この世には、目に見えないものが存在している。
三蔵が極々当然の感覚でそのことを受け入れていたのは、やはり己が持つ不思議な力のせいだっただろう。そうでなければ、己の理解の及ばぬものを、端から否定していたに違いない。
三蔵の生い立ちは、人よりも少々特殊だ。二十代前半という若さで、名目上といえども、とある私大の理事長に納まっている。
これは三蔵の育ての親である、祖父の遺言で決められたことだったが、当初はもちろん学園内外から反発の嵐だった。実際に理事に任命された時の三蔵の年齢は、たかだか十八だったのだ。祖父の親戚一同が揃って三蔵に辞退しろと詰め寄ったのも、もっともな話だった。何より、祖父と三蔵には血縁がなかったのだから。
おかげで、遺言通りに理事の座を受け継ぐと決めた時には、ずいぶんな嫌がらせを受けた。元から親戚一同に良い感情を持っていなかった三蔵は、その時分のやり取りのせいで、若人に不相応な一面を培うことになる。
簡単に言ってしまうと、つまりはこうだ。
人間に嫌気がさした。
金にも、女にも、友人にも。手元へ舞い込もうとする多くのものが、三蔵自身を満たすために近づいてくるのではなく、それ自身が満たされたいがためにやってくる。
気づいた時には、目に映る全てが、己も含めてひどく滑稽でならなかった。精神的には何一つ満たされることもないまま、それでも三蔵は地位を得、所得を得、この先、生きていくのに全く苦労しない暮らしを得た。
理事に落ち着いて、もう三年――
今では、あれほど煩かった人間関係も落ち着いている。親戚連中には、祖父が遺した家屋を譲渡することで和解が成立していた。
学園の理事も、元々それほど特別な技能を必要とするポジションではない。一時の混乱がないわけでもなかったが、三蔵が仕事を疎かにしないことを知ると、学園に勤務する職員たちも自然と穏やかになっていった。
目下、問題なのは、理事の座につきながら、三蔵が同学園に学生として在籍していることくらいだ。入学に当たって、さすがに己の身分を公にひけらかすわけにもいかず、式典などにも極力代理を立てていたのだが、こういった秘密はどこからともなく漏れていく。
今の学園内で三蔵の名を知らぬ者は少ないだろう。当然、気軽にこちらの肩を叩く者はいない。
ほんの数人、奇特としか言いようのない知り合いはいたが、彼らはそれぞれの理由で毎日学園に顔を出すことのない人種だったし、また、出てきたからと言って必ず三蔵に声をかけていくほど親しい間柄でもなかった。
そんなわけで、三蔵の日常はひどく乾燥している。
同年代の学生たちと違って就職に対する恐れもなく、恋愛に対する執着もなく、ましてや己の全てを賭けられるほどの見果てぬ夢など思い浮かびもしない。一生続く退屈を何となく受け入れ、逆らうでもなく過ごすばかり。
平穏すぎて疲れる――
このところの日常への感慨は、その一言に尽きた。
そんな三蔵の、変化に乏しい一日が、憂鬱極まりない始まりを告げようかという、その朝である。
今日も常と同じ時刻に目を覚ました三蔵は、起き抜けに、ふと胸を突いた奇妙な予感に戸惑った。
何とも形容しがたい胸騒ぎだった。嬉しいような苦しいような――決して不吉なものではないことが、奇妙さに拍車をかけている。
実は、三蔵にはある特殊な力がある。おおまかに言えば、それは予知ということになるのかもしれない。
危険が迫ったり、何か悲しいことが起きようとしていたりすると、幻のような……蜃気楼のような、とにかく実際には在りえない場所の風景が見えた。
ある時は鏡の中に、ある時は水の中に、またある時は窓ガラスに。三蔵にとって不利益なことがある時に、前兆さながらにその風景は現れる。
灰色の、岩とも瓦礫ともつかぬものが一面に転がっている、荒れ果てた大地。
昔、映画か何かで見た風景なのかもしれない。どこか懐かしい気もしたし、何よりその風景は、危険の前兆で見えていた時ですら悪い印象を受けなかった。
幻を見るということに、幼い時からあまり嫌悪を覚えなかったのも、見えたのがその景色だったせいだ。
嫌悪がなかったために、予知なのだと理解できたのは、かなり後になってからのことになる。ただ、気づいた時分が、力が畏怖の対象になり得ることを判断できる年齢だったのは、かえって幸いだっただろう。
長く一緒に暮らしていた祖父は気づいていたのか。
今ではもうわからない。どちらにせよ祖父は他界した。他に近しい肉親もいない。三蔵が自分から口にしない限り、恐らく永遠に秘密は秘密のままである。
とにかく、今感じている明るい雰囲気の予知というのは、珍しいことなのだ。
結局、どうにもじっとしていられずに、朝食もとらぬまま、大学へと出かける準備を整えた。
今日の予定は、一講時目に必須科目の授業がある他は、丸々空いている。ひとまず講義を受けた後、学園の理事長室に寄って、溜まっている書類に目を通そうかと考えていた。
足早にマンションを出ると、道路を挟んですぐのバス停へと向かう。いつもより数本早い、乗客の少ないバスは、まるで三蔵が着くのを待っていたように、停留所へと滑り込んでくる。
車内へ入ると、何とはなしに最も後方の広い座席を目指した。学園までおよそ二十分。窓際に腰掛け、すぐに横流れを始める景色を窓から見下ろす。
早朝のバスは、普段三蔵が利用しているものに比べ、格段に静かだった。
客の半分は通勤客らしい。皆、どことなく疲れた表情を浮かべ、未だ眠りに頭を揺らしている者さえいる。
他人に無関心な空気が心地よい。三蔵も、見るともなしに流れる景色を目で追いながら、束の間の沈黙に息をついた。
ところが、だ。
間もなく、見慣れた町並みに、全く別の何かが重なった気がして、はっとする。
あの――風景だった。
瓦礫の転がる灰色の世界。
今まで幾度も現れたそれが、またもや窓のガラスを媒体にして、三蔵の目の前で揺れていた。
これを目にするということは、何か良くないことが起ころうとしているのかもしれなかった。しかし、今朝から感じている不思議な予感は、この瞬間も三蔵の内で燻り続けている。馴染みの幻も、何度も言うが、元から決して不快な印象を受けるものではない。
焦るに焦ることもできず、三蔵はただ、瓦礫と砂と岩ばかりで人の気配のない風景を見ているしかなかった。常と同じであれば、この幻は三十秒もたたぬうちに消えてしまうはずだった。
だが今日は違う。バスの振動でかすかにぶれることはあっても、依然として己の目の前にそれはある。
三蔵は無意識の内にガラスの風景に触れていた。と、まるでそれが合図でもあったかのように、突然映像が暗転するではないか。
暗闇。いや、闇ばかりではない。中央に亀裂が走っていて、そこから真っ青な空が覗いている。
どうやら建物の中にでも視点が移ったらしかった。空が見えるということは、多分、組み合わさった鉄筋が捻じ切れたような、あの亀裂のある部分は、天井にあたる場所なのだろう。
下から上を見上げた映像らしい。初めて見える情報を整理しながら、まだ三蔵は冷静だった。
しかし、それも次までである。
(……誰?)
