Walking Tough Like A Jackrabbit

1)
 赤木の部屋には暖房がない。
 何でも、家を建て替える時に赤木自ら所望したらしく、彼の言い分によれば、暖房は頭の回転を遅くするのだそうだ。
 更に赤木の部屋には炬燵もない。ビデオもなければ、テレビゲームの類もない。ミニコンポは申し訳程度に鎮座しているが、CDの枚数は驚くほど少ない。
 本当にこれが自分と同級生の部屋なのだろうか、三井は、どうしても解けない数式と睨み合いをするのにも飽きて溜め息をついた。しかし、溜め息ごときの些細なきっかけなんかで、自分にかまってくれるような人間は、どうやらこの部屋にはいないらしいのだ。相変わらず、隣と前からは熱心に文字を書き込む音が聞こえてくる。
 知ってるのかなぁ、こいつら……。しばらく数式で一杯になった頭を休め、三井はぼんやりと、今夜何度目かの呟きを心中にもらしていた。
 十二月二十四日という日が、毎年年末にやってくる。
 去年は確か、当時付き合っていた女の家に転がり込んだはずだ。その前の年も、そのまた前も、三井の十二月のその日は、そんな感じだった。中学の時も、一緒にいた相手が男友達に代わった程度だ。どっちにしろ馬鹿騒ぎして、大なり小なり羽目を外しすぎて、次の二十五日は昼過ぎまで寝倒しているのが常だった。
 だが、今年のこの日は全く違う。こんなクリスマス・イブが、この世にあってもいいのだろうか。
 誰かと特別なことを話すわけでもなく、騒ぐわけでもなく。朝からずうっと参考書と顔を突き合せてばかりのくせに、全然寂しい気にならないクリスマス・イブなのだ。
 一人じゃないことは確かにプラス要素だろう。けれど相手は野郎どもと数式だ。どうしてこれで虚しくないのだ。自分はどこかおかしくなったのではないか。
 とにかく三井は不思議でならなかった。
 こんな勉強ずくめのクリスマスを、不自然もなく過ごしてしまう赤木や木暮、何より自分が信じられない。ここ、赤木の部屋には、ケーキもビールもつまみもゲームもないのだ。あるのは一杯のコーヒーと、参考書の山と、消しゴムの屑と、自分の汚い字が窮屈に並んだノート──それから、シュンシュンと懐かしい音をたてる、ヤカンを置いたストーブと。
 あと、頑固でクソ真面目な赤木と、勉強している時でも笑ってるみたいにふにゃっとした表情の、木暮。
 そして、クリスマスのような一大イベントに騒がない自分。
「クリスマス・イブだっつーのに……」
 何だか唐突にどうしようも照れくさくなって、つい愚痴なんかが出る。
「クリスマス・イブの夜に、どうしてヤローとひとつ屋根の下?」
 芝居っ気たっぷりの悲壮な声音に、赤木と木暮が揃って顔を上げる。
 三井はしっかり渋面を作って、できるだけ盛大な溜め息をついた。
「灰色の受験生って何なのソレ? 今日くらい、ココロを大きく持ってもいいと思わねー? ほら、この数式。さっきからいっくら考えてもわからねーんだぜ? これって、ちったー休めっつー神様のオボシメシじゃねーの?」
 三井の言いように、最初に木暮が笑った。眼鏡を掛け直しながら、シャープペンシルの先で、問題集をかつかつととつつく。
「俺もこれがわかんないんだよねぇ、これも神様のオボシメシ?」
「オボシメシ、オボシメシ」
 木暮が三井の話に乗ったと見るや、もう一人の赤木は小さく肩を竦めた。
「……俺はオボシメシなんか受けてないがな」
 それでも赤木は、使っていた赤ペンにキャップをつける。何とはなしに誰もかれもが話す体勢を整える。
 三井は隠れて少しだけ笑った。特別に騒ぐわけではないけれど、こんな暗黙の了解があるから、クリスマスに勉強でも虚しくならないらしい。
 木暮はストーブのヤカンを下ろすと新しいコーヒーを作り始める。インスタントのくせに、今夜は誰がいれてもおいしかった。さっきは赤木のごつい手が、不器用にマグカップを扱っていたっけ。三井は改めて足を長く伸ばすと、暇つぶしに向かいで勉強していた赤木の問題集を取り上げる。その赤木は文句を言うわけでもなく、三井と一緒になって問題集を覗き込んだ。
「すっげ。ナニこの長文、サイッテー」
 2ページにわたる英文に、毒づかずにはいられない。
「受験生の台詞じゃないぞ」
「俺が受験生じゃないってんなら、誰が受験生なんだよ、ウラっ」
 取り上げた問題集の代わりに、今まで自分が使っていたノートを渡した。赤木はしばらくそのノートを眺めていたが、
「お前がいくら考えてもわからんと言っていたのは、これか?」
 一番最後の、途中まで書かれた数式を指さして彼は訊く。
「それそれ。どれかの公式使えばいいんだろーけど、ぴんとこねーでさぁ」
 言うと、赤木はその問題を最初から解き始めた。脇から木暮がコーヒーを差し出す。
「数学は三井の得点源だろ?」
「そーなの。だから余計に解けねー問題があると、腹立つっつーかなぁ……」
「いいよね、得意な科目があるっていうの。俺はそういうのないから、全部に手出さなきゃなんない」
「満遍なくできるのも強みだろ? それにお前、センター試験受けるんだったよな?」
「うん。マークシートなのは助かるけど……世界史とかの暗記ものがね」
「世界史なぁ、それも苦しいな。良かった、俺。推薦取れて」
 三井の受験必須科目は、英語と数学だけだ。木暮はそれに世界史と生物が加わる。ただでさえ暗記ものが苦手な三井は、木暮が良く開いている年表を見るだけで目が痛くなる。
「おい」
 と、不意に赤木が顔を上げた。
「これ判別式使うんじゃないか?」
 三井のノートと自分のノートを見比べ、なおも数式を書き込むと、赤木は満足したようにコーヒーに手を延ばした。
「判別式って、Dか? うっそ、それグラフ書く問題だったのかよ?」
 彼の手元を覗き込めば、なるほど、ざっと書き付けたような二次関数の曲線がある。
「……くやしー」
「ん?」
「何でてめーに解けて、俺には解けなかったんだ」
 赤木が苦笑いする。三井には応えずに木暮と顔を見合わせた。
「オボシメシだろ、気にするな」
「そうだよ。それに赤木も理数系だから、いいんじゃないか?」
 全然良くないと三井は思う。自分が赤木に太刀打ちできるのは、数学だけなのだ。
「ちきしょ、解いてやる……んだよ、グラフ書けば簡単に出るじゃねーか」
 ナメてんのか、思わずノートに八つ当たりすると、それを見ていた木暮が吹き出した。むっとしてそっちを向けば、三井が文句をつけるより先に、木暮は床に寝転んでいる。
「あー疲れた。でも集まって正解だったなぁ、一人じゃ絶対こんな日に勉強する気にならなかった」
「そうかもな」
 木暮に釣られたように赤木も寝転んでしまった。二人に置いてけぼりをくった三井は、しばらく次の問題を睨んでいたが、それにも飽きて机に突っ伏す。
 と──
「……ゴーリーっ」
 突然聞こえた呼び声に、びっくりして顔を上げた。三井だけではなく、赤木と木暮も慌てたように身を起こす。
「ゴーリーっ」
 再び外から聞こえた声は、明らかに一人のものではなかった。普段から赤木をそのあだ名で呼んでいる怖いもの知らずの後輩と、もう一人、背は小さいくせに度胸と態度だけは一人前の、現湘北バスケ部主将の声だ。
