スロータイム・スローライフ

 注意力散漫。原因は自分でもわかっていた。
「いい? あとは僕だけでも何とかなるから。とにかく兄さんは宿で休むこと」
 そう言い置いたアルフォンスも同じ判断を下したのだろう。ここ最近、確認を急ぐ情報が重なって、休憩は二の次になることが続いていた。
 身体が重いとはエド自身も感じていたことだ。今朝はそれに加え目がちかちかと光に眩んで更に良くなかった。
 多分かなり疲れているのだと思う。おかげで肝心な時に失敗して足を挫いた。無理すれば歩けないこともないが、強いて無理しなければならない理由は何もない──ただ気が急くばかりで時間に制限はない旅なのだから。
 いけないと思いつつ、せめて資料に目を通そうと手を伸ばす。
 途端、バタンと音をたてドアが開いた。まるでタイミングを狙いすましていたかのようだった。一度エドを置いていったはずのアルフォンスが再び姿を現し、物も言わずに資料を抜き取った。
 じっと見下ろされるとさすがに気まずい。
「……わかった。ちゃんと休む」
 アルフォンスは重くうなずき「夕方には帰ってくるから」と、今度こそ宿をあとにする。
 エドは仕方なくベッドに突っ伏した。
 これで眠ってしまえれば立派に休憩になるのだが、神経は疲れすぎて逆に緩むことを忘れてしまったらしい。動かずにいても目が冴えて、結局時間を持て余し荷物を引き寄せる。
 バッグのポケットからは飴玉が出てきた。エドは何の気なしにそれを口に放る。
 桃の味がする──
 ロイを思い出した。
 先日イーストシティに寄った時に食べたのだ。その時のエドは精神的に落ち込んでいて、ロイもまた上官の嫌がらせに参っていた。せっかくお互いの休みが重なるはずだった日も駄目になってしまいそうで、とうとう仕事を投げ出した彼にエドも黙って従った。
 二人きりで過ごした休日は、良く熟れた桃の果肉のように甘ったるいものだった。
「そう言えば……」
 バッグの奥底から、布と紙で大切に防備していた木箱を取り上げる。
 箱型のオルゴールである。そう大きくもないエドの手のひらでも握りこめるサイズのもの。
 ペダルを回すと耳慣れた子守り歌が流れ出す。東部で生まれ育ったものなら誰もが知る曲だった。ただしオルゴールをエドに贈った男は東部の生まれではなく、エドの鼻歌でメロディを覚え、同じように職人に鼻歌を聞かせてオルゴールを作らせたらしい。
 だから、本来の子守り歌とは微妙に違う。その違いがエドを微笑ませたりする。疲れた時に聞けば、緊張をほぐしてくれたりもする。
 ロイに会いたいと思う。彼は元気だろうか。きっと元気に違いないとは思いながら。
 改めてベッドに寝転ぶと今度は眠れるような気がした。
 口の中に残る桃の味。
 ロイの指と同じ味。
 
 
 
 
 
 * *
  
 その日、エドはひそかに参っていた。汽車でいざこざがあったのだ。別にエドから何かをしたわけではない。ただ相手が軍部に恨みを持っていて、錬金術師にも良い感情を抱いていなかった。いざこざ自体は珍しいことではなかったが、その日はいつもより深く人の悪意が突き刺さった。
 もちろん東方司令部に着く頃には何でもない顔が作れていたと思う。今回のイーストシティ訪問はロイとの約束である。ロイはエドの気を逸らすことにかけては天才的で、彼と合流してしまえば些細なことなど簡単に忘れてしまえると高をくくってもいた。
 しかし予定は知らぬ間に狂っていたのだった。
 そのことは、東方司令部にあるロイの執務室に入った途端に知れた。彼はずいぶんと悲壮な表情をしていたように思う。
 脇にはホークアイが控えていた。
「明日の休日を確保したいのであれば、この書類の山を全て処理していってください」
 日は暮れかかっていた。残業嫌いな彼がいつも帰宅の準備をする時間帯。だが今日は、その手元に、厚さ十センチにも届こうかというほどの書類の束が鎮座している。
 しかも脇にホークアイ。
「……少し、待っていてくれないか鋼の」
「……うん」
 執務室の接待用ソファーに一人腰掛ける。
 沈黙が落ちてぼうっとしていると、ロイはホークアイに「彼に飲み物を持ってきてやってくれないか」と言った。