声が。
声が聞えた、と、驚いた瞬間のことだ。
再び映像が切り替わる。目の前に現れた映像の、その色の鮮明さといったら、まるでようやく電波の受信が上手くいったテレビみたいに生々しかった。
一人の少年が映っていた。
額や頬に泥の汚れがあって、ちょうど土木工事でもしていたふうに、くたびれて色褪せた衣服を身につけていた。外見は幼く、大きな瞳がこちらを動揺させるほど真っ直ぐだ。ここ数年ほとんど人の目の奥など覗き込むことのなかった三蔵は、ただ視線が合ったというそれだけで心臓を掴まれた心地になった。
誰?、などと、こちらの方が問いたい言葉だ。
あまりのことに茫然としていると、大きく見開いていた子供の目が、唐突にどこかが痛むような素振りで眇む。
どきりとした。そうする自分に自分で驚きながら、慌てて相手の状態を図る。見た感じでは怪我しているふうではなかったが、子供の様子が、刻一刻と悪くなっていくのは明らかだった。
今にも泣き出しそうな表情が、助けを求めるでもなく、必死に三蔵を見つめている。
不思議なことに、その時の三蔵は、彼を気遣うことにためらいはなかった。むしろ、この状況を救えるのは己だけだと確信を持っていたくらいである。
だから極々自然に手を延ばしていた。
ガラスを挟んだこちら側と向こう側。そんな認識すら、頭の隅に引っかかりもしない。
実際、指が何かに突き当たる感触はなかったと思う。
三蔵は、こちらに応えるように動きかけていた手首を掴むと、力の限りに引き寄せた――
そして。
「……ウソだろ」
自分で起こした事実に軽い眩暈を起こす。
引き寄せればこうなることくらい予測できたものだが、現実に目で見て手で触れて確かめると、あまりの非常識さに力が抜けた。
己の膝上に乗り上げる形で、薄汚れた子供が倒れている。
しっかりと握り合った手は、お互い様だった。
「……おい」
とりあえず声をかけてみる。
すぐにぴくりと身動きした少年は、まず三蔵の顔を見やって目を大きくし、次に上体を起こして己の身を確かめ、最後にぐるりと辺りを見回し、一体何に驚いたのか小さく肩を跳ね上げ、再び三蔵を振り返る。
「……っ……」
そうして、怖くて言葉にならないみたいに何度か口を開き、結ぶと、やがて弱々しく身を震わせた。
三蔵は、彼の一連の仕種を驚いて見守るだけだった。
それきり、少年は視線を窓の向こうへと移し、かすれそうな溜め息を一度つくと動かなくなる。
多分、泣いているのだろう。
全く理由は知れず、もちろん泣く理由だけではなくいろいろ尋ねたいこともあったのだが、三蔵はひとまず己の疑問を脇へとおさめることにする。
大学に到着するのも間近だった。講義に出席するしないはともかく、バスから降りねばならない。
さて、料金を払っていない彼の存在に、運転手が気づくかどうか。三蔵は、気になって仕方がない隣から目を逸らし、目先の問題で頭をいっぱいにするふりをする。
――手は繋がれたままだ。
気づいているのかいないのか。もしも意識して彼がそうしていなかったのだとしても、三蔵が自分から離すことはできなかったに違いない。
必死にこちらの手を捕まえている。非常識極まりない出会いを終えたばかりだというのに、震える指から伝わる切実さが、どうにも痛々しくてならなかった。
いつもの大学前の停留所。三蔵が手を引いたなら、相手はあっさりとこちらに従ってバスを降りた。
運転手や他の乗客も、突然現れた少年を呼び止めることはなかった。もしかすると誰か気づいていたのかもしれないが、泣いている顔を隠そうともしない子供に言葉をかける物好きは現れないままだった。
そんなふうにバスは何とかやり過ごしたが、新たな問題はすぐに生まれるものである。
普段通りに学園の門を潜ろうとした三蔵は、門前ではたと途方に暮れた。何となれば、己はここでは立場上悪目立ちする。ただでさえそうであったのに、今日は子連れ、しかも相手が泣いているのが始末に終えない。
案の定、門前にある守衛館からは、顔なじみの職員が不審げな顔でこちらを見ていた。いつもなら、理事長職についている者の務めで、一言二言言葉を交わすことも少なくないのだが、今日ばかりはそうする余裕がない。
三蔵は、とにかく無視して門を潜った。
今は早朝であるから学生の姿も少ないが、講義が始まる時間になれば、あっと言う間に人は増える。
仕方がないので、教室に直行するのは諦めた。ついでに必須科目だった講義の受講も諦め、まだ人けの少ない教官室の集まった特別棟へと足を向けることにする。
半分駆け込むようにして建物の中に紛れた。
少年は未だ言葉を発する気配もなく、滂沱の涙を流すばかりだ。ようやく人目の届かぬ影に辿りついた三蔵は、改めてそちらを振り返る。
手は、やはり繋がれている。
それでも相手は、三蔵を認識してはいないようだった。
「……おい」
返事はない。三蔵は膝をつくと、無理やり彼の視界に割り込んだ。まだ反応が鈍かったので、服の袖口で乱雑にその涙を拭う。
「おい、返事しろ」
彼がようやく三蔵を見た。
「……言葉はわかるな?」
ぱちぱちと瞬きする瞳。動きに伴って涙がまたこぼれた。
「泣き止め。それともどっか痛いのか」
ぶるり、大きく横に振られる頭。
「なら泣くな。目立つ」
「……ここ……?」
掠れた声が、何とか言葉をつづってみせる。三蔵は少なからず胸を撫で下ろす。言葉が通じなければ、本気でどうしたものかと思っていた。
「大学だ。部外者の立ち入りは禁止されてる。……大学は、わかるか?」
彼は、三蔵も見覚えのある、あの瓦礫ばかりの世界から来たのだろう。多分、価値観も習慣も違う場所だと思っていたのに、三蔵の問いに対する彼の答えは、意外なものだった。
「わかる……大学。行ったことないけど」