「ゴーリーっ」
 三度目。とうとう赤木が苦笑しながら腰を上げた。三井と木暮も後に習う。窓を開ける寸前まで笑っていた赤木は、一呼吸おいたあと、見事に「先輩」の顔で怒鳴っている。
「近所迷惑だ!」
 窓から顔を出した途端に落ちた雷に、外でたむろしていた後輩たちが身を竦めた。桜木と宮城と流川、思わず直立不動になっている彼らを下に、三井は屈託なく笑う。
「お前ら、ちゃんとインターフォン鳴らせよ」
「めんどくせーじゃんかよぉ、んなの! いーから下りて来いってばさぁ!」
 陽気な桜木の声は、冬の透き通った空気をぴりぴりと震わせるようだった。もうしっかり外界は夜で、言葉と一緒に吐き出される白い息がひどく鮮やかだ。
「今花道んちにみんなで集まってるんスよ、ダンナたちも一緒にクリスマスしましょーってば」
 宮城が言う。もう一人の流川は、未だ一言も話さず黙ってこちらを見上げたままだったが、こんな寒い夜にわざわざやって来た彼らに、いじらしさを感じずにはいられない。三井だけではなく、赤木にしても木暮にしても、後輩たちへの思いは同じだったようで、隣に並んだ彼らの顔はひどく嬉しげに見えた。
「クリスマスだってさ」
 三井がこっそり呟くと、木暮は笑う。
「受験生には毒だね」
「オボシメシだろ」
 小声で交わされた会話に、赤木も同じく小声でうそぶいた。
「なぁ、下りて来いってばさぁ!」
 桜木はひたすら元気だ。三井は「わかったよ!」と一声叫ぶと、早速他の二人と散らばった参考書を片付け始めた。

「だぁかぁらぁ。最初はミッチーんち行って、そこでミッチーはメガネくんちだって聞いたから、メガネくんち行ったら、メガネくんはゴリんとこ行ったって聞いたから、ゴリんち行ったんだよ」
「うるせー、バカ」
 ビール一缶で酔ったという桜木は、さっきから、まるで十メートル離れた相手に話すような声で、たわいもないことを話まくっている。宮城や三井はすかさず蹴りを入れはしたが、桜木は相変わらずふんぞり返って笑っていた。
 クリスマス・イブとはいえ、住宅街は静まり返っている。その中での三井たちの声や足音は、あたり一帯に響き渡るほどである。
「こんな日に勉強なんかしねーで下さいよ、さみしーなー」
 桜木の意味不明な高笑いの向こうで、宮城がぼやく。赤木が憮然とした。
「お前もあと一年したら同じ目に合う」
「いーんス、俺は。アヤちゃんと一緒だから」
「ふん、さっさとふられちまえ」
 赤木らしくない暴言だ。おもしろくなって、三井はそのあとに続いた。
「ふられちまえ」
「ひっで、あんたらそれでも先輩っスか?」
 宮城が情けない表情になって背後の木暮を振り返った。
「何とか言ってやって下さいよ、木暮さん」
「ふられちまえ(笑)」
「ひっでー! ひどすぎるぅ! もう俺立ち直れねー!」
 まるで桜木のように大声でわめく宮城を、赤木が無情に蹴っ飛ばす。
「花道ーッ! ジジイたちがいじめるぅ、助けてくれぇ!」
 「にゃはははは」、宮城の叫びをよそに、桜木はやっぱり意味もなく笑っている。宮城も多少酒が入っているのか、いつもより感情表現が激しい。桜木がかばってくれないとみるや、更に力一杯名前を叫ぶ始末だ。
「ハナミチーィ!」
「うるさいッ」
 再び宮城を蹴っ飛ばす赤木。その脇で、一人静かな流川が溜め息をついた。
 その流川の傍に寄りながら、三井は自分の財布の中身を確かめる。
「なぁ、何人集まってるって?」
 訊くと、流川はかすかに眉間にしわを寄せた。
「……かなり」
「かなり? まさかバスケ部全員?」
「水戸たちも」
「ウソっ」
 せっかく手土産を持っていこうと思ったのだが、それは本当にかなりの人数だ。三井は手近にあった木暮の後ろ襟を引っ張った。
「お前、どのくらい金持ってる?」
「何、差し入れ?」
「おう。けど、バスケ部プラス水戸たちだってよ」
「そんなに集まってるのか? 桜木の家、大丈夫?」
「角部屋っス」
 流川が口を挟んだ。
「角部屋でもだよ。隣の人、騒いじゃって迷惑してるんじゃないか」
「……さぁ……」
 流川の返事は頼りない。木暮は困ったように黙った流川を見ていたが、しばらくすると肩を落とし、コートのポケットをごそごそと探った。
「まぁ……今夜くらい……いいよな……」
「赤木ぃ、お前も金出せっ」
 赤木が振り返る。脇に抱え込んでいた宮城と桜木の頭を、まるでうざったい荷物のように放り出す。
 桜木と宮城は、今度は赤木の悪口で盛り上がっているようだ。それをこちら側で見ている流川の雰囲気がつまらなさそうで、三井は木暮と忍び笑いを漏らした。
「おい、流川見てみろよ」
 おもしろいので、赤木に耳打ちする。すると赤木までもがその後輩の表情に苦笑した。

 赤木の家から桜木の家までは、歩いてもそう遠くない。ただコンビニを経由するとなると、少しばかり回り道をしなければならなくなる。間に小学校があるものだから、その校庭を迂回する必要が出てくるのだ。
「遠いーっ、ここ突っ切っちまえばいーじゃんかよぉ」
 桜木は、道中何度もそう言ってきかなかった。
 校庭を区切っているのは華奢なフェンスだけである。そのフェンスすら飛び越えてしまえば、コンビニにも、またコンビニから桜木の家に移動するにも、便利なことは確かだった。しかし常識人赤木が頑として首を縦に振らず、結局三井たちは大きく迂回する道を歩いた。
 ところが、である。
 コンビニに行く途中、横道の暗がりの中に、しかりと抱き合っているカップルがいたのだ。桜木と宮城はそれに気づかず、その真横を通り過ぎる時ですら馬鹿騒ぎをやめなかったが、三井と木暮と赤木は当然気づいていた。
 今夜はクリスマス・イブなのだ、こんなことがあっても仕方ない。しかし三井たちは気まずい思いをした。そのカップルがまた、これ見よがしに抱き合ったままだったのだ。男の手が女の胸に伸びていたりして、もうちょっと隠れてやれよと、見ているこちらの方が恥ずかしくなる。
「……帰りは小学校を突き切ろう」
 無事コンビニが見えた時、赤木がぽつり呟く。最初からそうしときゃ良かったんだ、三井はそっと溜め息をついた。

「命令だ、花道。お前はここでじっとしてろ」
「ヤだーっ」
「何つってもダメ。お前ウルサイもん、ここで番犬してなさい」
「ヤ、だーぁっ」
 コンビニ前、桜木はどこまで行っても元気だ。宮城も桜木といると際限なくはめを外す。ガラス窓を隔てた店内にいる客が何人もこちらを向くので、三井はさっさと彼らを引き離す作戦に出た。
「宮城、来い。桜木、番犬」
 途端に桜木は騒いだが、
「流川、桜木を止めてろ」
 横から赤木が言うと、まさしく口にチャックでもできたように静かになった。桜木は本当に番犬にでもなったみたいに流川を睨みつける。どうやら酒に酔って気分がいい時にでも、彼らの関係に変わりはないようだ。
「……静かになったな」
