まるで飾り気のない小さなホールが、いよいよ期待に満ちた若者たちで埋め尽くされる。
時間が進むにつれ、刻一刻と高まる人々の興奮は、眼前に整えられた無人の狭いステージへ今や遅しとばかりに向かっていた。浮き足だつざわめきも、みるみるうちに膨れ上がっていき、もはや館内中が波打つように大きな緊張の渦を作っていた。
町では、あまり名の知れていない、ライブハウス。いつもは間違ってもこれほど人が集まることはない。ホールの片隅にはソフトドリンクを扱うカウンターがあるのだが、普段なら、ライブを目的に来る客の数よりも、このカウンターに腰掛けて話し込んでいる客の方が、圧倒的に多いらしい。
「……そろそろじゃねーの?」
そのカウンターの向こう、いかにもな黒いベストの制服を着た友人が、新しいグラスに炭酸水を注ぎながら、開演の時間を促した。
夏休みの、ある涼しい夜だ。久しぶりに連絡を取った水戸洋平は、こちらの知らぬ間に、こんな馴染みのない場所でアルバイトをしていた。物珍しくて、誘われるままに足を運んでしまったわけなのだが、今ではすっかり後悔している。
洋平に会いたかったからと言って、どうしてこんなところへ来てしまったのか。
「……せっかく来たんだから、ホールの方に行ってみれば? あの人、意外と聴かす歌うたってくれるぜ?」
ステージを振り向こうともしない自分に、洋平は何度かそう勧めた。しかし、どうしてもそちらを見る気にはなれないのだ。大勢の人間がひしめき合うホールの突き当たり、見慣れない機材が整えられたステージに、あの人物がこれから立つのかと思うと、ひどく胸が苦しくなって、何を考えればいいのかわからなくなる。
「……花道……?」
うつむいていた顔を覗き込まれて、慌てて目を逸らした。いぶかしむ洋平が、再度問いかけようと口を開くよりも早く、ホールの照明がすっと暗くなる。
「始まるな……」
ぼんやりと呟く友人の声は、途端に上がった、耳を貫くほどの大歓声に掻き消えた。思わず見つめたステージの先、人波に囲まれたその場所には、不思議なくらいに晴れやかな笑顔を浮かべた「彼」がいる。
……センドー。
呼ぶ名前は、声にならなかった。安っぽいミラーボールが「彼」の頭上でゆっくりと回り出す。心臓を叩く鼓動にも似た、重厚なドラム音が、うねるような熱気と歓声を、一気に頂点へと連れていく。
溢れ出すリズムと光の雨。
花道は、鮮やかに幕を開ける彼方を、まるで別世界のものであるかのようにひっそりと眺めていた。
「彼」の声が、ホール中に響き渡る。
目を逸らすことさえ許さない、真っ直ぐに心をさらした声だった。
* * *
そもそも、事の起こりは、夏休みという退屈で開放的な期間にあったと思う。
世の暇な高校生が、こぞってアルバイトに精を出すこの時期、桜木花道も、例に漏れず労働の日々をおくっていた。
学校が奨励する部活動など、この真っ赤な髪のおかげで不良のレッテルをはられた花道には無関係だったし、一人暮らしの援助をしてくれている叔父の負担分を、一定の期間だけでも軽くしてやりたいというのが動機だった。
昼は友人である高宮の家──小さな喫茶店なのだが──で皿洗い、夜はコンビニエンス・ストアのレジ打ち。まあ、それなりに充実した毎日ではあった。
しかし問題は唐突に降ってわいたのだ。
つい一週間ほど前、高宮の父が身体を患って病院に入院した。当然、彼が経営していた喫茶店も休業。必然的に、花道の昼のアルバイト計画もつぶれてしまった。
更には、その三日後。場所は深夜のコンビニ。あろうことか花道は、因縁をつけてきたバカたちと乱闘騒ぎを起こしてしまったのだ。
もちろん、職場からはすぐに解雇された。これで夜のアルバイト計画も完全にオシャカ。
結局、花道の手元に残ったのは、数日分の給料と、気が遠くなるほど長く退屈な夏休みだけだった。
それでもニ、三日は、部屋の掃除をしたりして、何とか気分をまぎらわせていたのだ。ただ物事には限界というものがあって、早々に花道の元へと訪れてくれたそれは、一番の親友である水戸洋平へ、愚痴の電話をかけることを余儀なくさせた。
「夏は命を懸けて金をかせぐ」、仲間内でそう豪語していた洋平であったのだが、思っていたよりもずっと簡単に連絡が取れた。
「あー……、実はそれほど忙しーってわけでもねーんだ」
長期の休みに入ってから初めて話した電話口で、友人はまんざらでもなさそうに笑った。
「姉貴の伝手で、いーとこ見つけたんだ。……暇してんなら、遊びに来るか?」
彼のこれまでの傾向から、大方どこかの居酒屋か何かかと思っていたのだが、洋平が告げた場所は、全くの予想外だった。
ライブハウスだと、彼は言うのだ。あまり名が通っているわけじゃないが、結構おいしい穴場なのではないか、と。
「そー言えば、多分明日じゃねーかな……。お前は知んねーかもしれねーけど、仙道彰っつー有名人がライブすんだ」
「センドー? 男か? 誰だ、それ」
「うーん、誰だって言われてもなぁ。お前、新聞取ってたっけ?」
「いや。……テレビガイドならあるけど」
「あ、それでいーや。ちょっとページめくってみ。多分、どっかの歌番組とかの出演者欄に載ってっと思うんだけど」
洋平の言葉通り、花道は本の一ページにその名前を見つけた。