行きたかったし。小さく笑ったかと思うと、今度はくしゃりと顔を歪めて泣き出した。それはさっきまでとは違う、意識のこもった泣き方だった。
しかし、意識があろうとなかろうと、泣かれれば困るのは三蔵なのである。
「おい……俺は泣くなと言わなかったか」
「ごめん……でも……」
「泣くな。大体何で泣いてる」
「わかんね……うれしーしかなしー……」
わからないのはこっちの方である。三蔵は再び途方に暮れた。物陰にいるとは言っても、所詮人の通り道だ。そろそろ講義の始まる時間らしく、出入りの少ない特別棟でも講師の姿が見え始めている。
気はすすまなかったが、結局取るべき道はひとつしか残ってはいなかった。
三蔵は己の上着を脱ぐと、彼の頭を覆った。
「しばらくそれ被ってろ」
職員は多くいるだろうが、人の出入りの全くない場所で、三蔵の自由にできる個室はそこにしかないのだ。
繋がれたままだった手を再び引いて導く。
目的地は理事長室。特別棟の最西端にある、学園の事務室の、そのまた奥にあたる豪華な個室だった。
事務局中の物問いたげな職員全てを黙殺して、明らかに部外者だとわかる子供を部屋に押し込むと、三蔵はようやく盛大な溜め息をつくのだ。
「……もういいぞ」
声をかければ、恐る恐る被った上着を除ける。
涙も乾ききらない様子は相変らずであったが、さすがに最初よりは意思の疎通も図れるようになった。そうなると三蔵にも余裕ができたらしく、気にならなかった少年の出で立ちに目が向いた。
元々泥の跡があった顔は、涙で更に汚れてしまっている。
見れば、その手や指も、決して綺麗とは言えない色をしていた。全体的に煤けている。もしや何か重労働でも強いられているのだろうか。不穏な考えが頭を掠めたが、敢えて追及はやめておいた。
「……そっち。水道あるから、勝手に使え」
「……すいどう」
「顔。泥だらけだ」
三蔵の指差した先に、備え付けの小さな洗面所があるのを確かめた彼は、しかしすぐにはそちらへ行かず、またも泣き出しそうな表情で振り返る。
「……水が出るの?」
三蔵は何を訊かれているのかわからなかった。
「水道はそういうもんだろ」
「だよね。水……出るんだもんな……」
「……使ったことないか?」
「ううん。そうじゃなくって……」
懐かしい。
続いた言葉があんまり突拍子もないものだったから、ついつい追及するタイミングを逃してしまう。
懐かしい? つまり何だ――彼の元いた世界は、ここよりも進んでいる世界だということか。
あの瓦礫ばかりでビルも町もない世界が?
「……お前」
どこから来たのか問おうとして口を噤む。子供が、ゆっくりと洗面所へ近づく一瞬だった。それは、どこにでもある小さな洗面所だったというのに、彼の足取りはまるで神聖な場所へ歩むように厳かだ。
「……本当に使っていい?」
緊張の滲む声で言うから、再度三蔵は理由を問うタイミングを失った。
「……さっさと洗え」
「うん」
うなずいて、深呼吸をひとつ。恐る恐るコックを捻る。
流れ始めた水を見た時の彼の切なげな表情は、しばらく三蔵の目に焼きついて離れぬものとなる。
そうして、ひどく水を節約しながら手と顔を清めた彼は、最後に両手いっぱいに水を掬うと、
「……飲んでもいい?」
「……ああ」
この街の水道水など飲めた味ではない。けれども三蔵は、そのことすら言い出せぬままだった。手や顔を洗う素振りで、彼が拘っているのは味などではないとわかってしまったからだ。
予想通り、カルキ臭いはずの水を口にした子供は。
「おいし」
泣きそうな声で呟いて、小さく笑う。
子供は、名を悟空と名乗った。彼はまず、使ったばかりの洗面所からこちらを振り返り、今は何年かと尋ねてきた。素直に西暦を教えてやると、己が来た時間から三年前だと苦笑いする。
三蔵は、彼の事情を詳しく訊きはしなかった。
彼が三年後の未来からやってきたのだとして――それがあの瓦礫ばかりの大地を示しているのだと思ったら、疑問など口にできなかった。
代わりに全く別の質問で彼の気を逸らす。
「……腹、減ってないか」
「え?」
「朝メシ買って来る。他に必要なもんないか」
「えと……」
「ないなら別にいい、少し待ってろ」
「あ、うん……」
そのまま、あまり彼の顔を見ずに部屋を出てしまおうとしたのに。
「あのっ……三蔵!」
極々自然に名前を呼ばれて、立ち止まらずにはいられなくなる。見れば、悟空は少し困ったようにはにかんでいた。
「あの……アリガト」
応えられずに、部屋を出た。
事務局の職員連中が揃ってこちらを窺っていたが、構う余裕もなく、戸口で大きく溜め息をつく。
さすがに後悔していた。
己は一体どうしてあの時手を差し出したのだろう。
**
三蔵の背中を見送ったのち、部屋を見回した悟空は、途端に落ち着かない気分になった。
部屋に入るまでは顔を隠していたし、三蔵の手に引かれるまま歩いていたので、どこをどう進んだのかも記憶にない。中央に据えられた黒いレザーのソファーセットは、どう見ても接客用のもので、己の埃まみれのジーンズで腰掛けてしまうには申し訳ないほど立派だ。
かと言って、他に座れそうな場所を探すと、明らかに役職の高い人物用の、幅が広くてどっしりとしたデスクセットがあるのみである。
校長室みたいだ。ふと、ずいぶんと懐かしい単語が頭に浮かんで、少しだけ気分が浮上した。義務で通っていた頃は、学校なんて少しも楽しいと思えなかったのに、今胸の奥底を探ると、はしゃいでいたような思い出しか浮かんでこない。
学校は、今にして思えば好きだった。
悟空は足音を立てぬよう、いささか遠慮しつつも窓辺に寄ってみた。
その窓は、ちょうど学舎と向かい合わせになっていて、学生と思しき洋服姿の集団が、建物の中や外、昇降口の階段など、至る所にたむろしている様が良く見えた。悟空が経験しているのは中学校までであったが、ずいぶんと雰囲気が違う。
