キミノタメニデキルコト。

prologue
 
 なぎ払ってもなぎ払っても行く手を阻む敵は現れた。
 どこへ続くのかも知れぬ回廊を、前へ進むほど己を襲う武器に容赦がなくなっていく。悟空はひたすらに駆けていた。敵の屍から流れる血だまりを踏みつけ、その血を全身に浴びながら。
 目的はない。
 それでもこの手は人垣を切り裂く。刃物のように鋭く伸びた爪先からは、真新しい鮮血が滴り落ちていた。
 狂いだ、と、悲鳴が聞こえる。死に損なって受けた痛みに泣く声も。
 悟空は低く嘲笑した。
 今の今までこれほど簡単に他人の身体を傷つけられることを知らなかったなんて──わかっていたら失うことはなかっただろうか。誰も。大好きだった人たちを、守ることができただろうか。
 回廊の果てに人影が見えた。悟空は彼女を知っていた。何度か言葉を交わしたこともある。しかし己の刃は、もはやその人物にさえ向けることに躊躇いはないのだ。
 手を振り上げる。最後の敵の人垣が、彼女の名を叫びながら真っ二つになった。
 観世音菩薩、と。
「……なにとち狂ってるんだ、孫悟空?」
 引き裂かれた兵士を冷然と眺め、彼女は言った。
「そいつらをいくら殺そうと、もはや奴等は戻ってはこん」
 腹が立つほど落ち着いた声。聞いていること自体が苦痛で手刀を飛ばす。次は蹴り、その次は肘。だが衣すら掠めることもできず、悟空の拳は虚空を絶つのみだ。
「……何がしたい」
 彼女は問う。
「……もう言葉すらわからない、か?」
 問いかける声を無視して、何度も拳を振るった。
 だってあの手はもうどこにもない。あの瞳も、金色も。いくら呼んでも声は返ってこない。
「孫悟空。本当に狂っているのか、お前」
 拳を避けてばかりいた菩薩が、その言葉を最後におもむろに足を止め──悟空は、定まった彼女の影に頭から突撃しようとした。
「……狂っているのか、本当に?」
 声が聞こえる。
「ならばなぜ──お前は金鈷を外していない?」
 瞬間、己の身体からありとあらゆる力が抜けた。彼女の腹に拳を突き立てる、まさにその時のことだった。悟空は茫然と相手を見上げた。
 菩薩が笑う。
「その金鈷は妖力制御装置だが、同時に妖怪の自我を保護する役目も負っている。その金鈷が外れぬ限り、お前は決して狂えない」
 狂えない。
 どんなに人を殺しても?
「狂えないよ、お前は。狂いたければ金鈷を外せ」
 嫌な鼓動が左胸を軋ませる。しかもその鼓動はどんどん大きくなった。気づけば、辺りはずいぶん静かだ。あれほど蟻の大群のように次から次へと押し寄せてきていた兵士たちも、もう一人もいない。
 己の鼓動だけが耳の内で響くようだ。こちらをひたと見据えた菩薩は、その時の悟空の動揺をどれほど理解していたのか。
「……外さないのか?」
 一本調子の。まるでちっとも関心のないことを話すような口調は、ひどく誰かに似て。
 