「仙道彰」──察するところ、花道が知らないだけで、巷ではかなりの有名人らしい。
「その人さぁ、ちょっと変わってんだよ。本当は俺がバイトしてるライブハウスみてーな小さなとこで歌う必要ねーのに、そこの経営者と馴染みってだけで、わりと頻繁にライブやってるらしい。……でも、まぁ、そのことは、今でもあの人の身内しか知んねーみたいだけど。ライブも、ほとんどお忍び状態だもんなぁ……実際、追っかけやってるコでも、そのこと知ってるの稀だって言うし……」
「──……洋平、そのセンドーっつー奴、知ってんのか?」
「知ってるってほどじゃねーけど……まぁちょっと、な。この間、バイトの空き時間に話したくらい」
「……ふーん……」
「おもしろい人だったぜ? 花道が気に入るかどーかはわかんねーけど」
洋平が、何やら微妙な笑い方をした。
「ありゃあ、ちょっとその辺にはいねー人種だな」
付け足された補足は意味深長だ。けれど花道がもう一度それを問いただす前に、洋平はさっさと話を始めに戻してしまう。
「で、どーする? 遊びに来るんなら、多分仙道さんの出る明日が一番盛り上がるぜ? ホール自体が小せーから、人がそんなに入るわけでもねーけど……あの人なら、そこらのバンドよりは、よっぽど上手い歌うたう人だし、お前も退屈しねーんじゃねーの?」
退屈も何も、ライブなど見たこともない花道なのだ。芸能界などに興味はなかったし、トレンディー・ドラマというものも見たことがない。一瞬応えに窮してしまったのは、何やら自分とはかけ離れた世界の言葉を聞いたような気がしたからだ。
しかし、実際問題として、この有り余った夏休みを考えると、この際、多少馴染みが薄かろうと新境地を開拓してみるか、という考えも浮かばないでもなかった。
「──行く」
とどのつまり、花道が提案に飛びついたのは、当たり前のことだったのだ。
翌日、花道は、人通りのない狭い路地裏に埋もれた、昼でもちょっと薄暗い感のある、とある建物の地下にいた。
コンクリートの、がさがさとした肌が剥き出しのフロア。そこは、モダンなのか単に古いだけなのかよくわからない造りをしていた。長方形のホールの向こう側には、ほとんど客席と同じ高さにある小さなステージ。こちら側には、足の長いイスが並ぶ、壁も床も棚さえもがセピア色をしたカウンター。もちろん、そのカウンターの中には、花道の親友である水戸洋平がいて、彼は、まるで映画のワンシーンで目にする小粋なソムリエのように、形の美しいグラスを白いナプキンで磨いている。
「ライブのない夜は、カクテルとかの注文も受けんだよ」
あまりにも馴染みのない雰囲気に、腰を落ちつけてもどこかぎこちない花道を見かねたのか、洋平は、障りのない話をぽつぽつ語りながら、冷たい飲物を出してくれた。
琥珀色のジンジャー・エール。
喉を潤すことよりも、何だか一瞬、グラスの中の液体の揺らめきに見とれてしまう。はっと気づいて慌ててぐいとあおれば、別にアルコールが入っているわけでもないのに、くらりと眩暈がした。
思えば、既にその時から、花道はこの慣れない場所の空気に飲まれていたのだろう。目に映る全てのものが、ひどく珍しく貴重なものに思えた。自分と全てのものの間に、セピア色をした薄い壁が立ちはだかっているようだ。親友の声さえ遠くて、花道の中では、彼の話す言葉の半分も意味を成さなかった。
相変わらず、カウンターの中では思い出したようにして洋平の声が響いている。店自体はまだ準備中らしく、奥ではマスターらしき中年の男性が煙草をふかしていて、時々こちらの会話をおもしろがるように目を細めていた。
時間はこれ以上もなくゆったりと流れている。
一分一秒が緩い波のようですらあった。
けれどもその中にいて、花道だけが、いつまでも戸惑いを引きずっている。セピア色の空間で上手く呼吸ができずに、何度も喉が詰まった。
「……俺、ちょっと」
だから、トイレに行くなどとありきたりな嘘をついてまで、フロアから出たのだ。苦笑して「迷子になるなよ」という洋平の言葉も、耳を素通りしただけだった。
店のすぐ横にあった暗い通路をとにかく歩いて、いくつかの階段を昇り、下り、どこをどう出たのかわからなかったが、すぐにでも一人になれそうな場所を探した。
セピア色じゃない場所。もっと「日常」じみた場所。それだけをただ見つけようとした。
このままでは、自分も別の世界の住人になってしまいそうだったのだ。得体の知れない感覚に取り巻かれるのは、じわじわと侵食されるみたいで息苦しい。
そして花道が行き着いたのは、大きな荷物を動かす時にできたのだろう、荷車の跡がいくつもついた、やはり薄暗い通路だった。突き当たりに見えるのは、倉庫らしき重そうなドア。人の気配はなく、扉の上にある非常灯のグリーンの光も、ぼんやりとくすんでいる。
どうしてだか、ほっとした。花道は、引き寄せられるようにその倉庫へ向かった。荷車の跡を辿って、やっと安息の場所を手に入れた小さな子供の顔で、ドアのノブに手を延ばした。
──まさかそこに自分以外の誰かがいるなんて、考えもしなかった。