 そんな客じみた扱いは久しぶりだったからびっくりした。慌てて遠慮しようとしたが、ロイの目が黙っていろと目で合図するので、変に我慢したままホークアイの視線を受けなければならなくなる。
「紅茶で良いかしら。それともオレンジジュースみたいなものが良い?」
「え、と……甘いほうが」
「そう。少し待っていてね」
 彼女の微笑みに良心が痛んだ。
 これもロイがきっちり仕事を終わらせていないせいだ、約束をねだったのはロイの方だったのに──エドはホークアイが部屋から出て行くのを待って男を睨みつける。
 と。はぁぁ、と。
 それこそ腹の奥底から溜め息を出し、ロイは机に額を擦りつけた。
「すまない。いつもの嫌がらせだ。多分明日私が非番になるのを知ったのだろう、急ぎでもない仕事を急ぎだと言ってきた」
 ロイに、どうしても反りが合わない上官がいることは、前々から聞いて知っていた。その上官とロイは話をしたことも顔を合わせたこともなく、一方的に嫌われているらしい。最近も変な仕事を押し付けられたばかりで、今回もまた相手の気まぐれに付き合わされているのだと言う。
「そんなの──あんたの日頃の行いが悪いから!」
「私は誠実に対処しているよ」
「だって相手とは面識ないんだろう、だったら噂で大佐を判断してるってことで、大佐の噂は碌なのがないってことじゃないか! そう言や、オレだって大佐の良い噂なんて聞いたことねぇし、やっぱりあんたが悪いんだ!」
「噂というものは半分妬みで出来上がっているものだよ。そんなことも見分けられない人間が上にいることこそ不幸なのだ。だからこうして一刻も早く昇格しようと我慢して仕事を……」
 不機嫌そうに続けたロイは、そこまで言って疲れた様子で言葉を切った。
「やめよう。なぜ我々が喧嘩しなければならないんだ」
「……だって」
「わかっている。君とのことは私が悪い」
 やっぱり休日を一緒に過ごす約束はなくなるのだろうか。 書類の束は、どう頑張っても今夜一晩では読み終わりそうにない量に見える。
 エドが恨めしそうに書類を見るのに、ロイも釣られた様子で視線を落とし。揃って溜め息をついた頃、ホークアイがオレンジジュースを持ってきた。
 結局帰るとも言い出せず、エドはソファーで黙ってジュースをすする。
 ホークアイがいると会話もできない。
 とうとう日は暮れ、夜になった。ロイは夕食も取らずにひたすら書類に向かっていた。
「…………」
 グラスには既に氷も残っていない。
 多分諦めなければならない頃なのだ。エドさえ諦めてしまえば、ロイも明日が自由になって無理をしなくて済む。今日は彼と縁のない日だった。汽車では見知らぬ相手にも絡まれたし、運も良くない一日だった。そういう日こそ楽しいことで締めくくりたかったが、とことん望むことがダメになる日もあるものなのだ。
 仕方がない、エドが思い切ろうとした時である。
「エドワードくん、何か食べない?」
 ホークアイが声をかけた。
 ふとロイも顔を上げる。エドはホークアイを見たつもりだったが、彼女を通り越して目がロイを見てしまった。
 視線が交わる。
 明確な何かが伝わったわけではない。けれども頭をよぎるものがあった。絶対ロイも同じことを考えた。
「……うん。確かに腹減ったかも。頼んでもいい?」
「もちろんよ。大佐も食べていらっしゃらないし、休憩もかねてね」
「うん。ごめんね、中尉」
 エドに微笑みかける彼女の後ろからロイも。
「すまない、中尉」
 ホークアイは「いいえ」と苦笑い、静かに退室した。
 会話はなかった。しかし二人はあらかじめ綿密な計画をしていたように迷いなく動き出す。
 エドは素早く荷物をまとめ、出入り口近辺に人がいないことを確かめる。ロイは三枚のメモ用紙に副官への書き置きと錬成陣二つを描き、上着を抱えて窓に急ぐ。
 窓から階下への即席階段が出来上がるのはすぐだった。脱出も迅速。ロイは地面に足がつくや否や、変形した建物部分を再錬成し元の状態に戻す。
 何やら手馴れたものを感じる。
 思わずエドが上目遣いで男を見ると、相手はあさってを向き、こちらが問う前にぼそぼそと言った。
「別に。毎回こんなことをしているわけじゃない」