 俺ガイイト言ウ時以外ソイツヲ外スナ。

 どうすることもできなかった。
 力の抜けた四肢が震え出す。
「全く……そろいも揃ってお前らは馬鹿だよ」
 つねるように濡れた頬を拭われる。彼女は、決して返り血だけではない滑りの熱さを、いとおしげに眺め、そっと息をついた。
「不殺生が天界の規律だ。これだけの兵を虐殺したお前には、厳罰を与えぬわけにはいかない。不浄の下界にて無期限の幽閉。いいな?」
 下界?、声に出したつもりがちっとも音にならずじまいだ。菩薩はとうとう苦笑した。
「安心しろ、ここにいるより奴等に近い。それに、お前を下界に帰すことが、あいつの願いだったのだろう?」
 悟空もかすかに笑った。
 そう言えば、いつだったか帰れと言われたことがあった。あの時は訳も解らずに逆上してしまったが、今なら少しだけ彼の真意が解る。
「……いいよ、下界に行く」
「そうしろ。自由なんかひとつもねえけど、ここにいるより千倍マシだ」
「……ありがと、おばちゃん」
「おねぇちゃんだろ」
 うん、頷いてもう一度笑う。瞼が熱くて、上手く唇が上がらなかった。
 ところでナタク太子のことだが──、菩薩はたった今思い出したような口ぶりで続ける。
「お前を待ってるぞ。会ってやるか?」
 迷ったが、結局首を横に振った。
「会えないよ……会ったら、俺、あいつのこと責めちゃうもん……」
 ナタクが悪くはないのは悟空にだってわかっていた。けれど、どういう経緯があったにしろ、彼が金蝉や捲簾、天蓬を処刑する役目を担ってしまった事実は消しようもない。直接手引きしたのは彼の父の李塔天という男で、この男がもしも無事でいたとしたなら、悟空は這ってでもナタクに会いに行き、罵詈雑言を浴びせただろう。しかし、その李塔天も、彼自らが封印してしまった。
 ナタクは、仇でありながら、仇を打ち倒してくれた最後の味方でもあるのだ。
「喧嘩したくないんだ、俺……もうあいつしかいないから」
 菩薩は悟空の答えを聞くと、黙って背中を押してくれた。
「……行くぞ。うるせぇのが来ないうちに、お前を下界に封印する」
 ああ、その前に──、彼女は軽く笑った。
「血まみれだな、チビ。汚れくらいは消してやるよ」
 その視線ひとつで肌からも衣服からも血糊が消えるのだ。悟空が驚いて見上げると、彼女はなぜだかひどく複雑な表情を浮かべ、
「神ったって、このくらいの奇蹟しかおこせねぇ。本当はくだんねぇ生きもんなのさ……」
 皮肉げに独白した。
 
 連れられるまま長い通路を歩く。
 始めて入る暗い回廊は、罪人と、その刑罰の執行人しか入ることの許されていない「転移の間」に続いているらしい。
 本来ならば、金蝉たちもここから堕とされるはずだった。それが李塔天の企みのせいで、永遠に近い輪廻と忘却の渦に放り込まれてしまったのだ。金蝉たちはこれから、あの広い下界のどこかで何度も生き返り何度も死ぬだろう。
 それはある種の呪いである。どこまで繰り返しても、真実の終わりはやって来ない──
 ようやく辿り着いた広間には、大掛かりな装置が鎮座していた。まるで神の台座さながらに、何層にも重なった金属の弁で出来上がった機械は、一見すると、蓮の花に似ていた。
「……中央に」
 指示された通りに装置に乗る。弁下から伸びた数千ものコードが、たちまちぼんやりと光り始めた。
「……なぁ、俺ってさ」
 悟空はそっと呟く。
「向こうでみんなと会えると思う……?」
「努力次第じゃねぇのか」
「努力って、どんな?」
「呼んでやれ」
 菩薩はあっさりと言い切った。
「もしも少しでもあいつらの魂にお前の記憶が残っているなら、応えはあるさ」
 いつになるかわからんがな。
 それでも希望があるのだとすれば、己はきっと呼び続けるだろう。悟空は小さく嘆息する。
 こちらが覚悟を決めたのを見て取ると、菩薩は静かに真言を唱え始めた。金属の蓮が、光の洪水にどんどん埋もれていく。
 空気が移動を始めている。
 彼女の真言と共に、寒気とも怖気ともつかぬものが、悟空の頬や腕などをぬるりと撫でていった。
 と。何やら慌しい足音が近づいてきていた。
 最初に転移の間に現れたのは二郎真君だ。そしてその後を、大勢の兵士たちが何かに押されるようにして流れ込んでくる。最初、わけがわからず光の中から彼らの様子を眺めていた悟空は、唐突に耳を打った声に息を止めた。
「──悟空っ!」
 何人もの兵士たちに押さえられながら、必死でこちらに進もうとしている彼──ナタク。
「悟空、待て! それに乗っちゃいけないっ!」
 会ったら絶対に憤りが込み上げるだろうと思っていたのに、その顔を見た途端泣きたくなった。思わずそちらに手を延ばしかけ、だが、装置の光が容赦なく指先を焼くのに絶句する。
 奇妙な違和感があった。
 どう表現すれば良いのだろう。まるで、電圧の通った格子のようだったのだ。別に逃げるつもりはないのに、逃げるなと咎められているような、居心地の悪い感触。
「……もう遅い。こいつは下界で幽閉する」
 淡々と告げる菩薩。酷薄な横顔は、先ほどまでの彼女とは別人である。その彼女を、ナタクは切りつけるように睨む。
 何かがおかしいと、悟空は急に直感した。
「あんた、ちゃんとこいつに転移装置の説明してやったのかよ?」
「こいつは罪人だぞ」
「だから何だよ? そいつに乗ったら、天界からの迎えがない限り、悟空は記憶を失ってしまう!」
 我が耳を疑う。
 傍らで、ナタクはなおも叫ぶのだ。腕を掴む兵士たちを振り払い、真言を唱え終えた菩薩に食ってかかる。
「何が呼べばいい、だ! 忘れちまったら、二度と呼べないんじゃないのかよ!」
 本当に……?、悟空は光の中で呟いた。再び壁に触れた手のひらが、今度はじゅうっと肉の焼ける音を響かせる。しかし、もはや痛みすら上手く感じとることができない。菩薩が、そんな悟空を見て小さく口端を引き上げた。
「……だから言っただろう? 所詮、その程度の奇蹟しかおこせねぇんだって……」
 
