やつあたり告白

 書けども書けども突き返される報告書。おそらく嫌がらせなのだろうなぁとは推測しながら、ロイは新しい報告書を作り始める。
 ちなみに同じ案件の書面を書くのはこれで四度目だ。同じ添付資料をそろえるのは三度目。今のところ己の担当地域に目立った事件がないから付き合ってやっているが、そろそろ潮時かも知れぬ、ロイは浅い溜め息をつく。
 報告書を請求しているのは、軍法会議所内にある某部署である。
 実はこの部署とロイとの間には因縁がある。記憶にもまだ新しい――あれはロイが東方司令部に配属されて間もなくのことだった。前任者の不祥事が発覚して、現東方司令部指揮官のロイが始末書を書かなければならなくなった。
 不祥事は前任者が起こしたものであったから、それだけでもロイには関係の薄い始末書であったのに、某部署の責任者は厳しすぎるほど厳しく文書作成を繰り返させた。当時の書類は、五度目でやっと受理された気がする。
 同じく軍法会議所内で勤務しているヒューズによれば、どうやら某部署の責任者である准将がロイを毛嫌いしているのは有名な話なのだとか。
 准将とは一度も面識がなく、電話ですら話したこともない人物だというのに、たいそうな嫌われようだった。
 そもそも役員連中も役員連中なのだ。確執をおもしろがって、准将にわざとロイと組む仕事を押し付けているらしい。
 暇人たちめ。冷めた感想を呟き、書き上げた書面を投げのける。
 ロイがこもっている場所は資料室だった。
「……いっそ軍法会議所ごとケシ炭にしてくるか?」
 半ば本気で考える。考えながらも、相手と同次元で対立するのが馬鹿らしく、ロイは淡々と書面を文字で埋めることを続けていた。
 分厚いファイルのページを繰り、目的の記述を探し出す。資料から同文章を引用するのも四度目――長ったらしい状況説明文。
 ロイは機械的にペンを走らせかけ、だがとうとう肩を落とすのだ。
「馬鹿馬鹿しい……」
 ついに盛大な溜め息まで漏れる。
 書類の広がった机に突っ伏した。仕事を途中で放り出そうが、ここには叱咤をくれる部下はおらず、気晴らしをすすめてくれる相手もいない。
 いっそ不貞寝でもするかという気分になるのは早かった。とにかく早急な気分転換をしたかった。そうでなければ今度は仕事が遅れる。遅れて准将と更に揉め事を起こすことは避けたいのだ。
 しかめっ面で目を閉じた。数分で良いから眠れ、言い聞かせるが、睡魔はなかなか訪れない。そうする間も浮かび上がってくる鬱憤を、ロイは端から噛み殺さなければならなかった。
 准将に対する不満は仕事に対する不満につながり、果ては軍部に対する不満にまで幅を広げた。
 軍隊の仕組みは理解していて、国家に武力は必要だと思う反面、ロイは「上官には絶対服従」の定説が苦手だった。任務を完璧にこなそうとする意志こそが、軍人を崇高な生き物に変えることも知ってはいるが、それと命令を下す側を疑問に思うか思わないかということは、また別の問題である。
 今の軍部に満足しているのなら、頂上など目指さない。
「……だから今は忘れろ」
 馬鹿な上官に頭を下げることも、くだらない命令に付き合うことも。
 ロイは静かに唱える。上に行きたければ不服を唱えるよりも、与えられた仕事を素早く処理して次の段階へ進むべきなのだ。
 深呼吸をする。ほんの数分の睡眠が忘却を叶えてくれるはずだった。
 ところが、ゆるゆると眠りの幕が意識を覆おうとした頃だ。資料室の扉をノックする音が聞こえるではないか。
 一気に気持ちが引き戻された。
 ロイは目を閉じたまま憮然とした。急ぎの用件なら、返事を待つまでもなく相手が室内に入ってきそうなものだが、その様子はない。代わりにもう一度ノックが聞こえた。
 ――無視しよう。
 ロイは咄嗟にノックの相手を八つ当たりの対象に決めた。しかし、だ。
 二度のノックのあと、そうっと扉が開かれる。それから声が。
「……大佐?」