「ほんとか?」
「……まぁ……たまに」
「たまに?」
「たまーに」
 神妙だった表情が解けていく。最後には楽しくてならないと笑った彼に、エドも嬉しくなって笑い返した。
 唇に小さなキス。
「──行こう」
 ロイが言う。
「中尉に怒られるのは休み明けでいい。今晩から明日の夕方まで、君の時間を私にくれる約束だ」
 こうして司令部の敷地から出ると安心した。正直なところ、いつホークアイの拳銃が足元を撃つかとどきどきしていたのだ。
 心配だったのはロイも同じだったらしく、息をつくタイミングが重なりまた笑いがこぼれる。
「まずは腹ごしらえか」
「だな。どっか食いに行く?」
「そうしたいところだが……どこへ行っても知った顔に会いそうな時間帯だしなぁ」
 八時を過ぎた。酒場では軍人たちがどんちゃん騒ぎを始める頃だった。いつもなら誰に会おうと特に気にしなかったかもしれないが、今晩に限っては、遊び歩いていることがばれると言い訳が苦しくなるのだ。
 人通りの少ない道を選んで歩きながら、エドは空を見上げた。
 建物と建物の間の路地。
 塀で細長く切り取られた空には皓々とした満月が浮かんでいる。今晩は星も多そうだった。月光で明るい部分はそうでもないが、そこから離れれば離れるほど星の密度が増していく。
「……空の下で食えるとこがいい」
 エドが言うと、ロイも頭上を仰ぎ考え顔になる。
「綺麗に晴れている……」
「だろ?」
「そうだな……たまにはピクニックみたいに外で食べるのもいいな」
「ピクニック! どっかそういうとこあんの?」
「料理付きの場所をと言うのなら飲み屋しか知らない。贅沢と冒険をする気がないなら、うちのベランダが」
 ベランダ。確かにロイの部屋にはそんなものがあった。活用されている場面など見たことはなかったが、それなりに広かった気がする。
 良い考えに思えた。
「材料は?」
「材料?」
「ピクニックだぞ、弁当は手作りが基本!」
「作るのかい? 君が?」
「大佐が」
「えー……」
 ロイは露骨に面倒くさそうな顔をした。
「ホストはあんた、オレはもてなしを受ける側!」
「えー……」
「わかったら──ほら、急ぐぞ。まだ店やってるかなぁ」
「えー……」
「果物なんかもほしいな」
 ロイが動かないので後ろから押してやった。まだ不満げに眉根を寄せている男に、エドは「サンドイッチくらいでいいからさ」と言い加えてみる。
 負担を少なくしたつもりが、彼は更なるダメージを食らったらしい。大げさに額に手をあて天を仰いだ。
「そんなに嫌?」
「あー……、君が思っているような嫌ではなく」
 ロイは苦笑いながら言うのである。
「むかぁし。一度だけピクニックと呼べるようなものに行ったことがある」
 たかがピクニックの話をずいぶん勿体つけて語るとは思ったのだ。
「私がまだ若い時のことでね、君よりももう少し育っていたかなぁ。とにかくその頃親しくしていた女性がいて、彼女に誘われて行くことになったんだ」
「うん」
「ところが、その話をどこからか友人たちが聞きつけてね。おもしろがった彼らから前日浴びるほど酒を飲まされ、私はひどい二日酔い状態だった。当然あまり食欲はないし、できれば一歩だって歩きたくもなかったのだ。しかし……ピクニックだろう?」
「うん」
 何だか話の先が見えてくる。
「ピクニックなら、君も思った通り、手作りの弁当が定番だ。忘れもしない、やっぱりサンドイッチだったとも──その女性の名誉のために付け加えておくが、それ自体はとても素晴らしい出来で、かわいらしいバスケットに入っていた」
「うん」
「ただね、どうにも……二日酔いでふらふらしていた私にとって、玉子サンドの匂いほど恐ろしいものはなくてね?」
「ふっ……、くっくっくっ」
「……もどしたんだ」
 エドは既に笑い出している。堪えようとしても勝手に喉が鳴る。
「最悪だよ、二日酔いなんか言い訳にならない、もちろん彼女とはそれきりだった」
「アッハッハ!」
「笑い事じゃない」
 真面目くさった様子で訴えられてもどうしようもない、とうとう腹を抱えての大笑いになる。
 彼はしばらく渋い顔つきで首の後ろを掻いていたが。
