窓の向こうに見慣れた建物が混じり始めている。イーストシティに到着するのも間近である。
一等席は個室作りの車両であったが、主要都市で停車するにつれ乗客が増え、今ではとうとうエドとロイの他に三名の相席者ができていた。
その内の一人は話すことを覚えたばかりの幼い少女で、彼女が母親と乗車して以来、室内は拙く賑やかな言葉で溢れている。
最初ロイと二人きりでいた間は、機関車が線路をひた走る音ばかりが聞こえていたのだ。
さすがに死体をひとつ見たあとだった。会話は続かず、沈黙も軽くはない。エドは時折彼の指を握ったりもしたけれど、相席者が現れてからはそういった機会もなくなった。
思えば、たった四日間の旅である。北部最果ての町には当たり前に知人はなく、ロイは軍との関わりを断つために私服であったし、エドもほとんど普通の子供のようにして過ごした。
なんと気楽な日々であったか。見知らぬ町に立つ心許なさは二人が手を繋ぐ理由を作り、また見知らぬ人々の無関心さは、二人が奔放に振舞うことを赦してくれた。
今の二人はどうだろう――セントラルを越えるや否や、ロイの顔見知りらしい車掌が挨拶に来たほどである。
互いを隔てる壁は、何もお互いの心の内だけにあるものではない。イーストシティに近づくにつれ、ノアでは捨て去られていたしがらみが取り戻されていく。エドはそれを諾々と受け入れるしかない。きっとロイも同じことを感じている。
幼い少女が無邪気に話しかけてくるままに、二人は今、彼女を挟む形で落ち着いていた。
間にあるのは小さな距離だった。子供ひとり分の隙間である。それでも、たったその少しの隙間のために、互いの手が自然に絡まる偶然はなく、見つめ合う時間もない。心に踏み込む言葉もかけようがなかった。
目に見えなくとも変わるものはある。一度はそう考えたはずのエドこそが、既に変化を疑い始めている。そもそも四日間の旅で縮まったと思った距離は錯覚ではなかったのか。
本当のところ、エドは少女に笑顔を向ける裏で、どうにか現状を納得しようと一生懸命だった。
おかげで途中からの会話は上の空。子供は敏感なもので、自然とエドとのやり取りを減らし、ロイばかりに顔を向けている。
結局エドはほとんどの話を聞き逃していた。それで不意に、
「ね、おめめがいっしょなの」
少女の小さな手が襟口を握ったことに驚いたのだ。
曇りのない瞳に真っ直ぐに覗きこまれ、たじろがずにはいられない。
「……な、なんだよ?」
「おめめ」
「目?」
説明が足りていない。しかしロイには充分に通じる流れだったようで、彼は上体を折ってわざわざ少女と視線の高さを揃え、エドの瞳を同じように注視した。
「なるほど」
そうして軽く笑う。彼のまんざらでもなさげな様子がエドの興味を惹いた。
「何の話だ?」
「君の瞳の色だよ」
「色?」
「彼女の知り合いのノラ猫と、君の瞳の色は同じらしい」
「ノラ猫?」
エドが繰り返すと少女がうなずいた。
「おめめね、きんいろなの」
「ふぅん。……かっこいい猫か?」
「つよいの、まちのボスなの」
「へぇ」
ボスと聞けばたとえ相手が猫でも悪い気はしない。エドがそっと笑って見せると、少女もにこにこと顔を輝かせた。
そしてその隣では、未だに窮屈に身を折ったまま、こちらをじいっと眺める男がいる。
本当にじいっと。エドが気付いてロイに目を向けても視線を逸らす気配がない。じいっと、じいっと、飽くこともなくエドの瞳を覗いている。
「……なんだよ?」
問いかけにも答えない。
さすがに眉をひそめかけ、しかし一歩手前でエドはロイの瞳がただ見ているだけのそれではないことに気付くのだ。
錯覚ではなかった。静かな眼差しに見せかけて、どこか熱の籠もったような。この四日間何度となくエドを見つめていた眼差しだ。彼がいつどういった場合にこんな目を向けたか――思い出した途端、エドはかっと耳を熱くした。