みんな楽しそうにしている。
「……いいなぁ……」
知らず呟いている。
空があって、光があって、普通にその中で立っていられるということ。多くの友達がいて、知り合いがいて、それらの誰もが屈託なく笑っていられる。
まるで夢の中みたいにしあわせな景色だ。
「……いいな」
もう一度呟いたなら、今度は何だか悲しくなった。
悟空は窓から離れ、けれどソファーに腰掛けることもできず、部屋の隅でうずくまる。
塵ひとつない明るい色の床。悟空のいた世界では、それすら失われてしまったもののひとつだった。
「俺、何でここに来たんだろ……」
溜め息が出る。一人でいるとまた泣いてしまいそうだ。
「……あの人、早く帰ってこないかな」
三蔵と名乗った彼を思い浮かべる。
悟空のことを、名前しか訊かなかった。会ったばかりで、こんなに埃だらけの格好をしていたというのに、悟空が気づくまで手を握ってくれていたし、水や食べ物の心配もしてくれた。
泣いている間も、根気強く話しかけてくれた。
どうしてやさしくしてくれるのかは知らないが、少なくとも、悟空を騙して何か利益を得ようとしている大人には見えなかった。
元の世界で知っている大人の多くは、保護のない子供を冷たくあしらう人間ばかりだったのだ。己の子供すら、さっさと捨ててしまう大人の方が多かった。
それが原因で、捨てられた子供たちを集め、ナタクが子供だけの「国」を作ろうと言い出したのだから。
「……ナタク」
今頃あの友人はどうしているだろう。
あの地下道から無事に逃げ出せていればいいと思うが、彼はとても正義感が強い。もしかしたら、一生懸命悟空を探してくれているかもしれない。
己はここから帰れるのだろうか。
「……どーしよー……」
呟くと、じわりと涙が込みあがる。
きっと今は混乱しているから良い考えが浮かばないのだ、悟空は無理やり結論付け、油断するとすぐに溢れる弱音に蓋をした。
とにかく、ここで三蔵を待っていることだった。大丈夫、彼はきっとすぐに帰ってくる。
そうしたら、今度はもっときちんとお礼を告げて、さっきは咄嗟のことで呼び捨てにしてしまったが、礼儀正しく「さん」付けして、何とか今の状況を一緒に考えてくれるよう頼み込もう。後のことは、それから考える。
落ち着けば、きっと良い考えも見つかるはずだ。
悟空は己の膝を抱え、小さくなりながら大丈夫だと繰り返し唱えた。
**
近くのコンビニでおにぎり四つとサラダ二つ、少し考えた上でヨーグルト一つとミネラルウォーターの一・五リットル入りペットボトルを一本、温かいお茶を二缶買った。
三蔵が他に何か必要なものはないか店内を回っていると、下着用のTシャツが目に留まる。
少年の服装を思った。
一日中理事長室から出ないのなら大丈夫かもしれないが、もしも外に出るのなら、あの泥だらけでよれよれの格好は目立つだろう。せめて上着だけでも替えられるのなら――そこまで考えて、ロッカーにパーカーを置きっぱなしにしていたことを思い出す。
帰りは職員用のロッカーに寄ることを決め、ひとまず手持ちのものの会計を済ませるべくレジへと向かった。
……何かしていないと落ち着かないのだ。
突然目の前に見ず知らずの人間が現れただけでも、ずいぶんな出来事だと思う。しかし、それに輪をかけて彼は未来の人間だと言った。しかも、確かめてはいないが、あの砂と瓦礫の世界から来たに違いない。つまりはあれが三年後の地球の姿で、どうやら水すらまともに飲めぬ場所に変わり果てているようなのだ。
あまり深い事情は聞かずにいるのが得策だと思う。
できれば、悟空という名の少年も、すぐにもほっぱりだしてしまいたい心境ではあるのだ。しかし、困ったことに、三蔵には、彼の手を引いたのは己だという自覚もあった。
多分、彼が過去へ来てしまったのには、三蔵の力がいくらか関係しているはずだった。
悟空はこちらの事情など知らないし、今なら知らぬ存ぜぬで突っぱねることも可能だったかもしれない。ただ、手を放せば路頭に迷うとわかっている相手を、簡単に見捨てることもできなかった。
何より、もしかしたら、彼が元の世界に帰るには、己の力が必要かもしれないではないか。
それに、不思議と嫌悪も感じない。
本当を言うと、少年が未来からやってきたことより、こちらの方が予想外だった気がする。
自慢ではないが、三蔵は人間は嫌いだ。自分に全く関係のない人物だったとしても、物知り顔の老人は嫌いだし、卑屈な男も嫌いだし、ベラベラ喋る女も嫌いだ。甘ったれた子供はもっと鬱陶しい。
ところが悟空に関して言えば、そんな嫌いの基準が当てはまらない。どう見積もっても十六以上には見えない外見は、子供の部類に入れていいと思うが、子供と言うわりには甘えた印象を受けないのだ。
あれだけ必死で手を握られていたにも関わらず、である。
おかげで、三蔵の中には「こっちが引き込んでしまった」という罪悪感だけが渦巻いている。悟空に少しでも媚びた印象があれば、もっと突き放すこともできたのに。
自分で食べる予定のないヨーグルトと、飲む気のないミネラルウォーターのバーコードが読み込まれていくのを、そわそわと見送った。
かつてないほど動転している。面倒を抱え込んだと思いつつ、正直なところ、三蔵は今の状況をそれほど嫌だと思っていない自分に気が付いていた。
学内の中庭を歩いていた時だ。もうそろそろ三蔵の受けるはずだった講義も始まる頃で、大教室のある棟の玄関口は学生の出入りが激しい。
何となくそちらを眺めると、同じように学舎に入ろうとしていた中に、見知った顔を発見する。
八戒だ。彼は学生たちに紛れ、視線に気づかぬまま入っていってしまったが、彼の顔を見たせいで、三蔵はある頼まれごとをしていたことを思い出した。
