「死ね」
その言葉を口にする時、本気で相手の死を願う。もしも言葉に物質的な刃があったとするなら、三蔵は、間違いなく何百もの命を、極たわいもないことで奪ってきたはずだ。
だが、万一それが現実になったとして、己は懺悔もしないだろうし、良心の呵責に会うこともないだろう。確かに人間としてはどこかが壊れてしまっているのかもしれない。けれどそんなことが原因で落ち込んだことはなかったし──実際、偽りを言っていたわけではないから、悪いことだとも思っていなかった。
なのにその朝、三蔵は初めて嘘をついた。
「死ね」
いつもと同じように言ったはずの言葉に、刃はない。
しかもそう言われた相手は、まるで三蔵の全てを理解したように明るい瞳で、嬉しそうに──それはもう、ひどく嬉しそうに笑うのだ。
「……いーじゃん、三蔵のケチ」
言って、触れる。極端に接触を嫌う三蔵を気遣って、服の端を引っ張るような触れ方で。
その手を、引き寄せたいと思うこの衝動は何だろう。昨日までは確かになかった。昨日までの三蔵は、この幼い手すら払いのけることに何の躊躇いも持ってはいなかった。
「……悟空」
名前を呼ぶ。唇に残る不思議なせつなさは何なのか。
三蔵は小さく溜め息をつき、寝乱れた己の髪を掻き上げる。途端、常と同じく金髪に目を奪われたように呆ける悟空を、思い切り不機嫌な顔でねめつけ。
「……起きるぞ、猿」
その、まだ薄い肩を小突いた。三蔵からの接触には、どんな些細なものでも嬉しそうな目をする子供が、やっぱりそれにも嬉しそうに笑ってみせた。
嫌な朝だ。
ベッドから下りた三蔵は、とりあえず手近な煙草に火をつける。風に流れることもなく、垂直に立ち上る煙に、知らず昨日の幻を見ていた。
* *
ずいぶん風の強い午後だった。
定期で行われる説法会に借り出され、三蔵はその午後を最悪な気分のまま過ごしていた。御堂に集まった僧の数は四十余。揃って難しげな顔をして、慈悲がどうの、苦がどうの、煩悩がどうの、どうでもいいようなことを切々と語っている。本当はすぐにでも席を外してしまいたかったのだが、己の称号がそうさせてはくれない。仕方ないので、窓の外を眺めていた。時々物言いたげな誰かの視線を感じないでもなかったが、三蔵は全てを黙殺し続ける。
風が大きな雲を押し流していた。
どこまでもどこまでも。その空の下には枝をしならせている大木があって、まだ葉の落ちる季節でもないというのに、多くの葉が風に巻き上げられ、宙を舞っている。
そしてその景色の中には──
悟空がいた。
何を見ているのだろう。ひどく必死に空を仰ぎ、まるで何かを願っている様子で手を延ばす。
きっと、聞いてみたら馬鹿らしいかぎりの理由でそうしているのだ。思うのに、三蔵はどうしても子供から目を離せずにいる。
悟空を五行山から連れてきたのは、まだ一ヶ月前のことである。恐ろしいほど飯を食うとか、昔の記憶がないとか、一緒に暮らし始めて驚いたことはいくつもあったが、一番驚くのは、子供が決して三蔵を嫌わないということであった。
自慢ではないが、己は子供に好かれる性格はしていない。大体、うっとうしければ突き放すし、うるさくわめけばどつき倒す。当然そうマメに遊んでやっているわけでもなかった。それでも悟空は三蔵を見ると笑いかけた。遠くから駆け寄ってきて、服の端にしがみついた。
確かに寺院の中にあっては、悟空は異端だ。だが、誰も彼もが妖怪を毛嫌いするわけでもない。悟空がいちいち三蔵に報告してくるので、その日一日に何が起こったのかはつぶさに聞いている。その中には僧の一人から菓子をもらったというのもあったし、箒の使い方を習ったというのもある。
悟空は、三蔵から見ても人好きする子供だった。
だから余計に、どうして己に懐くのかがわからなくなるのだ。