 コンビニの自動ドアを潜りながら、赤木は絶大な効果に笑っていた。そのまま買い物係の宮城に千円札を渡すと、彼は雑誌コーナーへ行く。三井もとりあえず宮城に千円を渡した。その宮城は、木暮と二人で惣菜コーナーへ向かっていく。 三井はしばらく店内をぶらぶらしていたのだが、外の後輩たちの様子に目が止まったので、近くにいた赤木の肩を叩いた。
「あれ見ろって」
 顔を上げた赤木は、三井が顎でしゃくった方向を見て小さく笑う。
 桜木の髪をぐしゃぐしゃと掻きまわしている流川。
「何やってんだ、あいつらは」
「さぁねぇ」
 ガラス戸の向こうでは、三井と赤木がここで彼らのやり取りを見ているとも知らず、言い合いを繰り返している後輩たちがいる。どつきあうわけでもなく、やはりいつものように、一方的に桜木が流川を非難しているようだ。そのうち流川がぼそりと口を開いたが、それがたった一言の、しかも良く耳にしていた台詞だったので、三井と赤木には何を言っているか丸わかりだった。
 仕方なく笑っていると、買い物を終えた宮城と木暮がやって来る。
「何二人して笑ってんスか」
「あれだよ」
 三井の応えで外の桜木と流川に気づくと、宮城は短い溜め息をつく。
「もう……どこ行ってもあれだな、あいつらは」
 流川の襟元を掴み上げ、桜木はなおも文句を言っているらしい。流川はその桜木の片頬をつねって、また一言。途端に宮城が笑った。
「ドアホウ」
 外の流川とそっくり同じ言葉を、宮城が呟く。木暮も笑って言った。
「こんなとこでケンカさせたらまずいんじゃない?」
「あれがケンカに見えるんスか、木暮さん」
「いや、全然」
「でも俺たち以外にはそう見えるかもしれん」
 そう言う赤木の声には、幾分笑いが滲んでいる。それを聞くと、宮城は「しょーがねーなぁ」と頭を掻き、早速外の二人組みを仲裁しに出かけていった。三井たちも宮城のあとをのんびり追いながら、
「あいつら、三年間こんなこと続けるつもりかねぇ」
「一生かもしれん」
「元気でいいじゃないか」
 そんな会話を交わすのだ。
 自動ドアが開くと、すぐに桜木のわめき声が聞こえてくる。
「もぉやだ、リョーちん! こいつここに捨ててこー!」
「うるせぇよ、オラ! とっとと荷物持て」
「んなのキツネに持たせとけよ、俺はヤだ!」
「ガキか、てめーは」
 確かに桜木は巨大な子供のようだった。宮城に駄々をこねる様はまさしくそのもので、赤木や木暮たちの苦笑をかっている。しかしもう一人の子供には、相手が同レベルに見えていたらしい。未だ宮城に向かってごねる桜木を、流川は無表情で蹴っ飛ばした。
「さっさと持て、どあほう」
「見ろ、この極悪ヒドーなキツネを! こーゆーヤツだぞ、こいつ! 捨てるんなら今だってば!」
 桜木の叫びはどこまでいっても意味不明だ。これ以上注目を集めるのも恥ずかしかったので、三井たちはさっさとコンビニを離れた。置いてけぼりをくった桜木が、また何かわめいていたが、上級生組はもう誰も振り向いてやらなかった。
「……いいのか、置いてって」
 あとでこっそり木暮が心配していたけれど、三井たちは肩を竦めただけで、後輩のことは頭から消すことにした。
 どうせ流川が一緒だ。
 桜木をほっぽり出す大義名分は、それで充分だと思う。

 

2)
 大勢でクリスマス・パーティーをやったら楽しいだろう、と、そんなふうに言い出したのは水戸だった。
 十二月の始めの話だ。冬とは言え、その日はまるで春か秋のように暖かく、流川は久しぶりに屋上で眠りこけていたのだ。そしたら──あれは五限目のチャイムだったのか六限目のチャイムだったのか──騒音に目を覚ました時には、ちょうど流川の真正面に、水戸が座り込んで煙草をふかしていた。
「去年までは一人身のヤツ大勢集めてやってたんだけどさ。今年はそーゆー八つ当たりみてーなのじゃなくてもいい状況にいんじゃん、あいつ」
 話は唐突に始まった。
 水戸の言う「あいつ」は、どこをどう取り違えようと桜木花道だけだったが、流川に意味が理解できたのは、その「あいつ」の単語だけだった。
「ゴリとか三井さんとか木暮さんとか、今年が最初で最後かもしんねーし。最後に思い出作ってやったっていいと思うんだわ」
 クリスマス・パーティーで、と、水戸は続ける。
 やっと話題がどこにあるのかわかったが、だから何で、と思った。どうして水戸が流川を相手にそんなことを話しているのかわからない。おかげで流川はずいぶん長く黙り込んでいた。水戸はこちらの反応にかまわず、独り言のように話したものだ。
「あんたもわかってっと思うけど、あいつ実はあの先輩方のこと大好きだろ。俺らもいろいろ世話になったことだし、ま、忘年会もかねて、な。どうせ会場は花道の家になんだし、バスケ部の希望者全員ご招待でも全然不自然じゃねーはずでしょ」
「……水戸」
「ん? なに、あんた聞いてたの? 俺ゃてっきり寝てんのかと思ったぜ」
 悪びれもせず、水戸はにっかり笑う。その時点でひどく悪い予感はしたのだが、流川の重い口は相変わらず重いままだった。水戸はそれすら予想していたように喉を鳴らして笑った。
「寝てても別に良かったんだけどね。あんた、どうせ断わんねーから」
 何だそれは、意味もわからず眉をひそめる流川に、水戸の目が意地悪く細まる。
「発起人が俺だと、バスケ部の人たち遠慮しちゃうじゃん。だからあんたに幹事やってもらえねーかと思って」
「……あ?」
「だから、あんたが花道以外のヤツに声かけんの。誰に協力してもらってもいいけど、とにかく人数揃えてよ」
「何で」
 俺がそんなことしなきゃなんねーんだ、目でそう脅しても、水戸がひるむわけがない。
「そろそろ気づいたらいーんだ、あんたも花道も。見てるこっちが恥ずかしいじゃないの。こう見えても、俺は寛大な友人だぜ?」
「全然わかんねー」
「だろーね。いーさ、これだけわかりゃいい。流川、花道の喜ぶ顔見たくねぇ?」
 思わぬ提案に、流川の苛立ちは凍りついた。
「このままだとあいつ、あんたに向かっては死んでも素直になんねーよ。ずーっと憎まれ口しか叩かねーだろうし、何かっつーと目の仇にするだろ。そーゆーの、いいかげん嫌になんねー? ここらで一発パーティーの幹事やってポイント稼げよ、話し掛ける口実にだってできんだろ?」
「別に……んなのいんねー」
「そりゃウソでしょ」
 水戸はあっさり否定した。流川は再び黙るしかなくなる。
 流川にとって桜木花道というのは、自己主張の激しい、歩く広告灯みたいなものだった。存在自体が真っ赤なギンガムチェックのようなヤツなのだ、視界に入るたびに目がちかちかする。
 そいつは、流川の傍にいるととにかく良くわめいたし、怒鳴ったし、名前を敵の代名詞みたいに叫び、更にはキツネと罵った。うるさくて無視すると、何か流川から言葉を引き出すまで殴るし、蹴るし、そのくせたまに話し掛けてやると、思いっきり驚いた顔をして遠くへ飛びのくのが常だ。
 何なのだ、あいつは。何度そう自問したのか、既に覚えていない。
 時々自問する代わりに花道を観察してみると、わめく怒鳴る以外にも、大声で笑うとか、派手に泣き出すとか、いろんなところは目に入った。ただし流川と向き合っている時は相変わらずで、花道は決して自己主張(言いがかりとも言う)及び悪態、殴る蹴るをやめようとはしなかった。どこまでいっても、うるさいどあほうだった。