覚え間違いでなければ、あれは今日の午後からの話ではなかったか。
「――…………」
思わず舌打ちした。所詮ボランティアの域の仕事ではあったけれど、やるとなれば八戒の手前もあるし、悟空ばかりに構ってはいられなくなる。
図書館業務の手伝いなのだ。
本の貸し出しや、返ってきたものの整理など、仕事自体はたわいもないものなので、引き受ける時は何の気なしに了承してしまったのだが。
忘れたふりですっぽかしてしまうか。
三蔵は苦く逡巡しながら特別棟へと向かった。
朝は悟空を連れて歩いた棟内を、再び一人で歩く。途中、先ほど無視してしてしまった事務職員たちに声をかけ、今日一日理事長室に入らぬよう言いつけた。
軽くノックをして部屋へ入る。
と、目に付く範囲に姿が見えなかったので、一瞬焦ってしまった。何のことはない、悟空は死角になっていた部屋の隅で、膝を抱えてうずくまっていた。
「……イスがあるだろ」
振り返る彼にそう尋ねたなら、困ったように笑ってみせる。
「汚しそーだから」
「かまわねぇ、座れ」
「……でも。何か、エライ人の部屋っぽいし、ここ」
「別に偉かねぇよ」
「三蔵……さん、の、部屋?」
何だかずいぶん無理した「さん」だった。本当なら、しっかり敬称を付けさせるべきだとは思ったけれど、三蔵はつい呼び捨てで構わないと告げていた。
悟空といると珍しいことばかりしている気がする。己がこれほど他人に寛容だったとは、全く新発見である。
「とにかく座れ。床じゃ食いもん置けやしねぇ」
促すと、恐る恐る立ち上がり、ソファーの端に浅く腰掛けた。これでいいかと見上げる瞳が、どことはなしに子犬を彷彿とせる。
結局突き放せないのはこれのせいかもしれない。さりげなくそちらから目を逸らしつつ、買ってきた食糧を応接台の上に広げる。
「食えないもんは?」
「……ナイ。すごいね、ごちそう」
ご馳走だと嬉しげに笑う顔に、嘘は見えない。
三蔵は、しばしコンビニで買った味気ない食料と悟空とを見比べ、思い当たった彼の事情に言葉を飲み込む。
ただの水で泣きそうな顔をした。
米や、生野菜が貴重でないはずがない。
何だかどんな顔をすればいいのかわからなくなりそうだった。黙ったままそれぞれを二人分に分けて揃える。
と、三蔵の前にはないヨーグルトのパックを、悟空は不思議そうに眺めるのだ。
「……三蔵のぶんは?」
「買ってねぇ」
「どうして?」
理由を問われるとは思わなかった。思わず黙ると、何を勘違いしたのか、悟空は悲しげな顔になる。
「あの……三蔵が食べなよ、これ」
その表情は、軽い遠慮の範囲を超すものだった。本当に申し訳なさそうに、それしかない食糧を譲られたような顔をするから、三蔵も慌ててしまった。
「俺は食えない」
咄嗟の嘘。
「食えないから。お前が食え」
「……食えないもん買ったのか?」
「いや。キャンペーンでもらったんだ」
「キャンペーン?」
「新製品なんだろ、多分」
「……そんなのがあるの?」
「まぁな。ヨーグルト嫌いか?」
「ううん! ううん……スキ、だ」
「じゃあ、お前が食え」
言うと、ようやく納得したように笑った。
会話が心臓に悪い。
買ってきたものすら食べ出せないまま、三蔵は暇を持て余して煙草に火をつける。向かいの彼は、本当に丁寧におにぎりの包みを開け、イタダキマス、と、既に三蔵が忘れて久しいような言葉を唱えながら食事を始めるのだ。
彼の動作はいちいち目に留まる。表情も、言葉もだ。
同じ日本語を話しているのに、そのどれもにまるで別の意味が宿ったかのように感じた。例えば「ありがとう」一言にしても違う。彼ほど真剣にその言葉を言う人物を、三蔵は他に見たことがない。
ひどく落ち着かない気分だった。話せば話すほど深入りしていく自分が見える気がした。
堪らずにいらいらと煙草をもみ消し、己の朝食を引き寄せる。
しばらくは無言のまま食べることだけに専念した。
粗方食べ終わる頃になると、悟空の表情はずいぶん明るくなっていた。腹が膨れて安心したのか、最初みたいに困惑ぎみの目で三蔵を見ることもなくなった。
「ゴチソウサマデシタ」
それでもえらく無邪気に笑われて、また違った意味で目のやり場に困る三蔵である。
困った、と思った。
困った。深く関わり合いたいわけでもないのに、どうにも無下な態度が取れない。
「……食ったら上だけでも着替えとけ」
結局、そんなことを嘘のように穏やかな口調で告げていたりする。己はこれほど毒のない会話を交わせる人間だったのか。
「上って、でも……」
「貸してやる。俺のだ。ただでさえ子供がいりゃ目立つんだ、その格好だともっと悪目立ちするぞ」
「うん……でも汚れるよ? 俺キレイじゃないし」
「洗濯するからいい」
「うん……。じゃあ借りとく。アリガト、三蔵」
ありがとうって言うな。
溜め息をつきながら例のパーカーを手渡した。遠慮ぎみに袖を通した悟空は、またこれでいいか、と子犬のような目でこちらを窺い見る。その目もヤメロ、三蔵は再び胸で呟き、苦く息を漏らすのだった。
とにかく、午前中はそんなふうにどこまでもぎこちなく時間が過ぎた。
何しろ非常事態であったし、話すべきことは山積みで、普通に考えれば、お互い話題に困りそうもなかったのだが、どちらも自分の事情を細かに話すことをしなかった。
三蔵はできれば己の能力の話など口にせぬまま済ませたかった。こちらがそうなら、悟空の方も何か考えている様子で、彼は、尋ねられたことに素直に言葉を返す反面、それ以上を突っ込んで説明するのには戸惑いを持っているように見えた。
結局、三蔵が理解したのは、彼が三年後の未来から来たということと、今から一年後に、地球全土が壊滅状態に追い込まれるような、大戦争が起こるらしいことだけである。
「……あんまり話していいのかわからないんだ」
悟空は本当に遠慮ぎみに言った。