倉庫の中は、向かいに大きな窓があったために、外の通路よりもずっと明るい。最初、陽の光に安心して息をついた花道は、しかし、一瞬後に、積み上げられたダンボールを背にこちらを向いている人物を認め、びくりと肩を竦めた。
完全に声をかけるタイミングを失った。
男である。一見して、ほとんど文句のつけようのない容姿だ。今にも壊れそうな木のイスに腰掛け、長い足をゆるやかに組んでいる。額も目も鼻も口も、全部がすっきりと整った端正な顔。傍らには、立てかけられた茶色の──多分、ギターという名の楽器。
不意に、先ほどまで花道を悩ませていた、セピア色の空気が蘇った。目の前にいる「彼」がそれをまとっていた。頭の奥が馴染みのない感覚で溢れる。
息ができない──息が、できなくなる。
このままでは身体さえ動かなくなりそうだった。花道は必死でそこから出ようとした。鉛のような足に精一杯鞭を入れ、無理やり方向を捻じ曲げる。
「──待てよ」
と──、声が聞こえた。
親友の洋平の声でさえ、あれほど上滑りをしていたというのに、彼の声は不思議なくらい真っ直ぐに届いた。同時に、花道の中の奇妙な呪縛は、至極あっさりと剥がれ落ちる。
驚いて振り返った。男はさっきと変わらぬ姿勢のまま、こちらを見ていた。
「──……何か、あったの?」
聞いても意味のわからない問いだった。首をかしげると、彼は少し困ったように眉を寄せ、ゆっくりと立ち上がった。
「……お前、今そういう顔してたよ? どこかが痛そうな顔してた」
そうだっただろうか。言われても、花道にはぴんとこない。確かに変な感覚に戸惑ってはいたと思うのだが、もはや正確には思い出せなかった。
「……どこも痛くねーけど……?」
なので、そんな飾り気のない言葉を返した。けれど花道が言葉を発した途端、男が何かに気づいたように小さく目を瞠る。
「……お前、ここのスタッフ?」
「あ?」
「ここで働いてるの?」
「ちげーけど……」
「……じゃあ……普通の……?」
「あん? ……何ききてーんだ、てめー? 俺は、ダチがここで働いてるからアソビにきただけだぞ?」
「──……」
「あっ! もしかして、ここ、立ち入り禁止か何かなのかっ?」
「いや。そーじゃないんだけど……」
「何だよ、じゃあ! イライラすんな、早く言えよっ」
つい大きな声で言うと、男は少しだけ迷う素振りを見せた。一度口を開きかけ、また閉じ、再び言葉を探すように目を伏せて、それからようやく顔を上げる。
「お前……もしかして、俺の名前、知らない……?」
何言ってんだ、こいつ、バカじゃねーの。初対面の相手に対して、花道は失礼極まりない暴言を胸の内で吐いた。
「知るかよ、てめーなんか」
口にしたのは素っ気無い一言。しかし花道は、すかさず男からの逆襲を受けた。
男は笑ったのだ。それも、これ以上はないという嬉しげ且つ楽しげな笑顔で。
見事に度肝を抜かれた。おまけに毒気も抜かれた。何と言っていいかわからずに、ただただ端正な顔立ちの男の、屈託のない表情を見るしかなかった。
しばらくして、彼はいたく穏やかな目をこちらへ向けた。
「こっちにおいでよ。実は、一人ですごく暇だったんだ」
申し出を断わることもできたのだが、勢いでうなずいてしまった。男があまりにも鮮やかに笑ってくれたので、花道の中にあった、初対面の緊張や警戒ややりにくさが、全部どこかに吹き飛んでしまっていたからだった。
男は、積み上げられている様々な器具の山から、背もたれが壊れて取れてしまっているパイプイスを引き上げると、彼のすぐ前に置き、どうぞとばかりに恭しく一礼して見せる。花道は誘われるままに彼の傍に近づき、彼が示したイスが座っても壊れないかを確かめた上で、そうっとそれに腰掛けた。
男が楽しそうに笑う。自分も半分壊れかけの木のイスに腰掛けると、改めて花道を見た。
「……名前、聞いていいかな?」
期待に満ちた目で問われると、いくら花道でも嫌とは言えなかった。少々困惑ぎみに「桜木花道」と名乗ると、男はますます表情を明るくする。
「すごい。俺、こんなに印象的な名前、初めて聞いた」
「わっ悪かったな! どーせバカみてーに出来すぎた名前だよッ!」
「違うって。ちっとも悪くない。……キレーな名前だ」
「キ、キレーって……んなふうに言われても嬉しくねーぞ!」
「いーじゃん、すごいキレーだ。桜木、か……絶対忘れそうにないな」
無邪気に目を細めて笑う彼は、なぜだかとても近くに感じた。そう思ってみると、年齢もそれほど離れていないように見える。花道よりも年下ということはないだろうが、まず三歳以上年上にも感じられない。
「……てめーは?」
興味がわいて訊き返す。男がきょとんと首をかしげた。
「てめーの名前だよ。……まさか、人のは聞いといて自分は言わねーなんて、思っちゃいねーよな?」
言えば、困ったように顔を曇らせる彼。今の今まで笑顔だった相手が、突然苦い表情を見せるので、花道の方がうろたえた。
「なっ何だよ……っ! 俺に名前教えるの、嫌なのかっ。普通はそれがレーギだろっ?」
「……そーだよね」
「な……名前知んねーと、いつまでもてめーんこと呼べねーだろっ」
指摘すると、男は傷ついたように苦笑する。
「うん、そーだよね……。俺の名前、仙道彰って言うんだ」
