はじまりと終わりのうた

 本当は毎日会いたいと思う。

 それでも会えないことはわかってるし、だから一生懸命がんばって、がんばる代わりに神様に祈ってる。三蔵にこんなこと話したら、きっとまたバカなことしてるって飽きれるんだろう。でも他に俺にはどうしようもないから。がんばってるよ。三蔵が「楽にしてろ」って言った言葉はちゃんと宝物にして。
 
 あれから少しの日にちが経った。ナタクもみんなも相変らずで、何だか俺だけちょっと年取ったみたいだと思う。
 
 一番近くにいるナタクは、もしかしたら俺が少し変わったことに気付いてるかもしれない。時々困ったような顔してこっち見てることがある。でも、言っていいのかどうかわからないんだ、俺。あの時のことなんか、絶対上手く話せないし。
 
 それに、三蔵のこと少しでも話したら泣きそう。
 
 一緒にいたのはほんのちょっとで、こっちに帰ってきてからはもう顔だってちゃんと思い出せてるかどうかあやしい。覚えてるのは少しの言葉とか、あの時俺がどんなふうに三蔵を見てたかとか、握った手がすごく熱かったとか、そのくらいのことなのに、それでも思い出すとそれだけで胸がいっぱいになる。
 
 本当は、名前呼ぶだけで駄目なんだ。
 
 それで結局ナタクには何も話せてない。いつか話さなきゃって思う。俺、いきなり外に出ようって言っちゃったし。絶対変には思ってると思うんだ、急に水のこととか畑のこととか詳しくなっちゃったし。ナタクはやさしいから待っててくれてるけど……きっと不安がってもいる。せめて外に出ても大丈夫な理由くらい話すべきだよな。できるだけ早く平気になるようがんばる、三蔵の名前。せめてそれだけでも平気にならないと、話せないよね。
 
 でもさ……でも。
 
 あんまり平気にもなりたくないんだ。本当は、一日中三蔵のこと考えて泣いてたっていいって気がしてる。俺、三蔵のことスキになった自分がスキだ。頭悪くってナタクみたいに器用なことできないし、何にも力持ってない自分がずっと嫌だったけど、三蔵のことスキになったことだけは、誰かに自慢してもいいって思う。
 
 こんなこと考えてるから駄目なのかな。
 
 もしも三蔵がダメだって言ってくれたらすぐに直すのに。
 
 電話もない世界なんてやっぱり不便だよな。早く電気とか復旧すればいいよな。八戒とか悟浄がその準備してくれるって言ってたけど、元気にやってるのかな。三蔵も一緒にいるの? ちょっとは俺のこととか思い出してくれる? 俺ちゃんと戦争の日にち教えたし、絶対生きてるよね? それから。
 
 元気、だよね?
 