慌てて彼の両目を手で覆う。
「なぁに?」
突然頭上で起こった出来事に、少女がのんびり首をかしげた。
「あ――遊びだよ、目隠し鬼! 知ってるか?」
「しってる! めかくしおにー!」
咄嗟の言い訳を不審に思うこともなく、今度は少女がエドの目に小さな手を当ててくる。
冷や汗をかく思いだった。見なくとも己の手の下でロイが笑っているのがわかるのだ。ただのからかいだとしたなら質が悪すぎる。
「……目を隠されたものが鬼なら私は誰かを捕まえるべきだと思うんだが」
誰にともなくロイは言う。エドは怒鳴りそうになるのを我慢し、聞こえないふりでしばらく少女と騒ぎ合った。
列車がスピードを落としたのは間もなくのことである。
ホームに入るための徐行運転が始まると、同じ個室にいた乗客が次々と荷物をまとめ出す。
ロイは彼らの身支度を待つつもりでいるのか、じっとしたままである。エドも急がなかった。停車してすぐは列車内の通路もホームもひどい混雑なのだ。ましてやこの列車はイーストシティが終着駅で、当たり前に乗客全てがこの駅で降りる。通路に出たところで、しばらくは歩けるものでもない。
その状況を知っているのかいないのか、最初に席を立ったのは、窓の外ばかりを見ていた一人である。次に少女とその母親が。それぞれ荷物を抱え、拙いバイバイと会釈を残して出入り口をくぐっていった。
個室は早くも二人きり。時間が余っているうちに荷物を手元に寄せておくべきか――気の早い乗客たちが通路中をひしめくのを横目に、エドが立ち上がるや否やのことだった。
「……もう離れる気かい?」
「え?」
意味を問う暇もなく腕を引かれ、固い椅子に逆戻りする。
反対にロイは立ち上がり、開け放たれていた通路への扉を閉ざした。しかも窓にも日除け板を下ろし、完全に外から内を遮断する。
「……大佐?」
声が掠れるのを止められなかった。
音もなく距離を詰めたロイは、片手でエドの肩をシートに押し付け動きを封じる。
すぐに触れるだけのキスが落ちてきた。
「ちょっ……」
エドが何かを言おうしても、そのたびに唇が当たり、まるで言葉自体を怖がるような素振りをする。
「黙っていてくれ。……頼むから」
彼が怖がっているのはエドの拒否か。
わかってしまえば急に甘い気持ちになった。この男は時々変に臆病だ。
両腕を伸ばす。途端にロイからは安堵の溜め息が聞こえた。エドは彼へと抱きつきながら失笑せずにはいられない。
「……ひどいな、そこで笑うのか」
「あんたがかわいいのが悪い」
「初めて言われたよ、そんなこと」
今度は互いに微笑みながら口付けた。
些細な隙間であれほど不安だったのが嘘のようだった。腕を絡めるだけで、相手にあつらえたかのごとく身体は重なる。四日間で手に入れた距離はこんなに近いものだったのだ。彼の肩口に額をこすりつけ、エドはひそかにその衣服にも口付けた。何だか愛しくてならなかった。
「……大佐と別れるのなんか、もう何度目かもわからないのにな」
「うん?」
「今までの百倍ヤダ」
今度はロイが失笑する。
「それは光栄だ。私も今までの百倍、君と一緒にいたいと思うよ」
彼はすっかり冗談のように言ったけれども、エドにとっては切実な話である。
元々なりふりかまわずに傍にいたいと主張したのはエドの方だった。ロイは些細なきっかけで一気に距離を空けてしまう常習犯で、今この時は寂しがってくれるのかもしれないが、エドの目の届かないところであっさり考えを改めてしまわないとも限らない。
「……ほんとに百倍になればいいのに」
無性に悔しくて呟く。彼の尋ね返す言葉を奪うため、今度はこちらから口付けた。
――これから自分が言うサヨナラを、ロイが百倍寂しく聞いてくれますように。
エドのキスはきっと甘い呪いになる。