何を迷っていたのか理解に苦しむほど、彼はきっぱりと名を口にした。どこかで聞いた響きの名前だったのだが、その時の花道には思い出すことができなかった。
「センドーか。……何だ、ふつーの名前じゃん。すげー渋るから、滅茶苦茶変な名前なのかと思った」
「────」
「で? てめー、こんな物置ん中で、一体何してんだ?」
重ねて問い掛けても、しばらく彼はうんともすんとも言わないまま、息を飲んだように花道を凝視している。
「……おい? センドー?」
理由がわからずに、やはり花道だけが慌ててしまう。ぱたぱたと彼の眼前で手を振って、何とか相手に正気になってもらおうと焦る。その頃になって、仙道はようやく我に返ってくれた。
「あ。ごめん……」
「何なんだよ、さっきから……。てめー態度変だぞ?」
戸惑って抗議しても、彼は何でもないと否定するだけだ。
その瞳が、今初めて花道を見たように不思議な色を浮かべている。少しの驚きと疑い、それから隠しようもない歓喜の感情。複雑な仙道の目は、こちらをいたずらに動揺させる代物だ。
彼は、身を乗り出すようにして花道を覗き込んだ。
「桜木って……テレビとか、あんまり見ないの?」
「あ、ああ……。野球とかは見るけど、他は全然……」
どうしてこんな話題になるのだろう。頭が追いついていかない。けれども、昨日もこれと似たような会話を洋平としたことを、急に思い出した。
「じゃあ、誰かのライブとかも見たことないの?」
「そーだけど……」
「ってことは……今日が初めて?」
「そーだ。ダチに誘われて……俺、バイト、クビんなって暇だったから……」
「ダチって、ここで働いてるって言う?」
「おう。水戸洋平っつって──」
「ああ、水戸のことか」
仙道が言う。彼の口から親友の名前が飛び出したことに、花道はいささか驚いた。
「洋平のこと、知ってんのか?」
「うん、知ってるよ。ホールのカウンターでバイトしてるよね」
「おう。……じゃあ、もしかして、てめーもここで働いてんのか?」
訊けば、仙道は楽しそうに目を細める。
「そうとも言うね。別に働いてるってわけじゃないかもしれないけど……」
また意味がわからない。花道が眉をひそめると、今度こそ彼は破顔した。
「お前、今夜のライブ見にきたんだろ?」
仙道が、おもしろくて仕方ないというふうに肩を揺らして笑う。
「──そのライブやるの、俺だよ?」
言われても、すぐには展開に追いつけなかった。
花道が芸能人に会ったのは初めてだと言ったら、自分の名前を知らない人間に会ったのは初めてだと、仙道は微笑んだ。
何でも、彼が名前を教えることを渋ったのは、芸能人ということが知れてしまうと、少なからず花道の方の態度が変わってしまうかもしれないと思ったかららしかった。けれど花道は、予想外のことに、仙道の顔も、名前すらも聞き覚えがない様子だったので、結局、彼の方からすすんで素性をばらす結果になったのだそうだ。
「俺、テレビとか雑誌とか、結構顔出してたと思うんだけど……実はそれほどでもなかったのかな」
「わ、悪ぃ……。俺、てめーの名前聞いたの、昨日が初めてだったから……」
多少申し訳ない気持ちで言い訳すると、彼は困ったみたいに瞬きした。
「違うよ。別に責めてるつもりじゃない。……何て言えばいいのかな。すごく──すごくフツウの感じがしたんだ」
「フツウ?」
「うん。ゲーノー人って、やっぱりそれってだけで名前が売れるだろ? もちろん顔も売れる。どこ行っても自分のこと知ってる人間は当たり前にいるし、中には、俺自身が教えたわけじゃないのに、誕生日とかスリーサイズとか細かいこと知ってるコもいる。職業柄、それがステイタスだってわかってはいるけど、時々ね……何か、怖くなる」
仙道が苦笑する。彼の右手の薬指には、琥珀色の猫の目のように、石の中央に光の線が入った、花道が見たこともない不思議な飾り石の指輪があった。彼は、何度かその指輪の石の、縦の縞をなぞり、小さな溜め息をつく。
「全然知らない誰かが自分のこと知ってて、CDとかラジオとかで俺の声を聞く……それで励まされたりするコとかもいるかもしれない、反対に俺のこと反吐が出るほど嫌いだってコもいるかもしれない。……そーいうの考えると、やっぱり怖いよ。だって、俺が直接そのコたちと関ったわけでもないのに、相手は俺のこと好きになったり嫌いになったりするわけだろ? 俺の価値も勝手に決められちゃう。もちろん、俺はそれをとやかく言える資格がない──ゲーノー人だから。でも、これってすごく異常な状態だ。フツウの出会いってやつが、一個もないんだから。俺自身に出会うより先に、みんな予備知識持って俺を見てるんだよね」
「……てめー、好きでその仕事やってるんじゃねーのか?」
「ん……最初はそーだったかも。けど今は、何だか良くわからないな」
だから、フツウの出会いをさせてくれた桜木には感謝してるんだよ?、笑った仙道の表情は、少し苦しそうだった。
花道は、彼のまとっている空気が、ひたひたとセピア色に染まっていくのを見た気がした。
花道自身が先ほど散々悩まされた、あのわけのわからない息苦しさだ。全然別次元の、自分の知らないどこかの世界へ否応なしに引きずられていくような感覚──自分を見失いそうな、あやふやな気配。