 早く……会いたいな。









zero
 
 破れたコンクリートの隙間から細い光が漏れていた。
 照明設備のない地下道では、そのかすかな陽光こそが足元を照らす唯一の頼りだ。とは言え、今の世の中、年端のいかぬ子供ですら、あの光の中に踏み込む馬鹿は犯さない。
 透明に見える陽光が、どれだけ汚染されてしまったのか――それとも、以前と変わらぬように、地に人に恵みをもたらすものなのか。判断できる科学者はおらず、また測定しようにも器具すら整わぬのが現状である。
 噂によると、かつて生物で溢れていた地上には、正体の知れぬ毒の埃が舞っているのだとか。
 それを吸い込んだ者は、十日の内に死に至るとも聞く。実際に命を落とした者がいるのかどうかは怪しいところだったが、だからと言って噂を否定できる者もいなかった。
 一弾の爆弾が彼方の大陸へ投下されたのは、もう二年近く以前のことになる。
 たった一弾だった。
 たった一弾のために、地球上にあった大陸の半分が一瞬にして水没した。
 戦地から遠く離れていた島国も無事ではなかった。
 陸地の多くは、文字通り突然、まるで御伽噺に出てくる死の魔法にでもかかったかのようにひび割れ、崩壊し、あるいは蒸発し、そこに住む人と共に水へと堕ちた。
 おおよそ文明と名のつく全てが機能を失った。
 かつて栄誉を誇った大陸がどうなったのか、はたまた地球上のどこかで同じように生き残った種族が存在しているのか、以前にも増して外界から隔たれた小さな島国では、誰にも真実はわからない。
 とにかく、危うい小船のような陸地の上、命をとりとめた人間は、魔法によって穢されたかも知れぬ風を恐れ、光を恐れ、水を恐れ、地下へと下りた。
 半壊したコンクリートのそのまた下、辛くも形を残した下水道と地下鉄の線路が、人の新たな居住空間となっていた。
 そして今、悟空が歩いているのは、その地下道である。
「……ここ、水溜まり」
 悟空は足元に広がったそれを軽く飛び越え、後ろを振り返る。
 表情までははっきりとしなかったが、暗がりの中、相手が小さく手を挙げたのがわかった。
 何もかもが失われたあの日以来、ずっと行動を共にしている彼、ナタクは、元々は近所に住むクラスメイトだった。
「……よっ、と」
 そのナタクが、悟空の教えた通りに水を避けた後、どうにも堪え切れなかったように特大の溜め息をつく。
「こんなことやってもあんまり効果はねーんだろーけど」
 そう言いつつ、今度は二人で天井の裂け目から降る光を避ける。悟空は苦笑した。
「でもまだ死んでねーよ?」
「……うん。ちょっとは成功?」
「うん。ちょっとな」
 同じ年齢にも関わらず、ナタクは悟空よりも大人びたところのある少年だった。いつも少しだけ悲観的で、けれどもそのぶん頭が良い。
 建物と人が消えた荒野に見切りをつけ、地下へと悟空を誘ったのも彼だ。爆風に晒された水や埃、砂などを避けようと言い出したのも、彼ではなかっただろうか。
 悟空だって、以前に核を投下された場所が、どんな惨状であったかくらいは教科書で見た。ナタクに言われて初めて思い出したというのが情けないことではあったが、何はともあれ、二人で知恵を出し合いながら、思い浮かぶ限りの安全策を取って生きてきた。
 そういった用心が功を奏してか、悟空もナタクも、未だに身体的な異常は現れない。
「ところで……まだ大丈夫そーか?」
 不意にナタクが不安げに尋ねたのは、この道が二人にとって初めて通る道だったからだ。
 悟空には不思議な力があった。
 予知、と、呼んでしまえるほど定まった能力ではなかったが、危険が迫ると、静電気のような――もっと正確に言えば、小さな火花のようなものが、辺りに充満するのを感じるのだ。ナタクなどは、悟空のその力を指して放電体質だと言ったりもする。
 全てが水没した日、二人が生き残ってしまったのも、この力のせいだった。
「……別に何も感じねーよ。大丈夫だと思う」
 悟空が言うと、ナタクは笑ったようだ。
「そっか。ガセネタかと思ってたけど、来てみて良かったかもな」
 二人が向かっているのは、東にあるらしい集落だ。奇跡的に無事だった地下鉄のホームを利用し、大所帯の一団が生活を始めたという噂を聞いたのは、つい昨日のことである。
 話によると、彼らは野菜の種を持っているそうだった。
 一粒でもいいから、種をもらえるよう交渉しに行こう、ナタクが言い出すのも早かった。
 今、悟空たちが住処にしている付近は、身寄りのない子供たちが多くいる。頭の良いナタクは、いつの間にかこの辺り一帯のボスになっていた。悟空と二人で暮らしていく分には、微量な食糧でも何とかなるが、そういった子供たちのことを考えると、いくら蓄えがあっても足りないほどである。
 何より、自給自足できる方法を見つけたい。