「あいつ、大勢で騒ぐの大好きだから、みんなでクリスマスやることになったら絶対喜ぶぜ。そんでもしさ。あんたが幹事やるって知ったら、笑ってありがとうぐらい言うかもよ?」
 水戸のそれは完全に口から出任せだったのだが、流川にそんなことは想像できない。素直に花道が「笑って」「ありがとう」と言う様を思い描き、楽しーかも、と結論づける。
「んじゃ、ま、そーゆーことで」
 水戸は最後ににっかりと笑って去って行った。流川はしばらくぼけぼけしたまま屋上にいたのだが、それでもクラブの時にはちゃんと宮城にパーティーの話をしたし、彩子にも相談した。
 ただその時、彼女はまるで誰もが知っていることのように、花道が一人暮らしで良かったと言った。流川は、本当にその瞬間までそんなことを思いもしなかったので、ひどく驚いてしまった。どうして一人なんだと彼女を問い詰めそうになって、無理やり言葉を飲み込んだことを覚えている。

 流川がパーティーの予定を花道に話したのは、クリスマスの一週間前だ。
 クラブが終わってすぐの宵の口だったのだが、外は既に真っ暗だった。今年に入って初めて雪が降った日で、やたらと風が冷たく、花道を引きとめた渡り廊下には、みぞれ混じりの風がびゅうびゅうと吹き付けていた。
「クリスマス・イブの日、てめーんち貸してくれ」
 流川が言った途端、面倒くさそうにしていた花道が呆気にとられた顔になった。
「……バスケ部全員で集まることになったから」
「へ?」
「水戸たちとも話ついてる」
「よ、洋平……? 何だそれ……」
「だからパーティー。てめーがうなずけば、その日先輩たちが手みやげ持って集まってくる」
「……手みやげ……」
「ケーキとかケンタッキーとか」
 花道は、明らかにケーキとケンタッキーに心を動かされていた。
「まじ?」
 それでも確認をとるので、流川がうなずいてやると、渋々というポーズを作りつつも簡単にOKする。流川はその時少しだけ期待していた。以前に水戸が言っていたように、花道が「笑って」「ありがとう」と言うのが見てみたかった。
 しかし実際の彼が、流川相手にそんなことをするわけがない。そのまま、寒くて仕方がないというふうに離れようとしたので、流川は早速足を出した。その足につまづいて、花道が勢い良く振り返る。
「──うれしー?」
 先手必勝だった。花道が怒鳴る前に、流川の言葉は相手の怒りを完全に逸らしていた。
「てめー、騒ぐの好きだろ?」
 続けて問うと、花道はひどくびっくりしたような、焦ったような顔で流川を見る。
「ま、まぁそーだけどよぉ」
 考えてみると、花道とそんなふうに話したのは初めてのことだったかもしれない。一言ごとに喧嘩を繰り返しているような二人だった。流川はいつも通りにじっと花道を見ていたのだが、花道の目は目のやり場に困ったみたいにきょろきょろしていた。毎日顔を合わせて喧嘩しない日などなかったというのに、普通に相手の顔を見たことがないというのも変な話だ。流川は、ただただ落ち着きのない花道を見ていた。
 そのうち沈黙に耐えられなくなったように、花道が口を開いた。
「騒ぐのとか……てめーはキライそうだよなぁ」
「まーな」
「だろ? 顔見てりゃわかる。いつもつまんなそーな顔してる」
「……顔、見てんのか?」
「へ?」
「俺の顔。いつ見てんだ?」
 言うと、思わず花道が顔を上げた。まともに目が合って、多分お互いにどきりとした。けれど一瞬後には、相手はそそくさと目を逸らしている。
「だっ……大体、誰がパーティーするなんて言い出したんだよ。お前に伝令頼むくらいだったら、アヤコさんか?」
「……ちげー、俺」
 流川はもう一度花道が顔を上げるのを待っていた。
 彼の口許から漏れる白い息が、何度となく空気に溶けた。恐る恐る目を上げた花道は、流川の首のあたりを見たまま、決して目を合わせようとはしない。
「話持ってきたのは水戸だけど、幹事は俺がやる」
「ふ、ふぅん。そりゃすげーな。でも言っとくがな、ルカワ。パーティーっつーのはバスケしねーんだぞ」
「知ってる」
「てっ、てめーは騒ぐのキライだったんだろっ?」
「でもてめーは好きだ」
「……そー、だけど……」
 花道が黙り込む。まるで喉に何かを詰めてしまったように戸惑った表情で、そわそわと視線を動かす。けれどその視線は、いつまで待っても流川の目には届かない。
 結局二人して黙ったまま、その日は終わってしまった。
 流川は花道が「笑って」「ありがとう」と言うのを聞いてはおらず、どちらかひとつでもいいから見てみたいと思う興味は、日増しに強くなる一方だった。暇をみて何度か話し掛ける努力もしたが、一言二言交わすとすぐに沈黙が落ちてくる。それに困って「どあほう」と言えば、やはりお互いに殴りあいに助けを求めてしまうのだ。
 二人して悪態以外の交流手段を持っていなかった。実際、そのおかげで普通に視線がぶつかっただけで驚いたのだから。
 また、流川は更に難しいことに気づかざるおえなくなってもいた。
 花道は、流川の顔をつまらなさそうだと言っていた。つまりそれは彼が「流川の顔を見ていた」ということだ。一体いつ見ていたのだろう──考えていたら、唐突に閃くことがあったのだ。どういうわけか自分も、花道の顔をしっかり思い浮かべることができるではないか。人の名前や顔を覚えるのが下手な流川が、である。
 そうして我に立ち返ってみると、なぜあれだけ喧嘩できたのかも良くわからない始末である。さすがに今度ばかりは流川も戸惑った。困りきって花道を見れば、同じように彼が流川をうかがっていることに気づいて、二度戸惑うことになる。
 以前なら、こんな場合、花道が「ガンつけてんのか!」とすごんで終わりだった。その時々によって、殴りあいになったり口喧嘩になったり様々だったが、とにかく戸惑いだけは生まれたことがなかった。
 しかし今はどうだ。一日の、たった三時間かそこらのクラブで、これだけ視線が合うことが信じられない。以前は一々喧嘩になだれ込んでいたのだから、良くやったものだと思う。確かにこれでは、殴りあいも日常茶飯事になったはずだ。流川は暇さえあれば花道を見ている。花道もきっとそうに違いない。
 そんなふうに、クリスマス・イブまでの一週間は、戸惑いばかりで過ぎた。
 花道の「笑って」「ありがとう」を、流川は未だ見ていない。流川自身は、相手の存在が気になって仕方ないのは、それが原因だと思っている。
 花道の「笑って」「ありがとう」さえ見れば、きっと元通りの毎日がやってくるのだ。

 クリスマス・イブ当日は、とにかく世話しなかった。
 クラブが終わってからの寄り合いだったので、花道宅に到着する時間は皆ばらばらだった。それでも、流川がペットボトル四本を手土産にインターホンを鳴らした時には、既に部員の半分が顔を揃えていたように思う。机や棚を全部取り払った畳の上には、様々な食べ物が所狭しと並んでいて、家主の花道などは、部屋の隅でぼーっと突っ立っていたくらいだ。