「普通は……信じない話だろーし……」
確かに誰もは信じられぬ話だろう。ただし、三蔵は幼い頃から瓦礫の町の幻を見ている。多分、悟空の言う「普通」とは元から条件が違う。
「……手を引っ張ったのは俺の方だ」
己の条件に口を閉じたまま、ずるい言い方で事情を訊かない理由をすり替えた。そうとも知らず、悟空が笑う。
「アリガト」
礼などには決して値しないのに。
三蔵は、八戒との約束が迫っているのをいいことに、彼との話を途中で切り上げるのだ。
「……しばらくここで自由にしてろ」
「え?」
「頼まれごとがある。また夕方近くに帰ってくる」
どうせ行く場所などないのだろう、一応確認すると、彼は困ったように目を伏せた。
「……やっぱり……そんなに簡単には帰れないよね」
三蔵には答えられない問いだ。黙っていたら、慌てて頭を上げて、明らかにこちらを気遣った顔で笑ってみせたりする。
「アリガト。じゃあ、ここでこれからのこと考えとくから!」
そんなふうに気遣いだけで笑わせて、後ろめたく思わないわけがないではないか。
「……寝る場所なら気にするな」
三蔵は罪悪感からとうとう言葉を足していた。
「とりあえずお前一人くらいは泊まらせてやれる。これからのことはおいおい考えればいいさ」
悟空とは、どう疎遠になるよう頑張っても関わり合ってしまう気がしていた。何より己自身が彼に冷たく当たれない。一言で言ってしまうと、放っておけない、という状況なのだろう。
「ありがとぉ……!」
こちらは苦々しく思っているというのに、彼は目を輝かせて礼を言うのだ。三蔵は、腹から溜め息をつくことで、ジレンマを無理やり抑え込む。
「じゃあそろそろ俺は行くが――」
そうして席を立ちかけた時のことだ。
「あっ……えっと、三蔵?」
妙に訊きにくそうに彼が言った。
「ここ、大学って言ったよね?」
「ああ」
「ってことは、学校だよな?」
「……まぁ、そうだが」
「あの、大学って図書館ある……?」
これからそこへ行くつもりだったのだ。どういう意図で彼が言い出したのかわからずに沈黙したら、悟空は慌てて立ち上がった。
「――あ。別に何かしてほしいわけじゃなくって。もしもそこ入れるなら、いろいろ調べものできるなぁって思ったんだけど」
「調べもの?」
「うん……あの。畑の作り方とか、電気の作り方とか、キレイな水の作り方とか。そういうの、せっかく本とか残ってる時代にいるんだし、調べられたらなぁって思って」
「……本、ないのか?」
「う、ん……。3年後は……何にもないかな」
悟空は苦しげに笑った。
そんな表情を見せられたら駄目とは言えない。大学の図書館は、学生証が受付の通行証になっているので、本来なら部外者の悟空が入館できるわけはないのだが、三蔵はそれを話す気になれなかった。
さいわい、今日は八戒に頼まれ、司書の真似事をすることにもなっている。普段なら融通できなくとも、今日であれば何とかできるかもしれなかった。
「――わかった。お前も来い」
「えっ?」
「ちょうどその図書館に行く用件だったんだ」
「ほ、本当にそう?」
「ああ」
答えてやれば見る間に表情を明るくさせた。 己でできなければ、八戒に何とかさせよう。彼のその表情を横目に見ながら、調子良く思う三蔵である。
三蔵のパーカーを上に羽織った悟空は、とりあえず大きめの服を着ただけの、普通の子供に見えた。大学には本当にいろんな輩が出没するし、顔さえ注視されなければ学生でも通りそうな雰囲気だった。
二人は朝と同じく事務局を通り抜け(悟空の服装が変わったからなのか、朝とは違いそれほど注目を受けなかった)、特別棟を歩き、本当に学園に在学中の学生がするように中庭へと出る。
図書館は中庭の更に奥、ほぼ正門真ん前の、古い噴水を臨む場所に建てられていた。ここの蔵書が多いというのが学園自慢のひとつだ。三階建ての建物もそれなりで、ぱっと見、西洋の寺院のような、どこか古めかしいレンガ造りをしていた。
悟空はそこに辿り着くまで、本当にきょろきょろし通しだった。大学自体が珍しいこともあるのだろうが、ところどころにある木々を見上げたり、何でもないベンチに目を細めたり、すれ違う学生を目で追ったりと、とにかく何もかもにいちいち反応した。
三蔵にはやっぱり彼の気持ちなどわからなかったが、何かを目に映すたび、どこかが傷むように、笑いたいのか泣きたいのか区別のつかぬ表情をする彼を見ると、手を出さずにはいられない心境になる。
何度となくうつむく頭を、片手で軽く押さえ込む。風景ではなくこちらを見上げた悟空は、どうにか唇の端を引き上げて見せた。
そんなふうにして、二人はようやく図書館のエントランスに足を踏み入れた。
入り口には、駅の改札のような機械がはめ込んであって、普通はそこに学生証を通して中に入るのだ。これが単純なチェックマシンであれば良かったのだが、生憎と学生証に記載されたバーコードを読むもので、通っただけで名前が記録されてしまうのである。
三蔵はひとまず先に中にいるだろう八戒を探すことにした。普段図書館内に入り浸っている彼なら、この機械をやり過ごす方法を知っている。
「ちょっと待ってろ」
三蔵がそう言うと、悟空は明らかに不安そうな顔をした。
「……すぐに迎えに来る」
重ねて言い置き、嘘じゃないことを信じさせるために目の奥を覗く。悟空は少し困ったようにうなずいた。あんまり納得した感じの仕種ではなかったので、三蔵が立ち去れずにいると、
「……迷惑かけてごめん」
小さく言うのだ。
三蔵はまたもや深みにはまっていく錯覚に陥った。
結局、もう一度頭を撫でてやって別れた。
気遣いが苦になっていないあたりが、刻一刻と彼を懐に入れていっている証拠の気がして居たたまれない。