「……別に今はいくら笑ってくれてもいいよ、確かに私がホストだから君が望むならサンドイッチも作る。でもひとつだけ先に約束してくれないか、鋼の」
 あんまり笑いすぎて息が苦しい。目だけで何の約束かと問うエドに、ロイは神妙に告げた。
「もし私の作ったものが吐き出しそうにまずくても、私自身を嫌いにはならないでくれ」
 あんたってバカだなぁ。
 とは、笑いの発作がおさまらず言ってやれなかった。
 彼はついに拗ねてしまい、早歩きになってエドを置いていこうとするので、エドはその上着の端を捕まえて歩きながら、心行くまで笑い転げた。
 
 ロイの部屋がある集合住宅は、個人営業店が建ち並ぶにぎやかな通りに面している。
 とはいえ、すっかり夜である。どこを向いても看板は下ろされたあとで、ぼんやり光る街灯が無人のポーチを照らしている。
 エドはがっかりしたが、ロイは日頃から人付き合いを疎かにしない性分だった。ここぞとばかりに懇意にしている人物に口利きを頼み、施錠されていたはずの店の裏口からサンドイッチの材料を集めてしまう。
「私の人徳だ」
 彼を良い気分にさせるのは悔しいが、時間外の訪問について誰も悪い顔は見せなかったし、ある店では土産まで持たせてくれたぐらいだから、やはり好かれているのだろう。
「その調子で嫌がらせする准将もたらしこめばいいんじゃないか?」
 皮肉半分でエドが突っ込むとロイは肩を竦めた。
「そうできる相手とできない相手がいるってことさ」
「ふぅん?」
「見たまえ、君だって簡単に私のことを信じてはくれないじゃないか」
「だってあんた狡賢いもん」
「要領が良いと言ってくれ、大体少しばかり損得勘定が上手くて何が悪い」
 確かにそれこそロイが他から抜きん出ている長所のひとつではあったのだけれども。
「……やっぱさ、今度会ってみたらいいよ」
「うん?」
「大佐のこと嫌ってる准将。あんたに限っては、噂より実物のがいい男だと思うし」
 ロイは束の間驚いたふうに口を閉じたが、すぐに人の悪い笑みを浮かべうそぶくのだ。
「君のお墨付きとは光栄だね」
「しっかり猫かぶれよ?」
「さて。どこかの誰かのように、狡賢い私を好きだと言う酔狂な人物かもしれないしねえ」
「そんなやついたか?」
「今、私の目の前に一人」
「言ってろ、バーカ」
 ぐだぐだと話しているうちにロイの部屋に着いた。
 本来、戸建の家を持っていてしかるべき地位にいる男は、大して広くもない集合住宅の一室で暮らしている。
 彼の出生についてエドは詳しく知らないが、少なくとも東部の生まれではないらしい。イーストシティに赴任して来た時も身ひとつであったと言うし、上から辞令が下ればさっさと他へも行ってしまうのだろう。
 そもそも彼は軍人である。いつどんな命令を受けてエドの前からいなくなってしまうかわからない。
 必要最小限の家具しかないロイの部屋。いつも食えない笑顔で人を煙に巻く彼の、口にしない覚悟が見える場所。
 とにかく殺風景だし、カーテンがない窓もあり、古い段ボール箱が棚代わり。寒々しい部屋ではあるが、エドは決してここが嫌いではない。
「相変わらず何にもないなぁ……」
 室内を見渡すエドをよそに、ロイは早速リビングと一繋がりになっているキッチンへ直行している。
「……それほど時間はかからないと思うが、私も料理に慣れてはいないしね、君は先にシャワーでも浴びたらどうだい」
「そうする。あとで手伝ってやるよ」
「ああ」
 慣れていないと言いながら、特に手順に迷うでもなく鍋と玉子を取り出している。
 エドはそれに安心して身支度を済ませ、手荷物をまとめて隅に置き、最後に壁の掛け時計で時刻を確かめてバスルームへと向かった。
 およそ十分後。
 簡単に汗を流して出てきてみたら、ロイはまだ軍服のままである。
「お先に。なぁ、あんたも入ってきたら? その間オレがやっとくし」
「ありがとう、そうさせてもらうよ。ただ料理は私だけで何とかなりそうだ。君はベランダの方を整えてくれないか」
「力仕事かよ」
「まぁそう言わず。その辺のものを適当に使って台みたいなものを拵えてくれ」
「仕方ないな、了解」
 早く準備を済ませてしまわないと、あっと言う間に深夜になってしまう。