やさしくしてやった覚えは一度もない。とにかく面倒を起こすから、その尻拭いなら嫌と言うほどさせられている気はする。でもそれだけだ。他は殴る蹴る怒鳴るくらい。冗談でもなんでもなく、真剣に好かれる理由はないと思う。
ああ、でも──
ふと思い出した。悟空は三蔵の容姿が好きみたいだった。金髪を太陽の光ようだと言い、紫紺の瞳を宝石のようだと言う。
けれど違う、三蔵は苦く溜め息をつく。
容姿が好きとか、そういうレベルではないのだ、悟空の盲目的な信頼は。
と、その悟空が、唐突にこちらを向いた。一体どれほどの視力があるのか、三蔵がそちらを向いていたことに気づくと大きく手を振る。
すぐに目を逸らした。自分がそんな反応しか返さないことは、悟空も知っているはずだった。
それでも笑っているだろう。わずかでも視線が合ったことを喜んで、今にも踊り出しそうな足取りで、あのあたりを歩くのだろう。
「……三蔵さま?」
不意に呼びかけられて我に返る。
「あの……そろそろ閉会にしようと思うのですが、最後に何か……」
「さっさと終われ」
「は、はい……っ」
隣にいた僧と偶然当たった腕が気持ち悪かった。三蔵はあからさまに離れ、一息つく。
そう言えば、悟空だけには触れる嫌悪を感じない。
好意も悪意もうっとうしいのは、誰が相手でも同じはずなのに。
部屋に帰ると子供が飛んでくる。
「三蔵!」
タックルされそうだったので避けた。当てが外れて恨めしそうな視線も無視する。机にあった新聞を取り上げ席につくと、悟空は更につまらなさそうに口を尖らせた。
「……三蔵のハゲ」
それはかなり無視するのに努力の必要な言葉だ。悟空はなぜだかそんな言葉ばかり多く覚えていく。そのうち三蔵は、本気で子供を無視することができなくなるに違いない。もちろん、今だって新聞を広げてはいても、その声を聞いていないわけではなかったが。
知っているのかいないのか、悟空は三蔵の足元にぺたっと座り込む。
「今日、もう仕事ねーの?」
「……ああ」
「じゃあさ、じゃあさ、一緒に外出ねー?」
「勝手に出ろ」
「だから、三蔵も誘ってんじゃんか」
「俺は断わってんだよ」
「……ハゲ」
お前な、三蔵は半分意地になって読みもしない新聞の紙面をめくる。
「行きたきゃ一人で行け」
「だって三蔵と一緒がいいんだ」
悟空は、本当に自然なことのようにそれを言う。この子供と一緒にいると、今まで誰の口からも聞いたことのない言葉を聞く頻度が高い。三蔵はまた溜め息をつく。
「……俺と一緒でも一緒じゃなくても、何も変わんねーだろ。どうしてそんなに俺に拘んだ」
「……だって」
何だ、うながすと、少し困ったような顔をする。
「……花が咲く、感じがするんだ」
「何が何だって?」
「だから……っ、上手く……言えねーんだけど、この辺で花が咲く感じ」
悟空は自分の胸に手を当ててそれを言う。
三蔵は呆れた。
「……すげーな、そりゃ」
別に誉めたつもりもなかったのに。
「だろ? すごい特別なことだよな、これって!」
悟空は屈託なく笑って三蔵を見上げる。
「……触って、い?」
いつ頃からか、前もって尋ねるようになった。三蔵が黙っていると、大抵おずおずとした手つきで法衣の端を握る。
それから、心底ほっとしたふうに目を和ませるのだ。
「今日、風が強かっただろ……? 表行ったら葉っぱが一杯空飛んでて、なんかかわいそうになった」
「葉がか」
「ううん、木が」
だって風に葉っぱ散らされて最後に残るのはあいつじゃん、悟空は極普通の調子でそれを言ったのだが、三蔵は、その手が今己の法衣を掴んでいる理由がわかってしまった。
もしかしたら、先ほどの、両手を空へと延ばした光景は、宙に舞う葉を捕まえようとしていたのかもしれない。
「……一人になってせいぜいしてるかもしれんぞ」
言うと、悟空は苦笑した。
「だったらいーけどさ」
500年、一人だったと言う。その孤独など三蔵にはわからない。
「一人が楽なこともある……」
少なくとも三蔵にとってはそうだった。悟空はまた笑った。珍しく感情をうかがわせない笑顔だ。