 聞いた瞬間、跳ね起きたくなった。思わず我慢してしまったのは、今の自分が平常の心理状況ではないとわかっていたせいである。
 相手はエドだった。声も間違えようがない。
「大佐? 忙しい?」
 資料棚の間を抜け、近づいてくる気配があった。
 最初は普通に歩く靴音がしていたが、突然ぱったり静かになる。多分、エドは今、机の上に伏せているロイを見ているはずだった。
「――…………」
 呼びかけはない。
 ロイはじっと目を閉じている。
 更に数歩近づく足音。彼は隣の椅子にそっと腰掛けた。ちょうど上体を倒したロイが、顔を向けている方向の席だった。
 そのまま数秒。声がかからないから、てっきりこちらの寝たふりに気付いていないのだろうと思っていたのに。
「……大佐がオレのこと無視すんのって珍しい」
 微妙な言い方だった。鎌をかけられているのかもしれなかったので、ロイはまた黙って目を閉じていた。すると小さな笑い声がする。
「聞いたぞ。変な准将からいじめられてんだって?」
「…………」
「不貞寝してるくらいだったら、さっさと怒鳴り込みゃいいのに」
 簡単に言ってくれる。ロイは演技を諦め目を開けた。
 頬杖をついてこちらを見ていたエドが、「やっぱりタヌキ寝入りだった」と軽く睨む。
「……どうしてわかったんだい?」
「カンタン。ここ、シワ寄ってるぞ」
 エドはロイの眉間を指差す。
「あんた隠し事や企み事はスキだけど、基本的にウソつかないもん。しかも表情はけっこう正直」
「……悪いことを言われているわけではないのに、嬉しくないぞ、鋼の」
「いいなぁ、そういう反応。オレ、へこんでる大佐ってスキ」
 そう言ったエドは楽しげに笑った。反対にロイはますます気力を失った。台に頬を押しつけたまま、はぁっと特大の溜め息をつく。
「……私も落ち込んでる君が恋しいよ鋼の。落ち込んだ時の君は、捨てられた子犬のような目で私を見てくれるからね」
「そんな目しないよ、オレ」
「いやするんだ。ところで今の私はどうだい? 捨てられた子犬のような目で君を見てはいないのかい?」
 甘やかしてくれと精一杯訴える視線にも、彼は情けをかけることなく、鼻を鳴らしただけでそっぽを向くのだ。
「別に普通の目。ちょっと元気ないけど、それだけだ」
「君は相変わらず薄情だなぁ……」
「そっか? 東部に帰ったら、いつも真っ先に大佐に会いに来てんのに」
「賢者の石の情報を聞きにだろう?」
「当然。でも、今日だって一番にここに来たんだぜ?」
 エドが困ったように口を尖らせる。その表情には、かすかな照れが含まれているように見えた。
 エドの好意は真っ直ぐで気持ちが良い。ロイは、彼が言葉ほど己を嫌っていないことを良く知っていた。
「……本当に賢者の石のためだけかい?」
「何が言いたいんだよ?」
「君の顔が私に会いたかったと言っているように見えてね」
「大佐って目悪いんじゃねーの?」
 言葉の無愛想さとは反対に、ふわと赤く染まる頬。
 ――君のそういうところが好きなんだ。
 もう少しで口にしてしまうところだった。普段なら言ってしまっていたかもしれない。けれど今日は止めた方が良い気がする。ロイは浮かんだ言葉を飲み込んだ。何となく、常のように冗談にしてしまえる自信がなかった。
 恋、という名の思いがある。
 実はロイには馴染みの薄いものだ。全く経験がないわけではないが、その感情で結びつく付き合いは決して長く続かない印象がある。
 だから、己の身の内に小さな火種があったことに気付いて以来、極力刺激を与えないようにしていた。要するに、当の相手は、長く付き合っていたい人物だった。肉親のように無条件で信じたり、戦友として笑い合ったりすることを、当たり前にいつでもできる関係でいたたかった。そう――たとえ十才以上年下でも、エドとはそんなふうに付き合っていけると思った。
 幸い、己の中の思いもまだ制御の効くものだ。曖昧なままで良い、ロイは自分が打算的であることを自覚しながら、際どいラインでエドと対峙し続けていた。