 段ボール箱に布でもかけてテーブルにするか──考えを巡らせつつ、もう一度時刻を確かめようとしたら、さっきあった場所に時計がなかった。
「……あれ?」
 部屋中の壁を見回す。やっぱり時計がない。
 ロイを振り返るとバスルームへと向かう途中で、特に声もなく奥へと消えてしまう。
 何だか気になった。自分の時計で確かめようと思ったら、今度は隅にまとめて置いたはずの荷物がないではないか。
 ぴんと来るものもある。
 エドはすかさず別の部屋に走った。ゲストルーム、書斎、ベッドルーム、どこにも必ずひとつはあったはずの時計が残らず片付けられている。
 ──時間など気にせずに会いたいものだ。
 いつかのロイの言葉を思い出した。
「……鋼の?」
 ベッドルームで突っ立っていたら、シャワーを浴び終えたらしい彼が、楽な服装になって顔を覗かせた。
 咄嗟にどんな反応をすれば良いのかわからなかった。
 そもそも怒るほどのことでもない、荷物が隠されたと言っても、今のところ必要のないものばかりであるし──
 時間を知らなくとも今は困らない。
「……ああ、その……シーツ。シーツを、クロス代わりに使おうと思って」
 結局エドは知らぬふりを選んだ。
「シーツか」
「うん」
 ロイは気付いたかもしれない。しかし何も言わなかった。そしてエドも必要になるまで時間を問わないことに決めた。
 妙にふわふわした気分で自分の持ち場へ戻って、彼と一緒にいるための準備をする。
 リビングの窓を開け放つ。
 あまり期待していなかったのだが、ベランダには人が悠々すれ違うことができるほどの幅があった。  周囲を取り囲んだ鉄柵と屋根も視界を遮らないもので、なるほど空が良く見える。
 ひとまず椅子二脚を室内から運び出す。手近にあった箱を積み上げ、適当な高さの台を作る。
 紙蓋の凹凸が気になったのでトレーを入れて安定させ、上からシーツを掛けるとなかなか上手い具合におさまった。
「──そろそろ出来上がりそうだよ」
 そう告げた彼の手元のサンドイッチは普通においしそうだ。
「もしかして実は慣れてる?」
「見栄えと味は別だろう?」
 食べるまで油断するなということか。珍しく自信がないらしい。ともあれ、見栄えはよろしかったのでエドには楽しみが増えた。
 浮き立つ気分は自然と歌になる。懐かしい歌を口ずさみつつキッチンとベランダの往復をしていたら、それを耳で拾ったロイが突然頭を上げた。
「? なに?」
「……いや。何でもない」
 この時の反応をエドが理解するのは、例のオルゴールをもらったあとである。メロディが違っていることに気付いた彼は、間際までオルゴールを贈ろうか悩んだそうだ。
 エドには、彼がエドのことで悩むこと自体あまり想像がつかないのだけれども。
 この時のロイも、そんなそぶりは微塵もなかった。サンドイッチと果物をエドに運ばせるかたわらで、普通にワインボトルを吟味していた。
「白でいいかい?」
「何でもいいよ、でも水も欲しい」
「わかってる」
 ロイとの食事には当たり前に酒が出る。飲む飲まないはエドの自由である。舐める程度でも付き合えばロイは嬉しそうな顔をするので、興味が出た時には素直にグラスに手を伸ばすようにしている。
 準備を終え、気分を出すために部屋の電気を消して、やっと二人でベランダの特等席に腰掛けた。
 互いにワイングラスを合わせ、とりあえず乾杯。エドは早速サンドイッチに手を伸ばす。
 ロイの思い出の玉子サンドである。
 一口目、まずまずの味。しかし二口目をほおばった時、う、と口が止まってしまうものがあった。
「……大佐、これ辛いよ?」
「え!」
 慌てて彼も玉子サンドを味見する。しかしエドと同じには感じなかったらしく、不思議顔で食べきってしまうではないか。
「……別に普通だと思うが」
「え、だってマスタードの味がする」
「普通入れるだろう?」
「入れるのか?」
「と、思うんだが、そんなに辛いかい? 食べられない?」
「う──ううん。平気、食べる、大丈夫」
 きっと辛さを予想していなかったから驚いたのだ。エドは今度はハムとレタスのサンドイッチを食べてみた。