「……センドー……?」
思わず呼ぶと、彼は小さく笑ってくれた。花道が感じているつかみ所のない不安を、彼も漠然とわかっていたのだろう。
「ごめんな、こんな愚痴……。普段ならこんな話、誰にもしないんだけど、何か桜木には話しちゃうな……。こんなの聞いてても、きっと楽しくないよね」
違う。多分、楽しいとかおもしろいとか、そういう問題じゃない。
もしも仙道が語る言葉が上辺だけのものなら、花道は今彼を見つめてはいなかった。彼の名前を呼ぶこともしなかった。楽しいことよりもおもしろいことよりも、この話を聞かなければならなかったのだ──それが、彼が花道を呼び止めた理由なら。
「……愚痴くらい聞いてやる。そーいうこと話せる奴周りにいねーから、俺に話してんだろ。俺……俺、お前が言ってることの半分くらいしか、ちゃんとわかってねーかもしんねーけど、お前が言ってること、何かわかる気もするから」
聞きたいのだ。言うと、仙道がふわりと目許を緩めた。
「ありがとう」
言いざま、彼はその手で花道の髪をくしゃりと撫でる。
「……コドモ扱いしてんのか?」
巧い抗議が出てこなくて、どぎまぎしながら仙道から目を逸らした。彼はまた笑ったようだった。
「そーじゃないって。嬉しかったから、感謝の気持ち。それに、桜木の赤い髪に触ってみたかったし」
「赤くて悪ぃかよ。俺ゃあフリョーだぞ」
「それは嘘だね。お前が不良だったら、俺なんか極悪人だもん」
絶対にそうは見えない顔をしているくせに。仙道の言いように納得できない花道が、視線で疑問を訴えると、
「本当だって。俺ってすげーヤなとこあるよ?」
けろっと返す彼は、ちっとも悪びれていない。くしゃくしゃと何度も花道の髪を掻き乱した後、小さく微笑んでこちらを下から覗き込む。
「いっぱいね……プレゼント、もらう。すごい高価なものとか、手作りのものとか、いっぱい……。もちろん、手紙も、ね。そーいうのは単純に嬉しいよ。嬉しいはずだったんだけど……ある日突然気づくんだよね。みんなが好意でくれるものの中に、俺がほしいものって、一個もないんだ。ひどい話だろ、キレイなラッピングで大きなリボンのついたプレゼントの山が、俺にはガラクタの山に見えたりする」
な、ヤな奴だろ?、仙道はそう言って淀みもなく笑った。嘘のように無邪気な笑い方だった。
ずきりと花道の胸が痛んだ。表面は極めて明るいのに、内側で彼が自分の感情を嫌悪しているのが良くわかる。仙道は、自分自身というものに傷ついているのだ。思い当たった途端、やるせない思いが花道の胸を敷き詰めた。
「ほ……しくないもんもらっても、しょーがねーって……。そーいうのって、良くあんじゃねーか。お前だけがそんなんじゃねー……お前、別にヤな奴なんかじゃねーよ。んなこと気にしねーでもいーって」
だから必死で弁護した。仙道は相変わらず笑っていて、それがひどくせつない。けれどもそのうち言葉をなくして、たまらない心地のまま花道が唇を噛む。仙道は、こちらが泣きたくなるくらいやさしい目をしていた。
「うん。俺もそんなに気にしてないよ。……大丈夫、お前がそんな顔しなくてもいいんだ」
やわらかい声だ。他人を安心させる深い声。
「それにね。ちゃんと好きなことはやれてるしさ」
「……好き、な、こと」
「うん。歌うたうこと。すごく好きだと思う」
「……そっか……」
「うん。それから、これ、とか」
そう言って、仙道は右手の薬指にある指輪を指さす。
「……これはね。初めて自分で店に行って選んで買ってきたんだ。いつもつけてたのって、ほとんどが貰い物だったから……だからこれは、俺が持ってるものの中では、ガラクタじゃない、貴重なもののひとつ」
猫の目みたいでおもしろくってさ。
ショー・ウインドウの中でその指輪を見つけて、値段も確かめずに買うことを決めたのだと、彼は続けた。子供のように目を輝かせて、さっきまでの痛みを、まるで忘れてしまったみたいに笑った。
花道も少しだけ笑う。言葉はどうにも探せないままだ。短い相槌が精一杯で、内心困りきって、仙道の目を誤魔化すためにさりげなくうつむいた。彼の足元には、背後のダンボールに立てかけられたギターが見えた。……こんなところまで持ち歩いているということは、きっとこの楽器も仙道の大切なものの内のひとつなのだろう。そう思うと、何だかまた、心のどこかが痛くなったような気がした。
「……うた……」
かすれそうな声を強引に押し出す。
「てめーの歌、聞かせろよ」
他に言葉が思い浮かばずに、そちらを見ないままで言うと、仙道が笑った気配がした。程なくして花道の視界からギターが消える。
「……どんな歌がいい?」
「何でも……。俺、あんま曲とか知んねーから、お前の好きなヤツでいー」
ちょっと視線を上げると、琥珀色の指輪をした彼の手が見える。楽器の中央に張ってある弦を、彼の指は器用に弾いた。
「そーだなぁ……じゃあ、オールディーズとかでいい?」
「オールディーズ……?」
「うん。多分、桜木も聞いたことがある曲だよ」
そう言って、仙道は気まぐれにギターを触っていた手を一度止め、小さく息を吸い込んだ。
すぐに静かなメロディが聞こえてくる。彼が言った通り、それは、いつか聞いた覚えのある懐かしい音楽だった。