 もはや生き残ったことを後悔する時期は過ぎた。生きるために何が必要なのか。悟空もナタクも、最近では真剣に模索を始めていた。
「それにしても……」
 集落とやらは、地下道をどこまで進んでも見えてはこない。目に付くものと言ったら瓦礫がせいぜいだ。水溜りが所々にできていることから浸水もあるのだろうし、いくら地下鉄のホームに道が続いていようとも、この道の上に人が定住できる空間はなさそうだった。
「……本当にいるのか?」
 さすがのナタクもとうとう不安を漏らした。ナタクだけではなく、悟空にとっても、人の気配のない暗闇は、嫌な予感を思い起こさせるのに充分だ。
 つい先日、知り合いの親子が殺されたのは、こんな場所だった。
 他よりはまだ穏やかだった近辺でも、そろそろ盗賊まがいの一団が出没しているようなのだ。
 誰もが生きるのに必死で、そうせねばならない理由と共に、盗みや殺しを繰り返す。決して暴力を弁護するわけではないが、悟空も隣にナタクがいなければ同じ道に陥ったかもしれない。
「……まだ……大丈夫だと思う」
 悟空は慎重に呟いた。用心深く、一歩先、一歩先へと進みながら、己の周りに異常がないことを確かめる。
 間もなく、真っ直ぐに伸びた地下道の脇に、横穴が作られているのが見えた。
 真っ直ぐ行くか、横に逸れるか。
 悟空はナタクを振り返る。
「どうする?」
「曲がる、なんて話は聞いてねーけど……」
 横穴を覗くと、果てしない闇が広がっていた。五歩も歩けば、それこそ目の前に壁があるのか否かさえ判断できなくなりそうな暗闇だった。
「やっぱりあっちか?」
 悟空はまだまだ先の長い直線の道を指差す。
 と、突然その指先で、ぱちりと火花が散るではないか。
 ナタクがはっと息を飲んだ。もちろん悟空も慌てて指を引っ込める。二人、揃って音を立てぬよう息を吸い、少しずつ吐き出し、呼吸を整える。
 耳を澄ます――危険な音は聞こえない。
 目を凝らす――動くものはない。
 しかし二人の判断は同時なのだ。足音を立てぬよう注意しながら、目の前の横穴へと身を滑らせる。
 さいわい、頭上のどこにもひび割れのないトンネルだった。全くの真っ暗闇なのはつらいが、今のうちに進めるだけ進んでおけば、決して追っ手に捕まることはないだろう。
 そうっと足を踏み出した。最初の何歩目かまでは気を配りつつ進み、入り口の光が届かなくなった途端に、壁に手をついてできるだけ早足で先を急ぐ。
 案の定、間もなく彼方で怒声があがった。悟空とナタクは、それを合図にもつれるようにして走り出す。
 途端にトンネルに響く靴音も増える。しかし暗闇の中では、いくら賊といえども歩みは遅い。先に闇に慣れて走り出した悟空たちの勝利だった。
 それでもいくらか駆け抜け、ようやく他の靴音が響かなくなった頃、悟空はゆっくりと足を止める。
「……ナタク……?」
 小声で呼んでみる。
 答えがない。
「ナタク?」
 動揺しないでもなかったが、一人で慌てるのもまずかった。視界のきかぬ場で闇雲に動くのは危険極まりない。
 分かれ道はなかったはずだ。悟空は呼吸を整え、道順を思い出す。ならば、ナタクが悟空よりも先に行ったか、それとも反対に悟空が彼を追い越してしまったのか。
 先か、後か。
 考えた末、悟空は先に進んでみることにした。ナタクが、盗賊のいるとわかっている後ろに進むことはありえないと思った。たとえ今の時点で悟空よりも後ろにいたとして、彼も悟空を探そうとするのなら、悟空と同じように前へ進もうとするはずだ。
 突き当たりまで歩いて、そこで待ってみるのもいい考えだろう。
 何より、ここで悟空が後方を探したりしたら、ナタクは絶対に怒る気がする。そうでなくとも、彼からは無用心だと注意されることが多かった。
 再び足を動かし始める。闇の中をゆっくり前進しつつ、壁に手を伝わせ、異常がないかを調べた。
 不意に水気がある場所に指が届いた。悟空は焦って衣服の裾で肌の水気を拭う。
「浸水……?」
 恐る恐る数歩進めば、今度は己の足下で水溜りを踏む音がする。
 とうとう立ち往生になった。言うまでもなく、この水が汚染されているのか判断する術はない。
 が――
 いくらじっとし続けていてもナタクと思しき足音は聞こえないのだ。
 水に触れる以前に、先ほどのような危険信号が出たわけでもなかった。悟空は更に先へと進む決心をした。
 一歩。また一歩。緊張で浅くなる呼吸を抑え、水溜りの上を行く。進んでいるうちに、急に闇が明るくなった気がして顔を上げた。
 悟空のそれは錯覚ではなかった。前方に、わずかだが、頭上のコンクリートが裂けている箇所があるようだった。光は光でまた用心すべきものではあったが、この時ばかりはほっとする。まだまだ続きそうな水溜りの上を、幾分早足になって急いだ。
 光の近くまで行ってみれば、天井のひび割れは案外大きなものだった。