 そのうち、アヤコたち女性陣(赤木晴子とその友人)が二日かけて作ったという、ケーキやクッキー、シュークリームも顔を出し、クリスマス・パーティーらしい様相になった頃、桜木軍団の面々が、缶ビールの山と一緒に乱入してきた。
 パーティーの盛り上がり方は、予想をはるかに越えていた。宮城が持ってきたたくさんのパーティーゲームは異様なくらいに好評で、時には爆笑を誘い、時には全員の息を止めさせさえした。  
「ミッチーに会いてー、メガネくんに会いてー、ゴリに会いてー」
 花道が騒ぎ出したのは、酒が回り始めてすぐのことだ。
 元々、流川や彩子は三年も誘うつもりでいたのだが、赤木に話をした時に、今回は受験が近いからと、一度遠慮されてしまっていたのだ。けれど酒の勢いに勝てる人間はそういない。花道がぼやき出すと、彩子や宮城までもが一緒になって考え始める。
 彼らが迷っている時間は長くなかった。花道と宮城が「捜索隊、出動します!」と馬鹿なことを叫びながら部屋を出た。我関せずを通そうと決めていた流川だったが、彩子が不安そうにこっちを見るので、彼らについていくことにした。
 花道は、やたら元気だった。
 本当に騒ぐのが好きらしいのだ。大人数を押し込めた部屋で、そうそう身動きもできなかったのに、終始笑っていたし陽気だった。何をするにも嬉しそうにしていた。誰に向かい合う時も笑顔を絶やさず、極々小さなことで「さんきゅ」と言う。彼は言葉の出し惜しみなどしないのだ。心から楽しそうだった。
 けれどやっぱり駄目なこともある。
 流川の顔を見た途端、彼の表情は変わった。決して怒るとか怒鳴るわけではないが、こっちを向く花道の表情は、どこからどう見ても笑顔ではない。言葉もくれないのだ。ビールをついでやっても、チキンを取ってやっても、戸惑った顔で「……おう」と言うだけ。どうして軽い「さんきゅ」がもらえないのだろうかと、流川は内心じれまくっていた。
 花道が楽しそうなのは、見ていて気分がいい。
 でも「笑顔」も「さんきゅ」ももらえなければ、自分がここにいる意味がないではないか。
 皆で騒ぐのは確かにおもしろくないわけではなかったし、ケーキも嫌いなわけじゃない。酒もチキンもおいしかった。ゲームも、つまらなくはなかった。けれど流川がここにいるのは──水戸の口車に乗ってパーティーの幹事なんかをやったのは、全部花道のためなのだ。
 花道と宮城がふらふら歩く後を、同じようにふらふらとついて歩きながら、流川は花道を睨んでいた。
 どうして花道は、流川にだけ笑ってくれないのだろう。皆と同じように接してくれないのだろう。

 ようやく合流した赤木たちが、買出しのためにコンビニに入った後、流川はしばらく花道をじっと見続けていた。花道も流川を見ている。普段の睨み合いのように眉間に皺を寄せ、それでもその目の奥が彼の戸惑いを伝えてくる。
 コンビニの装飾は、しっかりクリスマス・バージョンだ。流川と花道がいる脇にクリスマスツリーが飾ってあったり、入り口にリースが掛けてあったり、ガラスに雪のペイントがされていたりと、至って賑やかである。そんな中での二人の睨み合いは、やっぱり不毛に違いなかった。先にその無駄に気づいてしまった流川は、他の何をすることも思いつけずに溜め息をつく。
「……んだよ」
 花道が条件反射のように悪態をついた。
 流川は小さく首をかしげる。相変わらず眉間に皺を寄せたままの花道を、ただ真っ直ぐに見つめた。
「……笑え」
「ぬ?」
「ありがとうって言え」
「はぁ?」
「……何でそんな顔しかしねー」
 流川が話せば話すほど、花道は困惑顔になっていく。一応、喧嘩と違うことを理解してくれたらしいが、だからと言ってこの会話が何を意味しているのか、全くわかっていない表情だった。
 まるで日本語とドイツ語で話しているみたいに、言葉の伝達が上手くいかない。流川は次第にもどかしくなって、手近にあった真っ赤な髪をぐしゃぐしゃと掻き回した。途端にむっとした顔の花道が、凄みを効かせた目で睨みつけてくる。
「何すんだ!」
 ところが流川は花道の声を聞いていなかった。ふわふわ絡まる赤い髪を、何度も何度も掻き回しながら、自分の中に浮かんでくる言葉を捕まえるのに一生懸命だった。
「笑えば……いーんだ。そしたら……」
 反対に、花道は流川の声を聞いていた。彼は、居心地悪そうに、それでも黙って流川の先の言葉を待っていた。
「そしたら……もっとやさしくすんのに……」
 それを口にした途端、花道の顔が真っ赤になる。
 花道の中で流川の言葉が日本語になった瞬間だった。彼は、慌てふためいて流川の手から離れ、はりぼてで作ったような、脆い偽ものの怒り顔を見せた。
「べっ、別にっ、てめーにやさしくしてほしーわけじゃねーよっ」
 花道から返ってくる言葉は散々なものだが、嫌がられていない分、流川は少しだけ嬉しかった。
「もったいねーな」
「何がっ」
「てめーにしかやさしくしねーのに」
 言うと、花道は本気で答えに詰まる。言葉で彼が慌てるたび、流川の方は不思議と楽しくて仕方なくなる。
「そ……そーゆーのはウソだっ、絶対アヤシー!」
 それでも花道は悪あがきした。流川の言葉に嘘などないのに、偽りだと言うのだ。
「変じゃねーかっ、何で俺にだけやさしくできんだよっ、絶対アヤシー!」
 流川は、相手があんまり聞き分けなくわめくので、その頬をつねってやった。花道はひぐひぐとまだ何か言おうとしたが、もう聞いてなどやらない。
「何でアヤシー? てめーにだけやさしくして、何がわりーんだ」
 じっと睨むと、苦し紛れに殴りかかってくる。当然流川も応戦しようとしたが、ちょうどそこで邪魔が入った。コンビニで買出し中だったはずの、宮城が仲裁にやってきたのだ。
 花道はあっさり流川から引き離されてしまった。流川は、しかし、このまま水入りになるのがどうしても嫌だったので、今度はこちらから仕掛けることを心に誓う。
 帰り道、早速赤木たちに懐こうとしている花道を、後ろから派手に蹴っ飛ばしてやった。
「見ろ、この極悪ヒドーなキツネを! こーゆーヤツだぞ、こいつ! 捨てるんなら今だってば!」
 捨てれるものなら捨ててみろ。流川が気合を込めて睨みつけると、花道は真っ赤になってあることないことわめき出す。おかげで最大の難関だった上級生たちは、二人にあっさり見切りをつけ、ほっぽり出してくれる。
「……これで誰もジャマしねー」  二人きりになった舗道を、冬風がひゅうっと吹き抜けた。

 

3)
 流川が狂った。
 花道は、せわしなく鼓動する心臓を必死で隠し、目の前に立つ男を悲壮な決意で睨みつける。
 流川楓という奴は、キツネの分際で人間語などを話すから、言葉の不自然さや奇妙さに鈍感なのだ。前から変だ変だとは思っていたが、この一週間ばかりの間に、その奇人変人ぶりは極限までグレードアップされてしまった。もはや、チームメイトのよしみで花道が耐え忍んでやる範囲を超えている。奴は何か決定的な間違いを犯していた。それは、ともすれば花道までもを底なし沼に引きずり込みそうな、何か、だった。