When the night has come
And the land is dark
And the moon is the only
Light we'll see
No I won't be afraid
Oh I won't be afraid
Just as long as you stand
Stand by me
聞いていると泣きたくなる。
もちろん花道は、歌詞の英語の意味など知らない。だから、その歌が一体何を伝えているのかなんて、本当のところ、何一つ見当はつかなかった。それでも、ひどく胸が熱くなったのだ。それをうたってるのが仙道だということが、花道の中の一番奥底にあった何かを震わせた。自分自身の内側をさらけだす彼の声は、直接花道の心臓を掴み上げるものだった。
ワンフレーズうたい終わった時点で、仙道が歌をやめる気配を見せた。
思わずはっとして、彼を見上げる。それまで故意に逸らしていたはずの目を、必死に彼へと向けて、まだ続けてほしいことを訴えた。
花道と視線が合うと、仙道は少し驚いたような顔をして、それからゆったりと微笑んだ。
I won't cry, I won't cry
No, I won't shed a tear
Just as long as you stand
Stand by me
And darlin', darlin'
Stand by me, oh stand by me
Oh stand now, stand by me
Stand by me
うたう声が間もなく途切れ、ギターの音も消えて、後に残ったのは、まだ感銘の余韻が揺れる花道の瞳と、言うべき言葉を探している仙道の瞳。
先に視線を逸らしたのは、仙道の方だった。
「……ありがと」
ぎこちない彼の声は、少しの照れが滲んでいる。それがあまりにもらしくなくて、花道はそっと笑った。
身体の中には、未だ消化しきれないせつない思いが浮かんでいる。けれども胸の中は、不思議に、やわらかいもので一杯だった。
今なら、もっ彼を力強く励ましてやれるような言葉が言える気がする。だからこそ花道は、笑顔のままで明るく口を開こうとした。
その時。
鈍い音をたてて、倉庫のドアが引かれた。
「やっぱりここか。もうそろそろ音合わせ頼むよ、仙道くん」
続けざまに、口ひげをたくわえた、気の良さそうな男性が声をかける。その人物は言うだけ言うと、花道をちらりと見やり、もう一度「早くね」と言い加えて重い扉を閉めた。再び二人きりになったはずの空間は、しかし、先ほどまでの空気が逃げ出してしまった後のように、薄いセピア色に煙っている。
しばらく、二人とも何も言えなかった。
……その時まで、この時間に限りがあったことを、すっかり忘れていたのだ。
仙道が、ひどく慌てたふうに花道を見つめた。
「ごめん……俺……」
「ん……早く、行った方がいいぞ。……ライブやるんだろ?」
「うん……うん、そうだけど」
「──……センドー?」
彼は、何かを考えるように一瞬だけきゅっと唇を噛み、それから、はぁ、と大きな溜め息をついた。ギターを抱え直し、壊れかけた木のイスから立ち上がる。
「……一緒にホールまで行く?」
訊かれたので、首を横に振った。これ以上長く彼の傍にいてはいけないと思った。
仙道は「そう」と苦笑し、再度短く吐息する。
「……がんばれよ」
「うん。……桜木も、心して見てね」
軽口のはずなのに、どちらも声が固い。ついに顔を上げていられなくなって、花道がうつむく。仙道はいつまでも前にたたずんだまま、一向に出て行く素振りを見せない。
「……行けよ」
苦し紛れにそう呟いた。淀みもなしに「うん」と答える彼。動かないくせに、返事だけははっきり返す。
「……桜木」
けれどしばらくして、今度は仙道が言った。
「これ、あげる」
そろそろと顔を上げると、彼の手が見えた。ギターを持った片手とは反対の左手。その手のひらには、猫の目みたいに縦に光の縞が入った飾り石の、あの指輪。
驚いて彼を振り仰いだ。
仙道は、やっぱり笑っていた。
「……お前に、あげるよ」
仙道の持っているうちの、ガラクタじゃない数少ないもののひとつ。それを、彼は花道にやると言うのだ。
「な、に言って……!」
当然もらえるはずがない。焦って言い募ろうとしたら、彼はそれを見越していた素早さで、さっさと花道の手の中に指輪を押し込んだ。
「あげる。……お前に、もらってほしいんだよ」
強く言いざま、鮮やかに身を翻した仙道を、花道が呼び止める術があっただろうか。もう声もなく、ただ重い扉の向こうへ消える彼の姿を見ていた。手の中の指輪は、たった今まで仙道の手にあったというのに、それすら幻のように冷たい。
知らず苦笑がもれた。笑うことでしか、胸の痛みを誤魔化せなかった。
「……ずっりー……」
こんなもん、残していくなよ。
しかし声は、もはや彼には届かないのだ。
光が溢れる。重厚なドラム音と、潮騒のように響く歓声。
その人々の躍動と熱気の中央に立つ仙道は、全ての空気を突き抜けるほど良く通る声で、言葉をうたう。時に憂い、時に目を伏せ、また挑発じみた視線を向けたり、ふざけ半分で舌を出しては、中指を立てて屈託なく笑ったりもした。