 悟空は、そこで、本当に久しぶりに空というものを見た。もちろん直接見るようなことはない。水溜りに映った空を、遠目に覗いたのだ。
 青空だった。
 外で有害な埃が舞っているという噂が、真っ赤な嘘だと思えるほどの。
 思わず茫然と見入ってしまった。光に長く当たり続けているのが怖くて、上着を脱いで頭と顔を抑えながら、少しだけ近くに寄ってみる。
 ……本当は、早くその場所を通り過ぎるべきだったのだろう。
 美しい青空は、悟空たちの生活の中では、禁忌の領域にあるものだ。いくら焦がれても、思いを馳せても手に入らないもの。知っていたのに、もう少しだけ見ていたい欲求は抑え切れなかった。
 少しずつ少しずつ、己の足が水溜りの中の青空へ進むのを、遠く感じていた。きっと、そのあたりから既に、何か魔力のようなものに掴まっていたのだと思う。
 結局最後には、濡れるのにも構わず、光の降りそそぐ湿った地に膝をついている。
 肩先で火花が弾けた。続けて何度も。それらを冷静に受け止めながら、この水はやっぱり危険だったのだろうかと考えたりもした。
「……キレイだなぁ……」
 手を延ばす。水面に触れる指。
 水の感触。危険だと片方で恐れつつも、この感触に飢えていた自分を知っている。
 再びこの空と水が人を潤す日が来ればいい、悟空は気まぐれに祈る。
 あの壊滅の日から夢中で生きてきたけれど、死ねば良かったと考えない日はなかった気がする。
 たとえばもしも、もう一度だけでも、光の中で止め処なく溢れる水を感じることができるのなら。
「……死んでもいいかなぁ……」
 ぼんやり呟いた、その時だった。
 周囲で軽く弾けるばかりだった火花が、突然悟空の指先へと移動した。手はちょうど水面に触れるか触れないかの位置にあったものだから、派手に飛沫が跳ねて悟空の肌を濡らす。
 水滴が頬や唇を打った。
 正気を取り戻す瞬間だった。
 己は一体何に囚われようとしていたのか――悟空は慌てて禁忌から身を引き、恐る恐るそちらを窺う。
 変化は、再び穏やかになる水鏡と共に訪れた。
 ゆるく波紋の広がる上に、くっきりと四角く切り取られた映像。
 真横へと横流れする家、家、家。悟空にも見覚えのある流れ方だ。そう、確か、車や電車に乗った時、こんなふうに景色は見えたものではなかったか。
 住宅地らしい。二年前に爆発が地上を襲う前には、どこにでも当たり前にあった景色だ。
 混乱した。それでも目は懐かしい町並みに釘付けになる。
 幻? それとも何かの仕掛けだろうか。過去を覗く窓さながらに、水鏡の景色は鮮明だ。
 と、不意に、己のものではない指が映った。
「……誰?」
 悟空は思わず呟く。
 すると今度は映像が切り替わるではないか。
 向こう側には見知らぬ男の顔が見えていた。ひどく整った顔立ちには似合わぬ、心底驚いたふうに表情を崩した、金髪の男。
 あ……。
 声を出したつもりが己の耳は音として拾わない。
 疑問に思うよりも早く、地面がずるりと傾く――いや、実際のところはどんな状態だったのだろう。傾いた、と悟空に思えただけかもしれない。というのも、足下から立ち上ってくるのが、現実とは思えぬ、泥地の中へ沈み込むような気味の悪い感触であったからだ。
 まさしく膝下から地が失われたようだった。
 悟空は満足に声も出せず、息をこなすことも忘れ、己に何が起こっているのか判断できないまま、ただ水に映る男に目を向けた。
 こんな時だと言うのに、えらく真っ直ぐに目が合った。互いの心の中まで瞳に透けて見えそうな合い方だった。
 その瞬間、もしかしたら悟空は、頭の端で死ということを考えていたのかもしれない。男の表情が焦ったように色を変えたのは、こちらの諦めた心境に気付いてしまったからではなかったか。
 けれど思った。一瞬でいろんなことを考えた。この命が重荷であったことを訴えもした。見捨ててくれとも、助けてくれとも考えた。
 ひどく笑いたいような気分にもなった。
 自分は何のために生きていたのだろう……?
 これらは己でさえ取り留めのなかった希求である。 ところが、水の向こうの男はどうしたか。
 
 その、手を
 
 咄嗟に差し延べられた手のひらに泣きそうになった。
 綺麗な手だった。触れるだけで悟空の中に澱んだ諦めを砕いてくれそうな、清潔な手。
 あの手を取れれば、と、思う。
 あの手を取る勇気があったなら――
 何かが変わった気がするのに。
 
 ずぶずぶと地面に飲み込まれる。抵抗する間もなく悟空はあっさり意識を失った。己の手が彼の手を掴んだのか、はたまた救いの手がこちらを捕まえてくれたのか。最後の一瞬の記憶は悟空にはない。
 一体何が起こってどうなったのか。
 真実は水の中。青く輝く天空を映した水溜りは、まるで人を飲み込む底なし沼のように、ひっそりと息づいている。