 多少辛さが舌に残るが、何とかならないこともなかった。ワインで舌を湿らせたら味がまろやかになったりもして、たかがサンドイッチに意外な初体験をした。
 しばらくこちらを観察していたロイも、エドの食欲が衰えないことを知ると、安心した様子で自分でも食べ始める。
 星を見る余裕も出てきた。
 いつも星を見ることがないわけではないが、ゆっくり食事をしながら酒を飲んで見上げるのでは気分が違う。マスタードのせいもあり、酒も常よりすすんでいた。
 酔ったわけではなかったと思う。
 しかしエドの目に映る星々はとろりと美しく、ワインは甘く、隣のロイの声は心地よく、まるでそこだけ日常の忙しなさから解き放たれたかのようだった。
「……もう少し飲めるかい?」
 ボトルの口を差し出され、極当たり前にグラスを寄せた。
 エドの躊躇のなさに、かえってロイの方が苦笑った。
「あまり飲みすぎないように」
「飲んだ方が嬉しいんだろ?」
「そうだけれども」
「大佐に迷惑かけるほど飲もうとは思わないよ」
「違うよ」
 言葉を途切れさせたロイの口に、グラスの中の液体が消えていくのを奇妙な気持ちで見た。
「大佐?」
「……本当は君が酔ってしまえばいいと思っている。そうすれば抱き寄せる理由になる」
 ロイは軽く答えたが、エドは突然どぎまぎと目を反らさずにはいられなかった。
 別に考えていなかったわけではない。ただロイといるとどうも友人といるみたいに時間が過ぎるので、ずっとそれでも良いと思ってしまうのだ。それに恋人という立ち位置にも慣れない。それらしい雰囲気になると恥ずかしさでいっぱいになる。既に彼と何度か夜を過ごしているが、その翌日のエドは決まって早足で旅立つことを繰り返している。
 自分の手元に視線を落とした。
 ロイと同じワインが入ったグラス。同じであるのに、彼と自分のものでは何かが違う気がする。
 ワインを飲む。一口、二口。
 しばらく考えて、あとは一気飲みした。
「鋼の!」
 さすがに驚いたらしい声がしたがかまわなかった。
 グラスを置いて立ち上がり、もう片方の椅子に腰掛けているロイの膝に乗り上げる。向かい合うのは恥ずかしかったので背を預ける形で座った。ついでにロイが持っていたグラスも奪って中身を飲み干す。
 視界がぶれた。頭の奥がぐるぐると回る感覚。
 身体が重くなって、意識しなくても全身の力が抜ける。好都合だった。エドは心置きなく彼に寄りかかった。
「大丈夫かい?」
「んー……」
「鋼の?」
「……ん、……平気」
 ロイが溜め息をついた。よいしょと揺すり上げられ、腰が安定するよう抱き直される。頭を撫でてもらうのがえらく気持ち良かった。エドはお返しに彼の腕を撫でた。多分、恋人とはこんなものだ。
 エドの実験じみた献身を感じてか、くっついた背中からは苦笑する気配がある。
「私の我侭をかなえてくれてありがとう」
「嬉しい?」
「嬉しい」
 実験成功、エドも笑った。
「水でも飲むかい? それとも何か食べる?」
「……あまいの」
「甘いもの? 果物でいいかい?」
 問いは聞こえるが上手く答えられない。多少酒を飲みすぎたらしい。瞼も重かった。エドは欲求に逆らわず目を閉じる。
 鼻先に甘酸っぱい香りが漂った。
「……口を開けて」
 言われるまま待っていたら、一口大に切られた果肉が唇を割って入ってくる。ひどく甘い。舌で少し押すだけで果汁がたっぷり溢れ出た。
「……桃?」
「うん」
「もっと」
 すぐに次のものが唇に当たる。
 何度かそんなふうに食べているうちに、口の周りは桃の果汁でべたべたになっていた。ロイの指がそれを拭い、エドは急に気が向いてその指を舐める。
 甘い。
 吸い付くとなお甘かった。ちゅっと小さな音を立てて口から出ていこうとするそれを、軽く噛んで引き止める。
「……こら」
 言葉は咎めるものであったがロイは嬉しそうだ。
 実験再開。エドが指の腹を舌でくすぐる悪戯を続けていると、ロイもまた頬に口付け、耳の先に触れていく。
 耳は弱い。思わず声が出てしまった。うっかり羞恥心を思い出して目も開いてしまう。ロイは笑っているらしい。悔しいのできつめに指に歯を立てた。
「痛いよ」
「いひゃいようにやってるも」