ステージから最も離れた位置にあるカウンターにいるのは、今では花道と洋平の二人だけだ。洋平以外の、仕事を請け負っているはずの人間は、自分の仕事も忘れたように、ホールに集まった客と一緒になって、仙道の作るライブに飲み込まれている。どうやら仙道がステージに立つ夜では、この状態が定例になっているらしい。それを裏付けるように、洋平の方も、これといって仕事を気に留める様子を見せなかった。
花道は、長い間カウンターに腰掛けたまま、ぼうっと仙道を見ていた。歌をうたう「彼」を見ていた。うたうことが好きだと言った「彼」は、確かにとても楽しそうにそこにいた。たった一人でホールにいる全員の心を惹きつけ、ただ真っ直ぐに、目には見えない高みを目指そうとしているようですらあった。
ステージ上の仙道は、花道がついさっきまで話していた人物とは別人だ。あの時見せた彼の脆さは、今はかけらも見えはしない。セピア色の薄い膜さえ自らの力で突き破って、誰よりも力強くそこに存在している。
……見ていると、泣きたくなる。
さっきまであんなに近くにいた仙道が、今は一番遠い。
「……ひっでーヤツ……」
精一杯の強がりは歓声に消された。もうどうしようもなくなって、花道は洋平を振り返る。
「──俺、帰る」
声は、しかし洋平まで届かなかったのだろう。友人はいぶかしげな顔をして耳に手を添えた。花道は、今度こそ消えないように大声を出すつもりだった。──視線の端で、ステージにいる仙道の姿を捉えるまでは。
ふと照明が落ちて、青いライト一本だけが残った。その光の下には当然仙道がいて、曲が間奏に入ったらしく、彼はうたうこともせず小さくうつむいている。その、目、が。
その目が、こちらを見ている気がするのは、単なる目の錯覚なのだろうか。
「……何か……こっち見てねーか、仙道さん」
横から、戸惑いを帯びた洋平の声が聞こえてきた。
でも、だって、彼はライブが始まってから、一度も花道の方を見ようとしなかったのだ。あの倉庫での偶然の出会いを忘れたかのように、花道に見せた表情とは別の顔で笑っていたのだ。だから、彼はもうきっと花道と視線を合わせることはないだろうと思っていたのに。
彼の手が、花道の目がステージに釘付けになるのを待っていたかのように、真っ直ぐこちらへと延びた。──延ばされた彼の手に触れようと、ライブに集まった客が次々に同じように手を延ばす。けれど誰もその手を取ることができない。仙道は、そこにいた彼を望む全ての人間にちらりとも目を向けず、ただ真摯な瞳でこちらを見つめている。
嘘だと思った。
そんなことがあるわけがないと、目を逸らそうとした。しかし、その手は確かにこちらへ差し出されたまま、動こうとしないのだ。
せつなさで何も見えなくなりそうだ。何も。ただ、真っ直ぐ返す視線の先にいる彼以外は何も。
決して届くはずのない距離が、その瞬間だけゼロになる。
自然と花道の手が胸元まで持ち上がった。
仙道の方に伸ばしかけた腕は、それでも突然我に返った意識とともに、すぐに元の位置へと引っ込んだ。もの凄く恥ずかしいことをしてしまった気がして、いささか赤くなりながらも、花道は、恐る恐る彼の方を見る。
彼は──とても嬉そうに笑っていた。花道の知っている、仙道の笑顔だった。
仙道は延ばしていた手を大切そうに引き寄せ、まるでそこに本当に手を取ってくれた誰かがいるかのように、虚空の恋人を抱きしめ、恭しく口付けした。
何だか、笑ってしまった。
気障すぎるとか、かっこつけんなとか、心の中ではいろんな言葉が暴れていたのだが、口を開くと、そんな言葉の代わりに嗚咽がこみ上げて来そうだ。どうして仙道みたいな人間がいるのだろう。それがかなしくて、とても心臓が痛い。
「……ばーか……」
出てきた呟きは、やっぱり歓声に掻き消され、誰の耳にも留まることなく、花道の胸に落ちた。
* * *
一夜だけの不思議な経験は、その翌日から、まさしく夢にも等しい不確かな記憶となって、花道の中で浮き沈みを繰り返していた。
初めてライブを目にした次の日、花道はテレビの中で「彼」を見つけた。四角い箱の中にいても、やはり「彼」は「彼」だった。他の誰とも違う穏やかな表情で、歌番組の司会の男性と談笑していた。
二日目。
何だか今ひとつ気分の晴れなかった花道が、思い立って、友人の野間の家に押しかけたら、友人の部屋では珍しくも洋楽がかかっていた。そのCDは、CDのくせにいたく古めかしい音をしていて、疑問に思って問うと、野間が「そりゃ、オールディーズっつってな」と説明してくれた。
オールディーズと言えば、あの日「彼」が花道の前でうたった曲がそうだった。慌てて野間のCDをひっくり返して──五枚ほどのセットになっていたのだが──「彼」が聞かせてくれた歌を探し出した。
「スタンド・バイ・ミーか。名曲だなぁ。しかしお前って、オールディーズなんか聞いたのか……?」
野間の説明によると、オールディーズとは、おおまかに言ってしまえば、昔に流行した洋楽の総称なのだそうだ。「彼」がうたってくれた歌は、その中でもかなり有名なものであるらしい。
野間との会話もそっちのけで、花道があんまりその曲を繰り返しかけるので、しまいには「そんなに聞きたきゃ貸してやる」と友人の方から言い出してくれた。