 コンビニの明かりを遠くなり、さっきまで傍にいた上級生たちも消え、今はもう、しんと静まり返った住宅街にいるのは花道と流川だけである。吹きすさぶ風は、十二月の厳しさそのものだ。程よく酔いの回っていた身体を、心の芯から正気づかせようとする。
 花道は流川を睨んでいた。
 流川も花道を睨んでいる。
 ただし、その頭の中には、花道と違って、きっと破壊的な台詞ばかりが詰まっているに違いない。その証拠に、花道の中のどこかが、流川の言葉でぼろぼろと壊れていく気がしていた。奴と話すたびに自分が弱くなっていくようなのだ。このままでは、一番弱くなった場所をいつか流川に突き崩されてしまうだろう。
 何なのだ、こいつは。奇しくも花道は、以前の流川と同じことを考えている。
 生まれてこのかた、まだ十六年には満たないけれど、こんな相手に出会ったことなどない。流川はとにかく変だった。奇形だった。人間ならば誰しも個性というものを持っているのは当たり前なのだが、奴のそれは、個性と呼ぶにはあまりにも突飛なのだ。そしてその奇形さは、話すとなおのこと際立つ。花道は、未だかつてこれほど気詰まりな会話を、誰かと延々続けたことはなかった。
 流川は騒ぐのを嫌いなくせに、花道は好きだからという理由でクリスマス・パーティーの幹事を引き受けたらしい。それから、この世の誰より冷たい顔をして、花道にだけやさしくすると言う──花道にだけやさしくして何が悪いのかと胸を張る。
 彼と話すたびに、何か違うと思う。流川は変だとますます感じる。
 けれどどう対処していいかわからずに、花道の心臓は慌てふためくのだ。顔なんか真っ赤になってしまうし、すごくみっともないと自分でも思う。こっちを見るな話し掛けるなとわめくけど、奴はどこ吹く風なのだ。たまに殴りかかっても知らん顔なのだ。
 流川は、誰が何をしようと全く関係ありませんという目で、暇さえあれば花道のことを見ている。何でだと思う。見るな見るな見るな見るな、百回くらい心で叫んでも、流川はやっぱりこっちを見ている──すごく嫌だ。
 ここ一週間なんか、睨み返してやろうと思ったのに、それすら返り討ちにあった。
 流川は何か言いたげに花道を見ていて、けれど花道が見返しても何も言わない。いっそ襟首を掴んで問い詰めてやろうかと思うのに、そうしようとすると、またわけのわからない破壊的な会話を繰り広げることになる。
 そうやって流川と向き合う時は、決まって花道の心臓は壊れる寸前だった。まるで病気みたいに、流川の顔が視界から消えるまで、しつこく、どくどくと破裂しそうに鼓動するのだ。
 ちくしょう、と思う。
 変なのは流川だけのはずなのに、自分まで変になったのではないかと不安になる。
 だから流川と向かい合うのは嫌だった。奴のあの真っ黒な目に映る自分を見るだけで、逃げ出したい気分になるのだ。
「おっ……俺には良くわかんねーんだけどっ」
 十二月の寒空の下、花道は果敢に口を開いた。
「てめーの言うこととか……っ、やってることとか……っ、すっげー変だと思う!」
 攻撃のつもりで放った台詞は、しかし流川にとっては全くの無効に見えた。
「何が」
 奴は端的に聞き返してきた。
「どこが」
 続けざまに問われ、花道は一瞬だけひるんだ。それでも慌てて握りこぶしを作って力説する。
「だから、そーゆーとこがっ! どーして相手が俺ん時だけガンガンしゃべんだよ! ミッチーやリョーちんたちの前では全然しゃべんねーくせに、俺しかいねー時だと、どーしてっ! 猫かぶってんじゃねーよ、キツネのくせに!」
 人差し指を突きつけ、何の言いがかりもつけられないよう、びしっと言ってやったはずであるが、流川はぼけぼけと頭を掻いた。
「別に……」
「何だよっ!」
「別に、先輩たちと話してーと思うことがないだけ」
 流川のその答えを聞けば、どうしても突っ込みたくなるのだ。花道は後の自分の後悔を小指の先ほども予想することなく、握りこぶしで再び力説した。
「じゃあ俺には話してーことがいっぱいあるっつーのかっ!」
「ある」
 花道はのけぞった。「しまった」が酸素の代わりに身体中をぐるぐる駆け巡る。
 その隙を突き、流川はにじり寄ってきた。男のくせに綺麗に整った顔が、花道の目の前三十センチまで迫ってくる。
「い──いらねーッ!」
 思わず叫んでいた。
「俺はてめーとなんか話したくねー! そばに寄んなッ!」
 叫んでから「ああっ違う」と自分で頭を抱える。違うのだ、話したくないわけじゃない。傍にいてほしくないわけじゃない。時々殺したい気にもなるけど、嫌ってるわけじゃないし、憎んでるわけでもないのだ。でも流川と話していると、めちゃくちゃ息が苦しくて、鼓動しすぎの心臓が痛いのだ。それはもう、予定外の台詞をどんどん叫んでしまうほど──
 そして無表情の流川は、少しだけ困ったような目で花道を見ていた。ちょっと傷ついた感じの顔だった。何を言うわけでもなく、奴はひっそりと息をしているだけなのに、花道はそれにすら耐えられなくなる。
 こんな時に黙るな、と、怒りたくなる。
「だ……だからっ、そ、そばにいてもいーけど……あんま変なこと、ゆーな……」
 花道は、本当にやっとのことで言葉を搾り出したのだ。けれどそれでも流川の表情は変わらなかった。困った目と傷ついた顔。花道が、鼓動しすぎで心臓が痛くなる時みたいに、流川は小さくつらそうな溜め息をついた。
 キツネの溜め息なんて見慣れているのに、今はそれがとても嫌だ。もう一度奴が溜め息をついたりしたら、花道は殴りかかってしまうかもしれない。
「だ、だから……だから……っ」
 花道は、何とか口を開こうとした。こちらの必死の努力を知ってか知らずか、流川は不意にそっぽを向く。
「……てめーが笑ってありがとーって言えば、もう話し掛けねー」
 誰も話しかけんなとは言ってねー! 花道は心の中でわめく。もちろん流川には聞こえない。
「……それだけ聞けば……もうそばにも寄んねー……」
 違う違う違う違う違う。
 そんな言葉が聞きたかったわけじゃない。そんな約束がしたかったわけじゃない。
「……言わねーの?」
 流川は、花道の顔も見ずにそんなことを訊くのだ。一目でもこちらを見れば、花道がどれだけ動揺していたかわかったはずである。けれども流川はこっちを向かない。どこかの家の、遠くの屋根をただただじっと見ている。
 花道は、何をすればいいのかわからなくなっていた。とにかく「笑って」「ありがとう」と言ってはいけないのだということを理解した。それを言うと、流川は本当に話し掛けてくることもなくなるし、傍にも寄ってはこなくなる。このキツネは言ったことは必ず実行する。それくらいのことなら、花道も良く知っていた。そんなことを望んだわけではないのだ、絶対に「笑って」「ありがとう」なんて言えない。
 しかし、ならばどうすればいいのか。
 つまり──そうだ、何も言わなければいいのだ。花道は黙っていればいい。そうすれば流川は今まで通り、変な言葉遣いで話し掛けてくるし、傍にも寄ってくる。
 けれど、今のこの、耳が痛くなるような沈黙をどうしたらいいだろう。沈黙が嫌なら、自分で何かを言えばいいと思うのに、何だか言葉が見つからない。花道は、いつの間にか、声の出し方すら忘れてしまっていた。