ふと、何かが自分の中で動いた気がした。三蔵は慌てて子供から目を逸らす。
「……遊びに行きたきゃ行け」
「いい」
「うるさくて新聞が読めん」
「無視してていーよ」
最初から無視などできた試しがない。いつも悟空に対してはそういう振りをしているだけだ。うっとうしい振り、呆れた振り、けれどその実、いちいち心を動かされている自分がいる。
「……三蔵」
「……何だ」
「三蔵、三蔵、三蔵、三蔵」
「うるさい」
ただですら、その呼び声は真っ直ぐで耳に痛いというのに、猿は遠慮もなく連呼する。三蔵はいらいらと新聞をたたみ、それをそのまま猿の頭に振り下ろそうとして。
金縛りにあった。
「三蔵」
名を呼んで笑う顔が、泣き顔に見えた。
多分その時、己はひどく動揺したのだ。悟空の泣き顔なんか見たことはなかった。悟空はいつも笑っていたし、三蔵がどんなに邪険にしても逞しくそこにいた。何かにつまらなさそうな顔をすることはあっても、悲しげな様子は見せなかった。だからずっと強い子供なのだと思っていた。
けれど、急に不安になる。本当はずっとこんな顔で笑っていたのではなかったのか。
覚えていない。なぜなら、三蔵は、悟空が笑っている時、大抵そっぽを向いているからだ。
笑っているということを確認するだけで、どんな顔をしているのかなんて注意してもいなかった。
咄嗟にその手を掴んでいた。
いつも触れたがる悟空を知っていたからそうした。法衣の端ではなく、手のひらで触れる。
それだけで──
花をほころばすような笑顔になる。
驚いた。己の手は、銃を握る以外にこんなことができるのだ。
「……アホ面」
無理やり毒づくと、悟空は嬉しそうにもう片方の手を延ばす。
これも握れと言いたいらしい。わかってしまうと仕方ないので、三蔵はそちらの手も取った。動きに伴って中途半端な体勢になる子供が、それでも楽しげに笑う。
この際、触れたついでだ。三蔵は慣れぬ衝動に押されるまま、小さな身体を膝の上に引き上げ、ゆっくりと抱いてやった。
悟空はさすがに予想外だったらしく、初めは何が何やらわからない顔でこちらを見上げた。そして三蔵が何も言わずにいるのを確かめると、小さくうつむき、やがて耐え切れなくなったようにしがみついてくる。
「三蔵……」
初めて聞く、心を晒した声だった。
三蔵はそっと溜め息をつき、その髪に口付ける。
「寝ろ。明日になったら、全部忘れる」
「……メシは?」
「一日くらい抜いても死にはしない」
じゃあ、悟空はかすかに震える声で言った。
「三蔵は……?」
「……ここにいてやるよ」
うん、うなずいて、更にしがみつく手が強くなる。三蔵も少しだけ腕に力を込めてやると、安心したような深呼吸が聞こえてくる。
しばらくすると、すぐに寝息になった。
「……バカ猿」
でも悪くはない。
できるだけ静かに席を立ち、三蔵は悟空を抱いたまま隣の寝室へと移る。それから苦労して一緒にベッドへ横になった。
朝までかなりの時間がある。夜中に子供が起きないことを祈りつつ、三蔵も目を閉じた。
* *
朝。三蔵が目を覚まして最初に見たのは、悟空の笑った顔である。
「……んだ、猿」
陽の光が目に痛い。寝返りを打って背中を向けると、また後ろで笑う気配がした。
「……三蔵。すげー好き」
言葉は寝起きの頭を直撃する。
「……死ね」
とりあえず言いなれた台詞を言ったまでは良かったが、その言葉の毒のなさに、自分自身で愕然とした。しかも悟空はわざわざこちら側へ移動してきて、三蔵の顔を覗き込むようにする。
「好きだ。本気で言ってるんだからな」
真っ直ぐさに沈没しそうだ。
「死ね」
もう一度繰り返す。やっぱりいつもの険は出ない。
悟空が嬉しそうに笑う。
三蔵は、何だか、ひどく負けた気分になった。
「……くそ、最低な朝だ」
呟きも光の中に掻き消える。
花の咲く一日は、こうして輝かしく始まるのだ。