確かにそんな感じだよ。滞在も短いし」
 じゃあさ!、エドは彼の傍まで駆け寄った。
「オレも一緒に行く」
 さすがに多少は意外だったらしい。ロイは一瞬声を失い、それから即座に「駄目だ」と続けた。
「一応任務という名目がある、君は連れて行けない」
「どうして? 仕事もなくって危険もなくって、半分休暇だったら別にいいだろ?」
「……それだけでもないから駄目だ」
 反論は弱かった。エドは更に彼へと詰め寄った。
「じゃあオレ一人で行く。大佐がいるの北部のどこ? 向こうで会ったら偶然で済むんだろ?」
 困惑顔なんかに負けてやるものか。
 エドは勇気を振り絞りロイを睨んだ。
「大佐、忘れてないか? オレ、さっきあんたのこと好きだって言ったよ。オレがもうちょっと一緒にいたいって思うの変じゃないだろ?」
 ロイを相手に遠慮していたら埒が明かないことは、エドだってこれまでの付き合いで良く知っていた。本当に同行が許されない任務であれば、彼は理路整然と断わりの言葉を口にしただろう。
「行き先教えないって言うんだったら尾行するけど」
 あくまで強気に言えば、彼もとうとう溜め息をつく。
「……鋼の、君の弟くんはどうしたんだ?」
「先にリゼンブールに帰ってる。アルには電話一本いれれば済むよ」
「君たちの旅の目的は何だった?」
「賢者の石だろ。舐めんなよ、北部にだって未確認ネタのひとつやふたつある」
「……ナルホド。では最後の障害だ」
「障害?」
「私が利用するのは夜行列車なのだが、間際になっても切符が余っていると思うかい?」
「えっ!」
 それは盲点だった。
 エドは慌てた。しかしいくら慌てたところで東方司令部にいては切符の有無などわからない。切符購入は窓口の受付けなのだ。とにもかくにもイーストシティの駅まで走ってみるしかない。
「ううっと……ええっと……そ、そうだ!」
 エドは世話しなく足踏みしながら叫ぶ。
「じゃあ切符が買えたら一緒に行ってもいい? これなら大佐には不可抗力で、オレの運任せってことになる!」
 ロイは呆れ顔になり、次いで楽しげに目を瞬かせた。
 あ、と、エドは瞬間の彼の表情に息を飲む。
 今日初めての嬉しそうな顔だった。やっぱり強気に踏み込んでみて良かったのだ。
「わかったよ、君の不運を祈ろう」
「ひっでぇ! 見てろよ、絶対手に入れてやる!」
「くれぐれも駅員を脅さないように」
「脅すしボコるに決まってる!」
「ではせめて国家錬金術師の権威を落とさないでくれ」
「そんなの知るか」
 打てば響く会話が嬉しかった。彼とはやっぱりいつでもこういうふうに話していたい。
「――じゃあ、駅で待ってるから!」
 早くも飛び出そうとしたエドを、しかしロイは寸でのところで捕まえた。
 発火布で包まれた手がエドを軽く抱きとめる。驚きは声にもならなかった。
「君は行く先も知らずに切符を買うつもりかい?」
 かすかに笑みを含んだ声はエドの耳元から。
「ノアという町だよ。北部の果て、中央から最も離れた駅で、ブリッグズ山近辺にある、雪の降る町だ」
 行き先さえ知れてしまえば、たとえ切符がなくても尾行は易い。つまりはこれは、一緒にいようという彼からの意思表示でもある。
「ノア、だな。わかっ、た……」
 エドは頬を赤くしながらロイの腕を抜け出した。
 後ろ手に彼のいる部屋の扉を閉ざす。
 通い慣れた軍部の通路は、常と変わらず飾り気もないし薄暗い。それでも今日は不思議に居心地の良い場所に見える。
 エドは早速走り出した。エントランスに着くまでには、行く先々で見知った軍人と顔を合わせたが、今度は笑って挨拶することもできた。
 切符も問題なく手に入る予感がする。
 行く先は、ロイの話では雪の降る町だと言う。機械鎧にはあまり条件の良い場所ではなさそうだが、きっとどうとでもできるだろう。
 アルフォンスに電話をかけなければ。
 エドは夕暮れの迫った空に気持ち良く深呼吸した。

 窓から子供の駆けていく様をしばらく見送り、ロイはやる瀬なく己の左手を見下ろす。
「……正気か、私は?」
 格好だけで発火布などつけはしない。
「今度こそ嫌われるか……」
 それこそ本望だったはずが、捨て身な告白を受けたあとでは喜びも浮かばないのだ。
 つくづく欲深くできている――
 ロイは己の性分を声もなく嘲笑した。