 流川は何も言わない。ただ花道を待っている。そっぽを向いたまま、花道ではない、どこか遠くを見つめたまま。
 だから花道は──駆け出していた。
 住宅街を、たった一人で全速力で駆け抜ける。家まで一番近道の小学校目指し、冷たい空気に喉と胸を痛めながら、やみくもに走る。
 いつもだったら敵前逃亡なんて死んでもしない、誰かに頼まれたってしなかった。でも今回だけは駄目だ。生涯何からも逃げないと誓うから、今回だけは逃げてしまえ。あのまま流川の顔を見ていたら、花道はきっと一生あの場所で動けなかった。
 多分、流川は、朝が来ても夜が来ても、その次の朝がまたやって来て、夜がやって来たとしても、ずっと黙って花道の答えを待っていただろう。そのくらいの執念は、あのキツネのお手の物だった。奴は花道とは違って金属の心臓を持っている。鼓動のしすぎで胸が痛くなるなど知らないに違いなく、あの何もかもが押しつぶされそうな沈黙が、どれだけ続いても平気に違いないのだ。
 そうして、花道が「笑って」「ありがとう」と言うまで、延々スクラップマシン並の沈黙を続けるのだ。これが逃げずにいられようか。
 今回だけは、ヒキョーモノという称号を笑って受け取ろう。
 花道は走りながら、とにかく大きく息を吸い込む。小学校のフェンスも見えてきた。さっさと家に帰って、またクリスマス・パーティーの続きをやるのだ。

 低いフェンスによじ登り、狭い校庭を見渡すと、グラウンドの中央に数人の人影が見えた。こんな夜に物好きな連中がいるものだと、良く良く眺めれば三井たちではないか。花道は大声で彼らを呼ぼうとして、しかしふと喉を押さえた。
 声が、出る。流川の前では、失ったとさえ思えた声が。
「ミッチーっ、リョーちんっ、ゴーリーっ、メガネくーんっ」
 無償に悔しいので、思いっきり叫んでやった。呼ばれた彼らが、あまりの大声に焦ったように手を振る。
「なーにやってんだよーっ」
「うるせーっ、叫ぶなーっ」
 宮城が同じくらい大声で言い返してきた。花道は流川のことを頭から追い出し、笑って走り出す。走りながら、ぐるっと周りを見て、懐かしい風景にまた笑った。
「すっげ、ちっせー!」
 トラックも、サッカーのゴールも、ジャングルジムやブランコ、うんていも、全部が全部ミニチュアサイズだ。小学生用に作られたそれらは、標準サイズをはるかに越えた花道から見ると、まるでオモチャのパーツのようである。地面に埋められたタイヤの列など、本当にブロックか積木みたいだ。
「……小学校って、こんなだったかぁ?」
 花道が溜め息をつくと、宮城が苦笑する。
「やっぱお前でも懐かしいと思うよな、実はさっきから小学校ん時、何で遊んでたかで盛り上がっててよぉ。そこで訊くけどな、花道──お前イロオニやった方? タカタカやった方?」
「タカタカ?」
 聞き慣れない名称に花道が怪訝な顔をすると、三井がよっしゃとガッツポーズを作った。
「見ろ、宮城! やっぱりタカタカよりイロオニの方がメジャーだったんだよ!」
「俺はまだあきらめませんよ! ただ呼び名が違うだけかもしれないでしょ! 花道、良く思い出せ。タカタカっつーのは……」
「やめとけ、宮城。もし桜木が知ってたところで、三対ニだ、お前の負け」
 赤木が嬉しそうに言った。花道はわけがわからずに首を傾げる。
「……俺らん時にはやったのは、ドッヂボールだったぞ?」
 言うと、三井や宮城が派手に頭を抱えた。「オーマイガッ!」を皮切りに、口々に非難する。
「ドッヂボールだとぉ! 小学生の分際で、何て高尚な遊びを!」
「そーだぞ、花道! ガキが横文字使っちゃいかん!」
 何を言っているのだか。
 三井と宮城の言い分に、さすがに木暮と赤木は飽きれていた。花道も半分飽きれてしまう。それでも何だか楽しくて、昔のことを思い出してみる気になった。
「横文字じゃねー遊びって言うと……かくれんぼ?」
「はぁ?」
「だから、かくれんぼ! 一時期妙にはやったんだよ、鬼が一人で空き缶守ってて、俺らはどっかに隠れながら、その空き缶蹴ってやろうって待ってんの……」
「……桜木、それって缶蹴り?」
 木暮がぼそりと突っ込む。花道は一瞬絶句したが、
「ちげーよ! 俺らん時は、それかくれんぼって言ってたんだよ!」
 一生懸命主張するのに、横では赤木までもが溜め息をついている。
 木暮はしばらく苦笑いして、ふと視線を巡らせた。
「ところで桜木、さっきから気になってたんだけど、流川は?」
 ……黙るしかなくなるではないか。
 たった今まで、そいつのことは極力考えないようにしていた花道だ。だが、木暮の口からその名前が出た途端、はっきり脳裏に浮かんだのは、どこを見ているのかもわからない流川の、困った目と傷ついた顔である。何と言うことだ。
 こんな寒い夜にほっぽり出してしまったな、と初めて思う。この後も花道の家でやるパーティーに、奴は果たして戻ってくるだろうか。
「なーんだよ、まぁたケンカしたのか、お前ら」
 宮城はいとも簡単に誤解してくれた。花道はがしがしと頭を掻く。
「ケンカっつーか、何つーか、さ……」
 苦しい言い訳をしようとすると、三井からは頭をはたかれた。不意に、木暮が「あ」とどこかを指さす。皆してそちらを振り返って、暗闇の中をゆっくり歩いてくる人影を見つける。
 噂をすれば影──流川だ。
 認めたくはないけれど、花道は少しだけほっとした。
「ったく、しょーがねぇガキたちだな……」
 三井はひとりごち、突然「よしっ」と気合を入れる。
「──かくれんぼすんぞ!」
 花道にとって、三井の提案は突飛極まりないものだった。しかし、いつもなら花道と一緒になって三井に食って掛かる宮城も、くだらんと一刀両断しそうな赤木も、何も言わずにお互いに目配せするだけだ。木暮に至っては、まるで良かったと言わんばかりに、にこにこと笑っている。
 花道がまごついているうちに、話はどんどん決まっていった。三井がまだ遠くにいる流川に向かって、大声で叫ぶ。
「流川ーっ、今からかくれんぼだーっ。お前、一番遅かったからオニなーっ。そこで百数えろーっ、範囲は校庭の中ーっ」
 流川が立ち止まる。束の間、戸惑ったらしかったが、わかったと言うように右手を上げる。
 意味がわからずに慌てるのは花道だ。早速どこかへ隠れようと散らばっていく仲間たちの中から、三井を捕まえた。
「何でかくれんぼなんかするんだよ、ミッチー!」
 三井は仕方ないとでも言うように笑う。
「ばーか、お前がかくれんぼしてたって言ったからじゃねーか。いいから隠れろ──言っとくけど普通のかくれんぼだ、缶なんか蹴んねーからな」
 ちっとも答えになっていない。果てには、周りに誰もいなくなってしまうし、花道は途方に暮れて遠くの流川を見る。
 グラウンドの端で、ぽつんと突っ立っている流川。花道がそちらを向いていることを知っているだろうに、そんな素振りはちっとも見せはしない。
「ちくしょ……」