三階建ての館内の一階部分は、ほぼ、検索のためのパソコンと、自習用のデスクセットで埋め尽くされている。雑誌や文庫本などの、最も気軽に手を延ばせる本があるのもこの階で、多くの学生がたむろしているのが常だ。
二階と三階は専門書や百科事典の類が陳列されていた。件の八戒は、おおよそこの専門書のコーナーで本の整理をしている。
予想通り、そう苦労もなく、二階の奥まった場所で彼は見つかった。三蔵の姿に気が付くと、彼は分厚い本を小脇に抱えたまま会釈をする。
「時間よりも少し早いんじゃないですか?」
「まぁな」
「そのぶん僕は助かりますけどね。約束してた人が、例のバイトを理由に、さっさととんずらこいてくれたんで、人数足らなくって困ってたんですよ」
「悟浄か」
「僕との約束を突然反故にするような人は、あの人かあなたくらいです」
「そりゃ悪かったな」
「心にもないこと言わないでいいです」
穏やかに笑う顔とは裏腹に、さり気なく厭味を混ぜた話し方をする。彼こそが、三蔵の、学園内で数少ない知人のうちの一人であった。
三蔵の生い立ちも生い立ちなら、この八戒の生い立ちもなかなか振るっている。
実は日本皇太子の遠縁に当たるらしい。所謂、皇族、というやつだ。三蔵が彼と初めて顔を合わせたのは、彼が学園に入学する前で、何とか皇族ということを伏せたまま大学生活を送りたいのだと、依頼を受けたのが馴れ初めだった。
おかげで、厳密に言えば、彼の「八戒」という呼び名は偽名だ。本名は何たらという長ったらしい名前だったと思うが、既に三蔵も覚えていない。
しょっちゅう国家単位の会合やらパーティーやらに飛び回っていて、時々ぱったり大学で顔を合わせることがなくなる。と、思えば、今のように、図書館が募集したボランティア司書の中で、本にまみれた仕事を楽しげにこなしていたりもした。
一応変装のつもりなのか、学園内にいる時は、彼は大抵眼鏡をかけている。身なりもさっぱりとしていて、表情も穏やかだし、決して三蔵ほど近寄りがたい雰囲気ではない。ただ、皇族であることを隠している延長で、親しい友人は作っていないようだった。
結局、気兼ねなく話せるのは三蔵か、先ほどちらと名前の出た人物かのどちらかになるらしい。
彼の口ぶりだと、今日のボランティアも、最初はその男が手伝いをする約束になっていたのだろう。
三蔵が悟浄と会ったのは、八戒の紹介だった。悟浄という男は暇人ではあったが、時々やはり多忙を極めるバイトを趣味にしていた。
「何でも、今度は臓器売買の事件に首突っ込んだらしいです」
八戒が彼の近況についてぼやく。
「あんなことばかりやって……そのうちどっかの海に浮いててもおかしくないですよね」
あんまり冗談に聞こえない。
とりあえず話題の男が心配するほど要領が悪くないことも知っていたし、三蔵は本来の用件を八戒に尋ねてみることにした。
「そんなことより――」
「そんなことより、ですか。相変らず薄情ですねぇ」
「ヤツがどうなろうと知ったことじゃねぇ」
「まぁ、僕もそうなんですけど」
のほほんと笑う八戒。三蔵はこっそり脱力する。
「で、何でしたっけ?」
「……学生証なしでここに入る方法はないか」
そんなに意外なことを言ったつもりはなかったが、八戒はひどく驚いたような顔をした。
「ええと? 学生証忘れちゃったってことですか?」
「いや、ここの学生じゃない。だから学生証自体がねぇんだ」
「それは困りましたねぇ。入館には学生番号の記帳が必要なんですよ、機械通らずに入る時は立ち合いの係員も出ますし……」
「ムリなのか?」
三蔵が重ねて訊くと、彼はしげしげとこちらを眺めたまま、しばし黙り込んだ。
「……珍しいですよね」
「何が」
「あなたが。そんなふうに誰かのために何かをしてることって」
三蔵に答える言葉はない。ただ、入館できないならできないで、早く帰ってやらなければと思うだけだ。
そんな焦燥が顔に出ていたのかどうかはわからないが、八戒は唐突に笑った。
「仕方ないですね。僕の奥の手をお貸ししますよ」
彼がそう言ってポケットから取り出したのは、悟浄の学生証である。
「……何でお前が持ってる?」
「良く代返してるもので。成り行きです」
どうせここにはいない人のですし、一回や二回勝手に使おうが、あの人は怒りませんよ。
八戒は笑って言う。そうは言っても学生証だ、これがあればクレジットカードだって作れたりする世の中である。
「すぐに返す」
「ハイ、ここで待ってます」
快くうなずく八戒を後に、急いでエントランスへと取って返した。
チェックマシン脇でたたずんでいた悟空は、三蔵の姿が見えるや否や、ひどく嬉しそうな顔をする。
一度彼のいる改札外まで戻ってやって、今度は悟浄の学生証で一緒に館内へと入った。物珍しげにカード状の学生証を眺めた悟空が、三蔵の隣を歩きながら小さな声で問いかける。
「これ誰かの学生証じゃないのか? 俺が使っちゃって、この人は大丈夫なのか?」
「そいつ自体は気にする必要がねぇ。ただ、それを貸してくれたやつには、きっちり礼言っとけ」
「うん……?」
「お前は大丈夫だろうとは思うがな。やつは人のえり好みが激しい」
「うん……?」
悟空は三蔵の言葉を半分もわかっていない様子でうなずいた。
八戒という男は、常に笑顔を忘れないせいで温和に見られることが多いが、実際はそうではない。笑いながらも人を寄せ付けないタイプなのだ。
三蔵にしても、八戒が、悟空のような子供を相手に気遣いを欠く男だとは思っていなかった。しかし、一応釘を刺しておいたのは、悟空が誰にどう思われようがかまわないという割り切り方ができる人種には思えなかったからである。
あまり余計なことで落ち込ませたくはないと思うのだ。
これを保護欲というのだろうか。
やはりどんどん深みにはまっていっている。