 ただ、疲れたり苛ついていたりすると、唐突に一歩内に踏み込んでしまいたくなる。
 自分に堪え性がないことを痛感するのはそんな時だ。好意を向けられて知らぬふりもできないし、自分も好きだと思えばどうにも試したくなる。機嫌が悪ければ、それを理由にエドに甘えたくもなるのだ。
 八つ当たり、なんて、なんと甘えるのに正当な口実だろう。
 しかも、今のロイの胸の内を知らぬエドは、心配そうに顔を寄せたりする。
「……大佐?」
「……ん」
「また眉間にシワ寄ってる」
「うん……」
「珍しいね、大佐があんまり笑ってないの」
「…………」
「……笑わないの?」
 覗き込んでくる瞳の無防備さに眩暈がした。
 溜め息が出た。関係を変えたくないと思っていたのは自分であったのに、手の届く範囲に彼がいると、ちっとも堪えがきかない。
「君が笑ってくれれば、私も笑いたくなるかもしれない」
 もはや言葉は意識する前に口から滑り出ている。
「オレ……が? 笑うのと、大佐が笑うのと、関係あるのか?」
 彼はさすがに困惑した表情になった。
「あるよ。信じられなければ試してみるといい」
「て言われても……すぐに笑えるわけじゃないし」
「そうかい?」
「笑えねーよ。大佐だって笑えないんだろ?」
 困る彼をじっと見つめる。
 ロイは自分が何を言っているのか、その時になって初めて気付いた。
「……キスでもしてみるかい?」
 途端に驚きで身を強張らせた相手に、ものを言わせる間もなく唇を重ねる。
 我ながら卑怯な手口だった。冗談になっていないところが更に悪い。敗因は、ロイがエドに幼い印象を持てなかったことかもしれない。相手は子供であるという立派な抑制を、ロイはその時、どうしても思い出すことができなかった。
 それでもキスはやさしい感触になる。互いの唇は柔らかく触れ合い、近い眼差しは真摯に、頬や髪を辿る指は切実になった。
「……笑ってはくれないのかい?」
 唇を触れ合わせたまま言うと、我を持ち直した彼は泣きそうな顔で瞬きし、ロイを静かに押しやる。
「笑えるか、バカ……」
 答えたのは痛々しい声だった。
「……うん。すまない。私も笑えない」
 ロイも小さく言った。ついでに頭も下げた。ロイがエドの好意を知っていたように、エドはロイの好意を知っていたはずだ。それでも今の今まで互いに踏み込まなかったのは、お互いに望んだ関係ではなかったからだった。
 だから、彼が今のキスを必死で冗談にしようとするだろうことは見当がついていた。
「笑えないことすんな」
 案の定、震える声は健気なくらいに平静を装うとしている。
「あんた大人だろ?」
「うん……」
「だったら何して良いか悪いかわかるよな?」
「うん」
「なら、こういう八つ当たり最低じゃねーか」
 ロイはエドがかわいそうになって項垂れた。
「……わかっている。でも、君も知っているはずだ」
 どうして自分はこういうことしか言ってやれないのだろう。
「私は君が好きだ」
 エドが短く息を飲んだ。彼の沈黙は、ロイの言い分を肯定したのも同然だった。
 しばらく彼の顔を見ることができずにうつむいていると、ペチ、と、両頬を挟み打ちされる。力の入っていないそれは、ただ胸にばかり痛い。
「……帰る」
 彼は言葉と一緒に立ち上がり、ロイに何を言わせることもなく資料室から出て行った。
 あとに残ったのは、元々の憂鬱の種だった未完の報告書だけだ。
 今度こそ真剣に落ち込みそうだ。
 ロイは苦く息をつき、ぐちゃぐちゃになった頭を押さえ、もう一度机に突っ伏す。
 果たして、この書類はいつになったら書き終わるのか。准将からはまた嫌がらせを受けるのか。……エドは今後も司令部を訪れてくれるのか。
「……私から謝りに行くべき、か……」
 わかってはいるが、当分動けそうにない。
 その日、ロイは数年ぶりに激しく自己嫌悪に陥った。
 東方司令部内では、こと色事においては常勝のロイが、どこぞの高嶺の花に振られたらしいという噂が実しやかに飛び交っていた。