 真剣にわからなくなって、花道はとにかく駆け出した。さっきと同じだ、流川から逃げるために走り出す。かくれんぼなんか、実際どうでも良かった。流川に見つからないことが、花道の一番の望みだった。
 低い電灯で薄ぼんやりした校庭を真っ直ぐに横切る。タイヤの列を飛び越え、小さな滑り台の下を潜って、ジャングルジムの影にはいる。束の間、もっと良い隠れ場所を探そうと視線を巡らせたが、めぼしい場所は見つからなかった。花道はジャングルジムの影に、膝を抱えて座り込んだ。
 白い息が空気に溶ける。
 一人になってしまうと、ひどく静かな夜である。空を見上げると、濃紺のそこには明るい街中では見ることのできない、小さな星たちが輝いている。
 冬は夏よりも空気が乾燥しているから、星が見やすいのだ。花道にそんな話をしてくれたのは誰だっただろう。もしかしたら小学校でのことだったかもしれない。座っているせいで、幼い頃と同じくらいの視線の高さになっているのだ。何年も前のことが自然と思い出されるのは、そのために違いない。
 キラキラヒカル
 ヲソラノホシヨ
 そんな歌があった。歌詞はそこしか覚えていないけど、花道が小学校の時、音楽の授業で、その曲を鉄琴で演奏してくれた教師がいた。あれはとても綺麗だった。あんまり綺麗だったから、後で洋平と音楽室にこっそり忍び込んで、鉄琴を滅茶苦茶に叩いて壊してしまったことがある。
 ……遠くから三井のものらしい声が聞こえる。もうオニに見つかってしまったのだろう。花道はぼんやり考え、抱え込んだ膝に顔を埋めた。
 次には、また別方向から宮城の声。
 そして木暮、赤木の声。オニは順調に見つけているらしい。しばらく彼らの声が遠くでがやがやと聞こえていたのだが、辺りはすぐに元のように静まり返った。
 声から計算するに、見つからずにいるのは自分だけだ。花道は長い溜め息をつくと、ますます膝を身体に引き寄せ、できるだけ小さく丸くなった。
 かくれんぼで不安になるのはこんな時である。見つかりたくなくて隠れていたはずなのに、このまま見つけ出してもらうことがなかったら、どうすればいいかと思う。顔を上げてオニのいる場所を確かめることもできるのに、それすらできなくなるのだ。まるで落とし穴に捕まってしまったみたいだ。見つかりたくなくて、けれど探し出してほしくて、自分はここにいるんだと叫び出したい衝動で一杯になる。
 流川、は。
 近くにいるだろうか。花道を探しているのだろうか。意地が悪い奴だから、さっきの言い合いを根に持って、もう皆とどこかへ行ってしまったかもしれない。花道にだけやさしくするなど嘘なのだ。奴は変人で、言葉の遣い方がわかっていないのだ。だから、真に受けると損をするのは花道の方に違いない。わかっている。
 花道は、流川の前にいると心臓が破裂しそうになって、奴の言葉と存在以外、他の何もわからなくなるのだ。けれど花道がどれだけ慌てても、流川は平然としている。時にはおもしろそうに目を細める時すらある。きっと奴は花道で遊んでいた。なんと言っても、性格最悪のキツネである。困った目も、傷ついたような顔も演技だったかもしれないではないか。
 絶対にキツネに向かって「笑って」やらない。
 絶対に「ありがとう」も言わない。
 奴の思い通りになんかしてやるものか。花道は好きなようにやるのだから。
 たとえば、流川が花道を見つけることもなく、どこかへ行ってしまったのだとしても。
 花道は明日そのことで奴を責めることができる。奴から話し掛けることがなくなっても、それで話し掛ける口実ができる。明日になれば奴の演技ももう終わっていて、困った目も傷ついた顔もしていないはずだ。今夜だけ、花道が一人で過ごすことができたなら、明日にはこれまでと同じ毎日が待っている。
 大丈夫、一人にされるのは慣れていたはず。
 大丈夫、これくらいの寒さじゃ風邪などひかない。
 花道は、膝を抱えたままじっと丸くなっていた。いつまでもいつまでも、夜が明けるまで、丸くなっているつもりだった。
 けれども。
 足音が、聞こえた。
 まだ遠くだった。でも少しも迷いのない、確かな足取りをしていた。丸くなったまま、花道はその足音をちっともかくれんぼのオニらしくないと思う。まれでズルをしてあらかじめ隠れ場所を知っていたみたいだ。真っ直ぐこちらへ向かってくる。
 グラウンドを横切って、タイヤの列を越え、小さな滑り台の下を潜って──
 そして、ジャングルジムの影にはいる。
 花道は、おずおずと顔を上げた。
 やっぱり、どうしようもなく整った顔立ちをした、流川が立っていた。
 白い息が空気に溶ける。いつも花道がキツネみたいだと悪態をつく彼の目は、それらの白い息の幕を通しても、少しも力を失うことなく、ただ真摯に誠実に花道を見ていた。
 最初、花道の頭の中には、いろんな悪口が溢れていたのだ。顔を合わせるたびに繰り返したやり取りが、条件反射で始まるのも、時間の問題だと思っていた。 しかしいつまで待っても自分の口からは言葉が出ない。流川も黙ったままだ。心臓だけが、既に花道の意思から外れ、ばくばくと痛いくらいの鼓動を叩いている。
 流川の上体が折れて、花道に顔が近づいてきた時には、真剣に窒息させる気かと思った。
 嘘みたいに切実な目が、花道を映したままどんどん近づいてくる。
 近づいて近づいて、もう目を閉じるしか流川から逃げる方法がなくなった頃、唇に炎のような吐息が触れた。
 花道は、驚くことも慌てることもできなかった。唇を離した流川は、何も言わないままぎゅっと花道を抱きしめた。それだけだった。

「おっせー! もしかして、まぁたケンカしてんじゃないだろうな、あいつら」
 宮城は落ち着かずに地面を蹴る。
「ったく、いいかげん、ちったー成長してほしいもんだぜ。コミニケーションが 殴りあいなんざ、周りに迷惑がかかるだけだっつーの!」
「まぁそう言うなって、宮城。あれだけ三井が仲直りのお膳立てしてやったんだ から、きっと大丈夫さ」
 木暮さんは絶対あいつらに甘いっスよ!、宮城は力を振り絞ってわけいていた。どうやら未だ酒が抜けていないようだ。三井は溜め息をつきながら空を見上げる。
「でも遅いよなぁ……。このままここにいたら風邪引いちまう」
 途端に赤木が苦い顔をしてみせる。
「……受験生の敵だな」
「だろぉ? あいつらほっといて先に行くかぁ?」
 三井が言えば、宮城が嬉々として賛成した。
「そーしましょ! いいかげん、アヤちゃんたちも待ちくたびれてますよぉ!」
「お前はアヤコばっかだな」
「そりゃもぉ! 俺、アヤちゃんに人生捧げてますから!」
 宮城は胸を張って恥ずかしいことを言う。三井はムカついたので、その後輩の尻を蹴っ飛ばした。
「バァカ! ふられちまえ」
「ふられちまえ」
「ふられちまえ(笑)」
「ひでぇ! それ今日二回目っスよ! あんたらそれでも先輩っスか?」
 三井が笑う。赤木と木暮も笑っている。
 まだ彩子彩子とうるさい宮城をよそに、三井は何もかもが小作りのグラウンドを振り返った。
「──先行くからなぁ!」
 返事はない。それでもきっと聞こえたはずだ。
 白い息が空気に溶ける。彼らは真っ直ぐに歩き出していた。