 ロイはそれでも笑っている。続けざまにがしがし噛んでも逃げる様子がない。あまり痛くないのかもしれない。
 もう少し強く噛んだ。もう少し。もうちょっと。ロイはどこまでもされるがままだ。
 エドは喉を反らして背後を仰ぐ。
「……大人になると痛覚が鈍くなるとか言う?」
「さぁ? そんなこともあるのかな」
「痛くなかった?」
「痛かったよ」
「ほんとに?」
 問い詰めたなら、また指が口の中に入ってくる。今度は二本。噛めということかと彼の顔色をうかがっていると、その二本はエドの舌を挟んで形を確かめるように撫でた。
「……小さな舌」
 小さくて悪いか。むっとするエドにロイは軽く微笑み、
「快感とは薄められた苦痛なんだそうだ」
「えっ……」
「少し苦しいとか少し痛いとかいうのは、逆に気持ち良かったりするってことだよ」
 舌をやんわり抓られる。途端にじんと身体に染み渡るものがある。
「……試してみるかい、鋼の?」
 耳元で聞こえたロイの声は麻薬のようだった。
 眩暈がした──
 
 
 酒で愚鈍になった身体は恐ろしいほどロイに従順だった。
 そもそも機械鎧が重くてならず、まず自分で動こうというエドの気力を削いでいる。
 普段であれば絶対に抗ったはずの姿を晒し、奥を開かれ潤され、ベランダにいた時と同じく彼に背を預ける形で、じっくりと下から貫かれた。
 中途半端に乱された衣服。
 外から部屋の内へと移動してはいたが、窓は全開のままである。家具の少ないリビングではベッドの上よりも縋るものがなく、エドの手は逃げ場を探すどころか逆にロイの衣服を握りこんで、結果として二人はこれ以上もなく深く絡まり合っている。
 じっと繋がっているだけでエドの全神経が体内のロイに集中していた。
 その状態で彼の指が唇をたどる。さっきのように噛めとねだられていることはわかるのだが、己の身体のどこかに力を入れること自体が恐ろしくて応えられない。
「……鋼の?」
 反応のないエドに焦れたのか、ロイは良いように口腔を指で暴いた。
 苦しい。とろとろと滴る唾液が恥ずかしい。舌の根が痛いような気もする。
「ん…うぅ……」
「……噛んで?」
「ん……んっ」
「鋼の」
 噛んで。何度も請われ、仕方なく彼の指を噛んだ。途端に、身体は勝手に奥の部分にまで力を入れ、開かされ埋め込まれた場所が熱くなる。
「ん……んっ」
 ロイが笑うのがわかる。
 そのまま胸の尖りを捏ねられるとたまらなかった。痛痒さを感じているのは胸のはずであるのに、やっぱり反応するのはロイを食い締めた場所なのだ。
「や、だ……っ」
 首筋に口付けられる。うなじに、背中に。
 口から抜け出た指が濡れたあとを残しながらどんどん下へと降りていく。今まで放っておかれていたエドの雄芯が、一度も熱を散らすことなくそこにある。
「あ、あぁん……っ」
 握りこまれたなら身が縮こまった。先端で遊ばれれば、もう刺激を受けているのが外なのか内なのかわからなくなる。
「ひ、ぃ……ん……っ!」
 束の間、ロイまで息を詰めている。きついとさすがに苦情のようなものも聞こえたが、エド自身コントロールできるものではなくなっていた。
 きゅうきゅうとロイにしゃぶりつく。奥にひどく感じる場所があって、特に擦られているわけではないのに目が眩むほどよかった。しかも、更に更にとロイの手はエドを煽る。
 明らかに吐精を促す仕草である。
 一時的にでも解き放たれるなら嬉しがるべきなのに、圧倒的な質量でロイが内にいる今、これ以上深くまで追い落とされることは恐怖だった。
「やぁっ、やぁ、だ……っ」
 だって己の身体はおかしくないか。揉みくちゃにされている雄芯ばかりでなく、ロイに貫かれ手ひどいいじめを受けている場所が喜んでいる。
 こんなどうしようもないことに夢中になって身悶えて──
「ヤ……──ひ、ィ……っ!」
 その瞬間は、悲鳴を殺すこともできなかった。
 絶頂は目を眩ませるほどで、エドはしばらく呼吸すらままならなくなる。
「……鋼の、苦しいかい?」
 苦しいだけではないだろうと、彼の問いはそういう意味に違いない。
 言葉で答えるかわりにロイの手に口付け、上手く力の入らない身体を揺すり上げる。息はますます引き攣れる。だが止められない、もっと苦しくてもいい。