そして、三日目。
花道は、今日も部屋で古めかしい音のCDを聞いている。テーブルの上には、どこにしまうのかも決められずにいる、「彼」がくれた指輪も転がっていた。
三日目にして初めて、花道は、その猫の目みたいな石が、実は緑と金を混ぜ合わせた複雑な色をしていることに気がついた。あの倉庫で見た時には、もっと黄色っぽく見えたのだが、本当はそうではなかったらしい。人間の視力というものは、案外あてにならないものなのだ。
あてにならないのだと思って──とても空しくなった。ではあの時も、あの時も、やはり花道の錯覚だったのかもしれない。
記憶は、日をおうごとに薄れてしまう。いつまでも覚えていられるものじゃない。もはや、「彼」がどんなふうに言葉をつづったのか、その時、どんなふうに視線を合わせたのか、何一つはっきりと思い出せはしなかった。
花道へと差し出されたと錯覚した手は、やはりあの場所にいた不特定多数の全員のものだったのかもしれない。いや、おそらくそうなのだ。そうでなければ、一体何だと言うのだろう。「彼」だって、たった一度しか顔を合わせていない人間のことなど、もう忘れているかもしれないではないか。それが当然だ。なぜなら、「彼」はブラウン管の中の住人なのだから。
この指輪だって……ただの気まぐれに過ぎない。
そう考えてしまうことに、「彼」への後ろめたさがないわけじゃない。でも、そうとでも考えなければ、花道の方がどうしようもなくなってしまう。
あんな偶然が二度も起こるわけがない。ならば、もう「彼」と会うこともしない方がいい。
あの夜の後、洋平からは「また遊びに来い」と二度ほど誘われたが、花道は生返事を返した。あのセピア色の風景を目にするのが怖かったからだ。今になって気づいたことだが、あれはおそらく「彼」の色だ。だから花道があれほど過剰反応してしまった。
あの色を見るだけで、感じるだけで、きっとつらくなる。記憶の中の「彼」が押し寄せてきて、子供みたいに泣き出してしまうかもしれない。
花道だけがこんな思いを抱え込んでいても、苦しいだけではないか。
本当は、もう考えることをやめてしまおうと思っているのだ。「彼」がうたったこの歌も、聞くのは今日で最後にしようと思っている。指輪は、さすがに捨ててしまうのはかなしいから、何かに包んで机の引き出しにでもしまうつもりだ。「彼」の痕跡を全部見えなくして、明日からは、また普通の毎日を送る。
そのための、気分転換の部屋の掃除ならさっき終えた。夕食の買出しにも行かなければならないが、今はまだ陽が高いので、もう少し時間を待って外に出るのだ。そうすれば、いくらかきっと気分も晴れる。「彼」のことばかりを思う頭も、違うことでいっぱいになる。
そうするべきだ──思って、手を延ばしたCDラジカセの、電源スイッチ。ふと目が留まったのは、野間から借りてきたCDの、ケースからはみ出した歌詞カード。
見ても英語だから絶対にわかるはずがないと思っていたので、今の今まで手をつけることはしなかったのだが、その紙に並んでいたのは、間違いなく日本語だった。
何となく興味をそそられて、ざっと目を通す。「彼」から聞かせてもらった曲以外は別にどうでも良かったので、その曲のところを探した。もちろん、すぐに見つけることはできた。どうやらこれは、歌詞の日本語訳らしかった。
でも、それを読んだ途端、後悔せずにはいられなかった。
「……ひっでー……何だよ、これ……」
これでは、忘れることさえできない。
あの男は、一体何を思ってこの歌をうたったのだろう。
確かに仙道彰は、自らを「極悪人」だと言っていた。けれど、これはひどすぎる。花道の目も耳も、仙道の顔や声をずっと覚えておくための器官ではないのだ。選択の自由を返してほしい。あの顔を見るたびに、声を聞くたびに、泣きたくなるなど冗談じゃない。
「ばかやろー……」
悔しくて悔しくて、とうとう泣いてしまった。三日目にして、ようやくこぼれた涙だった。こんなことで泣いてしまう自分自身が情けなくても、衝動は堪えられる範囲を既に超えていた。
今日はもう一日中泣いてしまおう、諦めた花道が、早々に予定変更を考えた時だ。ピンポーン、と、間抜けなほどの穏やかさで、部屋の呼び鈴が鳴った。
ふざけんな、感傷に水をさされた花道が、一気に怒りの頂点に達したのは言うまでもない。
今も盛大に零れてくる涙を、無駄なこととは知りながらも袖でぐいっと拭う。また新しい涙は拭ったそばから流れるのだが、それを気にする余裕はなかった。こんな昼の日中にたずねてくる相手となると、洋平や野間、大楠、高宮を中心とした悪友たちに他ならないのだ。この際、この腹立たしさを全部ぶつけさせてもらおう。
そして花道は、アパートの重いドアを勢いをつけて開くのだ。外からは、部屋の中よりもずっと明るく、強い光が射し込んでくる。
その光の中央に立っているのは。
いるのは。
夜が訪れ、世界が闇に包まれ
月の光しか灯りがなくなったとしても
僕は怖くない、恐れたりしない
君がとなりに
となりにいてさえくれれば
ダーリン、ダーリン
僕のとなりにいてほしい
僕を支えてほしい
僕の傍にいてほしい