己は実は子供に弱い人間だったのかも知れぬ。三蔵はもはや内心で諦めつつ、件の八戒の元へと足を進めるのだった。
専門書のコーナーに来ると、悟空はまたもやきょろきょろと視線を動かすようになった。彼のいる未来では本が珍しいと言う。特に書物を軽んずるわけではないが、三蔵にとってはあまり共感のできない感情だ。
そして、八戒は先ほどと同じ場所にいた。
悟空を見ると、また驚いた表情をして三蔵を見た。
「助かった、これは返しておく」
悟浄の学生証を受け取っても、興味津々な様子で悟空と三蔵を見比べている。それについて三蔵が何かを言う前に、悟空がぺこりと頭を下げた。
「ありがとうございました」
八戒の目が軽く瞠られる。
「いえ。どういたしまして。ええと、三蔵の……?」
イトコだ。深く突っ込まれる前に横から嘘をついた。
悟空はそう言った三蔵に少し困ったように笑いかけ、改めて八戒と向き直る。
「俺、すごく見たい本があったから。助かった、です。本当にありがとう」
「いいえ、そんなに丁寧なお礼をもらうほどのことではないので、気にしないでください」
何だか八戒が慌てているのを初めて見た。
なるほど、真っ直ぐな言葉というのは、多少ひねくれた相手にも真っ直ぐに伝わるものらしい。
「もしかして三蔵のとこに遊びに来てたんですよね? 少しの間、彼に手伝ってもらうことになってるんです、僕が時間もらっちゃうことになってすみません」
「あ、そんな全然……! 俺の方こそごめんなさい」
お互いに慌てているらしいやり取りがおかしかったので放っていたら、いつの間にか礼と謝罪の言い合いになっている。三蔵は頃合を見計らって間に割って入った。
「とにかく五時まで自由にしてろ、また迎えに行く」
「あ……うん。三蔵も、ごめんな」
「ああ」
最後に八戒にもう一度頭を下げ、悟空は専門書の棚に紛れていく。三蔵は前もって彼がどんな本を探しているか聞いていたから、行く先を確かめもしなかったが、八戒の方は気になったらしい。
「雑誌や小説は一階ですよ」
もう去り際だった悟空の背中に一声かけている。気付いた悟空が振り返って、困ったように笑いながら、
「えっと、畑の作り方の本を探したいんだけど……」
またもや八戒が驚いた顔をした。
「ずいぶん渋い趣味ですね……だったら、この階にある園芸のコーナーをお薦めしますよ。真っ直ぐ行って左端です」
「アリガト!」
明るく笑って歩いていく背中を見送った。
八戒が、本当に珍しいほどしんみりと息をつく。
「……なんかイイコな感じです」
三蔵が答えずにいると、人を食ったような笑みを浮かべてこちらを振り返る。
「あなたがやさしくする理由がわかった気がします」
足元を見られた気分だ。
その後は、特に悟空のことを話すわけでもなく、八戒の指示するままに本の整理を手伝った。
約束の五時になって、早速悟空を迎えに行ったら、あまり人のいない二階フロアの学習コーナーの一席で、何冊もの本を横に、真剣な様相でページを捲る姿を見つけた。
三蔵が見る限り、悟空の人となりからは、それほど勉学を好むようには思えない。一般的に言っても、彼くらいの年齢の少年が、分厚い専門書をすすんで読むというのは異常に見えた。
つまりは、未来の世界がそれほど不自由に様変わりしているということなのだろう。悟空が本を読んでいることにしても、勉学の域ではなく、生活するために必要に迫られたに過ぎないのかもしれない。
しばらく声をかけそびれていると、彼がしきりに右手の人差し指を気にしていることに気付く。見れば血が滲んでいた。大方、ページの端で切りでもしたに違いない。それを知ったのをきっかけに、三蔵はようやく彼の真後ろに立った。
「帰るぞ」
声をかけると、ぱっとこちらを見上げる。
「あ、早かったね」
「そうか?」
もう既に四時間近く彼を放ったらかしにしていた。
「……まだ読みたいのか、それ」
「あ……うん。難しくって、何度も同じ文読むから、あんまり進まないんだ」
「借りてやるから、家に帰って読め」
「本当に?」
「ああ」
アリガト、三蔵。
もう何度目かの言葉を、同じくらい心を込めた言い方で繰り返される。三蔵はそれを何とか普通に聞き流し、代わりにポケットティッシュを渡してやった。
「それで血止めてろ。バンドエイドももらってくる」
「ありがとう……。あのさ、ずっと止まらないんだ、これ。切ったの、一冊目の本読み始めた時にだったし、なんか変な気がするんだけど」
「……切り傷は治りにくいって言うな」
「そうなの?」
「そうなんじゃねぇ?」
たわいもないことを話しながら、悟空がまとめた本のタイトルを目で追った。園芸に関するものから電気工学のものまで、見て本当に理解できるのかと疑うようなタイトルが並んでいる。
ハードカバーの本ばかり、計六冊。ちょっとした大荷物だ。
貸し出しのカウンターでは再び八戒と顔を合わせた。
八戒は、悟空が指を切っているのを見ると、三蔵が頼むまでもなくバンドエイドを差し出してきた。どうやら彼を気に入ったらしい。あからさまにやさしい言葉遣いで話している。
そんなこんなで、ひとまず無事に図書館を出た。
昼間が長くなり始めている最近は、五時を回ったと言ってもずいぶん明るい。
「……どっかでメシ食って帰るか」
三蔵が言うと、少し気後れした様子を見せながらも、慌ててうなずく。彼は、相変らず通りを歩く人や車に目を眇めながら、時折太陽を見上げては小さく息をついた。
悟空の横顔はまだ幼い。こんな子供が、一体どれほどのものを失ったのかと想像すると、不思議に三蔵までもがたまらない心地になった。
その夜の悟空は、あまり食事をしなかった。
三蔵の部屋に帰ってからも、じっと大人しく、彼には似合わない難しげなタイトルの分厚い本に見入っていた――深夜遅くまで。
結局、三蔵は、彼がいつ眠ったのかも知らない。