 彼 女 ハ 味 方 デ ハ ナ ク ?
 
 悟空、ナタクの呼び声は悲鳴のようだ。
 装置を囲う光の中へ、その両手が真っ直ぐに延びた。たちまち彼の皮膚も赤くただれていく。袂が熱量に耐え切れず、すぐに発火を起こした。
 あの手を取らなければならなかった。けれど彼の手のひらは恐ろしく遠く、悟空がどれだけ熱に身体を埋め、火傷を負うほど踏み出しても届かないのだ。
「……ナ、タク……っ」
 己の無力さに、涙が溢れる。
 衣服がどんどん焦げていく。光の向こう、ナタクの瞳も絶望に揺れた。
 悟空……、咄嗟に小さく叫ぶ声。
「俺が……っ、何とかする。お前が何も忘れなくても大丈夫なように、何とかするから……!」
 ──信じていて。
 最後に聞こえたそれが、果たして悟空の空耳だったのか、本当に彼がそう言ったのか、確かめる術はない。
 次の瞬間、悟空の身体は一息に光の鎖で拘束され、時空を越え得るため、粒子の状態まで分解された。
 
 転移完了。
 
 こうして最後の罪人を吐き出した天界は、長い長い安穏の日々を取り戻す。
 
 
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 暗い…どこ、ここ。何だろ、どうしたんだっけ、俺
 
 夜……?
 星も月もない……何か、ヤな感じするけど……
 寒っ……風? 外、かな。見えねーな……
 
「おーい、誰かいねーのぉ?」
 
 ……ヤな感じ。
 
 暗いの、あんまり得意じゃないんだけどな……
 
 あ

 何だろ、あれ……?
 キレー……実?かなぁ? 光ってる
 キレー……
 
 ……これあったら暗くても大丈夫かな
 
 別に取っても……大丈夫?だよな?
 
 いっか、持ってこ!
 
 あ、……れ? みっつになった
 ……変なの……
 でもいっか、キレーだし
 
 これがあるんなら、暗いとこでもヘーキ
  
  
 

 
  
 〜 open sesame 〜
 この世に生まれる全ての奇蹟がきみの幸福になりますように。