 内からでさえじゅくと湿った音がする。
「ぅ、ふ……、たいさ……?」
「……うん」
「たいさ」
 蕩けきった場所を互いに擦り付け合いながら、どこにも隙間がないほどぴったりとくっついて、愛撫とキスを繰り返す。
 時計の音がしない部屋はいつまでも夜のまま、まるで時を止めたかのようだった。
 
 
 
 
 
 実際、時が止まってもいいと本当に思ったのだが。
 翌朝、当たり前に部屋は光で溢れていて、エドは目覚めと共に正気に返らずにはいられなかった。
 昨夜は二人してリビングで寝入ったらしく、シーツだけは申し訳程度に身体に巻きつけていたが全裸である。ちなみにエドを後ろから抱きしめている男も全裸である。
 ベランダには食べ残したものがそのまま置いてあり、部屋は部屋で情事の痕跡が生々しい。
 そして窓が全開。今頃両隣の住人を思い出してももう遅い。
 逃げたい。
 そんな欲求が否応なしにこみ上がった。元々ロイと夜を過ごした翌日のエドは、慌てて旅立つことがほとんどだ。
 ロイが寝入っているのならチャンスもある。
 逃げるか──真剣に考え始めた途端だった、エドを抱きしめていた腕の力が強くなった。
「……逃がさないよ」
「寝たふりか!」
「いいや。最初から寝てはいなかった」
 もがこうとすると足を絡められる。昨夜の空気をそのまま引きずる動きに、身体中がかっと熱を帯びた。
 いつもであれば、エドは暴れて彼から身を剥がしていたのかもしれない。しかし今朝はそうできなかった。心身共に疲れ果てていたことも一因であるが、ロイの腕が常より切実だったせいだ。
「逃げないでくれ」
 そう乞う声は平坦ではあったけれど。
「夕方まで君の時間を私にくれる約束だ。なにもしないでいいから、このままでいさせてくれ」
「大佐……?」
「一緒にいたい」
 ぽつんと呟いて、うなじに鼻先を押し当てる。
 ロイはよくエドに言葉で甘える。聞いた瞬間は毎回大人のくせにと思うのだ。それは彼がエドには叶えられない願いだとわかっていて、しかもわかっているからこその悪ふざけで言うからで、エドはそのたびに遠慮なく邪険に彼を跳ね除けたりするものである。
 だが今聞いた願いは違った。
 エドに叶えられる範囲で彼が甘えてくるのは珍しい。
 一緒にいたい、なんて。実は初めて聞いた、叶えることができる願いじゃなかっただろうか。
 エドはいささか乱暴に彼の腕を解いた。
 背後へと向き直る。すると何だか自分で自分に困っているようなロイがいるではないか。本当に珍しい。
「……何でそんな顔なんだ、オレちゃんとここにいるのに」
「でもさっき逃げようとしただろう」
「したけど……」
 だからと言って、そんなにあからさまに拗ねなくてもいいではないか。ロイがいつものようにふてぶてしくいてくれないと、エドまで調子が狂う。
 仕方なくその頭を胸もとに抱きこんだ。髪をぐしゃぐしゃと掻き混ぜて、音を立てるキスを彼の額にひとつ。
「いるよ。ちゃんと一緒にいる」
「──…………」
「せっかくずる休みしたんだ、楽しまないと損だろ?」
 ロイの腕がおっかなびっくりエドを抱き返すのがおかしかった。彼のいつにない様子に戸惑ったのはエドも一緒だが、ロイにしても甘やかされる立場に戸惑っているらしい。
「……ずる休み、ではないよ。休みの申請はしてある」
 彼らしくない隙だらけの反論。
「昨日ダメだって言われてたくせに」
「……いや。あの書類に全部目を通したら休んでいいと」
「全部見た?」
「……いや」
「明日一人で中尉に怒られるんだ? それで意地悪な准将に仕事が遅いって嫌味言われて残業三昧?」
 黙り込む彼の唇にも小さなキスを。
「中尉には一緒に怒られてやるよ」
 ぴく、と、ロイの腕が跳ねた。
 エドを抱く力がにわかに強くなる。少し痛い。でも少し痛いくらいが確かに気持ち良い。
「その代わり、今日はオレと一緒にアルに言い訳してくれよ?」
「……言い訳は、得意だ」
「うん」
「……ほんとに明日まで一緒にいてくれるのかい?」
「うん」
 うなずけば、嘘のように嬉しそうな顔を見せる恋人。
 たまには時間を気にせず二人きり、甘ったるいまま過ごすのもいい。
 そんな休日。